警告
この作品は<R-18>です。
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道の先 8
秋の初めの雨が降った翌日からは、再び夏の日差しが戻ってきた。あの涼しさは幻だったのではないかと思うほど、ぎらぎらとした強烈な陽光を浴びて歩いていると、容赦なく体力は奪われる。
辺境伯領にあるような深い森の中であれば、木々の葉が日の光を遮ってくれるのだろうが、この辺りのように背の低い潅木が疎らに生えているだけでは、ほとんど日除けにはならない。一日中フードを被って歩かなければならないが、暑いとフードの中に湿気がこもり、不快だった。
今朝宿を出てから、コヨーテとはほとんど口を利いていない。今朝は珍しくシェリルが先に起き、身支度を整えて、食堂で朝食を取った。話好きの主人と会話をしながら、焼きたてのパンを頬張っていると、コヨーテが起きて下りてきた。
意外に早食いの彼と、先に食事を始めていたシェリルが同時に食べ終えた後、コヨーテはすぐに出発しようと言った。食堂を見回したが、あの三人姉妹の姿は無かった。
彼女たちを待っていなくていいのか。そんな嫌味が口から出かかったが、辛うじて飲み込んだ。朝から喧嘩になるだけだ。
朝方はひんやりした空気を突き刺す日差しが心地よかったが、すぐに気温は上がり、汗が出てきた。他に街道を歩く旅人の姿は無く、ふたりは沈黙したまま歩き続けた。以前からこうして黙ったまま歩くことは多かったが、今はこの沈黙がただ重い。かといって、何も話す気にもならなかった。
昨夜、夜半までシェリルはすすり泣きながら起きていたが、コヨーテは戻ってこなかった。朝方目が覚めると、隣に眠ってるのに気づいた。
ひと月ほど前、昼と夜に大きな言い争いをして、深夜までコヨーテが戻らなかった晩──占い師の声と共に彼が戻ってきた夜──以来、彼はほとんどシェリルと一緒に眠りに就くことはなかった。炎天下の中を歩き続け、くたくたになって、ふたりとも倒れるように寝台に崩れた時は例外だが、そのまますぐに眠ってしまい、翌朝まで目覚めないので、寝台の中で会話もない。そしてあの夜から、一度も抱き合ってはいなかった。
その少し前から、コヨーテが若干シェリルとの睦みあいに、やや慣れによる疲れを見せているのは、彼女も分かっていた。仕方のないことだとは思う。それは彼女も同じだったからだ。
いつもと同じ指の動き、同じように肌を這う唇と舌。安心はしたが、それは僅かな退屈を伴った。コヨーテもシェリルがそう感じていることに気づいたようだ。そして彼もまた同じ気持ちだったらしく、冗談めかして趣向を変えてみようなどと言い出し、彼女の尻に挿入しようとしたことも何度かあった。
そんな彼を不真面目だと思い、烈火の如く怒っては、彼を蹴ったりしていたが、よく考えれば、ふたりが今まで重ねてきた睦みあいと比べて、さほど不真面目とも思われない。肛門を使って交わるのは、体に良くないことは事実なので、断るしかなかったと思うが、コヨーテの思いの奥底を、もっと掬ってやればよかった。
もう遅い。今のふたりには、起こり得ない出来事だ。
ついひと月ばかり前の自分たちに、彼女は激しく嫉妬した。
昨日降った雨が幾らかの湿気を呼び込み、昼の暑さはうだるようだった。
顔から汗を滴らせ、息を乱しながらも、シェリルは自分から休憩を言い出したり、以前のように勝手に座り込むことはなかった。
毎夜のように深夜まで寝床に戻らず、恐らく宿の女や行きずりの女と寝ている彼に、これ以上自分の都合を押し付ければ、いつ見捨てられてもおかしくない。そしてそれよりも、ふたりで座った状態で、沈黙が流れるのが怖かった。
ゆうべ、どこに誰といたの。
聞いても最悪の結果しかもたらさないことを、どうしても尋ねたい。そんな誘惑と戦うのが苦痛だったからだ。
聞けば争いになる。今度こそ、決定的な亀裂が入る。それはよく解っていても、シェリルにはそれを避けて問い詰める技量や理性はない。だから黙っているしかないのだ。
しかし一方で、早く今の危うい均衡を叩き潰して、ばらばらにしてしまいたいという衝動も確かにあった。
夏のこの時期、山脈の手前の聖地に向かう巡礼者は少なくない。街道沿いにも、いくつも宿や宿場村が並ぶ。近くの村からやってきた夫婦などが、夏の間だけ宿を開けているところもある。
まだ夕方前の日の高い内、最初に見つけた宿で、コヨーテは今夜は早めに休もうと言い出した。
「どうして? もう少し歩けるよ」
「日が長いからまだ明るいけど、今朝は早くから歩いてるんだ。たまには早めに宿に入ろうよ」
それなら昨日の雨の旅路こそ、早めに切り上げて欲しかった。
喉まで出掛かった言葉をこらえ、シェリルは言った。今まで彼女の遅足のせいで、旅の速度が落ちているのだ。
「じゃ、休んで、もう少し歩かない? あたしなら平気だよ」
それを聞いたコヨーテの眉が僅かに寄った。
「今日どんだけ暑かったと思う? 休憩も碌に取らないで歩き続けたら、体が壊れるよ。せめて早く休んだ方がいい」
「だって」
彼女なりに今日一日、わだかまりを押し殺しながら、遅れを取り戻すために歩き続けたつもりだった。それなのに、そんな非難じみた言い草をされるのは、あまりに報われない。
「あなたが休憩を言い出さなかったから」
「休憩のペースまで、僕が決めなきゃいけないの? それはいつ決まったの」
「だって、あたしが自分に合わせて休憩するって言えば、休み過ぎだって言って、不機嫌になるじゃない」
「不機嫌になってるのは、君でしょ。いつも疲れたって言って座り込んでるのは、どう見ても怠けてるだけだよ」
「だから今日は我慢したんじゃない。どこまでが我儘で、どこからが体調を考えてのことか、あなたにどう見えるかまで、あたしには分からないよ」
「僕にどう見えるかじゃなくて……」コヨーテはそこで声を落とした。「やめよう。とにかく、今日はここで休みたい。僕も疲れた」
