警告
この作品は<R-18>です。
18歳未満の方は
移動してください。
またまた繋ぎの癖に長いです。6回の続きになりますが、また途中で回想が挟まります。
道の先 7
夏の終わり、秋の初めの雨は、小雨ながらも一日降り続いた。
宿を出たのは昼を回ってからだったが、夕方前には泥濘を歩き続けたせいで、シェリルはかなり消耗していた。
分厚く垂れ込めた雲が空を覆い、夕暮れのあの橙色の光もなく、徐々に空が暗くなると、なんとなく陰鬱な気分で夜を迎えることになる。白い光しかない昼間から、灰色の夕方を経て、真っ黒な夜へと移る。今日一日、空に色を見つけていない。
幸い今歩いている街道は、聖遺物を納めた教会が近いせいか、巡礼者が多く、街道沿いには宿場町や巡礼宿が多い。おかげでここのところ野宿をせずにすんでいるし、今夜も質素な宿屋に辿り着けた。昼過ぎなどという半端な時間に歩き出して、宿が見つからなかったらどうするのだと思ったが、そのあたりはさすがにコヨーテも考えているらしかった。
部屋に案内してくれた主人は、急に変わった天気の話をしながら、二人の外套を預かり、中庭の軒先で干しておいてくれると言って、部屋を出て行った。
外套を脱ぐと、濡れそぼった体が寒い。残念ながら、この宿には風呂は無いとのことだった。コヨーテは荷物から手ぬぐいを出して体を拭こうとしたが、その手ぬぐいも濡れている。
「なんだ、もう。びしょぬれだよ、まいったな。こんなことなら、どうせ寝坊したんだから、もう一日前の宿で休んでおけばよかった」
独り言なのか、シェリルに向かって愚痴を言っているのかは分からないが、彼女もぼやかずにはいられなかった。
「だから、あたしだってそう思ったのに」
湿った手ぬぐいで頭を拭いていた彼が、顔をこちらに向けた。シェリルはまともに向き合わず、自分も背嚢を開いて手ぬぐいを探す。彼女の背中から硬い声がかかった。
「だからって何? 君、今日出発する前に何か言ってた?」
「雨降ってるって言った」
「それは聞いてたよ。でもそれだけじゃ、分からないよ。もう一日休もうなんて、言った?」
「言ってないけど、思ってた」
コヨーテの声に応じるように、シェリルの声も冷えていく。反対に頭の中は徐々に熱くなってくる。荷物の中を探りながら、何を探しているのか忘れてしまうほど、苛立ちが増してきていた。
「僕も心を読めるわけじゃないから、思ってもらってるだけじゃ、わかんないだけど」
「だって、話を聞こうともしないで、さっさと食堂に下りていっちゃったじゃない」
コヨーテの重い溜め息が挟まった。既に言い争いになりかけているこの雰囲気に、うんざりしているようなのは間違いない。小さな沈黙の後、彼はどうにか乾いた声で告げた。
「まあ、君に言わせれば、僕を呼び止めなかった君より、まるっきり話を聞く気がないような態度を見せた僕が悪いんだろうね」
「そんなこと言ってないよ。あなたが悪いなんて思ってない」
「じゃあ、なんでさっき『だから言ったのに』なんて言い出したわけ? どうにかできる内に何の提案もしないで、後になってああすればよかったなんて僕に言われても、八つ当たりとしか思えないよ」
こういった口論の類になると、相変わらずコヨーテの主張は正論に聞こえる。シェリルも論理立てた議論は苦手ではないが、相手が彼だと歯が立たない。何より冷静でいられなってしまう。
「だって、出発前にお昼食べてる時だって、全然こっち見てなかったじゃない。ひたすら食べて、食べ終わったらお酒飲みながら、別の人と話始めちゃって、あたしが話す暇なんかなかったよ」
涙が出そうになる。泣けばもっと見苦しい事態になるだけだと、嗚咽をこらえる為に、シェリルは口を噤んだ。コヨーテは彼女から視線を外し、冷めた声で答えた。
「別の人と話してたって、そりゃ出発前だから、他の旅人の話は聞いておくよ。道に何があるか分からないんだし。君が話があるんだったら、声かければよかったのに」
口を開けば彼を罵ってしまいそうで、シェリルは黙ったまま、荷物からやっと手ぬぐいを取り出し、頭を拭いた。コヨーテはその様子を一瞥すると、自分も元の作業を続けた。
いつからだろう。少し話をしている内に、すぐに言い争いじみてくるようになった。後になってこうして少し頭が冷えてくると、自分も悪いと思うのだが、それまでの彼の態度を思い出すと、詫びる気にはなれない。解決もしないまま、こうして沈黙が落ちた後は、必要にかられて口を開くようになり、和む間もなく、また言い争いになる。その繰り返しだ。出口は見えなかった。
気詰まりのまま、体の水分を拭い去ると、ふたりは言葉少なに誘いあい、階下の食堂に下りた。
街道沿いにある小さな宿には、地元の人間はおらず、旅人たちが数組、酒を飲みながら小料理をつまんでいる。四台並ぶ長方形のテーブルの一つに席を取った。暖炉のすぐ傍の席であるが、さすがにまだ火は入っていない。
「寒くなりましたね。聖遺物の教会に行くんですか?」
葡萄酒を持ってきた主人は、気さくに声をかけてきた。連れと気まずいところに、全くの他人に話しかけられるのは居心地が悪いが、救われる気もする。
「いえ、その先の西へ行こうと思ってます」
愛想笑いを浮かべたコヨーテが正直に答えると、主人は大げさに驚いた顔を見せた。
「辺境の聖地に行くんですか。そりゃ大変だ。でもまだ、間に合いますねえ。今から行けば、秋が深まる前に山を越えられそうだ」
「やっぱり寒くなるとつらいですか?」
コヨーテは重ねて尋ねた。この街道をまっすぐ歩けば、あと十日ほどで、山脈の麓に入れる。このあたりの住人も、山には詳しいだろう。
「早い年だと、秋分の次の月には雪が降りますからね。巡礼者が多いから、山ん中でも道は整ってる方ですが、やっぱり雪が降ると、越えるのはまず無理でしょうなあ」
「盗賊は出ますか?」
彼の問いに、主人は慎重な顔つきで首を振った。
「いや、最近じゃこの辺のご領主様が討伐してくれたんで、そんなに多くないんですよ。ただ、ご領主様の兵隊さんと、西の方の殿様の兵隊さんが、山の中でかちあっちゃって、小競り合いになったって話はありますけどね」
「物騒ですね」
「まあ、相手は兵隊さんなんで、税金さえ払えば、巡礼者は見逃してくれますよ。盗賊に比べりゃましってもんです」
話し好きらしい主人は、続いて以前に出没していた盗賊たちが、いかに悪賢かったかという話を始めた。興味がなくもなかったが、シェリルは席を立ち、厠へ向かった。 夜になって、雨はようやく止んだようだ。建物の軒先から滴が落ち続けていたが、見上げた夜空の雲は薄れて、うっすらと月明かりが透けている。明日はまた暑くなるかもしれない。
厠で用を足し、食堂に戻る。
コヨーテが話し込んでいた宿の主人の姿は消え、代わりに彼女たちが座っていた長椅子に、見覚えのない巡礼姿の三人組が相席している。親子連れかと思って近づいたが、三人とも女だった。
シェリルと同じ、二十歳位の女と、それより三つ四つ年下の女、もう一人はまだ十歳ほどの子供だ。一番年かさの女が、向かいに座ったコヨーテに何か話しているところだった。近づくシェリルに背を向けている彼が、どんな表情をしているのかは分からない。
コヨーテのすぐ後ろに立ったシェリルを見て、話していた女が口を噤み、曖昧な表情でシェリルを見上げた。彼女の連れの二人もそれに倣い、気配を察したコヨーテも振り向く。
厠に立つまでシェリルが座っていた、コヨーテの向かいには女たちが座っている。彼の隣は空いているので、そこに腰掛けるのが自然だろうが、何故か動けなかった。
「……お連れさん?」
表情を失くして立ち尽くすシェリルを見て、年長の女はシェリルではなく、コヨーテにそう尋ねた。その瞬間、彼女の中で女に抱いていた小さな不審は、敵意に近いものに膨れ上がった。
質素な巡礼姿であったが、色白の肌をした美しい女であった。長い黒髪はシェリルのように編まれておらず、背中へと流されている。旅の途中であろうが、髪は艶やかで傷みが見えない。
それに比べれば、女の隣に座っている、十五、六の少女は、垢抜けない。肌も日焼けしており、いくつもそばかすが浮いているのが見えたが、目鼻立ちは整っていて、大きな茶色の瞳が愛くるしい。
