警告
この作品は<R-18>です。
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道の先 1
体が緩やかに揺れている。しばらくその心地良い振動に浸っていたかったが、それは機械的な揺れではなく、何かの意志を感じさせた。
目を開けると、生い茂る木々の梢の間から、夏の日差しの激しさを失った陽光が、優しく降り注いでいる。
「大丈夫ですか?」
彼女の体を静かに揺さぶっていた主の声が聞こえた。高くなり始めた、秋の初めの青い空のような、澄んだ涼しげな声。
彼女は手をついてゆっくり体を起こす。すぐ側で膝をつき、顔を覗き込んでいた彼と目が合った。その瞬間、毛布が体から滑り落ちる。慌てて引き上げて裸の上半身を覆った。彼は行儀よく、彼女の小さな失態から目を逸らしている。
「うなされていたみたいなので……」
彼は睡眠の途中で彼女を起こしてしまった理由を、申し訳なさそうに告げた。
彼女は首を振った。起こしてもらって良かったのだ。とても悲しい、嫌な夢を見ていた。
「いいえ、ありがとうございます。あまり夢見がよくなかったので、助かりました」
俯きがちに彼女は語った。ゆうべのことを思い出すと、彼と目が合わせられない。彼女より大分早く起きていたらしい彼は既に服を着ていたが、彼女はまだ裸だった。
「悪い夢を見てしまいました?」
呟いた彼の顔を盗み見すると、僅かに眉が寄り、表情が曇っている。昨夜のことを彼女が後悔しているのではと誤解しているらしい。慌てて首を振った。
「違います。本当にたまたま、変わった夢を見て……。楽しかったこともあったのですけれど、とても悲しいことがあったので……」
照れも含んで、しどろもどろに言い募る彼女に向かって、彼は優しく微笑んだ。
穏やかで優しい人。彼を見ていると、彼女の心は切なく甘く疼き始める。昨夜、その疼きを鎮めるかのように、あんなに近づいたのに、一夜明けてもその疼きは変わらない。相変わらず甘美に彼女を苦しめていた。
「どんな夢でした?」
問いながら、彼は丁寧に畳まれた彼女の服と下着をさりげなく側に置いてくれる。
顔が熱くなった。嫁ぎ先の婚約者と結婚前に触れ合ったばかりでなく、あろうことか下着まで拾わせて畳ませるなんて、貴族の令嬢としてあまりにも恥ずかしい。せめて彼女の方が早起きして、彼の服と下着を拾い、畳んで揃えておかなければならなかったはずである。それが長い夢に夢中になって、心配した彼に起こされるまで眠りこけていたなどと、みっともない。
ありがとうございます、と小声で礼を告げると、彼は首を振って再び微笑み、服を着る彼女の為に背を向けた。彼のそう広くない、小柄な彼女にあつらえたような背中を見ていると、昨夜のように縋りついてみたくなった。
はしたないと思い直し、彼女はできるだけ衣擦れの音を立てないよう、下着をつけ、服を着る。その作業を続ける間の沈黙が気まずく、彼女は顔を赤らめながら、先ほどの彼の問いに答えた。
「不思議な夢でした。私は全然違う人生を歩んでいるんです。あまり細部までは覚えていませんが、もっと自由で、厳しい人生でした」
「楽しそうですね」
座って背を向けたまま聞こえる、彼の声に笑いが滲んだ。
「ええ。楽しいこともたくさんありました」
頭から簡素な巡礼服を被り、紐で留める。ベルトを締めた後、彼女はいくらか胸を弾ませながら言った。
「あなたも、夢に出てきました」
「私もですか?」
彼女の着替えが終わった気配を察したのか、彼が振り向く。
「ええ。……でも、分かりません。あなたにそっくりな、違う人かもしれません」
優しい表情で、面白そうに無言で先を促す彼に向かい、彼女は続けた。
「だって、私に嘘をついてばかりで、とてもひどいんですよ。お金お金って、お金のことばかり……。困っている私からお金を取り上げようとするんです」
「それはひどい」耳の後ろを撫でながら、彼は苦笑いを浮かべる。「あなたが私に無意識に持っていた印象が、夢に出てきたんですか?」