彼はシェリルから顔を背け、すぐそばにある宿の扉を開けた。揺るぎのない、シェリルに全く意識を向けていない動き。たとえば彼女が短気を起こして、ひとりで先へ行こうとこの場所を去れば、そこでふたりは決裂となるだろう。彼がシェリルを追いかけてくることはない。
最終的にはシェリルがコヨーテに合わせるしかない。まだ離れたくないからだ。
だがそれは、彼自身と離れたくないからなのか、彼と離れれば、西に辿り着くのも、王都へ戻るのも、彼女一人では困難だからなのか、もうシェリルにも分からなくなってきていた。
小さな宿が三、四軒立ち並ぶこの辺りでは、共同の風呂場があった。
かなり早めの夕食の後、隣の宿の裏手にある風呂をシェリルが先に借り、その後にコヨーテが浴場に向かった。彼を無言で見送ったシェリルが、洗濯物を部屋の手頃な場所に干し、寝台に倒れこんでも、窓の外から見える空には、まだ黄昏の微かな光が残っていた。
まだ暑いが、もうすぐ月が変わる。来月の終わりは秋分だ。随分と日も短くなった。
やがて秋が来て、冬が来る。シェリルもその時、二十歳になる。
神出鬼没だったコヨーテと、僅かながらも繋がりができたと思ったのは、丁度十八になったばかりのことだった。たまたま仕事先で会い、うまく立ち回って捕らえた彼を、彼女自身が逃がしたのだ。
あの頃、彼が王都に会いに来てくれると言ってくれただけで、世界中の誰より幸せだった。彼がシェリルをどう思っているかなど、二の次だった。ただコヨーテが会いに来てくれる。それだけで飢えていたものが何もかも満たされた。彼は賢いから、それ以上彼女に近づけば、心地よい均衡が崩れると知っていたのかもしれない。だから自分の居所や名前も知らせず、都合のいい時にシェリルに会いに来ていたのかもしれない。
そうだとしたら、愚かなのはやはり自分だ。仲間を亡くした後、ひとりでどうにか立ち直るべきだった。あるいは他の人間──師や家族──を支えにすれば良かったのだ。誰に縋ってもいい、けれど失いたくないのなら、コヨーテにだけは縋ってはいけなかった。
けれど世界中の全てが憎かったあの頃、彼以外の人間に、彼女を救えただろうか。たとえ愛する母や、敬愛する師であろうと。それは分からない。永遠に分からないだろう。
あのまま。
仲間たちの亡骸を見つけた時。
コヨーテが彼女と一緒に、永遠の眠りに就いてくれると言ってくれた時。
どうして生きることを諦めなかったのだろう。
覚悟していたはずの後悔が、再びシェリルを襲った。耐えると決めていただけに、一層苦しかった。
毎日新鮮に涙が溢れてくるのにも、驚きだった。逞しくなったと思っていた自分が、コヨーテを含め、いかに多くのものから支えられていたか解る。シェリル自身は、何もできない内気で無力な少女だった、十四の時から変わってはいないのだ。
今夜もコヨーテは遅いだろう。
目を閉じて、深い眠りに入ることを祈った。彼が女の声と共に、深夜に戻ってきても、目を覚まさなくて済むように。
顔に何か触れた。
意識が浅い波打ち際へと引き戻される。コヨーテが戻ってきたのだ。
「シェリル……寝ちゃった?」
まだ夢を見ているのかと思った。久しぶりに名前を呼ばれた気がする。
夢ではないと、閉じたままの目蓋の重さが語った。浅瀬で微睡んだ記憶が残っている。眠りに就いてから、それほど時間は経っていないように思えた。
コヨーテが戻ってきたのだ。横になったシェリルの顔のすぐそばで、彼の声が聞こえる。こんなに近くで彼の声を聞くのも、久しぶりだった。
彼女は目を開けず、声も出さなかった。動くのが億劫だったし、こうして目を閉じて寝た振りをしていれば、どうせコヨーテはすぐに部屋を抜け出すだろうと思っていたからだ。
頬に触れていた手が耳の横に滑り、髪の生え際に潜り込む。吐息が顔にかかった。
唇に柔らかく湿って、温かいものが触れる。とても懐かしい感触だった。戸惑っているシェリルの唇を押し開くようにして、ざらついた舌が入り込んでくる。
「シェリル、起きて」
涼やかで優しい声。どこにも硬さがないその響きも、久しぶりに聞いた。
けれど彼女は目を閉じたままで、唇を開いてコヨーテのくちづけに応えることもしなかった。
口の中に忍び込んだ舌は、彼女の唇の裏側、歯の表面を撫でると、固く尖って、何度か唇の入り口から出入りした。まるで彼の性器が彼女の中にそうしていたような動きだ。脳の奥から交接の予感を呼び起こされ、シェリルの体に温かい芯が入り、逆に意識はとろけるように弛緩し始めた。
もう離れていく一方だと思っていたコヨーテと、やっと繋がれる。抱いてもらえる。
もはや彼女自身にも、彼女の体にもほとんど興味はなくなってしまっていたと思っていた彼が、やっと抱いてくれる。
一刻も早く目を開けて、今日までのことを謝り、すべて彼に受け止めてもらうのだ。赦しを請うのは、自尊心の高いシェリルには苦痛だが、相手がコヨーテなら、これほど甘美なことはないと思えた。そして全身全霊を込めて、いつも頼っているばかりだった彼を愛する。今夜はすべて彼の思う通りにしてあげたい。
それでももう少しだけ、コヨーテの愛撫に身を委ねていたかった。あと少し、体の芯に最後の火がつくまで。
彼の手はシェリルの首筋に伸び、緩やかにそこを撫でた。さざなみのような感覚が、静かに伝わってくる。やがて繊細な指先は喉を滑って、乳房に触れた。
予想していたような快楽は流れてこなかった。
色の無い冷たい違和感だけがそこにある。まるで医者に体を探られているような、無機質な感覚だ。
目を閉じたまま、意識を集中させようとした。今シェリルの体に触れている男は、彼女が唯一それを許せる男で、彼女の大切な道連れである。今まで何度、何十度となく、彼に触れられては熱くなった感覚を思い出し、再び呼び覚まそうとした。