もう一人の子供は、まだ本当に幼い顔立ちをしてる。痩せていて、髪が短ければ少年にも見えただろう。表情も乏しく、他の二人と比べると、印象が薄い。
「うん。──どうしたの? 座りなよ」
女に向かって頷いたコヨーテは、シェリルを促すように見上げた。穏やかに微笑んでいるその表情を見て、怒りと悲しみが静かに湧き出してくる。先ほどまでふたりでいた時には、ずっと硬い顔をしていたのに。
感情をどうにか呑み込んだシェリルが、コヨーテの隣に腰を下ろすと、女はやっと彼女に遠慮がちに挨拶をし、シェリルも曖昧な表情でそれに返した。
「この人たちね、姉妹なんだって。親御さんを亡くして、親戚を頼って西に向かっているらしいんだ。小さな子もいて、女の人ばかりじゃ大変そうだよね」
コヨーテがまっすぐシェリルを見ながら、話し出す。彼がここで一人で料理を待っていたところに、混雑してきた食堂で、席を探していた彼女たちが相席を申し出たらしい。葡萄酒を分けてやりながら、彼女たちの旅の経緯を聞いていたところだと彼は語った。
「大変そうですね」
薄い愛想笑いを乗せてシェリルが小声で言うと、年長の女は苦笑いを浮かべた。
「仕方ありません。他に頼れる方もいませんし、どうにか妹たちと助け合っていかないと。幸い、上の妹がしっかりしているので、私も助かっています」
「そんなことないよ」真ん中の娘があげた声は、甲高くてきんきんと響いた。「姉ちゃんがいなかったら、あたしたち、とっくに行き倒れだよ。あたし、もっと姉ちゃんを助けなきゃ」
「じゃあせめて、朝ちゃんと起きてくれると助かるわ」
「それが一番難しいよー」
姉妹たちは笑い声をあげ、コヨーテの声もそれに混じった。シェリルも本当は笑うべきだろうと思ったのだが、胸の底で黒く渦巻きつつある感情に引きずられ、微笑むこともできなかった。
血の繋がった姉妹だろうか。三人とも全く似ていない。それに長女だとういう女の美貌は、明らかに自分に手をかけた女が持つ美しさだ。日焼けの痕がほとんどない色白の肌、短いが整えられた爪と荒れの少ない指先、乾燥している夏場だというのにふっくらした唇、艶のある髪の毛先すら、旅の疲れや傷みが見えない。
シェリルも金銭的に余裕があり、旅の途中ではなく、どこかにねぐらがある状態であれば、できる限りは身の回りに気を使う。美しくありたいというのは、女であれば当然だし、手をかけて努力をしなければ、自分のもって生まれたものを活かすことはできないと知っている。王領近辺では、『自分の醜さを親のせいにできるのは十二まで』と長く言われる。初潮が訪れる頃から、女は自分の美貌に責任を持って、己で磨かなければならないということだ。特に王都では、いくら生まれつき目鼻立ちが整っていようと、手をかけていない、垢抜けない女より、凡庸な顔立ちでも、自分を磨きたてて洗練された女の方が好まれる。
しかしそれも余裕があればの話だ。結婚と恋愛が人生の最大の目的でなかったシェリルが、まず考えなければいけないのは生き抜くことだ。冒険者生活をして、自分の腕で稼がなければならなかった彼女は、当然美貌より魔道の技術を磨くことを優先した。そして、時間も金も限られている旅の間も、体や顔の手入れに時間をかけている暇があれば、一歩でも先に進んだ方がいいと思っている。巡礼者をはじめとする女性の旅人は、大抵同じようなものだ。
この三人の女たちは違う。一番幼い少女は除いて、長女だという色白の女と、日焼けした肌の次女は、間違いなく髪や肌、手先を、ある程度の時間をかけて磨いている。旅の間にそれほど自らの美貌に執着するのは、貴族女か娼婦だ。
恐らく娼婦だろうと、シェリルはあたりをつけていた。元々の職業的な娼婦か、あるいは落ちぶれた貴族か町娘が、旅の間に娼婦の真似事をしているのかは分からない。実際に金を受け取って肉体を差し出しているのか、ただ美貌と肉体をちらつかせ、それを餌に男を上手に利用しているのかも分からないが、シェリルに取ってはどちらも同じことだった。
育ちのいい貴族娘であれば、男女二人連れの旅人に会った時に、主に女の方と話すのが慎みというものではないか。先ほどシェリルが姿を見せた際、長女だという女が、シェリルに挨拶をする前に、コヨーテの方に彼女のことを尋ねたのは、シェリルの警戒心と敵意を著しく煽っていた。
コヨーテは気づいていないのだろうか。目の前の女はただの巡礼者ではない。
シェリルが苛々と、胸から腹へと滴り落ちていく粘ついた感情を抑える間にも、長女と次女、そしてコヨーテは話し続けた。一番年少の少女だけが、微笑むでもなくぼんやりと、彼らの話を聞いている。
彼女たちは公爵領の出身のようだ。旅の間に盗賊団とすれ違ったり、旅芸人の一座と同行している間、真ん中の娘が座長にてごめにされかかったなど、波瀾万丈の旅路だったと、長女と次女が交互に話している。
元冒険者であり、荒事に慣れたシェリルにとっては、さして面白くもなかった。むしろ彼女たちの話は荒唐無稽に聞こえる。大体、傭兵や旅芸人と同行して、何度も危ない目にあっているのに、性懲りもなくこうして、見ず知らずの男、コヨーテの前で、警戒を解いて開けっぴろげに語るとは、愚かにもほどがあると思った。
コヨーテの方は女たちの話を、合いの手を入れながら笑顔で聞いている。彼の相槌が挟まる度、色黒の娘は甲高い声をあげて笑った。シェリルたちのテーブルは、華やかな雰囲気に包まれる。
(あたしと話している時より、楽しそう)
夢以外で久しぶりに見た彼の笑顔が、横に座っているシェリルではなく、向かいに座っている色白の女に向けられている。かつてはその位置にシェリルがいたのに、テーブルを挟んで見つめ合うのがもどかしく、近づきすぎてしまったがために、彼には彼女は見えなくなった。
「ご夫婦の旅ですか?」
運ばれた料理を食べながら、ひとしきり彼女たちの冒険譚を語り終えると、年長の女が口を開いた。
「ええ、そうです」
シェリルは何も答えずにテーブルに視線を落とし、一拍置いてコヨーテが答えた。女は儚いほどに微笑むと、シェリルにも目を向けながら口を開く。
「あの、よろしければ、山脈を抜けるまで、ご一緒させてもらえないでしょうか? ご夫婦の方でしたら、私たちも安心ですし」
視線を感じた時から予想していた女の言葉は、シェリルの腹で渦巻いてた感情を弾けさせた。無表情をどうにか保ったのは、最後の自尊心だ。
なんだ、この女は。シェリルたちが、まだ若い新婚の夫婦に見えないとでもいうのか。それともそれが判らないほど馬鹿なのか。
どちらも正解ではないだろう。女の視線は、コヨーテに対して並々ならぬ興味を見せている。そして長旅で、碌に髪も体も洗っておらず、荒れた肌のシェリルを見やる、うっすらとした優越感。
娼婦め。
腹の中で怒りを募らせるシェリルに、コヨーテがのんびりと目を向ける。
「どうする?」
なんであたしに訊くの。断ってよ。娼婦を連れて歩く気なの。
激情が頭の先まで突き抜けた。だがそれを、この見知らぬ女三人がいる前で表に出すのは、シェリルの矜持が許さなかった。
「お困りのようだし、ご一緒していただいたら? あなたが決めてよ」
その場にそれ以上いることはできなかった。シェリルは言い捨てて席を立つ。
「疲れたから先に失礼します」
やっとのことで女たちにそう言うと、彼女は憤然と食堂を横切り、廊下に出た。二階に続く階段を上りながら、怒りのあまり体が震え、涙が滲んでくる。
背後から足音が追いかけてくる。その主を知っていたが、シェリルは階段を上り続け、二階の廊下を早足で歩く。煩わしさと同時に、微かな喜びが足元から湧いた。
「ちょっと。なに怒ってんの」
肩に手をかけて振り向かされる。月明かりしか入らない薄暗い廊下に、コヨーテの顔が見えた。その表情は、彼女が想像していたより硬い。
「怒ってないよ。疲れたから、先に寝る」
静かに彼の手を振り払いながら、冷えた声で告げると、振り払われた手を下ろした彼は、眉を寄せた。
「怒ってないなら、失礼すぎる態度じゃない? あの人たちだって、不愉快だよ」
一番不愉快なのはあたしだよ。
その一言を飲み込むのに、歯を食いしばらなければならなかった。黙り込むシェリルに向かって、コヨーテは話し続ける。