そんなはずないと思ったが、彼女はいたずらっぽく肩を竦めた。
「そうかもしれません」
「ひどいな」
彼女のちょっとしたからかいに、彼は穏やかに笑って答えた。男性にこんな冗談混じりの口を利いたのは、家族以外では初めてだ。
よくは覚えていないが、夢に出てきた彼と同じ姿の男は、随分と失礼だった気がする。
それでも彼女は夢の中で、その男に、今彼に抱いているのと、同じ気持ちを感じていた。夢の中の彼女はもっと自由で大胆で、昨夜彼と初めて共有したような、熱に浮かされたようなひとときを、彼と同じ姿の男と何度も何度も分かち合っていた。
結婚もしておらず、婚約どころか、その男とは恋人ですらなかった気がする。思い返してみれば、破廉恥極まりない行動だったのに、昨夜の彼女と同じく、それはとても幸せだった。
ゆうべ、彼とあんなことがあったから、そのような夢を見たのだろうか。彼女は再び僅かに赤面する。今まで想像もしたこともないような、ゆうべの彼の姿や言葉が、頭の奥から蘇った。
名前を呼ばれて、いつの間にか俯いていた顔を上げる。
微笑んでいた表情を引き締めた彼が、彼女を見上げていた。固い視線に応じるように、彼の前に腰を下ろす。
彼女に向ける彼の表情は、大抵の場合、穏やかに微笑んでいたので、厳しい表情を向けられると、今までとは違った動悸が湧いてくる。何か不吉な印象を覚えた。
彼は何度か彼女から視線を逸らし、言葉を探していたようだったが、やがて彼女の黒い瞳をひたと見据えて口を開いた。
「昨夜のことは、本当に申し訳ございません」
彼女の心臓は跳ね上がった。彼は何を言い出すのだろう。何故謝るのだろう。彼女は全く後悔していないし、無礼を働かれたとも思っていない。不安に表情を固める彼女の前で目を伏せ、彼は続けた。
「どうかしていました……。本当に、お詫びのしようもございません」
眩暈がしそうになる。どうかしていたとはどういうことだろう。昨夜、幻のような時間の後、眠る前にはふたりで寄り添い、言葉はほとんど交わさなかったが、彼女と彼の気持ちは通じ合っていた気がした。彼女の今までの人生で最も幸せなひとときであり、この先約束通り彼と婚礼を挙げる時だって、ゆうべほど幸せではないだろうと思った。
その大切な時間を、どうかしていたとは。一時の気の迷いだったとは。目の前が真っ暗になる。彼はまさか、この結婚を断る気なのだろうか。
少しの間、冷たい沈黙が流れた。気詰まりだったが、自分から破るのは怖かった。
重々しく口を開いたのは、やはり彼が最初であった。
「あなたがお怒りになるのも、ごもっともです。あなたが私の罪を、私の父やあなたのお父上に告発するとおっしゃっても、留める気はございません」
「告発? 私がですか?」
目を伏せた青年に向かって素っ頓狂な声を上げると、彼も顔を上げた。
どうも彼はまだ誤解しているらしい。婚約中の身でありながら、護衛とはぐれて二人きりになった夜、互いに触れ合い、重なり合ったことを、彼女が悔いていると思っているようだ。
確かに婚約者といえども、神の前で認められて夫婦になるまでは赤の他人だ。肉体的に交渉を持つことは許されない。結婚を誓う時には、互いに──特に女性は、汚れのない、乙女でなければならない。
彼女もそのように育てられていた。しかし侍女たちの内緒話に耳をそばだて、時にはこっそり混ざっていれば、世間の人間は必ずしもそうではないといことも知るようになる。
好奇心旺盛な彼女は、そういった禁忌を破る程の、秘密めいた、激しい恋に憧れていた。
しかし現実には無理だと半ば諦めてもいた。王子の婚約者候補として、国王に父と共に面会した時、神童と名高い彼女の醜くはないが、美しいとも言えない姿を目にした王は、婚約を断った。以来、父が整えようとした縁談は、いくつか断られている。
短躯で成熟した優雅さに欠け、顔立ちも赤子のようにあどけない。そのくせ肩から胸や腰は、肉付きが良くて気品が足りない。子供の頃は誰もが、ふっくらして可愛らしいと褒めてくれたが、十を越えてから、美しいと讃えられたことはない。