服の胸元の紐がほどかれ、コヨーテの手が内側に滑り込んできた。素肌を撫でられ、胸の膨らみの先端に、彼の指が触れる。そこから伝わる刺激は強烈だったが、果たして快楽と呼べるのかは判らなかった。
コヨーテがやっと触れてくれたのだ。余計なことは考えなくていい。必死で言い聞かせたが、シェリルの意志で自由にならない、彼女の裏の意識は、彼が彼女に触れた時から、ずっと叫び続けている。
同じ手で、誰に触れたの。
ゆうべ、長い黒髪の美しい娼婦の乳房も、同じように撫でたの。
今シェリルの乳首を撫でている指先は、昨夜はあの女の体の中に入り込み、彼女を悦ばせていたかもしれない。今シェリルの腿に押し付けられている、熱く固くなった彼の股間も、あの女の愛液に濡れた体の中に突き入れられ、歓喜の声をあげさせていたのかもしれない。
関係ない。他の人間と彼とのことなど、シェリルと彼との間には関係のない話だ。それより早く、コヨーテが触れる手の動きに、すべてを集中させなければ。初めて彼に抱かれた時のように。
固く目を閉じた拍子に、瞼の隙間から涙が流れた。薄暗い部屋の中とはいえ、コヨーテはそれに気づいたらしい。肌を撫でる動きが、戸惑いに鈍る。
「シェリル」
名前を呼ばれ、頬を流れる涙に、唇が触れた。
弱まっていた彼の手の動きが、再び力強くなる。乳房をぐっと握られて、その中心を指でなぶられた。
コヨーテが彼女の涙を、どう解釈したかは分からない。今までのシェリルの振る舞いに対する悔恨の涙か、あるいは快楽と喜びの為に泣いていると思ったのか。シェリルには分からなかったが、少なくとも彼女が泣いている理由を、彼が正しく捉えていないのは明らかだった。
コヨーテは彼女が彼の愛撫を受け入れていると思っている。だが彼女の体は固く冷たく閉ざされたままだった。シェリル自身が彼の気遣い――あるいは単なる欲望だったとしても――を嬉しく思い、どんなに受け入れようとしても、体は一向に熱くならない。
しばらくシェリルの肌を探っていた彼も、ようやくそのことに気づいたようだった。手の動きが再び静かになり、止まった。
「……ごめん。なんか、疲れてて」
ずっと瞳を閉じたまま、涙を滲ませながら、彼女は呟いた。コヨーテがどんな顔をしているのか怖かったが、意を決してやっと目を開ける。
既に暗闇に包まれ、小さく明けた窓から、僅かに月の光が差し込むのみの部屋では、彼の表情までは分からなかった。顔の輪郭が浮かび上がっているだけだ。
「そうだね。昼間、あんなに歩いたもんね」
答えるコヨーテの声は、優しかった。シェリルの胸に触れていた手が、彼女の服の乱れを手早く直し、頬に触れる。その動きが、今までになくぎこちなく感じるのは、気のせいだろうか。
温かい手は離れ、コヨーテの影が動く。起き上がった彼は、寝台から床へと下り立った。
「僕はちょっと目が冴えちゃった。少し下で飲んでくるよ」
穏やかに呟く彼に、失望と嘆きを押し殺して頷くと、彼は扉を開けて、部屋を出て行った。
彼は今頃、どんな女と寝ているんだろう。
目を瞑って呼吸を整え、眠ろうと言い聞かせても、そんなことばかり頭に浮かんでくる。
こんなことを考えなければいけないなら、素直に彼を受け入れればよかった。無論、シェリル自身はそうしたかった。抱き合ったところで、かつてのように全てのわだかまりを、水に流せることはないのかもしれない。それでも淋しさと不安に震えている彼女の中の一部は、コヨーテに触れ、繋がることで、温かく満たされるに違いない。それがシェリルの意志でどうにもならない、彼女の態度や考えに影響するかもしれない。
けれど意に反して、シェリルの体はコヨーテに触れられても、少しも熱を持たず、喜ぶこともなかった。
いつからあたしのからだは、こんなに気位が高くなったのだろう。以前は、毎夜のように美しい恋人と抱き合っていた彼に触れられても、ただ嬉しかった。彼女自身はそんな簡単に彼に屈服するのが悔しい気もしたが、彼が欲しくてたまらなかった肉体に、頭の中の意識まで溶かされ、ただ奴隷のように彼を受け入れることしか考えられなくなってしまった。
王都に彼が会いに来ていた時もそうだ。他に同じような女がいるかもしれないと思いつつ、その可能性は締め出そうと思えば、いつでも頭から追い出すことができ、彼との睦みあいに没頭することができた。
なのに今はまるで逆だ。意識ではコヨーテを受け入れたいと思うのに、肉体は他の女を抱いた男を拒んでいる。
このままではだめだ。私がだめになる。肉体も意識も考えもすべて、彼の態度に振り回されるままだ。
他人を見ていても始まらない。問題は自分の中にある。
シェリルは一旦眠ることを諦め、寝台に起き上がると、下着姿のまま胡坐を掻いて座った。
目を閉じ、呼吸を静かに落ち着かせる。意識を集束して、瞑想に入ろうとした。
魔術師として、初歩の初歩だ。己の意識を集中させ、心の形を整える。これができなければ、他人の精神を捉えることも、精霊と対話することもできない。
コヨーテの心を操ることはできない。自分の心を思い通りにすることもままならないが、それでもこうして瞑想に入り、表層意識から少しずつ、浅い部分だけでも形を整えることができれば、やがてそれがもっと大きく深い、深層の心にまで影響を与えるかもしれない。
そうでなくてもいい、もう少しシェリルの態度や意志を理性的に操れるようになれば、少なくともコヨーテに負担をかけることだけは、避けられるかもしれない。
細く、長い呼吸を繰り返す。
ギルドを抜けても、腐っても魔術師だ。己の心の表面すら制御できないでどうする。
原点に返るのだ。
コヨーテと出会う前、仲間たちと出会うもっと前。たったひとりでギルドを出た、十四の秋。
一体何を望んで、ひとりで旅に出ようなどと思ったのか。こんなに見苦しく心が崩れ、他人をあてにする為ではないはずだ。
マライアと出会って以来、シェリルは自分の心を律しながらも、彼女や仲間たちを頼ってきた。彼らが亡くなった今、同行しているコヨーテが、彼らの代わりになることはない。それは分かっていたことだ。