「女の子三人の旅じゃ、大変そうだと僕は思うよ。でも若い女の子が一緒ってだけで、君が面白くなくなるのは、なんとなく解る。だからどうするか君に訊いたでしょ。嫌なら嫌って断ればよかったのに、あんな態度見せなくたっていいだろ。なんで君、自分の意見を上手に言えないの」
喧嘩の度にシェリルが自分で反省しているところを突かれ、彼女は逆上に近い状態になった。声を荒げて、一気にまくしたてる。
「嫌だなんて言ってないじゃない。好きにすればいいでしょ。確かに若い女三人じゃ大変そうだものね、あなたが同行して守ってやればいいじゃない。あたしの他に足手まといが増えて、もっと旅の速さが落ちても、あんな綺麗な女の人なら、文句はないんだよね」
「なんだ、そりゃ」
コヨーテは世にも呆れた溜め息と共に、吐き捨てるような言葉を落とした。腕組みをして、彼は続ける。
「……まあ、今までの僕の態度見てれば、大きなことは言えないけど、これからも僕が女の人に関わるたびに、そんな風な言われ方するなら、正直楽しくはないよ。何より僕に関わった女の人に失礼だとは思わない? あの人たちはたまたま、僕らのとこに相席しただけでしょうが。いきなり君があんな態度に出たから、戸惑ってたよ。悪いことをしたのかって、気にしてた」
ただの巡礼者ではない。女たちは娼婦だ。
そんなわざとらしい女の演技に、この男が気づかないのだろうか。明らかに彼に色目を使って近づいてきた女に対して、シェリルが不愉快を覚えるのは当然だ。それともまだ彼女には、そんな資格はないと思っているのだろうか。
女たちの目的は分からない。コヨーテを気に入り、旅に同行して、一夜だけでも関係を持ちたいだけなのか、シェリルから彼を奪い取って、情婦に収まるつもりなのか。育ちが良さそうに見える彼を金持ちと踏んで、財布を狙っているのか。あるいは、シェリルたちを狙った暗殺者か、賞金目当ての冒険者とも限らないではないか。
しかし目的が何にしろ、女が彼に近づくことが耐えがたく、彼がそれを拒まないことが腹立たしかった。
「……態度が悪かったなら、謝る。だから、一緒に連れて行きたいなら、連れて行けば」
胸の中を荒れ狂う憎悪を抑えて、シェリルは呟くように言った。そこに隠しようがなく滲んだ憤懣を感じたのか、今度はコヨーテの声の調子がやや緩む。
「もう、いいよ。同行するって話は断ったから。君は僕に反論できないだけで、納得しているわけじゃないみたいだからね。そんな状態で一緒に旅をしたとしても、お互い嫌な思いするだけだろう」
皮肉を含んだ言葉に、抑えようとした怒りが跳ね上がる。彼女は再び声を荒げて言い返した。
「じゃあ、あの子たちについていってやれば!? あたしはあたしで何とかするよ。あの人たちは男の人の助けがなきゃ、何もできないみたいだからね」
「なに言ってるの」激高するシェリルに対し、コヨーテは冷めた溜め息をつくだけだった。「君だって似たようなもんでしょ。──彼女たちと一緒に行って、君をおっぽりだすわけないでしょうが。君からはちゃんと報酬もらってるんだから」
溢れかけた涙が、瞬時に冷えて凍った。
彼こそ何を言っているのだろうと思ったが、答えは脳の奥から浮かんできた。
確かにシェリルは、あの春の夜、王都の薄汚い娼館で、コヨーテに西に連れて行ってくれるように頼んだ。そして逃亡の資金として、彼女がずっと身につけていた耳飾りのひとつを、もうひとつを彼に対する礼として渡した。
確かに渡した。それで西へ連れて行ってと言った。
言葉の綾だったが、彼はそれを字義通りに受け取ったのだろうか。
いや、少なくともあの夜はそうではあるまい。彼女が彼と出会ってから、最もふたりの心が近づいた夜だった。
しかしあの夜以来、満ちていた月がやがて再び欠けるように、ふたりの心はすれ違って離れていく気がしている。近づこうとしていた時よりもっと、苛立ちや怒りを伴った、醜い形で。
部屋に戻り、シェリルは力なく寝台に腰を落とした。
諍いの後、コヨーテは「無礼のお詫びに酒を奢って、彼女たちともう少し話してくる」と告げ、食堂へと戻っていった。
しばらく床を見つめてぼんやりしていたシェリルは、やがて立ち上がり、のろのろと服を脱いだ。洗濯をしなければと思ったが、体を動かすのが億劫だ。生乾きのまま背嚢に詰めていた、昨日の洗濯物を取り出し、手近な場所に掛けておく。
下着姿で、彼女は寝台に滑り込んだ。洗濯した麻の感触がざらざらと心地良い。
寝転がって目を閉じる。涙が溢れた。
ここのところ、寝る時はいつもひとりだ。コヨーテは食堂で酒を飲んでいたり、風呂を使っていたり洗濯をしていたりで、大抵彼女より眠るのが遅い。シェリルが知らない間に部屋に戻ってきていて、目が覚めるといつの間にか隣に寝ている。
今夜もそうだ。恐らく彼は、深夜まで部屋に戻らないだろう。
コヨーテに秋波を送っていた、あの黒髪の美しい女の視線を、彼が見逃すはずはない。そんなに鈍い男ではないはずだ。旅の同行を断ったということは、彼女との縁は今夜限りだ。
どこかであの女を抱き、夜明け前に部屋に戻ってくるに違いない。
いっそ戻ってこなければいいのに。長い間シェリルを抱いてもいないのに、何故彼女の寝床に戻ってくるのだろう。
彼への憎しみと同時に、捨ててきたもの、失ったものへの哀惜が心に溢れ返る。母、師、マライアと仲間たち。
誰か、助けて。私を連れ戻して。
女の元にいかず、夜の間ずっとシェリルのそばにいて欲しい。今の彼女ならそう言う権利はあると思う。彼は渋々ながら従うだろう。
けれど結局シェリルは彼の妻ではないし、恋人と呼べるのかどうかも分からない。それにそうして束縛し続けられることを、彼は好まないだろう。シェリルが眠るまでそばにいた後、部屋を抜け出すだけだ。そしていずれはその状態に耐えられなくなった彼が、シェリルの前から姿を消すかもしれない。
耳飾りをコヨーテを渡したことを、痛いほどに後悔した。あれを渡したおかげで、彼はまだそばにいてくれる。彼女が決して望んでいない理由によって。
耳飾りさえあれば、今からでも師に連絡を取り、直近の魔術師ギルドに立ち寄って、最も安全な方法で王都に帰り着けるはずだ。その後の彼女の生涯は、非常に抑制されたものになるだろうが、こんな旅の宿で声を殺して、夜半まで泣いているよりましだろうと思った。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。毎晩のように考えることをまた考えた。予想はしていたことだったのに、何故避けられなかったのだろう。
**
遅春の終わりから初夏にかけて、辺境伯領にある古い巡礼道を歩いている間に、二、三人の追いはぎに三度ほど出会った。だがいずれも失業した労働者が転身したような素人で、コヨーテが時間を稼いでいる間にシェリルが目くらましを使って、簡単に撃退できた。
魔術師ギルドを抜けた今、精霊の力を借りる奥義を使うことはためらわれた。奥義こそ正式な魔術師の証である。もはや魔術師でないシェリルに、それを使う資格はない。真面目な彼女はそう考えていたし、もし師がシェリルの居場所をまだ探しているとしたら、奥義を使えばその足跡を精神の世界から辿られてしまうかもしれない。
しかし幸い、大きな術を使わなければならないような盗賊団や、獣の一団、そして暗殺者には出会わなかった。
野宿が続いた旅の途中、ふたりが初めて結ばれた、煉瓦造りの簡素な巡礼宿を見つけた。しかしそこは草木に覆われ、木造りの扉は壊されて、廃墟と化していた。住人が捨てた後、獣が入り込んで朽ちたのか、あるいは盗賊にでも襲撃されたのかは、分からなかった。
コヨーテと初めて抱き合った部屋を見てみたかったが、建物の中はひどく荒れ果てていて、階段も見つからないほどだった。
それでもふたりが初めて肌を重ねた場所で、当時のことなど語りながら、せめて一晩過ごしたいとシェリルは思ったが、宿を見つけた時は、正午に近い真昼だった。まだ歩けるし、朽ちた廃墟で一晩過ごすのは、却って危険かもしれないとコヨーテに促され、後ろ髪引かれる思いで、シェリルは廃墟を後にした。なんとなく胸の奥に、不吉でもの淋しい予感が宿った。
夏至の頃、シェリルたちは無事に辺境伯領の関所を通過し、公爵領に入った。
秋の終わりに、シェリルは二十歳になる。
