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警告   この作品は<R-18>です。 18歳未満の方は移動してください。
一話の続きです。
すぐ後の話です。
遠吠え 2
 荷馬車の向こう、怒声が聞こえるあたりに目を凝らそうとしていると、スタンリーに頭を押さえられた。
「顔出すな、伏せてろ!」
 そうしておいて、彼自身は素早く立ち上がって屈みながら、剣を抜く。いつの間にか、他の仲間たちも起き上がって身構えていた。こんなことには慣れっこだが、皆いつもより随分と寝起きがいいような気がする。
 やがてシェリルの目にも、村の入り口からぽつぽつと見える松明の明かりが映った。
「夜盗か」
 後ろから隊長が進み出て、焚き火の側で弩に矢を番えて構えるウォルターに並んだ。騒ぎに気づいた御者と助手たちが、荷馬車から這い出てくる。
「恐らくそうだと思います」
「警告はいらん。近寄ったら撃て」
 ウォルターにそう言い、隊長自らも腰に下げた弓に矢を番えた。他の護衛やシェリルの仲間たちも弓を使えるものは、矢を番えて、荷馬車を盾に、こちらに向かってくる松明の群れに狙いをつける。
 シェリルも小さな弓を持っているが、このように味方が入り組んだ場所で使いこなせるほどの腕はない。今彼女が矢を放っても、せいぜい前方にいる隊長かウォルターの尻にでも当たるのがおちだ。
 松明の一団が近寄るにつれ、その正体は明らかになった。粗末な服を着込み、手に手に棍棒やら槍やらを握った、ごろつきの集まりだ。隊長の言う通り、夜盗だろう。
 しかし存外、人数は多かった。シェリルたちの倍くらいはいそうだ。後ずさり、術の準備をしようかと逡巡していると、振り返った隊長が彼女に言った。
「お前はそこで戸口を死守しろ」
 振り返り、閉ざされた廃屋の扉を見てから、隊長に向かって頷いたが、隊長はそれを確かめもせずに号令を放った。
「撃て!」
 狙いをつけていた護衛たちは、一斉に矢を放った。

 松明を手に持っている相手は狙いをつけやすい。夜盗たちは胸に矢を受けて次々に倒れた。だが、一斉射撃の洗礼をかいくぐった連中が、雄たけびをあげながら走り寄ってくる。
 護衛たちは弓を投げ捨て、白兵戦の武器を手に、荷馬車の前に飛び出して、盗賊たちを迎え撃つ。
 弓矢での射撃が効を奏して、夜盗たちの数は半数近くに減っていた。これなら護衛と仲間たちで何とかなるだろう。
 それでも念の為、シェリルは短剣を抜いて構えながら、小さな声で呪文を唱え始めた。仲間たちはもちろん、あのいけすかない護衛たちも、味方は味方だ。誰一人こんな廃村で死なせたくはない。
 その時、後ろで扉が開く音がした。
 ぎょっとして振り返ると、緊張した顔の副伯が顔を出している。
「夜盗の襲撃です。中にいてください!」
 鋭く叫んだが、副伯は外に出て、剣を抜いた。
「ご婦人を戦わせておいて、私だけ中にいるわけにはまいりません。ここは代わって私が……」
 その構えは、シェリルの目から見て、そこそこ堂に入っていた。全くの素人というわけではなさそうだが、護衛の対象である彼にこの場を代わってもらうわけにはいかない。
「私なら大丈夫です。中に入っていてください。危険です」
「しかし、あなたのような小さな少女が……」
 どいつもこいつも小さいだ、女だとうるさい。
 相手が副伯で無ければ食ってかかったところだが、シェリルは辛うじて苛立ちを飲み込んだ。
「戦い慣れているので、大丈夫です。あなたに怪我をされれば、私どもの方が伯爵に合わせる顔がありません。どうぞ中へ……」
「危ない!」
 青年貴族の腕に手をかけ、扉の中へと強引に押し戻そうとした時、彼が鋭い声をあげて、彼女の肩越しに剣を突き出した。 
 振り返る。小さな斧を手にした男が、副伯の剣に胸元を貫かれていた。