もう一度、マライアと出会う前の自分からやり直すのだ。
コヨーテは他人だ。違う人間であり、彼女の心を解ってくれることはない。今の彼女が彼の為にできることがほとんど無い以上、彼を頼ってはいけない。色も形もない、彼との絆を当てにしてはならない。彼に八つ当たりをしたり、意味もなく言動がきつくなるのは、無意識に彼に期待しているからだ。
その心の垢を全て削ぎ落とすのだ。
自分の足で自分の人生を歩くなら、それは必要のない汚れだ。
コヨーテに近づく度に剥がれ落ちてしまった、恥や礼儀や遠慮といった、よそよそしいとされるものを、もう一度纏う。それで自分の心が形づくれる。
近づいた心を再び離すのは、何故かとても重苦しい。相手──ときには自分──に対しての、失望や嫌悪を伴わずにはいられない。癒着した包帯を傷口から離すように痛みがあり、べりべりという不愉快な音すら聞こえそうだ。心を離すことがきっかけになって、相手との人間関係が終わってしまうこともあるだろう。
けれどシェリルは魔術師だ。いつでも表面だけとはいえ、自らの心を覗き込んできた。自分になら、相手に勝手な失望や嫌悪など覚えず、理性的に心の距離を離すことができるはずだ。現に、かつて彼女は何度か、仲間たちに対して同じことをしている。彼らに対する不満が募る前に、そうして冷静に相手との距離を測って操ってきた。
彼と私も違う人間だ。私は私で自立しなければならない。
──それなら、何故。
言い聞かせる度に、ひとつの疑問が浮かんだ。今はその答えを考える時ではない。シェリルはいずれ考えなければならないその問いを、何度も心の奥に押し込めて、瞑想を続けた。
翌日も引き続き、汗が滴るほどの暑さだった。
昼食の他に二度、午前と午後に休憩を取った。シェリルがコヨーテに提案したことだ。
疲れたから休みたいと、シェリルはごく穏やかに彼に告げた。それまでのように、むっつりと突然座り込むようなことはなかった。コヨーテと心の距離を離してみれば、こんなに簡単なことだったのかと、自分で驚いた。
コヨーテは彼女の提案を聞くと、頷いて足を止め、日陰になるような場所に移動して、腰を下ろした。
会話はまだ少なかった。シェリルにしても、そう簡単には彼に抱いている、もやもやとした感情を拭い去ることができなかったし、コヨーテの方も特に改めて話したいことはないようだった。
ふたりを取り巻く空気は依然重かったが、それでも少しずつ風通しが良くなっているような気はしていた。
夕方に宿場村に着いた。いくつか並ぶ宿を物色するコヨーテに、シェリルはやはり穏やかに告げた。
「ねえ、今日は大部屋で別に泊まらない?」
振り向いたコヨーテは、小さな驚きを見せていた。それまでは当然のように、大部屋しかない宿に泊まる時以外は、ふたりは高い金を払ってでも、二人部屋の個室を取っていたからだ。
何よりまず安全の為だった。大部屋では万一傭兵などに襲われた時、一人で対処しなければならない。しかし王都から相当離れた今、暗殺者ギルドにかけられた賞金を目当てに、傭兵や盗賊がシェリルたちを襲ってくる可能性は、かなり低くなったと思う。暗殺者ギルドの直接の刺客は尚更、こんな辺境間近の地域にまで、ふたりを始末する為に追ってくることはないだろう。
他人なのに同じ寝台で寝ている、ある意味とても不自然な関係だから、無意識に彼に頼ってしまうのかもしれない。
万一男女別の大部屋に泊まっていて、身の危険が迫ったとしても、コヨーテなら一人でどうにでも切り抜けられるだろう。問題はシェリルだが、それは覚悟を決めた。できる限りの抵抗はするが、それが及ばないなら諦める。殺されたとしても、賞金稼ぎに連れ去られたとしても、仕方ない。
仲間たちが力及ばず、暗殺者たちに殺されてしまったのと同じだ。戦う力が無いなら、相手に従うか滅びるしかない。
「危ないよ」コヨーテはやはりそう言った。「もう大分王都からは離れたけど、この辺にだって、暗殺者ギルドの支部はある。もしものことがあったら……」
「大丈夫だよ。大部屋なら、他の人もいるわけだし。女部屋に、賞金稼ぎや暗殺者が紛れ込むのは、そう簡単じゃないと思う。……男部屋はもっと危険かもしれないけど、あなたなら一人でも切り抜けられるでしょ? 私が一緒にいても、咄嗟のことじゃ、足手まといにしかならないと思うんだ」
それまでにように皮肉や卑屈な気分でなく、冷静にシェリルがそう尋ねると、彼は少しの間彼女から視線を逸らし、考えるような表情を見せた。
「……まあ、そうかもね」
お世辞でも気休めでもいいから、『そんなことはない』と言って欲しかったが、やはりコヨーテはどうでもいいところで正直だ。苦笑いと小さな失望を抑えながら、シェリルは頷く。
「うん。それに大部屋の方が安いし」
そして彼を受け入れられないなら、他に同じ寝台で眠る理由はない。
シェリルの無言の呟きが、コヨーテに聞こえたかどうかは判らない。彼は口元を緩めて頷いた。
「そうだね。安いのは間違いない。じゃあ、試しに大部屋に泊まってみようか」
男女別の大部屋でも、夫婦であれば男性も女性の部屋に泊めてもらえることもある。だが彼はそれを言い出さなかった。彼もどこかで、シェリルと少し距離を置きたいと思っているのだろう。
それを悲観的にではなく、冷静に受け止めなければならない。薄く滲んでくる苦味を飲み込んで、シェリルも僅かに微笑み返した。
粗末な巡礼宿に部屋を取り、簡素な夕食を終えた後、ふたりは久しぶりに別れて眠りに就いた。
食事の後、「おやすみ」と就寝の挨拶を交わすのも、久しぶりだ。同じ寝台で寝ていた頃は、抱き合った後にそんな挨拶を交わし、コヨーテの方がすぐに寝息を立て始めることがよくあった。だが同じ寝台に寝ていても、共に眠りに就くことがほとんど無かった最近では、おやすみという一言を告げることもなかったのだ。