十六の時に出会った、彼女によく似た伯爵の娘、今は第三公子夫人となっているフィリスは、どうしているのだろうと考えた。
以前伯爵から聞いた話では、無事にレナード公子と結婚し、男の子と女の子を一人ずつ授かったという。レナード公子本人に会ったことはないが、伯爵の話では、線は細いが温厚そうな青年だったという。恐らく優しい夫と共に、幸せに暮らしているのだろう。
「あなた、この辺の出身なんだよね?」
薄暗い森を抜け、肥沃な穀倉地帯を抜ける街道を歩きながらシェリルが尋ねると、コヨーテは曖昧に頷いた。
「うん、そうだったかな」
「生まれた家を覚えてないの?」
「覚えてるよ。こんな主街道沿いじゃなくて、もっと南のど田舎だよ」
風が出て、麦の穂を海原のようになびかせる。伸び始めたシェリルの髪も乱されたが、隣を歩いているコヨーテが丁寧に顔周りの髪をどけてくれた。
「帰ってみたいとは思わない?」
シェリルはポケットから取り出した紐で、肩を覆うほど伸びた髪を束ねて結んだ。
「あんまり思わないねえ。向こうも僕の顔なんか覚えていないだろうし」
答える彼の声は飄々としていて、少なくとも表向きには、彼は生家に何の未練も、憎しみや嫌悪すら持っていないように聞こえた。
けれど彼女は、この不思議な男が生まれ育った家を見てみたいと思った。ただの田舎の下級貴族の家には違いないだろうが、繊細で病気がちだったという子供の頃のコヨーテが、生まれた家でどんな風に過ごしてきたのか、彼がいたというその場所で、彼自身の話を聞きながら、その想像に浸ってみたい。
そして全く逆のことも考えた。既にもうよそよそしいだけの場所だが、シェリルの生まれた家にコヨーテを連れていき、年老いた母の前で、子供の頃の自分の話などを聞かせたいと思った。彼の知らない彼女の思い出を彼に聞いて、笑って、慰めてもらいたかった。
旅の間、食事中や抱き合った後など、短い時間ではあったが、シェリルはギルドを出てからの話を断片的に彼に聞かせることがあった。コヨーテが聞きたがったからだ。
マライアとの出会い。他の仲間たちとの出会い。揃って聖地に無事に辿り着き、イーミルの妹の遺灰を撒いた後、意気投合した全員で話し合って、冒険者になることを決めたこと。
コヨーテは、時折思い出に浸っては涙ぐむシェリルの話を、先を促すこともせずに穏やかに聞いていた。見た目によらず、彼は話すよりも聞く方が好きなようだ。彼が最もよく喋るのは、言い争いの時と抱き合っている時であった。
シェリルは彼の話も聞きたがったが、彼は自分自身の話──特に<聖域>にいる間や、そこを出てすぐのことに関しては寡黙だった。
収穫を待つだけの重たげな小麦の畑が一面に広がっている。遠くでそれを刈っている数人の農夫の姿が見えた。冬蒔きの麦の刈り取りが終わると、もう季節は真夏だ。こうして歩いている昼間も、大分暑い。森の巡礼道には町や村など無かったが、この先にある町で、夏用の服を買おうと思っていた。
照りつける日差しの中、農作業に精を出す農夫たちを眺めていて、世の中にはこうしてたくさんの仕事や人生があるのだと、ギルドを出てから思っていることを実感する。生まれる腹が違えば、シェリルは今こうして変な男の隣を歩いているのではなく、若い農夫の為に粗末な家で、乳飲み子を背負いながら、昼食を作っていたのかもしれない。いくつもの偶然と自身が重ねた僅かな選択の末、今の自分があるのだ。
もしも、フィリスの代わりに伯爵家の長女として産まれていたら。
選ぶ選択肢は、フィリスと同じだろう。王子との婚約を断られ、父親が必死で結んできた縁談の為、公爵家の無名の三男の元に嫁いでいたに違いない。
そしてもしも、彼が南の田舎の下級騎士の家などではなく、公爵家の三男として産まれていたら。
陽の光で視界が白ける。
想像しただけで、恐ろしいほどの幸福だった。生きる為に汲々とする必要もなく、家族を含めた周囲の祝福を受け、夫婦として永遠の絆で結ばれて、血の繋がった子供を授かるのだ。毎日毎日、自分と夫と子供のことだけを考えていればいい。せせこましいながらも、そんなに幸せなことは他にない。
魔術を学んでいる頃のシェリルには、全く無い発想だった。恋愛や結婚を夢みてはいたが、現実には無理だし、向いていないと承知しているはずだった。ましてや相手がコヨーテでは尚更だ。こんなに胸が切なくなるほど、その幻に執着しているとは、自分で驚きだった。
「暑いなー。焼けそう」
シェリルの気持ちなど無論知らず、コヨーテは照りつける日差しを遮る為、外套のフードを被った。色白の彼は、日に焼けると赤くなって肌が痛むらしい。
「ねえねえ、レナード公子に会ったことはある?」
コヨーテの腕を引いて尋ねると、彼は不思議そうにシェリルを見下ろした。
「ずっと昔に、一度だけね。僕の家族総出で、公爵家に挨拶に行った時。ひょろひょろして吹けば飛びそうな子供だったなー。……僕もそう見えただろうけど」
「やっぱり、あなたと似てる?」
「らしいよ。昔、公爵領にいる時に、レナード公子のお忍びですって言って、あっちこっちで宿代だのメシ代だのツケにしたけど、疑われたことなかったもん」
「…………」
せこい小悪党だ。もしかしたらレナードを名乗って、もっと大掛かりな詐欺も働いているのではないだろうか。
渋面になったシェリルに、面白そうにコヨーテが話しかける。
「なんで、そんなにレナード公子にこだわってんの? まさか、フィリス夫人と入れ替わって、うまいこと貴族夫人に納まろうとか思ってる?」
「できるわけないでしょ!」
「そりゃそうだよね。ま、君の気持ちも解るような気がするよ」微笑んだコヨーテの瞳に、僅かに皮肉が見えた。「君が初めて僕に会った時、僕のことをレナード公子だと思い込んでいたんだもんね。初めて自分とヤった男が、本当はどんな男だか知りたいんでしょ」
コヨーテの言葉は、シェリルの記憶の底にあるわだかまりを、的確に突いてはいなかった。初めて肌を重ねた男に抱いていたのは、幻だと分かっている。コヨーテが演技によって作り上げた幻の人間であって、そんな男は地上のどこにもいない。コヨーテと再会して以来、何度も言い聞かせてきたことだった。
「よっぽど僕が演じてたレナードが好きだったんだねえ。おかげで演じてただけの僕に、ずるずるくっついてくる羽目になっちゃうしね」
「そんなんじゃないよ」
シェリルは慌ててコヨーテの腕を掴んで、抱え込もうとした。しかし彼はそれを器用に優しく振りほどく。
「ほんとかなあ。ちょっといい男見ると、すぐ挙動不審になるくせに」
「なってないよ!」
シェリルはコヨーテの背中を叩き、彼は笑った。だがもう一度彼の腕を抱えるのが怖かった。
コヨーテが正体を偽ったまま、彼らが初めて体を繋げたあの場所が、朽ち果てていたのが残念だった。たとえ彼に反対されても、やはりあの場で一晩過ごし、当時に抱えていたもの、今抱えているものを打ち明けあって、気が済むまで抱き合えばよかったと、後悔した。
公爵領に入ったあたりから、季節は真夏へと移った。広大な小麦畑の収穫が終わる頃には、日中の日差しは耐え難いほどになってきた。最初の町で薄手の麻の夏服を仕立てたが、じりじりと照りつける太陽は、容赦なく旅人たちの体力を奪う。暑がりのシェリルにはさらに厳しい旅路となった。
王都を出てから、ふた月が経とうとしている。その間、ふたりは何度も言い争いをした。原因は大抵、疲れたシェリルが不機嫌になることだ。コヨーテに体調の管理は自分でやれと、ごく正論で諭され、反駁できないシェリルがつむじを曲げることから、喧嘩へと発展する。
旅の間、毎晩抱き合っていたわけではないが、諍いが起きた夜は、ともに寝台に入った後、どちらからともなく近づいて触れ合った。肌を合わせている内、快楽に啼きながらシェリルが詫びて、コヨーテがそれを受け入れる。行為の後は、苦笑いしながらふたりで眠りに就いた。寝る寸前、寝ぼけ眼でコヨーテの方が「僕こそ言い過ぎた」と謝ることもあった。そして目覚めた翌朝は、普段通りに旅を続けた。
そうして喧嘩と仲直りを繰り返すことで、ふたりの絆は強くなっているのではないかと、シェリルはそう思っていた。
