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せっかく見つけた指輪を、教皇庁の司祭に奪い返されてしまいました…。
山の端に陽が沈むまでに 9
 どっしりとした頑丈な門が開くと同時に、シェリルたちの乗った馬は放たれた矢のように飛び出した。同じように門が開くのを待っていた行商たちが、危ないと抗議の声を上げたが、構ってなどいられない。 
 夜が明けたばかりだ。左手、王都のある方角から、若い光が差し込み、暗かった夜空が徐々に色を失っている。今日で七日目だ。今日の昼、遅くとも夜には、あの郊外の廃屋に向けて出発しないと間に合わない。
 凄烈な朝日が照らし出す石畳の街道をひた走る。南。教皇領に向けて。
 手綱を繰るコヨーテの背中にしっかりと掴まり、時折、不安を鎮めるように、そこに顔を寄せた。 

 教皇庁から来た司祭に、皇帝の指輪を取り返された後、シェリルとコヨーテはすぐに宿を飛び出したが、司祭たちの姿は見当たらなかった。
 彼らが来る直前に襲ってきたごろつきからの話を思い出し、司祭たちが滞在していると思われる教会に向かった。苦労して忍び込んだが、中には客人らしき人間の姿は見当たらず、やむをえず教会の門番に術をかけて教皇庁の司祭の行方を尋ねたところ、既に町を出発したという。
 しかし町の門は閉じているはずだ。町の門番にそれとなく、司祭一向が町を出なかったか尋ねたが、知らないと答えられた。
 それから二人は夜が明けるまで、町中を探し回った。重武装の彼らが徒歩で旅してきた可能性は低い。恐らく全員分の馬があるだろう。町中の宿の厩を見て回ったが、彼らが逗留している様子は無かった。果ては領主の城にまでコヨーテが忍び込んでみたが、中庭や厩の様子からして、客人が逗留している気配は無かったという。
 そこでやっと彼らは、既に司祭たちがやはり町を出ているのではないかと考えた。教皇庁の使いであることを押し出して、門番に門を開けさせ、念の為自分たちの出発を口止めさせたに違いない。
 慌てて宿から馬を持ち出してきて、後を追おうとしたが、頼み込んでも金をちらつかせても、門番は門を開けてはくれなかった。さすがに警戒している複数の門番たちを、術でどうにかすることはできず、シェリルたちは夜明けに門が開かれるのを待つしかなかった。時間を惜しまず、伯爵から紹介状でも貰ってくればよかったと後悔した。
 彼らがどこに向かったかは分からないが、まっすぐに教皇領へ戻ったと考えるしかない。
 でも、もし方角が違ったら。まるっきり見当外れの方に向かっているのだとしたら。
 考えてはだめだ。迷っていても時間の無駄だ。できることをやるしかない。それで及ばなければ仕方ない。
 いつもそう考えてきた。でも今は仕方がないと諦められない、かけがえのないものがかかっている。それがシェリルから冷静さを奪い、いたずらに不安を沸き立たせていた。
 金銭的、肉体的にはもちろんのことだが、仲間たちがいて一番支えられていたのは、精神的な部分だったのだ。魔術師ギルドを出たばかりの頃は、物を買う為に店の人間に話しかけることも及び腰だった彼女は、冒険者生活を経て格段に逞しくなった。そう思っていた。
 だが実際には違う。彼女自身が成長したということも多少はあるだろうが、繊細な彼女の精神を、側にいた仲間たちが支えてくれていたのだ。強くなったのはシェリルの心などではない。仲間たちとの信頼だ。
 何故なら彼らがいない今、現にこうしてコヨーテに縋らなければ、不安で胸が潰れそうだ。
 やや前屈みになり、馬の動きに合わせて上体を動かしている彼に、極力動きを合わせた。彼も速度を緩める気配は無い。鐙に足が届かない彼女は、振り落とされないように必死に馬の胴体を脚で挟み、彼の体にしがみつく。襟足で束ねられたコヨーテの髪が、何度も彼女の額をくすぐった。