 いつの間に。
 荷馬車の前に防衛線を展開する仲間たちをかいくぐったのか。それとも、回り込んでいた別働隊がいたのか。
 副伯の剣に貫かれ、くぐもった呻きをあげている男の心臓に、短剣でとどめの一撃を埋め込む。男の体がくず折れるにまかせながら、シェリルはその向こうにありがたくない夜盗の姿を二、三人見つけた。鎌や棍棒を振り回して、こちらに駈け寄ってくる。
 どうやら後者の想像が当たっていたらしい。夜盗は回り込んだ数人と、自分たちを挟み撃ちにする気だったのだ。
 副伯と問答している内に呪文は中断してしまった。もう術は間に合わない。
「助けて! こっちにも来てる!!」
 この場のシェリルにできる、最も有効な手立ては助けを呼ぶことだった。果たして荷馬車の前で戦っている仲間たちの耳に届いたかどうか。
 副伯は無言で夜盗に向かって剣を構えなおした。今は彼の存在がありがたい。彼無しでシェリル一人では、ごろつき三人にはとても勝てまい。逃げるにしても、廃屋にいる夫人と商人を置いていくわけにもいかない。踏みとどまって戦うしかない。
 降参するか。
 一瞬、そんな考えが頭を掠めたが、無駄だろうと思った。相手は頭の回転のすこぶる悪い夜盗だ。血が上った相手に降参したところで、無抵抗のまま陵辱された挙句に切り殺されるだけだろう。あるいは荷馬車で戦っている仲間たちに対する人質にされるかもしれない。
 しかしあの護衛隊長が、シェリルと副伯の命を荷物より優先してくれるとは思えなかった。末路は同じだ。
「女だ! 女がいるぞ!」
 近づいてきた夜盗は、下品な声をあげた。女がそんなに珍しいかよと思う。
 相手は三人だ。せめて二人だったら、一対一に持ち込めるものを。極めて不利な状況に、心臓が早鐘のように打ち始める。
 隣の副伯が動いた。
 先ほどのように狙いすませた突きを先頭の太った男に放つ。見かけによらず素早い動きだった。男が持っていた棍棒を振り上げる間もなく、その切っ先は男の胸に吸い込まれた。
 青年は素早く剣を男の胸から引き抜いた。鮮血が溢れる胸を押さえ、恨めしげに掴みかかろうとする男を容赦なく蹴り倒す。
 副伯はなかなか戦慣れしているようだ。王都まで妻を連れて長い旅をしてきたのも伊達ではないらしい。
 他の二人が怒りの声をあげて襲い掛かってくる。大きな鎌を持った相手と副伯が剣を合わせている間、もう一人が短いお粗末な槍を手に、シェリルの方を見た。
「やめろ! 女性に手を出すな!」
 鎌と苦闘しながらも副伯は声をあげたが、槍を持った男がそれに従うはずもない。
 短いといえど、相手は槍を持っている。シェリルの武器は短剣だ。間合いだけでも圧倒的に不利だった。だが、副伯が相手を片付けるまで、せめてこの男をひきつけておかなければならない。
「女かよ。おとなしく降参しろ」
 やせぎすの、槍を持った男は乱杭歯を覗かせながら、下品に顔を歪めた。
 シェリルは無言で首を振る。間合いを取り、後ずさると、男は一歩詰め寄った。
「こいつで串刺しにされてえのか? お前が死んだら、男も悲しむぞ」
 槍を手に、男は副伯の方を振り向いた。
 その一瞬の隙をついて大地を蹴る。槍をかいくぐって、一気に間合いを詰めた。
 だが、短剣の切っ先が男の脇腹に届く寸前、右の頭に激しい衝撃を受けて、シェリルは地面に転がった。

 男が咄嗟に振り回した槍の柄で殴られたらしい。転がって地面に打ちつけられた衝撃とあいまって、頭を押さえて呻いていると、倒れた彼女の腹に男の爪先が食い込んだ。
「うっ」
 強烈な蹴りに、悲鳴をあげる。瞬間的に吐き気がこみあげた。
「おとなしくしてろ、あばずれ。てめえの相手は後だ」
 シェリルは咳き込みながら、どうにか顔をあげた。男は体ごと副伯に向き直る。彼は今鎌を持っている男と戦っている最中だ。後ろから襲われれば、ひとたまりもない。
「やめて!」
 絶叫しながら、シェリルは立ち上がって、男につかみかかろうとした。
 その時、彼女よりも早く、横手から走りこんできた影が、男の首に剣を叩きつけた。
 一撃で男の首は胴体から離れた。凄まじい力と技量だ。
 続いて駆け込んできた人間は、副伯と剣戟を演じている鎌を持った男の横手から、その胴体を薙ぎ切った。
 悲鳴をあげ、腹を押さえて倒れこむ男の首に、躊躇せずに剣を突き立ててとどめを刺す。
 返り血を浴びて振り返るウォルターに向かって、副伯は丁寧に頭を下げた。
「ありがとう。助かった」
「あんたはついでだ」素っ気無く副伯に言い、彼はシェリルに向き直った。「──さすが腕利きだな、シェリル。俺が助けに入るまでもなかったな」
 いちいち癇に障る物言いだ。
 それでも命の危機を救ってくれたことには変わりはない。シェリルはいやいやながら、礼を述べた。
「……ありがとう」
 今度は彼は何も言わず、シェリルの手を取って、立ち上がらせてくれた。


 幸い廃村での襲撃では、軽い怪我人が出ただけで済んだ。傭兵とシェリルの仲間たちはよく戦い、夜盗たちを手際よく撃退したと言えるだろう。
 副伯にも怪我が無かったのは幸運だったが、間一髪のところであった。ウォルターがあの時助けに入らなければ、どうなっていたか。あまり想像したくない。
 スタンリーもシェリルと副伯の危機に気づいていたが、手が離せなかったという。シェリルたち一同揃って彼に改めて礼を述べたが、傭兵は肩を竦め、「困った時はお互い様だ」と、妙にまともなことを言った。
 危機を救ってもらったこともあり、義理堅いシェリルは馬車の中でも、それまでのようにウォルターを無視するのは気が引けた。彼は相変わらず彼女に失礼とも言える不躾な質問をしては、彼女を怒らせていたが、苛立つ様な不愉快は薄くなっていた。同じ馬車のジャクリーンはそれを時折面白そうに、そして時には不機嫌そうに聞いていた。