その日の喧嘩は少々趣きが違った。きっかけは毎度のように、炎天下を歩くシェリルが音を上げて、座り込んだことだ。汗だくで息を切らしているシェリルを哀れに思ったらしく、そのこと自体にコヨーテは文句を言わなかった。だが、休憩を取った後もシェリルの不機嫌は相変わらずで、午後になって、ついに彼が八つ当たりをするなと、言い返した。対して理屈になっていないことを喚き散らす彼女に、コヨーテは溜め息を吐いてみせた。
「そろそろうんざりなんだよね。体力無いのは君のせいでしょ。それに付き合わされた挙句に、こんなこと言われるんじゃ、割に合わないよ」
「割に合わないって何?」
甲高い声で叫んでいたシェリルの声が、ぐっと低くなった。彼女が本気で腹を立てると、押し殺した低い声が漏れる。うんざりという彼の言葉は、シェリルの心をひどく傷つけた。彼女は傷つくと、打ちのめされて悲しむよりもまず、これ以上傷つかないように、自分を守る為に怒りが湧いてくる。苦い悲しみと後悔が滲んでくるのは、怒りを全て吐き出してしまった後だった。
彼はシェリルのそんな性質を知っていた。理解していたつもりだが、受け入れてやることができるかどうかは、別の問題だった。
「恩を売るつもりはないけど、僕一人ならもっと早く西に入れるんだけど」
「あたしがいるから、歩みが遅いって言うんでしょ。分かってるよ。そんなに嫌だったら、置いてってよ!」
寸前で口を閉じようとしたのに、熱くなった頭は最後の言葉を吐き出させてしまった。ここのところ喧嘩のたびに飛び出しかけては、こらえて飲み込んでいた台詞だった。
コヨーテの表情は変わらなかったが、一瞬挟まった沈黙が、彼の激情を語っている気がして、内心シェリルは戦慄した。
「……どうせ僕が君を置いていかないだろうと思うから、何度もそういう風に言うんだろうね」
男の声も一段冷えた。シェリルと視線を合わせず、照りつける日差しから肌を守る為、外套のフードを被った彼の顔は、見えづらい。
コヨーテの言葉を否定するのも、肯定するのも恐ろしく、シェリルが黙っていると、彼は淡々と続けた。
「甘えるのもいい加減にしてよ。僕じゃ君の精神全部を支えきれないよ」
「甘えてなんかないよ」
彼の言う通りだと思いながら、シェリルは反射的に言った。彼の言うことが正しいと思いながら、それを認められないことこそ甘えだと、分かっていた。
まるで理屈の通らないシェリルの言葉に、いつものように正論を返してくると思ったコヨーテは、うっすらと笑った。
「まあ、君がそう言うなら、そうなんだろうね」
彼はそこで話を打ち切り、行こう、と何事も無かったかのように、穏やかにシェリルを促した。
その後は、汗だくになりながらも、シェリルは自分から休憩を言い出すことなく、黙々と夕方まで歩き続けた。だが彼に詫びるきっかけがつかめず、コヨーテの方もほとんど彼女に話しかけることはなかった。
疲れていたが、夕食の後にいつものように寝台で抱き合って、コヨーテにきちんと謝ろうとシェリルは考えていた。他に詫びる機会を見つけられそうになかった。
その夜、街道にある慎ましい一軒宿は、意外に賑わっていた。シェリルたちを含め、数組の巡礼者の他に、小さな隊商の一行、そして四人組の旅芸人が宿泊していた。
芸人は三十歳前くらいの、成熟した歌姫を中心にして、歌と演奏を聞かせていた。コヨーテとの会話はほとんど無かったので、食堂に美しい歌声と、どこかもの悲しい旋律が流れるのは、ちょっとした救いではあった。しかしおかげで、食事中に口を開くきっかけもつかめず、やはり彼に詫びるには、寝台の中しかないとシェリルは思っていた。
美人ではないが、すらりと細身の体で、張りのある低い声で歌う女を見ていて、昔、仲間たちと旅芸人の真似ごとをして、谷の村に潜入したことを思い出す。あんな風に調子よく歌っていたシェリルの後ろで、突然踊りと演奏を始めたのが、美貌の踊り子と、リュート弾きとして同行していたコヨーテがいる一団だった。
歌姫の後ろで、竪琴を弾いている少年を見て、あの大きな体のサムソンが、太い指で同じように、繊細な旋律を爪弾いていたことが浮かぶ。
他にもう一人、リュートを弾いている男がいたが、芸人四人の内、最後の一人は演奏に加わらず、客のいるテーブルを回っては、なにやら話している。代金を集めているのかと思ったが、どうやらカードを使った占いをしているようだった。歌姫と比べるとまだ若い、シェリルよりも年下の、日焼けした肌の少女だ。
芸人による占いや手品が好きなシェリルは、彼女がテーブルにやってくるのをそわそわと待っていた。それがきっかけで、コヨーテとの間に会話が復活するかもしれないとも思っていた。
隣のテーブルで占いを終えた少女が、シェリルたちの方を見やる。目が合うと、彼女は微笑んだ。彼女も美人というわけではないが、愛嬌のある可愛らしい顔立ちだった。
少女がカードを持ってシェリルのテーブルにやってくると、彼女に背を向けていたコヨーテは、驚いたようだ。だが、微笑む少女に対して、すぐにそつなく微笑み返した。
「占いだけど、どう? 旅の行方、ふたりの愛の行方、子宝、お金、仕事まで、何でも占っちゃうよ」
「ねえ、何か占ってもらわない?」
シェリルはやっとコヨーテを正面から見つめ、屈託を押し殺した笑顔で声をかけた。
「お好きにどうぞ」
第三者が同席しているせいか、彼の声は昼間より幾分柔らかい。しかし視線は冷えたままだった。
「何がいい? 新婚さん? それならやっぱり、ふたりの愛の結晶のことかなぁ?」
芸人娘はいたずらっぽくシェリルたちふたりの顔を見渡した。コヨーテの表情は変わらなかったが、シェリルは顔を強張らせまいと、却って妙な表情に歪めてしまった。
「子供はまだいいよ」
シェリルがぎこちなく、静かな声で告げると、娘はくすくすと笑った。
「照れちゃって。──ね、ダンナさん、あなたもこんな可愛い奥さんもらったんだから、頑張らなきゃだめよお。あんた、ひょろひょろしてるから心配だな」
娘はコヨーテに顔を向け、天真爛漫に話し続けた。コヨーテは苦笑いを返す。
「そうだね」
「女はねえ、淋しいとすぐ気持ちが他へ逸れちゃうから、ちゃんと捕まえててあげなきゃ。毎晩可愛がってやって、早く子供こさえてやるのが一番」
「いいの!」
下世話な話を明るい声で語る娘に向かい、ついシェリルのきつい声が飛んだ。少女だけでなく、コヨーテも軽く目を見張る。
子供など、ふたりの間には決してできない。それを娘が知る由もない。彼女に悪気は無いのは分かっていたが、無神経にシェリルとコヨーテの心をかき乱されて、つい苛立ちが湧いた。
「ごっめん、ちょっとぶっちゃけすぎたかな。奥さん、育ちが良さそうだもんね。お下劣な話してごめんね。さ、別のこと、何を占う?」
見た目によらず、おとなびた口調で、娘はシェリルの怒りを受け流した。気分を切り替えるように、シェリルに笑いかけてきたが、強張った顔が元に戻らない。
沈黙が気まずくなる前に、コヨーテが口を開いた。
「じゃ、僕らの旅の行方を頼もうかな。無事に西の聖地に辿り着けるかどうか」
「オッケー。いい結果出るよ、きっと」
快活に頷き、娘は絵柄が描かれた古びたカードをかき混ぜて、並べ始めた。
カードをすべて並べ終え、絵柄を読んだ娘の顔が曇る。しばらくの沈黙の後、曖昧な笑顔で彼女は語った。
「……占いは占いだからね。あんまり本気にしないで欲しいけど、気をつけるに越したことないと思う。できれば二人じゃなくて、幾人か道連れを作った方がいいよ」
シェリルはカードを使った占いに詳しくはないが、多少の知識はある。テーブルに並べられたカードの頂点に出た絵柄は、『停止』『終焉』を意味する絵柄のカードだった。それは『死』と解釈されることもある。
励ますような言葉を幾つか並べ、占い師の娘が席を立った後、シェリルもコヨーテも空気を打ち消そうとするかのように口を開いたが、会話は途絶えがちだった。
「お風呂、遅くならない内に借りようかな」
食後すぐ、シェリルはそう言って席を立った。
「そうしなよ。僕はもう少し飲んでる」
腰掛けたままシェリルを見上げる彼の笑顔は、愛想笑いに近かった。
苦い気持ちで見送られながら、シェリルは自分の部屋に洗面用具と替えの下着を取りに行き、中庭にある風呂へ向かった。