 流れていく時間、輝きを増し、動いていく太陽と共に、仲間たちの命もすり減っている。
 仲間たちの誰も、年老いてから、自分の血を継ぐ家族に看取られて、寝台で大往生を迎えられるとは思っていないだろう。道半ば、刃に倒れることも考えていたはずだ。
 だがそれは今ではない。この危険な仕事を続けていれば、いずれ、そう遠くない内に、運命の手が彼女たちの命を摘み取るかもしれないが、それは今ではない。
 こんなところでは死ねない。
 それこそ呪文のように、常にそう唱えながら、シェリルたちは死線をくぐり抜けてきた。いつ死んでもいいと思って、冒険者稼業を続けてきたわけではない。心の底で究極的には、その考えに行き着くのかもしれないが、日々、死と危険と隣り合わせにして過ごしているからこそ、生への執着は増した。少なくともシェリルは、優雅に育てられた幼少時代や、魔術の修行に明け暮れた魔術師ギルド時代より、今の方が遥かに生きることに価値を見出し、強烈な死への恐怖を感じている。
 必ず指輪を取り返して、あの廃屋に戻るのだ。
 しかしどんなに固い決心も、自分の体さえ思うようには操れない。
 駆足で南へ疾走する馬上にいる内、いつものように酔いがシェリルを蝕んだ。
 鳩尾に生まれた不快感が徐々に増していき、胃を巨大な手で押さえられるような圧迫を覚える。頭の中まで揺れ動くように、平衡感覚が揺さぶられた。
 今、馬を止められない。
 耐え切れず、シェリルは走る馬上から、身をよじって嘔吐した。
「大丈夫?」
 気配に気づいたらしいコヨーテが、僅かに首を捻って振り向く。彼女は彼の体にしがみつきながら、呻くように答えた。
「平気。時間無いから、馬止めないで」
「でも、吐いたでしょ?」
「あなたに向かっては吐かないから」
 シェリルの強い口調を耳にした彼は、そのまま前を向いた。一刻も早く、あの司祭たちに追いつかなければならないということは、彼も承知しているはずだ。
 ひ弱な体が疎ましい。こんな大事な時に、上品に馬酔いなど起こしている場合ではない。自身を叱咤するが、気力では体調まで思うようにはならない。
 不快感は増し、何度か走りながら嘔吐した彼女は、昼前にはコヨーテの背中に掴まっているのがやっとの状態だった。もう吐く物もない。
 太陽が正午に達する前に、コヨーテは馬を止めた。
「あたしなら大丈夫だよ」
 鞍から降りようとする彼に、弱々しいながら抗議するように告げると、彼は無愛想に答えた。
「どこが? 吐く度に体力使って、ふらふらでしょ。馬も休ませなきゃいけないから、降りて」
 有無を言わさぬ語調で言われれば仕方無い。いつも馬から下りるのを手伝ってくれるコヨーテは、手を貸してくれる気配がなかった。吐き気をこらえ、転がり落ちるように馬から下りる。やっと不動の大地の上に降り立ったというのに、まだふわふわと揺れている気がする。眩暈を起こしているのだと分かった。
 急速に胃が引き絞られ、屈みこんで再び嘔吐しようとしたが、もう胃の中の物は吐き尽してしまった。酸味の強い、ひりひりした液体が、口元から滴るだけだ。
「体力はそう簡単につくもんじゃないからしょうがないけど、せめて自分の体調くらい把握しておいてよ。無理が効くかどうかも分からない? いきなり倒れられたら、迷惑するのは僕なんだよ」
 涙を滲ませながら、腹の奥から呻きをあげ続ける彼女の背に、コヨーテの冷たい声が投げつけられた。彼も相当焦っているらしい。
 指輪を奪われてしまったのは、シェリルの失態でもあるし、酔いを起こしている彼女が足手まといになっているのは事実だが、体が弱っているところに今の嫌味はこたえた。怒る気力も無く、情けなさに打ちのめされて、涙が流れる。