 伯爵領に入るまで、野宿が続いた。
 廃村での襲撃の翌々日、一行は小川で水浴びをすることになった。まだ汗の少ない春先とはいえ、いい加減下着や服も洗濯したい。
 そう申し出た時は隊長に断られるかと思ったが、意外にも彼も賛成した。不潔は病気の元だということぐらいは、彼も知っているらしい。
 真っ先に副伯夫人に水浴びをしてもらった後で、シェリルとマライアが浸かった。ジャクリーンは洗濯に時間がかかっているようだった。
 時間は正午過ぎで、最も暖かい時間だったが、それでも初春の季節に水に浸かるのは冷たい。水浴びと言っても、軽く髪と体を流して、冷えない内に水から上がらなければならない。温かい湯にゆっくりと浸かりたいと思った。
「あなた、副伯が駄目だからって、次は傭兵? どうしてそう惚れっぽいの」
 髪を清涼な水ですすいだマライアがため息と共に言った。寒さに強く、水浴びのついでに呑気に川で泳いでいたシェリルの動きが止まる。
「……傭兵って、ウォルターのこと? 惚れてないよ」
「そ〜お? 随分仲がいいみたいじゃない」
「そんなことないって」
 同じ馬車に乗っている、あの無口な仲間が喋ったのだろうか。道中は全く助けてくれないくせに、余計なことばかり話すとは許しがたい。
 だがマライアは珍しく薄笑いなど浮かべてこう言った。
「あらー? だってこの前、あの村で一緒に見張りをしていた時も、仲良さそうだったじゃない。あなた、普段はよそよそしいのに、一旦親しくなって油断すると隙だらけになるから、気をつけなきゃだめよ。あんなにくっついてたら、何されるか……」
「見てたの!?」
 シェリルが振り返ると、マライアは一瞬口を噤んだ後、取り繕うように笑った。
「え、見てたわけじゃないわよ」
「……でもあの時、起きてたのね」
「あ、それは……私もスタンにつっつかれて起こされて……」
「何? スタンも起きてたの?」
 額を押えたくなった。
 そうだ。あの時、道理で皆の反応が早いと思った。全員目を覚ましていて、こっそりシェリルとウォルターの動きを伺っていたのだ。スタンリーの鼾も、いつもより大きすぎると思ったが、あれも演技だったのだ。なんてありがたい仲間たちだろう。
「あのね、シェリル、違うのよ。皆、あなたを心配しているのよ。あなた、本当に頭はいいのに、変な男に引っかからないか、それだけが心配で……」
「……面白がってるんでしょ」
「違うったら。……あ、私、そろそろ上がろうかな。冷えてきたしねー」
 とぼけた調子で言い残し、マライアは素早く服を着てその場を去った。
 何が心配だか。半分は道中の退屈凌ぎで面白がっているに違いない。
 そう思うが、それでもシェリルの口元には微笑みに近い苦笑いが浮かんだ。
 仲間たちとも長い付き合いになる。初めの頃はお互いに距離を置いていたが、随分と打ち解けてきた。今やシェリルにとって、かけがえのない存在だ。リーダーのスタンリーを始め、皆基本的には真面目で善良な、信頼できる人間たちだ。
 実のところその善良なスタンリーは、当のシェリルと生真面目なマライアに内緒で、シェリルの今回の恋がうまくいくかどうか、他の三人の男仲間たちと賭けをしていたりするのだが、シェリルがそれを知らなかったのは誰に取っても幸いであった。
 いい気分で少し泳いで体をほぐし、髪をすすいでいると、水辺に裸足の足が見えた。
 視線を上げると、遅れていたジャクリーンがいつの間にかそこにいた。
 目が合うと、彼女は軽く微笑んだ。馬車に乗っている間は無愛想で、時折挑発的な言葉を投げつけてくる女戦士は、微笑むと優しい顔つきになり、不思議と親しみやすい印象を残した。
 シェリルが思わず微笑み返すと、彼女は持っていた長靴と靴下をその場に置き、着ていた服を脱ぎ始める。あまり知らない人間なので照れくさく、シェリルは目をそらしつつ、好奇心にかられてつい彼女の方を盗み見た。
 剣と短剣が下がったベルトを外し、旅装用のズボンと上着を脱ぐ。下着姿になった彼女は、躊躇なくそれらも脱ぎ捨てた。
 服の上からも想像できる、筋肉質の引き締まった体つきだった。少年のようでもあったが、鍛えられた胸には僅かに膨らみがあり、腹筋が浮いた腹の下には、黒い茂みを蓄えた滑らかな恥丘が見えた。贅肉が少なく、野生の狐や山猫を思わせる見事な肢体だ。
 目をそらしながら、純粋に羨ましいとシェリルは思った。彼女はよくからかわれる自分の豊満な肉体があまり好きではなかった。娼婦として食べていくなら有利かもしれないが、この稼業なら、ジャクリーンのようなしなやかな体つきの方がよほど向いている。
 ジャクリーンはそのままシェリルのすぐ側で水に浸かった。
「ちょっと聞こえたんだけど」
 何か話そうかと考えていると、ジャクリーンの方から口を開いた。掠れたような低い声は独特の響きを持っている。
 シェリルが振り向くと、彼女はいつも馬車の中で浮かべるような、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「あんた、ウォルターに気があるんだって?」
 先ほどまでのマライアとの会話を側で聞いていたのだ。舌打ちをしたくなった。
「そんなんじゃないよ。あれは彼女がそう思っているだけ」
 つっけんどんに答えると、ジャクリーンは再び低く笑う。
「ま、やめておいた方がいいよ。見りゃ分かると思うけど、ろくなもんじゃないから、あの男」
 何故かその言葉が胸の奥を突いて、苦いものを湧き出させた。再度彼女の言葉を否定するのはやめて、話の矛先を緩やかに変えた。
「……ウォルターとは付き合いは長いの?」
 ジャクリーンは眉をあげると、首を振った。
「ううん。私もこの仕事で初めて会ったんだよ」
「じゃあ、ろくでなしかどうかなんて分からないじゃない」
 できるだけ感情を表さないように、無理に苦笑いを作りながら言うと、彼女はまたからかうように答える。
「あいつの言動見てれば分かるでしょ。……あんたみたいなお嬢さんは、あの手の男の押せ押せ攻撃には弱いからね〜」
 『お嬢さん』という呼びかけにむっとした。 
 最前線で戦ってきたであろうジャクリーンと比べれば、仲間たちに守られている自分は確かに苦労知らずかもしれないが、それなりに辛酸は舐めている。お嬢さん呼ばわりされる筋合いはない。
 しかしシェリルの心中など推し量ることもなく、ずけずけと彼女は続けた。
「あんた、恋人はいないの?」
「いない」
 答えたくもなかったが、無視しているのも子供っぽいと思い、首を振る。
「じゃ、男と寝たことはある?」
「あるけど……」
「へえ、あるんだ。何人くらい?」
「どうだっていいじゃない」
 不愉快が徐々にうっすらとした怒りに変わり、語尾が尖った。
 十七歳のシェリルが男性と関係したのは一度だけだが、その時のことはもう思い出したくなかったし、マライアにも話していない。ジャクリーンに説明する必要などない。
 小川の緩やかな流れに逆らって、波が寄った。ジャクリーンが近づいて、シェリルの腕を取る。
「じゃあさ、女と寝たことは?」
 彼女は薄い唇を吊り上げて笑っていた。それはいつもの親しみやすい微笑みと違った、蠱惑的な笑みだった。一見すると男にしか見えないジャクリーンだが、意外と顔立ちは整っていて、美人と呼んでも差し支えない。
「無いよ」何故かシェリルはうろたえた。「女に興味無いもん」
「食わず嫌いなんて勿体無い」
 ジャクリーンはさらに体を近づけた。シェリルの豊かな胸が彼女の同じ部分に僅かに触れる。
 やにわにジャクリーンはシェリルの乳房を握り、柔らかく揉んだ。
「何するの!」
 仰天したシェリルは、彼女から離れようとしたが、さらに腕を掴んで引き寄せられた。背中に腕を回されて、上半身を抱き寄せられたと思うと、ジャクリーンの顔が近づく。顔をそむける間も無く、彼女の濡れた唇がシェリルの唇を覆った。
 ジャクリーンはまるでシェリルの唇を貪るように、激しく唇を動かす。あまりに予想を越えた出来事に、シェリルの頭は呆然としてしまった。
 女と女。
 シェリルはそこに恋愛感情や快楽を覚えたことはない。
 しかし、押し付けられた唇と体に、生理的嫌悪は感じなかった。むしろ姉妹に抱擁されているような、奇妙な安心感すら覚える。
 捩れるように押し広げられた唇の間から熱い舌が滑り込んできて、シェリルはようやく我に返った。
「ちょっと待って。待って!」
 渾身の力を込めて彼女の肩を押し、顔を離す。
 ジャクリーンはまるで子供や動物の反応を伺うような好奇心を宿して、穏やかにシェリルを見つめていた。その視線に縫いとめられたように、動けなくなる。
 ジャクリーンが再び顔を寄せた。
「どうしたの?」
 その時、木立ちの向こうからマライアが姿を現した。先ほどのシェリルの声を聞きつけたらしい。
 ジャクリーンの体は不自然でない動きで、シェリルから離れる。
「ちょっと、込み入った話をしてたんだ」
 マライアにそう答えたジャクリーンは、再びシェリルの方を振り向いた。
「じゃあね、シェリル。気が向いたら、いつでもおいで。ウォルターなんかと寝るより、ずっといいよ」
 謎めいた微笑みを残し、彼女は小川から上がった。事態を呑み込めずにいるマライアの側で悠々と服を着込み、靴を履いた。彼女がその場を立ち去るまで、シェリルは目も合わせずに、硬直したまま小川に浸かっていた。
 ジャクリーンが去ったのを確認し、マライアは膝をついてシェリルの顔を覗き込んだ。
「気をつけてよ。傭兵の次は今度は女?」
 答える気力も無かった。