そんな彼女が純潔まで失ってしまえば、年老いた貴族の後家に入ることも難しいだろう。いかに教養あろうとも、所詮は女だ。婚姻を結ぶこと以上に、父の助けになれることはない。人一倍伸びやかな想像力を持ちながら、他人の思惑や世のしきたりというものに敏感だった彼女は、幼い頃から、考えることと、なすべきことを切り分けてきた。
身を焦がすような恋愛を夢に見ても、実際にその身を投じるには危険だと知っていた。
あんなに熱く、艶めかしい衝動を覚えたのは、生まれて初めてだった。体中から湧き、そして彼の体から漂う濃密な香りに逆らうくらいなら、死んだ方がましだと思った。残りの全ての人生を差し出してでも、彼とその甘美な果汁を啜りたかった。
後悔など欠片もない。彼がそれを悔やんでいるというのなら、それは彼女が捧げた覚悟と想いに対する、重大な侮辱だ。
「それはあなたが、このお話を……私との結婚を断りたいということですか?」
搾り出した声は、屈辱と悲しみに震えた。彼女は常に淑女らしく、穏やかで品のある声で話していたので、その低い獰猛な響きは、彼の目を見張らせた。
「私の家との結婚を白紙に戻したいから、私を傷物にしてしまったことへ、申し訳が立たないということなのですか?」
「そうではありません。とんでもない」彼は激しく首を振り、瞳を潤ませた彼女の顔を覗き込んだ。「私からお断りする気など、毛頭ございません。ですが、あなたは私と婚礼を挙げるにしても、神の御前で……その、既に純潔を失った身で誓いをしなければならず……」
「関係ありません。構いません」
「それに……もし、あなたやお父上が、逆にこの話をお断りされたいというのなら、あなたにとんでもない損害を……」
「そんなことはありえません」
物静かだった彼女の、初めて見る激しい剣幕に、彼はいささかたじろいでいるようだった。聡い彼女は、戸惑う彼の表情に彼の誠意を見出し、一番彼女が恐れていたような状態にはならないだろうと、内心安堵した。しかし詰問を続けたのは、それを彼の言葉で聞いて確信したかったからだ。
「率直におっしゃってください」
彼女は彼の瞳を見つめ返した。昨夜、濃い褐色に見えたその瞳は、陽光の下では緑が混じって見える。揺れ動くような虹彩を、とても美しいと思った。
「あなたは昨夜のことを、気の迷いやはずみだと思っていらっしゃるんですか? 失敗だと思っていらっしゃいますか?」
「いいえ」彼は眉根を微かに寄せ、きっぱりと首を振った。「あなたが傷ついていないなら」
「傷ついてなどいません。あんなに嬉しかったことはありません」
彼の真摯な眼差しに導かれるように、彼女の心の奥底から、礼儀や慎みを破って、本当の想いが滑り出る。
それを聞いた彼は表情を緩ませ、温かく微笑んだ。まだ僅かに張り詰めていた彼女の心は、心地よくほどけていく。
「よかった。……婚約したとは言っても、あんなに無礼な真似をして、どんなにあなたがお怒りかと思いました」
「今更ここで怒るくらいなら、昨夜の内に逃げ出しています」
彼は目を細めて彼女を見下ろした。
「あなたは本当に、真っ直ぐで勇敢ですね」
誉め言葉だということは分かったが、彼女は静かに首を振った。謙遜ではない。本当に正直で勇気があるのなら、昨夜、にじり寄ってくる彼を、眠った振りをして待つような卑劣な真似はしはしない。はっきりと真正面から、自分が彼に対して抱えているものを吐き出しただろう。
「そんなに立派な人間ではありません」
自虐が過ぎて、惨めに響かないように、僅かに微笑みながら呟くと、彼は知っています、と返した。
婚約を結んでから数年経つが、会ったのは数日前が初めてだ。彼に彼女の何が分かるというのだろう。
けれど彼のその呟きは、震える彼女の心に温かく沈み込んだ。長年愛して育ててくれた両親よりも、今、他人の彼の方が近い。
彼女を愛しそうに見つめていた男は、不意に肩を広げて、彼女を優しく抱き締めた。
「よかった」耳のすぐ側で、涼やかな声が響く。「あなたを妻にできるなんて、夢みたいだ。あなたのような人が、死ぬまで一緒にいてくれるなんて」