(なにも、今、そんな言い方しなくても……)
 吐き気は治まったが、代わりに嗚咽がこみ上げてきて、屈んだまま震えながらそれを飲み込もうとした。
 不意に横手から水筒が差し出される。
「水飲んで」
 幾分和らいだコヨーテの声が聞こえた。彼から差し出された物を受け取るのが悔しくて、自分の水筒を取り出そうかと思ったが、意地を張るのも子供っぽい。結局頷いてそれを受け取り、喉の奥に冷たい水を流し込んだ。何度も食べ物を吐き出して、不愉快な熱を持っていた胃と食道が、その冷たさに当てられて、少しだけ落ち着いた気がする。
「座って、休んで」
 軽く肩を押され、なすがままに地面にへたり込む。腰を落ち着けてやっと、潅木が疎らに生える草地の間を突き抜ける街道沿いを、涼やかな風が渡っていくのが感じられた。僅かに汗ばんだ肌に心地良い。
 コヨーテは腰から下げている袋から、彼女の馬酔いの際に使っている薬草を取り出し、指先で小さく裂いて揉み潰した。ばらばらになった葉をシェリルに手渡す。
「煎じてる時間無いから、口の中に入れておいて。噛んでもいいけど、飲み込むとお腹壊すよ」
「ありがとう」
 先ほどはきついことを言われたが、結局こうして助けてもらっている。棘のように沸いてくる反抗心を押し殺して礼を述べると、彼は表情を緩めて、微かに笑みを見せた。
「朝ごはんも食べてないから、胃がやられたんだよ。パン、食べられそう?」
 彼は肩掛けの小さめの荷物袋から、昨日市場で買ってきたパンとチーズを取り出す。シェリルは一度首を振ったが、すぐに思い直して言った。
「……やっぱり少しもらう」
「それがいいよ」
 コヨーテが手でちぎって分けてくれたパンを、さらに細かくちぎり、よく噛んで飲み込む。腹は空っぽだというのに、食欲は全く湧かなかったが、食べなければ体がもたないだろう。
 追いつけるだろうか。
 伯爵領内の全ての町や村を把握している訳ではないが、この先、南への領境の手前に、街道沿いにもう一つ町があった覚えがある。あの教皇庁からの一行が休んでいくなら、そこで追いつける。しかし彼らが町に寄らずに、先を急ぐようなことがあれば、二刻ほど間を空けられた彼女たちは、今日中に追いつけないかもしれない。
 今日追いつけなければ、終わりだ。
「ちょっと横になったら?」
 痩せ型の体格に合わず、旺盛な食欲でパンとチーズを食べ終えたコヨーテが呟いた。
 シェリルはかぶりを振った。
「気が緩んじゃうから、いい」
「少し気緩めた方がいいよ。張り詰めた顔してて、恐いよ」
 何か答えようとしたが、灌木が茂る荒野を見渡していて、突然言いようのない不安に襲われた。
 無言で顔を伏せる。
「大丈夫だよ。朝からかなりすっ飛ばしてきたから、午後も君が道にゲロ吐きながら飛ばせば、次の町で追いつける」
 頭に軽く手が置かれて、ゆっくりと撫でられた。
 シェリルが黙ったままでいると、男にしては高めの、涼やかな声は慰めるように続けた。
「奴らは重武装だし、人数も多い。追っ手も警戒していないだろうから、町に入れば、必ず休むよ」
「……伯爵の追っ手を警戒して、一刻も早く領内を出ようとするかもよ」
 太陽から逃れるように、額を両膝に押し付けたまま呟く。ごくごく小さな声だったが、耳敏い彼はしっかりと聞き取ったらしい。彼女の弱音に、苦笑いで答えた。
「そしたら、しょうがない。しょーがないことを考えても、時間の無駄だよ」
 先ほどまでシェリルが考えていたのと同じことを言われ、彼女もまた低い苦笑いを漏らした。
 肩を掴まれ、そっと顔を上げさせられる。コヨーテの榛色の瞳と、視線が合った。
「夜中から寝てないんだから、少しだけ横になりなよ。すぐ起こす」