 以降の馬車の旅は奇妙な心持ちで過ごすことになった。
 マライアやスタンリーに頼み込んで、馬車を変ってもらうことも考えたが、それだとまるでウォルターやジャクリーンに怯えているように見えるかもしれない。妙なところで負けず嫌いのシェリルはそれを嫌って、結局彼らと同じ馬車に同乗していた。
 道中、相変わらず彼らはシェリルをからかうようなことを言っては、彼女を渋面にさせていたが、それでも旅を始めたばかりの頃のように、腹の底が熱くなるような怒りを覚えることはほとんど無くなった。隣でずっと目を閉じていた無口な仲間も、時々目を開けて、彼らと一緒になって笑うようになった。
 ウォルターやジャクリーンにされたことは、決して愉快ではないのに、こうも警戒心が解けてしまうのが、不思議でならない。
 それは彼ら二人が、シェリルに挑発的な言動をしてくるものの、特に嫌ったり憎んだりしている訳ではないと知ったからだ。そして彼らに多少よこしまな目で見られているとしても許せる程、シェリルもまた彼らに多少の好意を抱いていたからなのだが、まだ若い彼女は自分の心の底の動きに気づいていなかった。
 国境を越え、伯爵領に差し掛かる頃には、笑顔を見せるようになった四人は、互いの罪の無い思い出話などを語り合うほどに、打ち解けるようになった。
 しかし野宿の際は、マライアの隣で眠るようにし、二人──特にジャクリーンに近づかないようには気をつけることにしていた。
 廃村での戦い以降、盗賊の襲撃なども無い。春先のどんよりした曇り空の下、時折雨がぱらつくこともあったが、旅はまず順調と言えた。
 伯爵領に入ってすぐの、国境を守る騎士の館に逗留した後には、またしばらく荒地の旅が続く。