他の女性巡礼者と共に大部屋に戻ったシェリルは、寝藁に敷かれた古布の上に横たわる。薄い布を通して藁がちくちくと肌に刺さったので、さらに外套を下に敷いた。
就寝の祈りを唱える、敬虔な巡礼者たちの囁きのような声が響く中、シェリルは目を閉じた。
彼は今夜、女と寝るだろうか。宿を抜け、近くの酒場にでも顔を出して、旅人や酒場の女を捕まえて、肌を合わせるのだろうか。
けれど大部屋でこうして寝ていれば、決してそれは分からない。絶対に分からないことは、考える必要がない。
眠りは目を閉じてから、これまでにないほど速やかに訪れた。
その夜、シェリルは久々に安らかに熟睡した。
その次の日からも、夜はふたりは別々に大部屋で休んだ。
コヨーテとそうして離れて眠るのは、不安で苦しいだろうとシェリルは思っていた。しかし彼女は自分でも驚くほど、すんなりとその環境を受け入れた。
別れて眠っている間、彼が別の行きずりの女と過ごしているかもしれないという考えは、いつも頭に浮かんだ。しかし同じ部屋にいて、彼の帰りを待ちながら眠るより、ずっと穏やかな心持ちだった。
ある夜、熟睡することが多かったシェリルが、珍しく尿意をもよおして起き上がり、中庭にある厠へと向かった。
三日月が照らす中庭で、反対側から歩いてくる人影に気づいた。コヨーテだ。彼はシェリルに気づくと、僅かに微笑んだ。
「トイレ?」
「うん」
「暗いから気をつけて」
彼にそんな気遣うような言葉をかけてもらったのは、いつが最後だろう。コヨーテは内心何を考えているのか分からないが、互いの言動が縺れ合うような状態になるまでは、表面上の態度はいつでも優しかった。しかし心が近づきすぎてしまった後は、そのうわべだけの優しさすら、シェリルに向けられることはなかった。
溶け合おうとして歪になっていた心が、再び離れて、お互いに人間らしいかたちを取り戻しかけている。微かな苦い淋しさと共に、自らの試みが成功しつつあるのを、シェリルは嬉しく思った。心が近づいていた頃に感じていたような、高揚した喜びではなく、静かな、黄昏の空に見出すような、切ない喜びだった。
厠と倉庫の裏手は、裏庭と畑になっている。この辺りの宿で共同で使っているもので、隣の宿の中庭からも出られたはずだ。恐らく彼はそこで、別の宿にいた女と体を重ねてきたのだろう。そう仮定しても、コヨーテに対する憎しみはもう湧いてこなかった。
どうして私だけを見てくれないの。ここのところ、シェリルの心の中で、嗄れるほど叫び続けられた言葉は、もう微かなこだまを残すだけだ。
彼がシェリルだけを見ていられる人間ではないことなど、とうに知っていた。その彼について西に来ることを選んだのは、シェリル自身だ。彼女を助けてくれたコヨーテを憎む理由など、何ひとつないはずだ。
考え方を変えれば、少しだけ物の見方も変わる。やがてそれは徐々に心の形も変えていく。もう少し時間がかかるだろうが、やがてはシェリルの望む通りに変わっていくだろう。かつて彼に激しく惹かれていた時には、そんなことをしても無駄だっただろうが、今はその時の情熱は沈静化し、くすぶっているだけだ。
同時に、ずっと後回しにしていたことを、そろそろ考えなければならない。
あと四、五日で、山脈の麓に着く。山脈を越えるのは最後の難関だが、そこを抜ければ西の辺境だ。目的地である。
その後、どうするか。
言動からして、コヨーテはそこで同じ仕事を続けるつもりだろうと思った。犯罪紛いのことも引き受ける、何でも屋だ。
シェリルの方は、例えば新しい仲間を探して、冒険者として生きていくことは、今のところは考えられなかった。もう二度と、あんな思いはしたくない。自分の命が危険に晒されるのはともかく、心と背中を預け、信頼していた人間が目の前で殺されている姿など、二度と見たくない。できれば穏やかに生きたい。
辺境の魔術師ギルドも、統括するのは王都のギルドになる。つまり辺境に行っても、魔術師として大学で修行や研究を続けることはできない。
今までの知識を活かして、小さな村ででも、天候の予測や医療を施して、慎ましく生きていけないだろうかと思っていた。魔術師などに縁が無い、地方領主にでも召抱えられれば、万々歳だ。
しかしコヨーテはそんな生き方は望んでいないだろう。そしてシェリルは彼について、危険な仕事や時には暗殺などに手を貸すつもりはない。
コヨーテは非常に有能だ。彼も魔術師としてのシェリルを、ある程度は評価しているだろう。
だが目指す仕事の種類が違う。生き方が違う。
数日前、深く長い瞑想に入る前の、毎晩すすり泣いていたシェリルなら、コヨーテに誘われれば、彼と同じ道を喜んで歩んだだろう。
もう遅い。
何が遅いのか分からないまま、突然襲ってきた苦い痛みに、シェリルは溜め息をついた。涙が滲んだが、何の為の涙なのか、今は分からなかった。
道中逆方向から来た旅人に聞いた話では、山脈はまだ暖かく、盗賊などの脅威にも遭わなかったという。ただ、狼の遠吠えはそこかしこで聞こえたので、やはり山には大人数で入り、夜じゅう火を絶やさない方がいいと忠告された。
狼が相手なら、シェリルが結界を張っておけば寄り付かない。ふたりで山に入ってもいいとコヨーテは考えているようだったが、シェリルはやはり不安があった。どちらかが怪我をしたりすれば、動けなくなる。それがシェリルであれば、コヨーテが適切な手を打ってくれるだろうが、コヨーテが怪我などした場合、重傷だったりすれば、シェリルではどうしようもない。
そうした不安を穏やかに告げると、コヨーテは眉をしかめた。
「……大勢でぞろぞろ行動するの嫌いなんだよね。君もそんなんで、どうするの? もう少ししっかりしてくれないと、これから先も困るって、この前言わなかったっけ?」
彼の容赦のない嫌味に、反抗心が頭をもたげてきたが、それを押し殺した。言い草は気に食わないが、彼の言うことは事実だ。