 哀れみのこもった、生ぬるい眼差しに、魅了されるように頷き、シェリルは、疎らに芝の生える乾いた土の上に寝転がった。
 まるで大地に吸い込まれるみたいだ。嘔吐を繰り返して、体力を消耗していた彼女の意識は、浅い闇にすぐに呑まれた。


 コヨーテは言った通り、太陽の位置があまり変わらない内に、熟睡する彼女を起こした。薬草を含み、短時間ではあるが睡眠を取ったおかげで、頭は少々すっきりしていた。
 もうひとかけらパンを齧り、水を飲んで再び馬で走り出す。
 走り始めて半刻もしない内、やはり酔いがぶり返してきた。もう嘔吐する物もなく、彼女はぐったりと彼に掴まっているしかなかった。
 やがて視界の先に小さな村が見えてくる。太陽は正午を過ぎて、もうすぐ夕方の色を帯びようとしている頃だった。
 男爵一家が滞在していた町よりもっと小さい。教皇のお膝元に巡礼する人間や、行商が立ち寄るだけの宿場町に見えた。
 馬を下りることができて、ほっとする。しかし酔いはすぐには抜けず、馬を引いていくコヨーテの後に続きながら、まだシェリルは吐き気をこらえていた。
「まず馬を宿に預けよう」
 コヨーテの言葉に、考える気力も無く頷く。
 できればまた少し休憩を取りたいが、もう時間が無い。仲間たちが捕らわれている、王都郊外の廃屋まで、馬を飛ばして三日はかかる。本当なら、七日目の夕方前である今、もう出発していたい。
 彼らは行商が使うような中流宿に部屋を取って馬を預け、すぐに外に出た。行き先は町の教会だ。
 小さな町にはよくあるが、教会は町の広場に面していた。分厚い石を積み上げて造った、丸屋根の素朴な教会だ。窓も小さく、硝子もはまっていない。古い建物を改築せず、修繕しながら使い続けているのだろう。王都の大聖堂などより、よほど神の家に相応しいと思った。
 しかし教会の裏手には、石造りの新しい建物があり、渡り廊下で結ばれている。周囲に石塀などもないそこは、小さな巡礼宿のようだ。
 教皇庁の司祭たちも、ここに滞在しているかもしれない。
「巡礼宿が併設されてるなんてラッキーだね。簡単に潜り込める」
 コヨーテも同じことを考えていたらしい。巡礼者として宿泊客を装い、中に入ればいいのだ。
 二人とも、質素な麻の服の旅姿である。そのまま宿の門を叩き、応対に出た素朴そうな老人に宿を乞うと、銅貨一枚以上の寄進で、快く部屋に通してくれた。無論、寝台など無い。寝藁と使い古した毛布があるだけの、粗末な部屋だ。ここに貧しい旅人や巡礼者が並べるだけ押し込められる。通常は男女別に分かれているが、夫婦の場合は夫も女性部屋に案内されることが多い。
 この時も、応対に出た老人は彼らを夫婦だと思ったらしく、二人を女性の部屋に案内した。夕方前の時刻、陰気で粗末な部屋で過ごそうという人間はおらず、部屋は空っぽだった。皆、町に出ているのだろう。
 老人は厠と井戸の場所を教え、夜の鐘が鳴る頃には宿の門は閉めてしまうと告げると、「神のご加護を」というお決まりの文句を残して去っていった。

 シェリルたちはすぐに動き出した。
 建物の中をくまなく調べるのだ。教会の人間と鉢合わせてしまったら、迷った振りをして切り抜けるつもりだ。
 一階には大部屋が四つ並び、厨房があった。先ほどの老人が、煮込み料理とパン程度の簡単な食事なら出してくれると言っていた。但し、銅貨十枚の寄進が必要で、払えないなら、一日教会で奉仕活動をしなければならないらしい。
 廊下から中庭に出る扉があった。そこには教えられた通り、厠と井戸がある。
 その先は教会の裏口へ繋がっていた。夕方の典礼が行われているのか、多人数の祈りの言葉が微かに中庭に響いていた。
 外へ出てみる。橙色の光が、下草を丁寧に抜かれた地面を照らしている。もう夕暮れが迫ってきている。