 その夜も野宿かと思ったが、街道からやや外れた林の近くに、田舎騎士の館があると商人が教えてくれた。王都から伯爵領に通じる街道を何度か旅をしている彼は、数年前、宿を借りたことがあるらしい。
 商人の記憶通り、街道を外れた辺りに、古代帝国時代を思わせる、無骨で重厚な小さな館があった。確かに貴族より騎士が好んで住みそうな、防衛に秀でた造りだ。木でできた柵と、大人の背丈二人分くらいの高さの石壁に覆われている。 
 頑丈そうな鉄の門を叩くと、しばらくして上の小窓から門番が顔を出した。
 商人が身分を告げて一夜の宿を請うと、門番は一度姿を消した。
 少しの間待たされる。
 夕暮れの中、暖かい風が緩やかに吹いていた。随分と暖かくなったので、野宿もさほど冷えるという程ではないが、やはり屋根のある場所で眠れるなら、その方がいい。
 やがて門がゆっくりと開かれた。門の内側には、門番らしき武装した男と、中年の小柄な男が待っていた。
「残念ですが、我らの主人は、伯爵様の元へお出かけしていて、ただいま留守です。それでもよろしければ、どうぞ。大したおもてなしもできませんが」
 小柄な男が、恐縮するような素振りを見せながら告げた。商人は相好を崩す。
「いえいえ、こちらこそ。軒下でもお借りすることができれば幸いです。ご主人がお留守の間に申し訳ない」
「街道は危険ですからね。この辺りは盗賊も出ますし、獣の集団が出没することもあります」
 小柄な男は温かい笑みを浮かべ、一行を招いてくれた。 
 門の内側は中庭になっていて、住居のほかに小さな礼拝堂と厩舎が見えた。
 小柄な男──恐らく執事だろう──の指示に従い、御者と助手は荷馬車を厩舎の前に繋げた。
「こいつをかけておけ」隊長は護衛たちに、鎖と錠をよこした。「万一荷馬車が下男にでも持ち逃げされると困る」
 隊長の疑り深さには、護衛たちは溜め息をついたが、荷物の護衛としてはこのくらい慎重な方が望ましいのかもしれない。
 渋い顔のウォルターが、乗っていた荷馬車を厩舎の頑丈な柱に鎖で繋ぐ間、シェリルたちは荷物を荷馬車にしっかりとくくりつける。当然、他の馬車も護衛たちが同じことをしていた。
 仕事を終えたシェリルは、ふと厩舎を覗いてみた。厩舎は満員で、葦毛の馬が二頭、黒毛の馬が四頭いる。いずれもやや痩せており、毛並みの手入れもあまり行き届いてはいない。馬はシェリルの姿を見ると、鼻を鳴らした。
「軍馬じゃなさそうだな」
 同じく顔を出したスタンリーが呟いた。彼はかつては軍にいて、厩勤めをしていたという。
「荷物用ってこと?」
「普通の乗用馬だよ。鞍がある」
 彼の指差した厩舎の一角の棚には、確かに鞍が積んであった。
「馬は臆病だから、本来は戦いに向かないんだ。戦場に出せるようになるまでは、素質のある馬を余程訓練してやらないといけない」
 スタンリーは厩舎に入り、手前の黒毛の馬の鼻面を撫でてやった。
 鳥や小動物にはなじみのあるシェリルだが、大きな動物はどことなく怖い。だが、できれば馬くらいは扱えるようになりたいし、その内乗りこなせるようになりたいとは思っていた。
「ほら、そこ。馬で遊んでないで、行くぞ」
 入り口にウォルターが顔を出した。
「そういえば、馬車ん中はどう?」
 手招きだけして、さっさと踵を返したウォルターの後にゆっくり続きながら、スタンリーは小声で聞いてきた。
「別に……。ちょっとずつ友好的なムードにはなってるけど」
「へえ、じゃあよかったじゃん。頑張れよ。あいつ、見かけよりいい奴みたいだしさ」
「…………なんでウォルターの話になるの」
「いやさ、たまにはいつもと違うタイプの男を選んでみると、うまくいくかもしれないし」
 うまくいってもらわないと、俺が賭けに負けるし。スタンリーの内心の呟きは当然シェリルには聞こえなかったが、彼女は苦々しい顔になった。
 賭けを持ち出した時に、誰もがシェリルが振られる方に賭けたがったので、言い出したスタンリーが渋々反対の方に賭けたのだ。そのままではあまりに不利なので、二人と交渉してスタンリーへの支払金は掛け金の倍額にした。
「誰がウォルターに惚れてるって言った? ああいう粗野な男は嫌いなの」
 シェリルは言い募ったが、スタンリーは明るく笑っているだけで、信じていないのは明らかだった。むきになると逆効果だと思って口を閉じたが、ウォルターたちにからかわれ、スタンリーたちにも冷やかされ、誰に対しても退屈しのぎにされている気がする。
 護衛たちと連れ立って厩舎を出て、商人の後に続く。
 案内された住居の中は、長い冬の後で冷え切った石壁に囲まれてひんやりとしていたが、壁にかけられたいくつもの綴れ織りがそれを幾分和らげていた。
 近寄ってよく見てみると、織物で有名な王都の向こうの自治領のものだ。ここの田舎貴族はなかなか趣味がいいようだ。
 狭い廊下のすぐ向こうに食堂がある。
「すぐに食事の準備をさせましょう」
 執事らしき男は、穏やかな笑みを残し、厨房に消えた。
「ありがたい話ですね。突然訪れたのに」
 副伯は妻の肩を抱き、商人に笑いかけた。長旅で副伯夫人は、ここのところ体調がすぐれないようだった。
「伯爵家に仕える騎士の方々は皆慈悲深いのですよ」
 商人は微笑み返した。
 食堂はなかなか広く、田舎暮らしの騎士といえど、こうして旅人や客人を招くことが多いのか、長テーブルが二台並んでいた。
 食堂にも綴れ織りが各壁に下がり、冬の時期のこの地方の寒さのほどをうかがわせる。
 美術品や工芸品に興味があるシェリルは、壁の隅などに少なめに置かれた調度品に目を向けた。
 青銅の産地として有名な町の紋章が入っている鏡や、細かな細工の入った燭台がある。 
 シェリルはしばらくタペストリや調度品を代わる代わる凝視していた。