もう淋しくない。
彼の声にならない呟きを聞いた気がした。そしてそれは彼女の心に浮かんだ言葉でもあった。
昨日まで、彼は彼女に触れる前に、礼儀正しく必ず一言断っていた。独身の貴族の男女の間では当然の作法だったが、それは彼女の心臓を緊張させ、ふたりの動きをぎこちなくさせていた。
だが今彼は、ごく自然に彼女をその腕の中に納め、彼女もまたためらいも緊張も無く、彼の背中に腕を回した。
私の夫。
私の片割れ。これからずっと、昼も夜も、季節が秋から冬に移っても、その後の春が来ても、一緒にいるのだ。死がふたりを別つまで。
彼女の方は、感極まって声が出ず、彼の言葉に答えられなかった。しかし触れた体から、彼女の想いを汲んだように、彼は彼女を抱き締める腕に、もう一度力を込めた。彼女はそれに酔いしれ、このまま時間が止まればいいと、昨夜幾度となく考えたことを、また思った。
「生れ変わりというのを、聞いたことはありますか?」
ややあって、彼は少し腕の力を緩め、彼女の顔を間近から覗き込んだ。胸の縁まで幸福に満たされながら頷く。
「ええ。いくつか伝承がありますね。死んだ後、別の人間として生まれて、前の人生の記憶が残っていたりするということですよね」
彼女が自分の知識を手繰り寄せながら答えると、彼はその知性を讃えるように微笑んだ。
「そうです。……東の方には、もっと面白い思想があります。人間はそうやって、死んだ後、常にまた新しい人間として生まれ変わる。それをずっと繰り返すらしいです」
「ずっと……永遠にですか?」
「永遠に」
少しの間でも離れたくないというように、彼は座ったまま足の位置を変える間も、彼女を捕まえたまま身じろぎした。
「だから、数え切れないぐらいの人生を歩むことになりますね。そして、前の人生で夫婦や親子というような、強い絆があった人間とは、次の人生でもまた同じような縁があるとされるそうですよ」
黙って彼のはしばみ色の瞳を見つめる彼女に、彼はふと苦笑いを見せて、すみませんと呟いた。
「話が回りくどくていけませんね。何が言いたいのかといいますと、先ほどあなたが見たという夢の話が、もしかしたら私たちの、前の人生だったのではと、そんなことを考えたのですよ」
目の前に手触りのしっかりした幸福が満ちているおかげで、先ほどまで見ていた長い夢の記憶は、急速に彼女の脳裏から薄れていた。だがあの夢が、こうして生まれてくる前の、彼女と彼の別の人生の姿だったとしたら、それもとても面白いと思った。目覚める直前、胸が潰れそうなほどに悲しいことがあったが、その時、彼女と彼がどうしていたかは覚えていない。
しかし彼が言った通りなら、この人生と同じように、前の人生でも彼とこうして永遠の誓いを結んだことになる。そして次の人生でも。その次の人生でも。生まれ変わり続けるなら、その回数だけ彼と永遠の約束を交わし、その誓いの通りに、姿を変えて永久に彼と寄り添い続けるのだ。
ふと恐ろしくなった。彼女の顔に滲んだ不安を、彼はすぐに読み取り、視線だけで問いかける。
こんなに幸せなのに、何が怖いのだろう。心を奥深くまで探るのが恐ろしかった。人間の心の底は、果てしない深淵に通じている。
「もし、あなたのお父様に……公爵に、私がお気に召していただけなかったら……」
茫漠とした不安の、ほんの上澄みを掬って口に出すと、彼は安心させるように、笑みを深めた。
「父がこの話を断る理由はありませんよ。兄たちはともかく、私の結婚には無関心です」
「けれど、私は一度国王陛下にお目通りした際に、王子殿下との婚約をお断りされています」
昔の話とはいえ、恥を晒すには勇気がいった。視線を落とす彼女の手を彼が握り締める。
「その話は存じ上げています」
やはりと溜め息をつきたかった。あれ以来、諸侯との婚約を断られ続けたのは、彼女についての──恐らく、主に容姿の──噂が広まったせいだったのだ。公爵との面会を前に、暗澹たる気持ちになる彼女に、彼は陽気な声で続けた。