「ごめん。私、自信が無くて。ただでさえ、山を登るとなると、体力が追いつかなくて、足手まといになりそうだから。できもしないことを、できるって言いたくないの」
幾分硬くなった声で、それでも冷静にシェリルが答えると、コヨーテは溜め息をついて頷いた。
「まあ、確かにそうだね。それなら麓の村の宿を回って、道連れを見つけようか」
「ありがとう」
礼を告げるシェリルをコヨーテは不思議そうに見たが、やがて表情を崩して微笑んだ。
(言うんじゃなかった……)
頭を抱えて、シェリルは嘆きたかった。
麓の村で山越えの支度を整えながら、宿を回って山を越えて西へ行く旅人に声をかけた。人数は多い方がいいので、各宿の主人などにも、山越えする旅人がいれば知らせて欲しいと言って回った。そして三日後に、麓の町に滞在していた、山を越える予定の旅人が広場に集った。
そこに集まったのは、シェリルたちの他、十人ほどの男女だった。行商の男たち数人と夫婦の巡礼者の他、見覚えのある三人の女巡礼者がいた。十日ほど前、街道沿いの宿で夕食を相席した三姉妹だ。
彼女たちはコヨーテを覚えていたらしく、色黒の真ん中の妹が、シェリルたちに向かって笑顔で手を振った。シェリルはどうにか歪な笑顔を返し、コヨーテは苦笑いしながら、小さく手を振る。
まさか、また彼女たちと一緒になるとは。いや、方向は同じなのだから、一緒になることは十分に考えられたはずだ。道連れが欲しいなどと言うのではなかった。
コヨーテと他の女のことなど考えまいとしたし、今のところその試みは成功しつつあるが、しかし彼が共寝をしたであろう女を目の当たりにし、しかも数日一緒に旅をするとなると、落ち着いていた胸の中は、俄かにざわめきだした。
だがここでいきなり、この旅人の一団の中から抜けるなどとは言えない。それこそ我儘というものだろう。
(毎晩瞑想しなきゃ……)
溜め息と共にそう思い、これも心を落ち着かせる修行だと考えることにした。
それに麓の村に滞在している内、気になる噂も聞いた。山用の外套を売ってくれた仕立て屋の主人から、山に盗賊が出たという話を聞いたのだ。
被害にあったという旅人は、既に村を発ってしまったらしいが、主人が聞いた話によれば、数人で徒党を組み、武装した集団だったという。旅人たちは金を全て差し出し、身包みはがされてしまったが、幸い怪我人が出たくらいで、虐殺されることはなかった。
「落ちぶれた傭兵なんかが、たまにそうやって山に住み着くんですわ。また領主様に頼んで退治してもらわなきゃ」
盗賊が増えて巡礼者が減れば、この麓の村に取っては少なくない打撃だろう。主人に同情すると共に、不安が押し寄せてきた。
シェリルがいつも野宿の際に使っている魔法の結界は、獣を寄せつけないし、注意深くない人間や、獣なみの頭脳の人間も、結界に気づかない。不可視になるわけではないが、結界の中に注意が行かなくなるのだ。
だが少し注意深い人間は、ある一点にだけ自分の視線が向かないことに違和感を感じる。そうすると結界の中に気づかれてしまう。山に出没するという盗賊団が、愚か者の集まりであることを祈った。
そんな話もあったので、三姉妹は気になるところだが、やはりふたりで山に入るのは無謀と思える。仕方がなかった。
「山賊が出るって話聞いた? 怖いよね〜。あたし、これでもちょっとは剣が使えるんだよ。おにいさんたちをしっかり守ってやるからね」
三姉妹の真ん中の妹だという娘は、ずっと並んで歩くシェリルとコヨーテについて歩いていた。先日の夜、コヨーテに静かながら流し目を送ってきたのは長女だったが、彼女は苦笑いを浮かべながら、末のおとなしい妹と共に、ずっと後ろを歩いている。
「頼もしいけど、盗賊が出たら皆で逃げるか、降参した方がいいよ」
弾むように歩きながら、時折コヨーテの体に肩を軽くぶつける娘に向かって、コヨーテは穏やかに言った。
「んもう、だらしないなあ、おにいさん。そんなんじゃ、可愛い奥さんに愛想尽かされちゃうよ。ねえ?」
少女はコヨーテを挟んで反対隣にいるシェリルに、邪気の無い笑顔を向けた。
うるさいよ、と思ったが、シェリルは曖昧に笑い返した。娘の馴れ馴れしい態度に腹は立つが、シェリルが怒る筋合いのことではない。実際は夫婦ではないのだ。
「こんなに可愛い奥さんなら、こんなひょろひょろした頼りない旦那さんより、もっと素敵な人を見つけられそうじゃない」
「ひどいな」
娘の挑発的な言葉に、コヨーテは苦笑いを見せた。だがその実、その言葉は、シェリルに対する挑発だということくらい、シェリルにも分かる。シェリルを持ち上げているようでいて、この男は彼女にふさわしくないと、言葉の裏で告げているのだ。
同性である女から、男を挟んでこれほど挑戦的な態度を取られたことはない。
苛立ちは溜まったが、真正面から戦う気力などなかった。コヨーテが決めることだ。美人ではないが、小柄でどこか蠱惑的な娘と、寝たいなら寝ればいい。シェリルにはそれを嘆くことはできても、彼や娘を責めることはできない。
恐らく先日の夜は、コヨーテは長女を名乗る美しい女と寝たと思っていたのだが、彼女はおとなしくしていて、代わって次女が露骨にコヨーテに接近してきている。もしかしたら彼はこの真ん中の妹と寝たのだろうか。それとも、先夜は長女が共寝したので、次は次女の『順番』だということなのだろうか。
疑問に思ったが、不愉快なので考えるのはやめた。シェリルには関係ない。コヨーテと彼女たちの問題だ。困った事態になったコヨーテが、シェリルに助けを求めた時に、初めて考えればいい。
だいいち、険しい山道を歩くのに精一杯で、とても他人のことまで気が回らなかった。行商たちは歩き慣れているらしく、一行を先導して道を選んで歩いていたが、後に続く全員は山に慣れない素人だ。年配の夫婦の巡礼者や、年下の妹を連れた三姉妹の長女などはつらそうだった。