 真夜中を過ぎてもまだ暖かかった。湿った大気の上の夜空は厚い雲を含み、月と星を覆い隠している。光の差さない暗い夜だった。
 若く華奢な副伯夫人は、ここ数日体調を崩し気味で、夕食の前に席を立ち、厠に走った。食事を前にして嘔吐してしまったらしい。
 夫である副伯と彼らの護衛の冒険者は、大袈裟な程慌てた。館の執事に寝室を用意させ、食事も取らずに夫婦は早々にそこに引き上げてしまい、夫人の看病の為か、冒険者たちも続いた。誰も言葉にこそ出さないものの、体調不良ではなく、妊娠の兆しではないかとも思った。

 貴人である副伯夫婦の為に、留守中の騎士の寝室が提供された。従者の為の続き部屋がある造りになっている。護衛である冒険者たちは、その続き部屋で眠っているようだった。
 未明。夜の最も深い時間に、その扉が音も無く静かに開け放たれた。
 廊下から小さなランプを持った男を先頭に、四、五人の男が忍び足で入り込む。彼らは召使い用の寝台に冒険者の女二人、そしてその側の床に男三人が寝転がっているのを見た。
 最初に入ってきた大柄な男が頷くと、他の男たちは懐や腰から短剣を抜き、寝転がっている男三人の冒険者の首を素早くかき切った。 
 小さく血しぶきを吹き上げたものの、呻き声すらあげずに、冒険者たちは動かなくなった。
「女は?」
 男の一人が、先頭の男に短く尋ねる。彼は無表情で答えた。
「好きにしろ」
 男たちは喜々として、何も知らずに寝台で寝込んでいる若い二人の女に群がった。
 それを尻目に大柄な男は奥の扉を開け、主寝室に踏み込む。床に敷かれた織物が男の足音を吸い込んだ。
 男の掲げる擦り硝子を使ったランプの控え目な光に、樫製の寝台が浮かんだ。田舎騎士の寝室にしては豪華だ。衣装棚の他に書き物机、本棚まである。
 寝台に近づくと、体を胎児の様に丸めて眠る夫人と、それを後ろから支えるように横たわる副伯の姿が見えた。若い夫婦は旅の疲れで熟睡しているようだった。
 男は無感動に腰に下げた剣を抜き放つ。
 一気にその切っ先を夫人の腹に食い込ませ、第二撃を副伯の首筋に突き入れた。