「お気を悪くなさらないで下さい。その話を知っているからこそ、父はあなたに大きな期待をしていません。ですから、あなたにがっかりするようなことはありませんよ。むしろ、あまりに可愛らしい方なので、驚くと思います。――私のようにね」
「ですが……私など、容姿も冴えませんし、作法も服装も田舎じみていて、持参金も大して持たされていません。この上もし、子供ができないようなことがあれば……」
「やめてください」
目を合わせもせずに喋り続ける彼女を、聞いたこともないような冷たい声で彼は遮った。
押し黙る彼女に、やや和らいだ口調で彼は続ける。
「不安は分かりますが、ご自分を蔑むのはやめてください。あなたを愛する私への侮辱です」
言葉も出せず、うなだれたまま彼の膝を見つめ続けた。
つまらない女と自分を見下げるのは、自分を認めてくれた彼をもつまらないと侮るのも同じだ。仮に逆のことをされたとして、彼が彼女の前で激しく己の欠点をなじっていれば、悲しい気持ちになるだろう。
自分を貶め、彼を悲しませてしまったと、彼女が後悔に苛まれていると、頭のてっぺんを優しい手が撫でた。
名前を呼ばれて顔を上げる。彼は既にいつもの穏やかな表情に戻っていた。昨夜何度もそうしたように、慈しむように黒い髪を撫でながら、彼は口を開いた。
「……すみません、不安にさせているのは、私ですね。安心してください。絶対に、父に反対させるようなことはしませんよ」骨ばった、繊細な指先が彼女の頬に触れる。「なにがなんでも私の妻にします。誰にも文句は言わせません」
今まで心の中に溜まっていた、家柄や容姿への劣等感が、霧が晴れるように静かに薄れて、溶けていく。今まで生きていて、こんなに自分を誇らしく、愛しく思ったことはない。他人に愛されるのは、肉親に愛されることと全く違うのだと知った。
彼女は瞳を潤ませて、ただ頷く。彼は手を滑らせ、再び彼女の髪に触れると、芯の通った艶やかな髪の毛先を弄んだ。
「万が一、両親が強硬に反対するようなことがあれば、家を出ます」
髪を撫でているのとは反対の、彼女の手を握った方の手に力が込められた。
「私の細腕では、できることなどたかが知れていますが、読み書きを教えるなり、楽器でも演奏するなりして、どうにかあなたとふたりでなら、やっていけると思います。──あなたはどうですか?」
急に問われても頭が追いつけなかった。家同士の結婚。彼女と彼の結婚に意味があるのは、双方の家に取って利益があるからだ。その家を捨ててしまっては、彼らの結婚の意味も無くなるはずだった。
「公爵家の息子でなくなった私と、それでも一緒に来てくれますか? もう、お父上の役に立てなくても?」
「もちろんです」
彼の手を強く握り返しながら答えた。
教会で司祭の許しを得て、周囲の祝福を受けて、永遠の愛を誓ったわけではない。けれど確かに彼女は彼と昨夜結ばれた。彼女は彼の妻である。彼が家を出るというのなら、ついていくだけだ。
「それを聞いて、私も安心しました」
ふたりはもう一度固く抱き締めあった。顔を寄せて、唇を合わせる。いかなる隙間も許さないほどに、ぴたりと体が重なった。もう決してこの人と離れないのだから、このまま肌も体も溶け合って、本当にひとつになってしまえたらいいと思った。
どのくらいそうしていただろう。ふたりは長く抱き締めあい、時折くちづけを交わしたり、見つめあったりして、互いの温かさや肌の感触を、服を通して味わっていた。
触れ合う内、昨夜のようにもっと深く、熱く触れて重なりたいというような思いが、腹の奥からうっすらと湧いた。しかし口に出したり、実行するのは、あまりにはしたないと考えて、彼女はそれを押さえ込んだ。不思議なことに、こらえるほど、その衝動は重みを増し、鼓動が激しくなる。
「……そろそろ行きましょうか」
最後に彼女の額に唇を押し当て、彼が呟く。見下ろす彼の瞳の奥にも、同じ情熱を見た気がして、彼女はこっそり安堵した。彼もまた、熱い塊を押さえ込んでいるのだ。