辺境伯領を歩いている最中は、水浴びをするのがやっとで、風呂など一度も使えなかった。夏と言えど、熱い湯に浸かって汚れを落とせるのは嬉しい。
金を払って風呂を使う旨を告げると、釜型の風呂に主人はすぐに火を入れてくれた。同じ湯を使い回すことにはなるが、沸かした湯を浴槽に溜める桶型の風呂より、遥かに早く準備が整う。
丁度いい具合に湯が温まったところで、シェリルは自分で火を止めて、風呂に入った。髪と体を洗い、洗濯を済ませる。日中汗をかくことが多いので、体は毎日どろどろだ。
洗った髪を束ねて、ふと顔を上げる。視線の先に、湯気を逃がすための小窓があるが、そこから顔が覗いていた。
恐怖に目を見開く彼女の前で、小窓の向こうの顔は姿を消した。
のぞきだ。
一瞬、亡霊か暗殺者かと思い、心臓が止まるかと思ったが、ただの痴漢だろう。そう気づくと今度は怒りが湧いた。小窓はかなり高い位置にあるのだが、風呂場の側に積んである薪でも置いて、その上に乗って覗き込んだのだろう。
憮然と小窓の戸を閉め、やはり無用心だから風呂を使う間、コヨーテについていてもらえばよかったと思った。けれど甘えるなと言われたばかりで、彼を頼るのは非常に言い出しにくい。
シェリルが用心すれば済む話なのだ。
(もっとしっかりしなくちゃ)
昼間、彼が言ったことは、もっともだと思えた。一体いつから、疲れた、暑いなどと、八つ当たりをするような人間に成り下がったのだろう。仲間たちと旅をしていた時は、こんなことはなかった。
今夜コヨーテに謝って、明日から心を入れ替えよう。
自分自身に、コヨーテと同じくうんざりしながら、それでも気を取り直してシェリルは風呂場から外に出た。
「ねえ」
建物に向かって踏み出したところで、後ろから声がかけられた。
振り向くと、シェリルより二つ、三つ年下に見える少年が、ばつが悪そうに彼女を見つめている。長身で体つきもがっちりしていたが、柔和そうな童顔の男だ。隊商に同行している、荷運びの少年だろうかと思った。
「ごめん、さっき……。ちょっと覗いちゃった」
訝るシェリルの前で、少年は視線を逸らしながら告げた。
覗きはこの男か。
しかし怒りが湧いたのは一瞬で、どう見てもシェリルより年下の、純朴そうな青年を前にして、あっという間にそれは溶けてしまった。
「俺、さっきまで風呂使ってたんだけど、入れ替わりにあんまり可愛い子が来たからつい……許して」
黙っていれば分からないのに、わざわざシェリルを呼び止めて詫びるとは、余程正直な性質なのだろう。それにこんな少年に、あまりに可愛かったからと言われれば、正直なところ悪い気ばかりはしない。シェリルは苦笑いを浮かべて答えた。
「もう、こんな失礼なこと、他の人にもしないでね。怖かったよ」
「ごめん。しないよ。女の人の風呂を覗いたのなんか、初めてだよ」
少年に取って、自分がそんなに魅力的に見えていたのかと思うと、僅かにシェリルの顔に血が上った。体ごと少年に向き直った彼女の顔は緩み、それを見て少年も照れ笑いを漏らした。
「ねえ、ちょっと話していかない?」
純朴だが快活そうな少年にそう訊かれ、やぶさかではなかったものの、洗濯物や洗面道具を持ったままだし、人気の無い中庭でというのは気が引けた。一度荷物を置いて、食堂で話してもいいだろう。その時、見知らぬ男と話しこむシェリルを見たコヨーテが、どんな顔をするか見てみたいような気もした。
「いいけど、荷物置いてくるから、食堂で待ってて」
そう言って踵を返そうとするシェリルの腕を、少年が掴んだ。
警戒心が急速に戻ってくる。彼女は少年を睨み上げた。だがその視線に気づかず、熱に浮かされたような瞳で、彼はシェリルを見つめていた。
「今、ちょっとだけでいいから話していこうよ。ねえ」
少年はいきなり太い腕でシェリルを抱き寄せた。彼女が抱えていた荷物が地面に落ちる。容赦のない力を感じて、恐怖が満ちた。
「やだ……やめてよ!」
建物はすぐそこだったが、裏口の扉は閉められており、食堂の喧騒に紛れて彼女の声は誰にも届いていないようだった。少年を押し退けようとしたが、びくともしない。
「ちょっとだよ。ちょっとキスだけさせて。君、可愛いから……」
顔を逸らしたシェリルの耳に、濡れた唇がぶつかる。風呂場で女の裸体を見て興奮したらしい少年の、湿った吐息が顔にかかる。背中に回った少年の手が、下に下りて彼女の尻を掴んだ。
「やだ! いや!!」
腕の動きを封じられた彼女は、男の脚を蹴り付けた。非力な彼女が蹴り付けたところで、大柄な少年はやはり微動だにしなかったが、シェリルの甲高い悲鳴を耳にした彼は、やっと彼女の体を離した。
「ごめん、ごめん。冗談だよ。ちょっとからかったんだ」
歪んだ笑顔で少年は言い、シェリルを押し退けるように、建物へと押しやった。
何が冗談だ。見知らぬ男にいきなり抱きすくめられて、どれだけ怖かったか。文句を言ってやりたかったが、体が震えて声が出ない。
冒険者生活をしている頃も、たまにこんなことはあった。だが当時はマライアとほとんど一緒にいたし、シェリルの声を聞きつければマライアが、マライアの声を聞きつければシェリルが駆けつけ、互いに庇い合うようにしていた。不埒な真似をしでかした男に、啖呵を切って怒鳴りつけてやったものだが、何故か今は声も出ない。やはりシェリルの自信と気丈さの半分は、マライアが分け与えてくれていたものだと、身に沁みた。
小刻みに震えながら、小走りに建物に向かうシェリルの背後で、少年が吐き捨てるのが聞こえる。
「気取ってるんじゃねーよ、ブス」
振り返って怒鳴りつけ、無礼な少年を引きずって、隊商の主人に引き渡してやりたい。けれど非力なシェリルにそんなことができるだろうか。
仲間たちと一緒だった冒険者時代なら、ためらいもなくそうしただろう。危なくなれば、彼らがシェリルを助けてくれると確信していたからだ。いつでも彼らはシェリルの味方だった。
冒険者として、腕利きの魔女として、王都では恐れられていたシェリルだが、結局その自信は仲間たちが与えてくれていたものなのだ。
自分に対する情けなさに涙が浮かんだ。食堂に入る前にやっと拭い、嗚咽を抑える。
食堂に戻り、真っ先にコヨーテの姿を探した。
すぐに彼の姿が見つからなかったのは、一人で座っているはずの彼の向かいに、先ほどまで歌を歌っていた女が腰掛けていたからだ。彼は歌姫とそばに立っている他の旅芸人たちと談笑しているようだった。
あたしが痴漢に襲われている時に。
足音も荒々しくシェリルがそちらに歩くと、コヨーテは目を剥いた。
「……どうしたの?」
久しぶりに見る、彼の心底心配そうな顔を見て、シェリルは自分の瞳から涙が零れていることに気づいた。
「もう、なによ!」
自分で驚くほどの大声が口をついて出た。旅芸人たちが口を噤んで、彼女を見つめる。
「あたしが男に襲われているっていうのに、なんで女とへらへら笑って話してられるの!」
テーブルを叩いて激高するシェリルの声は食堂に響き渡り、周囲の他の客たちも、シェリルたちに視線を向ける。
「ちょっと、なに? 大声出さないで」
他人の注目を集めるのが嫌いなコヨーテは、慌てた様子で宥めるように穏やかに言った。しかしそののほほんとした口調は、シェリルの神経を逆撫でする。
「男に襲われたって、なに? どうしたの?」
「お風呂出たばかりのとこで! どうしてついてきてくれなかったの?」
「だって……」
食堂に戻ってくるなり、突然泣き喚き始めたシェリルを扱いかねているコヨーテに代わり、歌姫が低い美声でシェリルに声をかけた。
「お風呂で痴漢にあったの? どんな男?」
「図体のでかい、若い男……」
他人の前で泣いていることに気づき、涙を拭いながら抑えた声でシェリルは答える。
「あいつかい?」
テーブルの側に立っていたリュート弾きに訊かれ、彼が指差す背後を振り向くと、裏口に通じる廊下から、先ほどシェリルを抱きすくめた少年が入ってきた。彼は悪びれるでもなく、まっすぐにシェリルに近寄ってくる。手には彼女が落とした着替えと洗面道具を持っていた。
「これ、落としたよ」
シェリルと、彼女の周りにいた旅芸人の微妙な視線に気づかないのか、少年はのんびりと言い、シェリルに着替えと道具を差し出した。あまりに厚かましい態度に、何も言えずにいるシェリルの代わって、歌姫が荷物を受け取り、静かな口調で尋ねる。