 手ごたえの奇妙さに、男は眉を寄せた。副伯の体から引き抜いた剣を凝視する。確かに血のりが付いている。だが、肉を切り裂く感触が普段と違う。
 背後の続き部屋に通じる扉が音を立てて閉じた。 
 ランプのささやかな光をあざ笑うような、眩しい光が満ちる。突然の目映さに男は思わず目をすがめた。
 瞳が光に慣れた数瞬後、彼は寝台に横たわっているはずの副伯夫婦の死体が掻き消えているのに気づいた。血痕も無い。上掛けの上に刃物を突き立てたような、見苦しい傷が二箇所あるだけたった。
「幻術か」
 男は衣装棚の陰から姿を現したシェリルに、舌打ちを投げつけた。
「よく知ってるね。──この部屋の仕掛けはそれだけじゃないよ。動かないで」
 シェリルは怒りを抑えた低い声で告げ、抜き身の剣を下げたウォルターを睨み返す。彼は表情を緩め、いつもの品の無い笑みを浮かべた。
「なるほど。あんた、魔術師だったのか。おまけ呼ばわりしたことは謝るよ」
 ウォルターの呑気な口調に、シェリルの心に苛立ちと共に焦りが現れた。そんなことを謝って欲しいわけではない。
「……あんた、暗殺者だったのね」
 分かりきったことだが、問わずにはいられなかった。
 続き部屋での彼らの動きを、シェリルは壁を通して魔術で見ていた。
 ウォルターが連れている男たちに指示し、仲間たち──無論、シェリルが精巧に作り上げた幻である──をためらいなく殺し、自分とマライアの幻に襲い掛かったことも知っている。幻術の集中を解いた今、陵辱していた女たちが掻き消えて、彼らはさぞかし困惑しているだろう。
 しかし、男たちがこちらの部屋に入ってくることはない。扉は見えない力で固く閉ざされている。
 ウォルターも一目瞭然のその問いには答えず、別の質問を投げかけてきた。
「何で感づいた? 副伯はどこだ?」
 後者の質問に答える必要はない。だが、シェリルは彼らの迂闊さをせせら笑ってやりたかった。
「何でか? だって、この館おかしいじゃない。主人の騎士は伯爵家に行っているって話だけど、厩は馬で一杯だった。主人はどの馬で出かけたのよ? 贅沢な調度品が置いてあるのに、馬の手入れが悪いのは? あれは餌もろくにもらえてない、掃除もしてもらってない馬の様子よ」
 男は不動の姿勢で、黙ってシェリルの口上を聞いていた。
「鏡だの燭台は磨いてあるのに、タペストリの埃は払っていない。前に伯爵に聞いたことがあるのよ。タペストリの埃は秋から春にかけては特にまめに払わないと黴が生えるから、細心の注意を払うってね。決定的じゃないけど、何かおかしいと思った」
 どこかがおかしい。主人の留守中に召使いたちが怠けているだけかもしれないが、心から寛いで一晩過ごせるような館ではない。
 シェリルは食事の寸前、吐き気をもよおした夫人を厠に案内しながら、副伯とスタンリーに彼女が感じた違和感を打ち明けた。
 スタンリーは神経質ともいえるシェリルの慎重さを尊重している。気の回しすぎで徒労に終わった結果も多かったが、何度か重大な危機を回避できたこともあったからだ。
 今回も念には念を入れ、スタンリーは副伯を説得して、食事を取らずに寝室に引き上げた振りをしながら、こっそり館を抜け出すことにした。
 無論、杞憂に終わる可能性もある。それならそれで、夜明け前にもう一度館に戻り、今まで通り旅を続ければいい話だ。
 だが、商人と彼の護衛たちには黙っていた。彼らを巻き込むには、あまりにも漠然とした不安だからだ。
 そしてそれを確かめるために、シェリル一人が館に残ることになった。他の仲間たちは副伯夫婦と共に館を抜け出し、今夜一晩外で過ごしている。
 シェリルは幻術を駆使して副伯と自分たちの幻を作り、何事も無いことを祈りながら、この寝室の衣装棚の陰で静かに座っていた。
 まさか、本当に襲ってくるとは思わなかった。
 魔術の目で見た隣の部屋の光景に、彼女は戦慄した。襲い掛かってきた男たちは、館の執事や門番、給仕たちだったのだ。
 しかしその先頭にいる男がウォルターだったことに比べれば、大したことのない驚きだった。
「ほとんど女の勘だな。しかし、おとなしく商人たちと一緒にメシ食ってりゃ、楽に死ねたのによ」
 にやつくウォルターの言葉に、唇を痛いほど噛んだ。
 もしかすると、商人自身、そして彼の護衛もからんでいるのではないかと思ったが、暗殺者として隊商に紛れ込んでいたのはウォルター一人のようだ。
 やはり食事に毒を入れていたのか。
 ぎりぎりのところで自分たちだけ危機を免れた訳だが、シェリルを苦い後悔の波が襲った。自分の勘を信じて、商人にも忠告してやればよかった。
「……彼らはどうなったの?」
「全員死んでるさ」
 おどけたように肩を竦める傭兵に、シェリルの怒りは頂点に達した。
「ひどい。関係無い人間を巻き込むなんて!」
「商人を巻き込んだのは、副伯だろ? 他人を巻き込むのが嫌なら、隊商なんか頼るなってんだ。俺たちは仕事だから、完璧に遂行する為なら、他の人間のことまで構ってられないの。あんたらだってそうだろうが」
「あたしたちは違う」
 それは確信があった。神にかけて善人だと胸を張るつもりはないが、どんな仕事をする時でも、彼女たちは敵以外の犠牲は最小限にしてきたつもりだ。破門されながらも教会の教えを失わないマライアの意志もあったし、無駄な殺戮によって敵を作りたくはなかった。
 伯爵の頼みで副伯の保護を引き受けてしまったばかりに、こんな田舎の屋敷で毒殺されてしまった人の好い商人や、彼に長年従ってきたあの無愛想だが慎重な隊長を、心の底から哀れんだ。やりきれない。
 首も振らず、まっすぐにウォルターを睨んだが、男はしっかりとその視線を受け止める。
「偽善だな」
「開き直るよりましだね。……執事や召使いは、あんたたちが買収したの? それとも……」 
「いいや、あれは皆俺たちの仲間だ。ここの本当の主人と召使いどもがどうなったかは、正義の味方のお前らに話しても楽しくないと思うけどねえ」
 怒りのあまり体が小刻みに震える。なんて連中なのだ。
 ジャクリーンが言ったことは正しかった。この男はろくでなしどころか最低だ。少しでも心惹かれたのが恥ずかしい。
 その忠告をしてくれた彼女も、今は毒を混ぜられた食事の為に、隊長や商人と冷たくなっていると思うと、涙が出そうだった。

 副伯が伯爵お抱え商人の隊商と共に街道を旅することを知り、街道途中にある人里離れたこの田舎騎士の館を襲って彼らを殺した。そして召使いたちになりすまして、標的である副伯が通りかかり、宿を取りに訪れることを待っていたのだ。
 護衛たちの中には彼らの味方であるウォルターがいるのだ。商人が言い出さなくても、彼がどうにか隊商を言いくるめて、この館へと誘導したのは間違いないだろう。
 副伯は、彼の命を狙っているのは叔父だと言っていたが、彼の領地とて、そう大きなものではない。田舎貴族の暗殺の為には、あまりにも大掛かりな気がする。
「誰に雇われたの?」
 普段の甲高い声を押し殺して低い声で訊いたが、ウォルターは相変わらず余裕を崩さなかった。
「一応プロだぜ。言うと思うか?」
「口を割らせる方法はあるのよ」
「おお、こわ。……だけど、そろそろこっちの質問に答えてくれませんかね?」ウォルターは長剣を鞘に納めると、反対側の腰に下げていた短剣を抜いた。「副伯はどこだ?」
 投げつけるつもりか。シェリルは緊迫した声で答える。
「警告はしたよ。次に動いたら殺す」
 どんな刃物を出されようと、この部屋では圧倒的に有利なはずだが、ウォルターのように薄笑いなど浮かべる余裕は無かった。
 予めこの部屋には、魔術による結界を張ってある。ここにいる限り、シェリルは容易に術を使える。触媒を何種類も並べて撒き、長々と呪文を唱える必要はない。あらゆる精霊の加護が彼女の元にある。
 仮にウォルターが短剣を投げつけたところで、シェリルに突き刺さることはない。逆にほんの少しの集中と指の動きで、ウォルターをどうにでもできる。彼を拘束することも、見えない刃で彼の喉を引き裂くこともそう難しくはない。
「可愛い顔して、恐ろしいこと言うな」
 ウォルターは相変わらずふざけた態度で言い残し、背を向けて寝台から離れて扉の方へすたすたと歩いた。扉はシェリルが魔術で封じているので開かないはずだが、シェリルの脅しを本気と取っていないのは明らかだった。
 仕方ない。
 ウォルターはいまや暗殺者であり、商人たち一行の敵でもあったが、一度危機を救われている。聞きたいこともあるし、すぐに殺してしまうのは気が引けた。この状況を分からせる為に、少しおとなしくなってもらおう。
 シェリルは意識を集中した。