「ここにいても、護衛と合流できる可能性は低いと思います。先に進んで、できるだけ早く、巡礼宿にでも入って、待ちましょう」
彼女は頷いて立ち上がり、護身用の短剣と、外套を手に取った。
鄙びた巡礼道は、旅人の数も多くない。それだけに、ここに出没する盗賊も少ないのかもしれないが、もし襲われれば、二人だけではひとたまりもない。早く村か巡礼宿にでも入らなければ危険だ。
「もし……」
彼も外套を纏い、剣を佩いて身支度を整えながら口を開いた。目を向けた彼女を、穏やかだが厳しい眼差しが迎える。
「道中、獣や盗賊が出るようなことがあれば、あなたは真っ直ぐに逃げてください。私では大して時間も稼げません。すぐに逃げると約束してください」
「いやです」彼女はきっぱりと首を振った。「そんなお約束できません」
困惑して眉を寄せる彼の口を封じるように、彼女は近づいてさらに尋ねた。
「あなたは剣の扱いは苦手だとおっしゃってましたよね?」
「ええ……」
「では私も留まって戦います」
「何をおっしゃるんですか」
彼は目を剥いて、素っ頓狂な声を上げた。穏やかで冷静だった彼がそんな声を上げるのは初めてだ。心の中で僅かに笑いながら、彼女はさらに言い募る。
「熊や、狼の群れや、盗賊たちに囲まれて、あなた一人で勝てますか?」
「……全力を尽くします」
「答えになっていません。失礼ながら、勝てないと思います。勝てないということは、殺されてしまうということです」
彼はまるで叱られた子供のように、ばつが悪そうに彼女を見ている。言葉が率直過ぎて、彼を傷つけてしまったかもしれないと思いつつ、彼女は続けた。気持ちが高ぶって、止まらなかった。
「私一人だけ逃げて助かったって、そんなのいやです。それぐらいなら、最後まであなたのおそばにいたいのです。もう離れたくありません」
顔を歪めた彼は彼女の名を呼び、もう一度彼女を抱き締めた。
「どうして、そんなに可愛らしいんですか」
なんでそんなに可愛いの。
彼の囁きを、同じ声、同じ姿で聞いた気がする。いつのことだろう。
記憶を探ろうとしたが、きつく抱き締められる腕から伝わる、熱と力がそれを阻んだ。
「勇敢で、賢くて、可愛い、私の妻」彼女を胸の中にしっかりと閉じ込めたまま、彼は囁き続けた。「ずっと、そばにいて」
彼は微かに震えていた。何かに怯えているのか、感情が高ぶっているだけなのか、まだよく判らない。あとどのくらい寄り添えば、触れただけで彼の心が解るようになるのだろう。
彼の細い体を抱き締め返し、震える彼を安心させるように、慈愛溢れる声を返した。
「ずっと、おそばにいます」
「ずっと……死ぬまで。その後も。次の人生でも」
「ずっと、一緒です。永久に」
大きな温かい吐息が、前髪と額を撫でた。その奥から僅かに、喉が切なく慄く音が聞こえた気がする。彼は泣いているのかもしれないと思った。
昨日まで、物腰柔らかく、謙虚で聡明な彼は、彼女に取って、婚約者というより保護者であり、似たところがありながら、とても追いつけない憧れであった。誰から見ても完璧という人ではないが、彼は自分自身の性質や能力を知り抜いて、常に的確に制御している。
けれど今、彼は不安に脅える子供のように、彼女の温もりに縋っている。自分が彼の役に立てることが嬉しい。彼が私を受け入れる隙間を持っていることが、とても嬉しい。いくら彼でも、孤独はひとりでは癒せない。多分彼がそれを愛しているからこそ、どうしようもできない。
泣かないで。私の大切なひと。ずっと一緒にいるから、泣かないで。
声に出せば、彼の矜持を著しく傷つけてしまう。そう思って、ただ心の中で震える彼を慈しみながら、黙ってその胸に顔を寄せた。
「すみません」
ややあって、彼はいつも通りの落ち着いた声を出すと、そっと彼女の小さな体を離した。見下ろす瞳も、もう湖のように穏やかだ。
「……行きましょうか」
あらゆる感情を視線だけに込めて、彼は彼女の右手を取った。彼女もただ頷いた。
彼が荷物を詰めた背嚢を背負い、歩き出す。
踏み固められただけの古の巡礼道は、生命力溢れる草花に覆われつつある。やがて緑の海に、聖人の伝説と共に埋もれてしまうだろう。