 コヨーテが厠の横手の木造の建物に歩き出した。近づくと獣の匂いが鼻につく。粗末な閂を抜いて扉を開けると、思った通り、そこは馬小屋だった。六頭もの馬が狭苦しそうに、小さな厩舎に押し込められていた。
「紋章は入ってないけど、鞍も鐙も頑丈で上等なもんだね」
 馬の様子を見たコヨーテが、シェリルを振り返る。
「やっぱりここに……」
「可能性は高いと思うよ」
 シェリルたちはすぐに馬小屋を出て、建物の中に戻った。
 外から見た通り、建物には二階があるはずだ。
 厨房の脇に狭く急な階段を見つけた。目立たないのは、宿泊者の為ではないからだろう。あの老人のような教会関係者が寝泊りしているのかもしれない。幸い今のところ、他の宿泊客や教会の人間とは会っていない。
 彼らはもう一度周囲の様子をさりげなく伺い、足音を忍ばせて二階へと階段を上った。
 一階と同じような造りで、箱型の建物のほぼ中央を廊下が突っ切り、左右に部屋が並んでいる。
 廊下には誰の姿も無い。近くの扉にコヨーテが耳を寄せる。誰もいないことを悟ったのだろうか、彼は木造の扉をそっと押し開けた。
 中は二段の寝台が二つ並ぶ、小さな部屋だ。助祭の部屋だろうか。誰の姿も無かった。
「典礼の最中なんだ。ついてるね。教会の司祭たちは、典礼に出ているはずだ」
 小声でコヨーテが囁く。
「あの教皇庁の司祭も一緒かな」
「さあね。普通なら出ているだろうけど、密命の最中だから欠席しているかもね。まず、司祭の部屋を探そう」
 シェリルは頷いた。客人の逗留時、相手の身分が自分より高いなら、主人は自分の部屋を提供するのが常識だ。教皇庁の司祭は、この教会の司祭の部屋を借りている可能性が高いだろう。
 廊下に戻り、一通り周囲を見渡したコヨーテは、忍び足で、奥へと歩き出す。シェリルも続いた。彼女もできる限り足音を殺しているが、どうしても靴と石造りの床が触れ合う、ひたひたという僅かな音がする。しかしコヨーテは全くと言っていいほど、足音がしない。何か靴に細工でもしているのだろうか。
 最奥の部屋は、外から見ても他の部屋より内部の空間が広く作られていることが分かる。コヨーテは再び扉に耳を当てた。
 中に誰もいないと見当をつけたらしい彼は、取っ手を捻って扉を押したが、すぐに首を振って囁いた。
「鍵がかかってる」
 司祭の部屋だから当然と言えば当然だが、溜め息を隠せなかった。
 コヨーテは腰から下げていた袋を探り、中から鍵のような金属片を取り出している。シェリルにも見覚えがある。イーミルも持っている、錠前破りの道具だ。
「こじ開けるの?」
「仕方ないでしょ。人が来ないように見張ってて」
「でも、無理にこじ開けたら、賊が入ったことが後で司祭にばれちゃうよ」
「他に方法無いよ。そんなこと言ってられないじゃん」
「ある」
 苛立ったように言い返すコヨーテに首を振ってみせ、シェリルはコヨーテの隣に並んで、鍵穴の正面に屈んだ。
 触媒を入れてある袋から、兎の毛と蜘蛛の糸を取り出すと、手の平に握り込んで、呪文を唱えながら集中した。
 彼女の精神が不可視の物理的な力となり、鍵穴の奥底へと潜り込んでいく。念力を鍵穴の形と同じように整え、力を込めると、扉を閉ざしていた掛け金が横に滑り、鍵が開いた。
 彼女が術に集中している間、廊下の奥を警戒していたコヨーテは、その僅かな音を聞きつけたらしく、振り向いた。シェリルも彼を見上げて微笑む。手の平で燃え尽きて灰となった触媒を払い落とし、彼女は立ち上がった。
「……すごいな。魔術って何でもできるんだね」
「何でもはできないよ。触媒が無いと駄目だし」
 彼はシェリルの謙遜に小さな笑いを送り、扉を静かに押した。