 おかしい。
 彼女の意識に応じて、ウォルターに光の糸が巻きつくはずだ。
 だが何も起こらない。
 集中する為に軽く閉じていた目を開ける。戸口の側に立っていたウォルターが振り返った。
「どうした? 目にもの見せてくれるんじゃないのか?」
 彼は短剣と反対の手に持っている小さな銀のピンを掲げて見せた。
 血の気が引く。
 あのピンは他ならぬ結界を構成している重要な触媒だ。部屋の壁と床、目立たない石の隙間に軽く打ち込んでおいた。一本でも失われれば、もはや結界は維持できない。
 狼狽して口も利けずにいるシェリルに、傭兵は大股で歩み寄った。
「あんた、確かに若いのに優秀な魔術師だ。だけど術を使えるのは自分だけだと思っているところが慢心だな」
 本能的に逃げ場を探して、彼女は周囲を見渡したが、寝室の奥は行き止まりだ。鎧戸を閉ざした窓があるきりだが、二階の窓から飛び降りれば、怪我では済まない可能性もある。
 それでもシェリルは近づくウォルターから距離を取って時間を稼ごうとした。
 だしぬけに寝室の扉が大きく開く。
「おい、大丈夫か!」
 続き部屋にいた男たちがなだれこんできた。結界が解けて、シェリルの魔術によって施された扉の封印も解けてしまったのだ。
 そちらの動きに気を取られた一瞬で、ウォルターが間合いを詰めてくる。後ずさろうと思った時には、がっちりと腕を掴まれていた。
「どうなってんだよ。あの冒険者ども、幻みたいに消えちまったぞ」
 執事の扮装をしていた小男がウォルターに問いかける。彼はシェリルを捕らえたまま、振り向きもせずに答えた。
「幻だったんだよ。魔術師にぺてんにかけられたんだ」
 小男が刺すような鋭い視線をシェリルに向ける。圧倒的に不利な状況に、混乱しながら恐怖している彼女は、睨み返す気力も無い。
 これからどうなるんだろう。
 危機は何度もあった。いつも、どうするかということを考えてきた。どうなるか。なす術も無く、降りかかることを待つだけだったことは、世間に出てからはそうはない。
 それにいつも仲間が側にいた。彼らがいるというだけで、どれほどの安心感があったのだろう。今さらながら、仲間たちのありがたさを思い知った。
 けれど今のシェリルはたった一人で、数人の男に囲まれている。
 距離。時間。仲間。何でもいい。敵と彼女の間を隔てるものさえあれば、魔術師の彼女は術を行使して危機を回避することもできるだろう。
 しかし腕を掴まれた状態で、結界も破られた今は、ただの無力な小娘だ。ウォルターの手を振りほどく程の力も無い。
 失敗した。
 館から抜け出す前にスタンリーが、シェリル一人で残るのは危険だと言ってくれていたのだ。一人誰か一緒に残すと言ってくれた。
 だがシェリルは真夜中の街道に出なければならない副伯夫婦の身も心配だった。相変わらずコヨーテの遠吠えは聞こえていたし、盗賊も出るかもしれない。シェリルと一緒に一人が残れば、それだけ副伯の護衛が手薄になる。結界さえ張っておけば、シェリル一人なら逃げるのもたやすいと、スタンリーの申し出を断った。
 まさか結界を見抜かれて破られるとは思わなかった。常に『まさか』より『もしかしたら』の場合を考えてきたシェリルだが、今回は軽率だった。ウォルターの言う通り、慢心していた。
「魔法使いって、この小娘がか?」
「そうだ。感づかれて、副伯にも逃げられちまったみたいだ」
「何だと!」小男は顔色を変えた。「こんな七面倒くせえことさせといて、逃げられちまっただと? どうしてくれんだ、コヨーテ」
「俺に言うな。よっぽどこいつらの勘が良かったんだよ」
 ウォルターはシェリルの腕を強引に引き、部屋の真ん中に引きずり出した。
 魔術によって作り出した明かりもそれを失い、今部屋はウォルターと男たちが持つランプだけが照らす、薄暗い空間に戻っている。
「おい、ガキ。あの貴族はどこに隠れてる?」
 宿を借りた旅人を快くもてなしてくれたはずの執事は、今は苛立ちに顔を歪めた悪漢でしかなかった。ウォルターに腕を掴まれたままのシェリルの胸倉をさらに掴む。
 シェリルが黙っていると、いきなり頬を張られた。
 多少は手加減したらしいが、それでも少女には強烈だった。体が傾き、倒れそうになるのを、腕を掴んだウォルターが乱暴に支える。叩かれた部分が熱く、びりびりと痛む。
 ウォルターは掴んでいた彼女の腕を背後に回し、もう片方の腕と共に背中で縛り上げた。その間、短剣を手にした男たちに囲まれたシェリルは、恐ろしさのあまり抵抗もできずにいた。
 これから自分を待ち受ける出来事を思うと、涙をこらえるのがやっとだった。




  



仕上げた直後、「美人と呼んで差し支えない」と書こうとした部分が、「武人と呼んで差し支えない」になってました。
武人……急に東洋っぽい感じがして、笑っちゃいました。
翌日気づいて直したのですが、短い掲載時間に目にした方、笑ってください。
……すみません。

あと二回で第二話は終わる予定です。
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