「あなた……この子に変な真似した?」
少年は驚いたような顔で首を振った。
「変な真似? してないよ。中庭でこの子を見かけたから挨拶したら、いきなり荷物を落として逃げ出したんだ」
「何言ってんのよ!」
しゃあしゃあと言ってのける少年に対し、シェリルの怒りが跳ね上がった。
「あんたの方がいきなり抱き締めて、キスしようとしてきたんじゃない!」
「はあ? あんたこそ何言ってんの。自惚れてるんじゃない」
人の好さそうな少年の顔が歪んだ。
「俺、ちゃんと綺麗な恋人いるもん。あんたみたいなちんちくりん、相手にするわけないよ」
「ちょっと、失礼よ」
歌姫が少年を睨み、たしなめると、彼は肩を竦めた。
「俺こそいい迷惑だよ。せっかく荷物拾って持ってきてやったのに、変態扱いかよ」
鼻を鳴らして、彼は隊商のテーブルの方へ去っていく。その背中に酒でもひっかけてやりたい。
「なに、あの男。許せない……!」
歯噛みしながら、少年の背を睨むシェリルの腕を、立ち上がったコヨーテが取った。
「まあまあ、バカ相手にするより、早く寝よ」
彼女はまだ腹の虫が収まらなかったが、彼は宥めるように笑いかけ、旅芸人たちに挨拶をして、シェリルの腕を引いた。その力は意外に強い。それ以上踏みとどまることができず、シェリルは引きずられるように、寝室に戻った。
「あのクソガキ……!」
憤懣やるかたなく、寝室に戻ったシェリルが凶暴な声で吐き捨てると、コヨーテは苦笑いを含んだ声を上げた。
「まあまあ。バカは放っておきなよ」
「なによ、他人ごとみたいに!」
彼女の災難を一緒に怒るどころか、笑っている彼に対して、苛立ちの矛先が向いた。コヨーテもそれを感じたらしく、溜め息をついて肩を竦める。
「僕に怒らないでよ。宿ん中って言っても、何があるか分からないから、気をつけてね」
「気をつけてってなに? 被害にあった、あたしが説教されなきゃいけないの?」
気色ばむシェリルに、彼は慌てて首を振ってみせた。
「そうじゃないよ。でも気をつけることで、次回は同じ過ちが避けられるなら、気をつけた方がいいでしょ」
「結局、あたしが悪いって言ってるのと同じじゃん! すごく怖かったのに、なんであなた、あんな食堂で女の人とにやにや話しこんでるのよ」
コヨーテの表情が曇った。彼が罪悪感を感じていると思った彼女は、さらにまくしたてる。
「あたしの方が被害にあったのに、男を意識して自惚れてるなんて、あんな大勢の目の前で侮辱されて……。なんでちっとも庇ってくれなかったの? あたしが本当にただの自意識過剰な女みたいじゃない」
「……それって、僕の役目?」冷めた声がシェリルを遮った。「君とあのガキの問題じゃないの? 君こそ、なんでその場にいなかった僕を責めるわけ? 僕に文句言うより、直接あいつに言ってやればいいじゃん」
「だって……」
「君も少し変わったよね。冒険者だった頃は、ちょっと痴漢にあったぐらいで、動揺するような子には見えなかったけど。ちっちゃい癖に気が強いところが可愛いと思ってたんだけどね。──まあ、あんなことがあった後じゃ、無理もないかもしれないけど、もう少ししっかりしてくれないと、僕も一緒にいて疲れるよ」
コヨーテの台詞が終わる前に、寝台に転がっていた枕をつかみあげ、彼に思い切り投げつけた。不意を突かれた彼は、顔にぶつかる寸前に、固い枕を叩き落す。床にぼすりと音を立てて、古びた布の枕が転がった。
「あなたに何が解るの! 友達を亡くしたこともないくせに!」
涙と共に叫んだ後に後悔した。なんて傲慢で、ひとりよがりのことを言ってしまったのだろう。けれど一度口から飛び出した言葉は、取り消せない。
数瞬の沈黙の後、無表情のコヨーテは落ちた枕を拾い上げ、寝台に放り投げた。
「ごめん、その通りだね。知りもしないくせに、上から説教しちゃって、申し訳ない」
謝らなきゃ。私も悪かった。言い過ぎた。八つ当たりだった。
シェリルが言葉を探している内、彼は静かに続けた。
「ごめんね。ひどい目に合ったんだから、ゆっくり休んで。僕は下で少し頭冷やしてくるよ」
謝らなきゃ。今日の昼のことも含めて。
けれどシェリルが何も言い出せないでいる間に、彼は静かに扉を開けて部屋を出て行った。
ひとりで寝台に横になりながら、シェリルは何度も涙を滲ませては拭っていた。
コヨーテは戻ってこない。
どうしてあたしはこうなんだろう。ちっぽけで弱すぎて、一緒にいて唯一心を許せる彼に、不安や怒りをぶつけずにはいられない。彼だってそんなに強い人間じゃないのに、どうして傷つけてしまうのだろう。
今夜は抱き合えなくてもいい。罵られてもいいから、とにかく彼が部屋に戻ってきたら、意地も駆け引きも捨てて、まず謝ろう。
やっとそう決心して、頭の中で何度も予行演習までしているというのに、コヨーテはなかなか部屋に戻らなかった。
もしかして、とうとうシェリルに愛想を尽かして、ひとりで消えてしまったのか。あるいは、可能性は低いが、シェリルを泣かせてしまったことに対して、彼なりに罪悪感に浸っているのか。彼女に痴漢を働いたあの少年に、彼女に代わって陰険な仕返しでもしているのだろうか。
心を乱されながらも、夜中になる頃には、さすがに昼間の疲れが出て、シェリルもうとうとし始めていた。
だが眠りは浅かったらしい。部屋の前の戸口に足音を聞いた時、彼女の意識はすぐに覚醒した。
帰ってきた。
すぐに謝ろうと、彼女が緊張しながら部屋の扉が開くのを待っていると、話し声が聞こえた。
「明日、いつ頃出るの?」
女の声だった。彼女たちの部屋の前で、誰かが話しこんでいるらしい。
「朝の遅めかな。早起きじゃないんだ」
心臓が止まるかと思った。てっきり見知らぬ宿泊客かと思ったが、親しげな女の声に答えたのは、コヨーテの声だ。
まさか。
「あたしたちは、昼頃まで寝てるよ。ねえ……」
「勘弁して。朝までにもう一度会うのは無理だよ」
「ふーんだ、優男」
女の声に聞き覚えがあった。歌姫の方ではない。あの占い師だ。
「とっとと奥さんのとこ帰ってやんな。新婚早々よそでつまみ食いばっかしてると、ほんとに愛想尽かされるよ」
「余計なお世話だよ。じゃあね。おやすみ」
笑いを含んだコヨーテの声が近くなり、扉が開いた。シェリルは咄嗟に目を瞑り、眠った振りを装った。
僅かに顔を覗き込まれる気配がする。心の中では暴風が荒れ狂っていたが、呼吸も乱さずに、彼女は寝た振りを続けた。
衣擦れの音がして、掛け布が捲くられ、すぐに隣に慣れた重みと体温が落ちた。
今の会話はなんだろう。
あの若い魅力的な占い師と、コヨーテの間で交わされた、親しげな会話は、なんだったのだろう。
ほどなくコヨーテの寝息が聞こえてきた。それが全く乱れなくなったのを確認して、シェリルはそっと身を起こした。
涙が次から次へと溢れてくる。嗚咽が漏れそうになり、慌てて彼女はすっぽりと服を被り、部屋を出て厠へと向かった。
真夜中だった。月は沈みかけ、宿の中は暗闇と静寂に閉ざされていた。
「う……く……」
厠に入って閂をかけるなり、こらえていた嗚咽が溢れ出した。真夜中の厠の中とはいえ、号泣するわけにいかない。声を殺して、彼女は泣き続けた。
前にも同じようなことがあった。あれも真夜中で、真夏のことだった。
コヨーテが美しい踊り子と背後で交わる声を延々と聞かされ、彼らが寝静まった後、厠でひとりで泣いた。
コヨーテの側に、恋人して別の女がいることが、当時とても苦しかった。
けれど、目の前にあるなすべき仕事、そして何より仲間たちと過ごす内、その苦しみは薄れて消えていった。
マライアと愚痴を言い合い、イーミルと組んで曲芸に精を出ている内、コヨーテと踊り子のことは脳裏から締め出されていった。
けれど今は、コヨーテから目を逸らさせてくれるようなことも、人も、彼女の周りにはない。
会話の内容からして、彼があの占い師と、ただ夜中まで飲みながら話し込んでいただけではないのは、間違いないだろう。
美人ではないがどこか魅惑的な女を、彼は抱いてきたのだ。
シェリルの髪を撫でる手で、あの女の褐色の肌を撫で、体の中に指を潜り込ませてきたのだ。