 落胆するべきなのかどうか、部屋には誰もいなかった。
 樫の大きな机が目につくその部屋は、明らかに他の部屋と造りが違う。本棚もあり、皮製のそこそこ高そうな本が並べられている。奥には小さな扉があり、続き部屋になっているようだ。寝台が見当たらないことからして、扉の向こうは寝室だろう。
 机には草で作られた安価な紙が、数枚無造作に放り出されていた。そこに走っている美しい文字に目を通したシェリルは、慌ててコヨーテを呼んだ。
 親愛なる聖下。その言葉から始まる文書は手紙のようだ。皇帝の指輪を見つけ、帰国の途に就く旨がしたためられている。
 恐らくあのフレデリックという司祭が、指輪を奪還したことを、教皇に知らせる為に書いた手紙なのだろう。してみると、ここはやはり教皇庁の司祭が使っている部屋に違いない。
「どうする? 司祭はいないみたい……」
 シェリルの言葉にコヨーテが何か答えようとした時、廊下の向こうから数人の話し声と足音が聞こえた。
 典礼に出席していた、司祭や助祭たちが戻ってきたのだ。
 出口は一つしかない。廊下に出れば鉢合わせだ。
「寝室に隠れよう」
「それじゃ袋のネズミだよ。窓から逃げられるよ」
 シェリルの肩を抱き、続き部屋に向かおうとするコヨーテを、シェリルは押しとどめた。部屋にある比較的大きめの窓は、大人の上半身が悠々通り抜けられる空間がある。
 問題は窓の高さが二階にあるということだが、今のシェリルなら克服できる。
「どうすんの? 飛び降りたら、怪我じゃ済まないかもよ」
 シェリルがまたも腰の小袋から、鳥の羽を取り出すのを見て、彼は彼女が術を使うとさとったらしい。すぐに口を噤み、廊下に面した扉に目を向けた。
 シェリルは術に集中して、呪文を低い声で唱えており、彼は廊下から近づいてくる足音に気を取られていた。

 寝室に通じる扉が荒々しく開く。
 綿の入った分厚い鎧下を着た、体格のいい男がそこから飛び出してきた。廊下に神経を集中させていた彼は、反応が確実に遅れた。
 それでも彼なら長針を投擲する時間はあった。しかし男の後ろに、剣を抜いたもう一人の人間──あの教皇庁の司祭がいるのを見つけ、咄嗟に剣を抜く。長針は持っていることを悟られては意味の無い暗器である。彼がこれを使うのを見て、今も生きている人間は、シェリルを含めてごく僅かだ。相手が一人ならば長針で始末できるだろうが、二人いては、しくじる可能性もある。おまけに廊下からこの教会の司祭たちが近づいてきているのだ。シェリルの術が完成するまで時間を稼ぐ方がいい。
 大柄な男も既に剣を抜いている。鎧を着ていないのは幸いだ。まだ勝算がある。男の方も彼が剣を抜いたのを見ると、慎重に間合いを取り、身構えた。昨夜襲ってきたごろつきとは腕が違う。教皇庁直属の軍人だろう。
 振り下ろされた剣を受け流す。しかし男は体勢を崩すことなく、続けて切り込んできた。後ろに下がりながら、それもどうにか受け流したが、反撃する隙が無い。
 何度か男と剣を合わせている内、司祭が男の背後から現れた。二体一では圧倒的に不利だ。
 横手から突き出された司祭の剣を、彼は大きく体をひねってかわした。シェリルを庇うように立っていた彼の体は、大きく横に動いた。
 司祭は続いて彼に切りつけるようなことはせず、さらに踏み込んで、術に集中するシェリルの肩を掴んだ。
 術が完成する寸前、最も深い瞑想に入っていたシェリルは、突然体を掴まれて目覚めさせられ、悲鳴をあげた。喉元に鈍く冷たい鋼鉄の感触がある。
「曲者め、剣を捨てろ。女を殺すぞ」
 司祭がシェリルの小柄な体に腕を回し、喉元に剣を突きつけているのを見て、彼は舌打ちした。まさか坊主が女を人質に取るとは思わなかった。神の使いである聖職者は、手段を選ばなくていいということか。