歩みは遅かったが、天候にも恵まれ、暑さと急斜面と戦いながら、旅人たちは山道の半ばまで無事に進んでいた。
標高の高い位置に来ると、夜は冷える。しかし空気は澄み、星はいちだんと美しく見えた。
野宿の間は、夫婦の巡礼者を装っているシェリルとコヨーテは、隣り合って眠った。
無邪気を装った例の娘が、「あたしも!」などと、コヨーテの隣に眠ろうとした時には、シェリルもさすがに蹴り飛ばしてやりたいと思ったが、彼女の足が動く前に、長女が次女を引き戻していった。
十日ぶりくらいに、コヨーテの寝息と体温を間近に感じながら横になる。彼と心の距離を離したつもりでいても、やはり側にいると安心した。勿論、さすがの彼も、旅人同士固まって野宿している状態で、どこかに女を誘い出して交わるようなことはしていないようだった。
これが街道の旅の途中であれば、ほぼ間違いなく、あの日焼けした肌の娘と関係を持っていただろう。きっと残念に思っているに違いない。他人事のように思い、シェリルはほくそえんだ。
シェリルとコヨーテの隣には、大抵年配の夫婦の巡礼者が休んでいた。既に子供たちも家庭を持って独立した今、体が動く内に念願の巡礼に出たという。
シェリルたちと同じように、隣り合って並んで眠る彼らを見て、この夫婦たちは一体どうやって、何十年もの間、一人の人間と連れ添ってきたのだろうと、ふと考えた。今のシェリルにはそれはまるで奇跡のように思えた。
他の旅人に知られないよう、彼らが野営をする場所の周りに、シェリルは結界を張っていた。獣よけの結界は、まじないに近い。効力も弱いが、その分術者の消耗もほとんどない。おかげで狼の遠吠えは聞こえたが、実際に襲われることはなかった。
無論結界のことなど知らない旅人たちは、男たちが交替で火の番を立てることにしていた。
その夜は夕暮れ過ぎには美しい星が見えていたが、夜半から分厚い雲が垂れ込め、湿気が漲ってきていた。
微かな話し声が耳を打った。同時に隣で寝ていたコヨーテが静かに身を起こすのに気づく。
「なんか見えねえか……」
少し離れた焚き火の辺りで見張りについていた行商の男が、小声で呟きながら連れを起こすのが見えた。彼らの緊張が伝わり、シェリルも瞬時に覚醒する。コヨーテも傍らに置いていた剣に手をかけた。
「火だ。盗賊かもしれない。皆を起こして」
視力のいいコヨーテが、夜営の焚き火越しに目をこらして呟く。シェリルは頷く間もなく、側で寝ていた巡礼者夫婦と、三姉妹を揺さぶって起こした。彼らが起き上がるのを尻目に、靴の紐を手早く結び、短剣をベルトに括りつける。
湿気に濁った夜の闇を怒声が引き裂いた。狼の遠吠えではない。人間の野蛮な雄叫びだ。
「盗賊だ! 荷物を置いて逃げろ!!」
見張りをしていた男が叫び、こちらを振り向いて駆け出した。シェリルも外套だけ掴むと、背嚢は置いたままで、振り返って走り出す。
彼女の少し前を巡礼者夫婦が、その後を末の妹を両側から抱えた三人姉妹が走っている。
先頭を走っていた巡礼者の夫が、突然悲鳴を上げた。だしぬけに木陰から人間が飛び出してきたのだ。立ち止まる巡礼者に向かって、現れた人影は振りかぶった物を叩きつける。重いものが肉と骨を潰す音が弾け、呻きをあげて彼はくず折れた。彼に長年連れ添った妻の絶叫が響き渡る。
盗賊たちは反対側に回りこんでいたのだ。既に囲まれていた。
悲鳴を上げ続けていた巡礼者の妻の方にも、巨大な棍棒が振り下ろされる。彼女の声は途切れ、代わってすぐ後ろにいた三姉妹が、身を竦めて金切り声を上げた。
「若い女だぜ!」
「捕まえろ」
盗賊たちの胴間声が響いた。彼女たちを助けようにも、二、三人の武装した男たちを目の前に、短剣一本でどうしようもない。盾になる人間がいなければ、術も使えない。浮き足立つシェリルの腕が、突然横に引かれた。コヨーテだ。
「早く! 逃げるんだ」
「待って」
他の人は、と尋ねようとして、逃げてきた方に目をやった彼女は、松明を持って襲い掛かる盗賊の足元で、倒れ伏している行商の男たちを素早く捉えた。
「女の人たちは?」
「ほっとけ」
男たちに捕えられた、姉妹たちの甲高い悲鳴を耳にしても、コヨーテの声は一切揺るがなかった。
「でも……あの人たち、殺されちゃう」
彼に手を引かれても、足取りの重いシェリルに痺れを切らしたように、彼は声を荒げた。
「助けに戻るなら、君一人で行けよ。あの人数相手に勝てると思う? 金もらってるわけでもないのに、なんで僕らが彼女たちの為に、命賭けなきゃいけないの」
一瞬足を止めたコヨーテは、シェリルが姉妹たちの方に戻らないのを確信すると、再び彼女の手を引いて走り出した。シェリルも懸命に続く。転びでもして、コヨーテと手が離れたら終わりだ。
夢中で走る彼女が気づかない内に、空を覆う雲から、堪えきれないように、ぽつぽつと雨が降り出した。
暗くて周囲が見えない。ただコヨーテを信じて続くしかなかったが、ほどなく前方に明かりを見つけた。舌打ちしたコヨーテが足を緩める。
こちらにも盗賊が回りこんでいたのだ。
立ち止まるシェリルたちの背後から、別の足音が早くも追い縋ろうとしていた。
「待ってくれ! 金ならやる。見逃してくれ」
両手を一度上げたコヨーテは、腰に下げた財布を素早く外すと、前方に立ち塞がる、松明を持った男の方に放り投げた。粗末な服を纏い、体毛と髭に覆われた大柄な男だ。松明と反対の手には、不恰好な剣を持っている。
後ろからはくぐもったような女の悲鳴と、男たちの下卑た声が聞こえてくる。あの姉妹たちが、盗賊たちの餌食になっているのだ。
コヨーテが放り投げた財布を、男は屈んで拾い上げた。
「結構持ってんな」
「それで見逃してくれ。私たちはただの巡礼者だ。聖地に辿り着くまで、死ぬわけにはいかないんだ」