王都にいるシェリルを彼が訪ねてきていた頃、恐らく彼は他にもそうして女を抱いているのだろうと、漠然と想像はしていた。
だがコヨーテの礼儀なのか慎重さなのか、他の女を感じさせるようなことを、彼は彼女の前で言ったことも見せたことは無かった。
夫婦ではないから。恋人でもないから。彼女があまりに我儘で、彼をうんざりさせているから。
だから他の女を抱くのだろうか。そして彼に対して、シェリルは何も言えないのだろうか。
彼を自分のものだなんて思っていない。それは昔と変わらないはずなのに、どうしてこんなに苦しくて、彼女が侮辱されたように感じてしまうのだろう。
他の女に触れないでと言ったところで、選ぶのは彼だ。他人の心を操るなんて、できはしない。
もう駄目だ。そうするまいとしても、彼に依存しすぎている。このままでは、お互いに傷つくばかりだ。
離れた方がいい。王都に引き返そう。
路銀はある。王都を出てすぐの町で、コヨーテはシェリルが渡した耳飾りを片方売り払った。その金のきっかり半額を彼女に渡してくれている。丁寧に研磨された上等の貴石だ。少ない額ではなかった。もう片方の耳飾りは、彼女が告げた通り、丸ごと彼のものになったらしい。そういう男だとは知っていたので、その点については、とりたてて不満は覚えなかった。
シェリルは王都で傷を癒していた頃のように、金の管理はしまり屋のコヨーテに任せてもいいと思っていたが、道中の食事代や宿代は折半、飲み物代はそれぞれが頼んだ分を払うということで、財布の紐はそれぞれが握っていた。彼らしい方法だが、今思えば互いに依存しないための、彼なりのけじめだったのかもしれない。以前コヨーテは、肉親にでも自分の金は預けないと言い切っていた。
こんな時に金の問題で悩まずに互いが離れることができるように、彼はごまかしもせずに、耳飾りの代金半分をシェリルにくれたのかもしれなかった。
ギルドを出奔し、彼についてきてしまった後悔を修復するために、彼女がひとりで王都に引き返せるように。
だが現実的にそんな勇気は無かった。シェリルひとりで、またあの辺境伯領を越え、無事に王都に戻れるだろうか。街道に追いはぎが跋扈するだけではない。傭兵たちに賞金まで掛けられているのだ。無事に王都に帰り着くことは奇跡に近い。
そして何より、コヨーテと二度と会えないのは、耐えられそうになかった。今は路銀となった耳飾りを外した夜のことが蘇る。薄汚い娼館の一室で、人生の底辺にいながら、全てのものへの最も熱い情熱を感じたひとときだった。
でも今は。
どうしていいか分からず、涙が収まるまで、シェリルは厠で声を殺して泣き続けた。
**
部屋に戻ると、半分だけ開け放した窓から、月の光が差し込んでいた。昼間は寒かったが、夜になって湿気が増し、気温が上がってきたので、シェリルが窓を開けて寝たのだろう。日中降っていた秋の初めの雨は、止んだ後に美しい夜空を見せ、再び夏の香りを淡く漂わせている。
彼は寝台で眠るシェリルの顔を覗き込んだ。丁度月光は寝息を立てている娘を照らしている。満月に近い、眩しいほどの明かりによって、彼女のまぶたが腫れているのが分かった。寝る前まで泣いていたのだ。
彼はシェリルが本当に寝ていることを確認すると、屈んでそのまぶたにくちづけた。寝台に広がる黒い髪をそっと撫でてやる。
随分長い間、目が覚めている彼女にそうしてやっていない。以前は髪を撫でると喜ぶシェリルの顔が見たくて、抱いている時はもちろん、歩きながらでも意味もなくそうやって髪を撫でてやっていた。
立ち上がった彼は服を脱ぎ、下着姿で、シェリルの隣に滑り込む。ここのところ、シェリルはいつも彼が眠る方に背を向けて、胎児のように体を丸めて眠っていた。
背後から重なるように、横たわったまま彼女に胴に手を回して、彼女が目を覚まさないよう、遠慮がちに抱き締めた。シェリルの丸い形のいい尻に、彼の股間を押し当てる。しかし今しがた、二度も精液を吐き出した彼のそこは、もう熱を持つことはなかった。
シェリルの柔らかい体を抱き締めながら、先ほど抱いてきた女のことが頭を掠めた。
三人姉妹などと言っていたが、やはり嘘だろう。旅の間、体を売って娼婦の真似事をしている、落ちぶれた貴族娘に違いない。連れている年少の女二人は、どこかで見つけた道連れで、同じことをさせて金を稼がせているのだ。
楚々とした外見によらず、したたかな女だ。
だが頭が悪い。
シェリルを残して一人で食堂に戻った後、しばらく女三人と話を続けていたが、頃合を見て、真ん中の妹と名乗る女が、年下の少女を連れて席を立った。二人になった黒髪の女と彼は、そのまま酒を飲みながら話し合い、思わせぶりな女の視線に応じて、彼は彼女を中庭へと誘い出した。
厠の裏手の暗がりで、女の口を塞ぎながら、彼らは交わった。他に場所が無かったからだ。
月明かりに照らされる細身の女の半裸の体は美しかった。やせぎすの女はあまり好みではないが、肌がきめ細かく、絹のような手触りだった。
従順に彼の指示に従う女の喉と体の中に、二度射精した。時折人が近寄り、厠に入っていくたびに、彼は背中の奥にぞくぞくする感覚を味わった。別に他の客に見つかっても構わないが、シェリルに知られるような羽目になれば、後々面倒だ。仕方なく他人が来た時は動きを止め、女の口を強く塞いだ。女がその度に恐怖に満ちた眼差しを彼に向けるのが、鬱陶しかった。
抱いた後は、女に対する興味は急速に失せた。彼の温厚そうな見た目に惹かれただけの女だ。いただくものをいただけば、あとは用はない。
「ねえ、あなたたちも西へ行くのでしょう? また、会えるかもしれないわね」
「会っちゃうかもね」
慌しく性器を服の下にしまいこみながら、女を振り向きもせずに彼は答えた。女が次の言葉を放つ前に立ち上がる。
「そんじゃ、おやすみ。金は払わなくていいよね? 君から誘ったんだから」
抱いている最中と豹変した彼の態度に、呆然としている半裸の女を置いて、彼はさっさとシェリルのいる部屋に戻った。
肌を合わせたというのに、彼が抱えているものを何も受け取っていない、捕えていない、美しくても頭の弱い女と寝たのを、少しばかり後悔した。ひとりで部屋で眠っている、可哀相なシェリルは、初めて彼が貫いた時から、彼の心の隅を見通していた気がする。目の端で同じものを見ている彼女に、無性に会いたかった。
他人の心など決して理解できないし、自分の心も理解してはもらえない。彼は知っている。
だがシェリルはほんの少し、彼の心の内側を覗くことができ、少しばかりそこに溜め込んだものを受け取ってくれる。
今のところ、そんなことができる女は、シェリルだけだ。そんなかけがえのない娘なのに、何故もっと大切にしてやれないのだろう。
旅に出たばかりの頃は、彼女が喜ぶ顔を見ていると、彼も素直に嬉しかった。いつからそれが、時折苛立ちをかきたてるようなものになったのだろう。
シェリルの八つ当たりだって、大したことではない。彼に心を許しているからこそ、彼女は甘えてしまうのだ。それを快く受け止めてやれない彼も、彼女に甘えている。
今夜だって、シェリルは彼と話していたちょっと美しい女に対して、やきもちを焼いていただけだ。可愛いものではないか。問題は彼女がもっと上手にそれを表せないことだが、彼もそんな彼女の性格を分かっているつもりだ。
なのに、何故。
このままでは傷つけあうだけだ。
明日は、もっと優しくしてやろう。少しばかりシェリルが彼に八つ当たりをしたとしても、軽く受け流してやろう。夜になったら、どんな女が彼に誘いをかけてきたとしても、疲れていても、シェリルを抱いてやろう。
背後から固く彼女を抱き締め、首筋にくちづけた。これでシェリルが目覚めるなら、今からでも抱いてやっていい。明日起きられないかもしれないが、何とかなる。
しかしシェリルは目を覚まさなかった。
彼は初めて彼女を抱いた時のように、眠っている彼女が目を覚ますまで、体を探ってみようかと思った。
しかし急速に疲れが襲ってきた。欠伸が口をついて出る。
そっと溜め息を吐き、抱き締めていた腕を緩めると、彼は彼女に背を向けて、目を閉じた。
作者ブログ『椰子の実ライブラリ』
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