 大柄な男の方も、まだ体を緊張させながらも、切っ先を僅かに下げたのを見て、彼は口を開いた。
「剣を捨てれば、生かしておいてくれるというのか」
 コヨーテはすぐには剣を捨てなかった。
 長年の経験から、シェリルもこの司祭が、まだ冷静であることが分かる。コヨーテが切りかかりでもしない限り、いきなり彼女を殺すことはしないだろう。交渉する余地はありそうだ。
「無論です。いくら他人の部屋に忍び込むような無礼な方でも、アシュケナジー男爵のお子様たちを、野良犬のように切り殺すのは、あまりに失礼ですからね」
 背後から彼女の肩を抱えている司祭が、僅かに笑ったのが気配で分かった。
 勘違いしているのだ。昨夜男爵夫人や子息と一緒にいたシェリルとコヨーテを、傭兵や従者などとは夢にも思わず、司祭は彼らもまた男爵の息子と娘だと思い込んだに違いない。
 おかげですぐに殺されることはなさそうだ。この司祭の阿保さ加減を、それこそ神に感謝したかった。
「分かった。剣は捨てるが、私たちの命は保証してくれるな?」
 コヨーテもこの幸運な勘違いを利用することにしたらしい。口調を微妙に変えて司祭に尋ねた。
「勿論です。裁きを受ける為に、聖下の元へ同行していただきますが」
 教皇領に連れて行くつもりなのか。息を呑んだが、どんな目に合おうとも、ここで殺されるよりはましだ。生きていれば機会はある。
「仕方ない。……妹には危害を加えないと約束してくれ」
 いつものことだが、神妙な顔で大嘘をつきながら、コヨーテは剣を床に落とした。
 次の瞬間、背後から司祭の護衛の男が、コヨーテの側頭部を拳で殴りつける。容赦の無い力だったらしく、彼は呻いて膝をついた。
「ひどい! やめて!」
 シェリルは悲鳴混じりの声を上げる。司祭が喉に当てている刃で、叫びによって激しく動いた喉の皮膚が擦れた。
「おやめなさい。投降した人間に暴力を振るうのは野蛮です」
 フレデリック司祭の物静かな声が、男を諭す。男は不服そうだったものの、司祭に詫びると、コヨーテの腕を掴んで立たせた。


**


 旅芸人に変装しようと言い出したイーミルも、半分は冗談だったようだ。谷の村の調査を受けた時の話である。
 しかしスタンリーは目を輝かせた。
「いや、それいいんじゃない? 芸人ならそんなに怪しまれないし。俺たちの格好で、行商人っていうよりは説得力あると思う」
「でも、芸できんの?」
 本人が元々旅芸人一座にいたイーミルは、からかうようにスタンリーに言ったが、彼は目を細めて答えた。
「お前みたいに手品の心得はないけど、フィドルが弾ける」
「なんで?」
「軍にいた時、俺は楽団に入ってたんだよ」
「へー。言われてみれば、納得できるようなできないような……」
 スタンリーを眺め回した後、イーミルはシェリルに目を向けた。
「シェリルは? 何か楽器とかできる?」
 魔術師ギルドで育った彼女だが、生憎楽器の演奏には縁がなかった。首を振って答える。
「ううん。楽器はタンバリンぐらいしか弾けないけど……」
「タンバリンって……弾くって言うの、あれ? 叩いてるだけじゃ……」
「でも、歌なら歌えるよ」
 母親が音楽好きだったシェリルの生家には、お抱えの吟遊詩人がおり、旅の楽団などもしばしば夕食時に招待して、演奏を頼んでいた。彼女も小さな頃からそうした歌を聞いたり、彼らと共に歌ったりしたので、この王領近辺で馴染みのある歌はほとんど覚えている。ギルドにいた時代も、同じ音楽好き仲間と合唱団を組んだりしたものだ。
「じゃ、ちょっと歌ってみてよ」
「えー」
 シェリルは周りを見回して躊躇した。彼女たちが常宿にしている、安いがそこそこ小奇麗な宿の食堂である。時間はまだ夕方なので、人は疎らだが、ここでいきなり歌い始めるのは気恥ずかしい。