この切羽詰った状況においても、コヨーテのすっとぼけた演技は健在だった。だがこの場でははったりも命がけだ。前後を数人の男に挟まれた状態で、接近戦に弱いシェリルは勿論、さすがのコヨーテにも打つ手は無いだろう。彼の背後でなす術もなく立ち尽くしながら、大柄な男がいついきなり剣を振り上げ、先ほどの中年の巡礼者のように、コヨーテが頭を断ち割られるかと不安に怯えているしかない。
突然背後から肩を掴まれた。小さな悲鳴が口をついて出る。用心深いコヨーテは、シェリルの悲鳴を耳にしても、慌ててすぐに振り返るようなことはしなかった。前を向いたままの彼の背中が、引きずられて数歩遠ざかる。
「女も置いていけ。それなら見逃してやる」
シェリルを後ろから抱え込んだ男が、コヨーテに向かって怒鳴った。強烈な口臭が漂って吐き気がする。雨に打たれて湿った空気に、何ヶ月という単位で体を清めていないだろう、男の悪臭が混ざった。
前方を警戒しながら慎重に首を巡らせ、シェリルの方を見た緊迫したコヨーテの顔が潤む。肩を締め付けられる痛みと男の体臭に、涙が滲んだ。
『伏せて!』
コヨーテの澄んだ声が古代語でそう刻んだ。一瞬後にそれを理解したシェリルは、渾身の力で男の肋骨を肘で突き、膝を折って体を伏せる。
すぐに屈んでシェリルを立たせようとした男の体から、急に力が抜けた。伏せるシェリルの横に彼女を抱えていた盗賊の体が投げ出される。僅かに首を曲げて男の顔を覗いたシェリルは、彼の顔が苦痛に歪み、その背中に矢が突き立っているのを見た。
辺りに盗賊たちの悲鳴が満ちた。横手から飛んできたいくつもの矢が、獲物を捕えたと油断していた男たちを不意打ちしたのだ。
伏せたままコヨーテの方を振り向くと、彼も地面を這ったままシェリルに近づいてきていた。無意識に伸ばした手をしっかりと捕えられる。雨に打たれて冷え始めた体の中、その手だけに温かさが宿った。
矢が飛んできた方から明かりが差している。窮屈な姿勢でそちらに目を向けると、疎らな木立の隙間から、いくつもの松明の炎が見えた。襲ってきた盗賊より多いかもしれない。
弓矢の洗礼は止み、周囲では倒れ、膝をついた盗賊たちが呻いている。逃げ去っていくいくつかの悲鳴とを足音が聞こえた。
「盗賊どもめ! ここをどこだと思っている。貴様ら人間のカスが棲むような場所じゃねえ!」
雷鳴のような男の低い怒声が響き渡った。
「ちきしょう、兵隊だ」
近くで盗賊の呟きが聞こえた。
「捕える必要はない。盗賊は皆殺しにしろ!」
それに答えるように、再び同じ声が響く。続いて盗賊の雄叫びより、遥かに統制の取れた怒号が押し寄せ、炎の波と足音が駈け寄ってくる。
「立って」
コヨーテは素早く立ち上がり、シェリルの腕を引いた。膝立ちで逃げ出す盗賊たちに続かず、踏み止まってシェリルの手を握ったまま、走り寄ってくる軍隊に身を向けた。もうシェリルの目にも見える。剣や槍を手に、革鎧で武装した兵隊の一団だ。
「待ってくれ! 私たちは盗賊じゃない! 巡礼者だ」
興奮して走りよってくる彼らに、コヨーテは声を張り上げた。それを聞いた兵隊の一人が、振り返って背後に怒鳴り散らす。
「隊長! 巡礼も混ざっているみたいです!」
逃げる盗賊たちを追い、屠る兵たちの一番後から、腰に剣を下げ、革鎧をつけた長身の男が早足で歩み寄ってきた。男は尊大にシェリルとコヨーテを見やると、唇を歪めて笑った。目の前の兵士に背後から命令する。
「巡礼者か。婦人もいるんだ。丁重に保護してやれ」
「向こうにも、まだ旅の連れがいるんです。女性も……」
シェリルは隊長と呼ばれた男に向かって、背後を指差しながら訴えた。夫婦の巡礼者は助かるまい。行商たちにしても、生きているかどうかは分からなかったが、死んだところを確認してもいない。それに陵辱されている三姉妹はまだ生きているはずだ。彼女たちに嫌悪はあっても好意はないが、同じ女として、彼女たちが陵辱されながら、盗賊たちと共に軍隊に虐殺されるのは、あまりに忍びない。
「向こうにも女がいるそうだ。助けてやれ」
隊長が告げると、側にいた兵士は返事をして、数人の兵隊と連れ立ち、姉妹たちの悲鳴が聞こえる方へ駆けていった。
助かった。奇跡だ。
絶体絶命のところで、恐らく麓の村の領主が差し向けていた軍に、助けられた。領主と神に感謝したい気分だった。こんなところで死ねない。
「巡礼だというが、どちらに向かう予定だ?」
隊長らしき男は、相変わらず尊大な口調で尋ねた。どうもシェリルは、この軍人独特の居丈高な話し方が好きになれない。しかし命の恩人とも言える人間である。嫌悪感を見せることなど、今は考えられなかった。
「西です」
短くコヨーテが答えると、再び隊長は口の端を吊り上げた。
「なるほど。では我らの関所へご一緒していただこうか。ここは山の東と西の領地境にあたる。西に入るなら、通行税を払っていただかないとな」
どうやらシェリルたちを助けてくれた軍隊は、東の領主ではなく、西の領主の軍らしい。そう言えば少し前の村で、山の中で両軍が小競り合いを起こしたことがあると耳にした。
隊長の言葉を聞いたコヨーテは「かしこまりました」と呟くと、素早く屈み、頭部に矢を受けて倒れた髭の大男の手から、自分の財布を拾い上げた。
その彼の仕草を、屍肉をあさるコヨーテそっくりだなどと思いつつ、密かにシェリルは感嘆と戦慄を覚えた。
先ほど彼はシェリルにだけ分かるように、古代語で伏せろと叫んだ。つまり彼は、この軍隊の接近と、彼らが弓矢を放ってくることに気づいていたのだ。小雨のそぼ降る中、あの絶体絶命の状況で彼の耳は、離れた場所で弓の弦を引き絞る音を拾い上げていたのだろうか。
コヨーテが叫ばなければ、盗賊たちと一緒に矢ぶすまになっていたと思うと、今さらながら足元から震えが襲ってきた。
やはり全部は書き切れませんでした…。
てなわけで全11回になりそうな感じです。ごみんなさい。
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