「盗賊や獣が出たら」彼女の手を握り締め、彼は斜め下にある顔を見下ろした。「ふたりで、全速力で逃げましょう。絶対に手は離しません。最後まで」
「はい」
二人だけの旅路には、危険がつきまとっているというのに、彼女は溢れんばかりの笑顔で頷いた。仮に盗賊に襲われて殺されたとしても、彼と一緒ならいい。ふたりとも共に死ぬなら、どちらかがどちらかを待つまでもなく、同時に新しい人生に生まれ変われる。次の人生で、すぐに会える。
生い茂る木々は太陽の光を遮り、道は昼なお暗い。しかしところどころの隙間から、光はちゃんと差し込んでいる。ここを歩いて辿り着いたその先で、神の前で、人々の祝福を受けながら、改めて彼と永遠の約束をする。
しっかりと彼の手を握り返し、その優しげな顔を見上げた彼女の瞳から涙が溢れた。彼の顔が曇る。
前を向き、涙を拭ったが、熱い液体はあとから溢れてくる。もう足元も見えない。幸福のあまり眩暈がした。
この道の先に、私の幸せがある。
**********
頭の中に納められていた感覚が、体中に散らばっていく。ああ、これは夢で、もうじき目が覚めるのだと、はっきり分かった。意識の一部はまだ夢の中にあって、まだその続きを貪りたいと願ったが、引き潮のように、五感の重みに引き寄せられて、意識は体へと戻っていく。
体中に感覚が行き渡っても、目を開けるのは億劫だった。
しばらくそのままじっとしていたが、昨夜も早く床についたおかげで、もう意識はすっかり覚醒し、眠りへと後戻りすることができない。夢の記憶も急速に遠のいていく。
シェリルはそっと目を開けた。
薄暗い部屋。鎧戸の隙間から、僅かに光が差し込んでいる。古びているが清潔な宿の寝台に、彼女は横向きに寝転がっていた。
恐る恐る背中側に手を伸ばす。洗濯を繰り返して固い麻の手触りが最初に掌にあった。静かに自分と反対側に手を滑らせる。
やっと温かいものに手が触れた。
シェリルは小さく息をつき、寝転がったまま首を巡らせて振り向いた。昨夜彼女が寝る前にはいなかった、こちらに背を向けて横たわる男の背中が見える。
もう一度安堵の溜め息をつき、彼女は静かに体を起こした。
毛布をどけ、下着姿のまま窓際へ歩み寄る。昨夜までと打って変わって、部屋の空気がひんやりと湿っている気がした。
鎧戸を小さく開くと、さらさらという雨の音が耳を撫でる。空気がしっとりと重く、涼しい。もう少し扉を開けると、白く冷たく光る、真昼の雨の空が目を灼いた。
夏の終わりの雨だ。この冷たい雨を境に、季節は徐々に冷えて秋へと色づいていく。秋分は来月だというのに、今年はまた雨が早い。
秋の訪れも早そうだ。早く山脈に入らないと、冬が来てはとても越えられなくなる。
分厚い雲が垂れ込める空を、シェリルはしばらく見つめた。その雲の向こうに太陽が輝いているなんて、想像できない。
体が冷える前に鎧戸を閉める。白い光が遮られて、部屋は元の穏やかな薄闇に閉ざされた。何となく安心する。
時間は恐らく遅い朝だろう。階下の食堂では、まだ朝食を出してくれるかもしれない。
迷ったが、結局シェリルはもう一度寝台に戻った。息を殺して彼の顔を覗き込む。深い眠りに入っているらしいコヨーテは、静かな寝息を立てていた。
掛け布をめくって、元通り、彼に背を向けて寝台に横たわる。少しだけ体を寄せ、背中同士を触れ合わせた。
目覚める直前の夢の記憶が、ぼんやり残っている。既に細部はかなりあやふやだが、とても幸せな夢だった。目を閉じても、もう眠りは訪れず、続きを見ることはできないだろう。
それでも彼女は再び目を閉じた。温もりをせめて背中で感じながら。
すみません、推敲甘いですが、近日中に訂正します。
…こんだけじゃ何がなんだか分からんので、できるだけ早く第二回を更新したい…と思います。
作者ブログ『椰子の実ライブラリ』
【恋愛遊牧民】
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