「ダイジョーブだって。誰もお前のことなんか見てないよ」
 悪気は無いのだろうが、どうもイーミルの物言いには、かちんと来るものがある。
 シェリルが眉をしかめる間に、彼は上着の懐から、いつも持ち歩いている小さな横笛を取り出した。
「一人で歌いにくいなら、ちょっと合わせてあげるから。『ライムの樹の下で』歌える?」
 王都の子供が歌うような、簡単な童謡である。頷くとすぐに彼は笛を吹き始めた。最初に何度か濁った音を出した後、彼の横笛は高く済んだ音色を響かせ始める。少ない食堂の客の注目が集まった。緊張するが、イーミルがこうまでしているのに、ためらっていては彼の格好がつかないだろう。
 周囲の人間を野菜だと思い、シェリルは意を決して歌い始めた。彼女のやや鼻にかかった、子供のような高く甘い声は、今演奏されている童謡によく似合う。声量は足りないが、高音部では美しい深みのある声が響いた。
 短い歌を終えると、顔見知りの常連客が、ぱらぱらと拍手を投げかけてきた。半分は愛想だとしてもやはり嬉しい。
「いけるんじゃない?」
 スタンリーがイーミルの顔を見る。笛をテーブルに置いた彼も、頷き返した。
「うん。オヤジ受けしそう」
 またも微妙な言い回しではあったが、シェリルは前向きに褒め言葉だと受け取っておくことにした。
 彼は次に、シェリルの隣に立っているマライアに顔を向けたが、彼女は首を振った。
「私は特に何もできないわよ」
「歌は? 修道院で歌わなかった?」
「私は院長に目をつけられてたから、聖歌隊には入れてもらえなかったのよ」
「じゃあ聖歌じゃなくてもいいよ。なんか歌ってみて」
 マライアもシェリル同様、恥ずかしがって躊躇してたが、イーミルが再び笛で演奏を始めたので、渋々ながら歌い始めた。

 スタンリーが食堂にいた宿の主人と常連客に謝りに行っている。「すんません、ホントすんません」という声が聞こえてきた。
「……想像以下っていうか、想像以上だな」
「だから、言ったじゃない。歌は習ったことないから、苦手なのよ」
 呆然と呟くイーミルに、顔を赤くしてマライアは言い捨てたが、苦手とかいう段階ではないだろうとシェリルは思った。思ったが、彼女との長年の友誼にかけて、口には出さない。動物の唸り声のようだなどと、口が裂けても言えない。
 かつてマライアがいた修道院長が、聖歌隊に彼女を入れなかったのも、目をつけていたとか、そういう理由ではなく、もっとごくごく単純な理由であると思われる。
「マライアは歌は駄目だな」
 一通りの客に謝り倒して戻ってきたスタンリーに、イーミルが声をかけると、彼も横目でマライアを気にしながら頷いた。
「やめといた方がいいねえ」
「あんな歌歌っておいて、金くれとか言って回ってたら、石投げられるどころか、タコ殴りにされて村を追い出されるぞ」
 マライアはイーミルの言葉を憮然と聞いていたが、音痴であることに自覚はあるのか、抗議するようなことはしなかった。
「じゃ、マライアは踊りをやってもらうのは? シェリルは歌でさ」
 スタンリーの新しい提案に、イーミルもしばし考えた後、頷く。
「いいかもね、それ。踊りなんか適当でいいし。サムソンに、太鼓でも叩いてもらえば、一応芸人に見えるんじゃない?」
「あ、形になってきたじゃん。衣装とかどうする?」
「マライアは脚が出るやつね」
「いやよ。はしたない」
 違う人間になりきる変装というものは、何故か心が沸き立つ。あまり乗り気でなさそうだったマライアまで、いつの間にか曖昧ながら笑顔になり、四人で衣装について話し合っていると、背後から低い呟きが聞こえた。
「俺は太鼓なのか」
 普段無口なサムソンは、たまに喋っても抑揚が無いので、不機嫌に聞こえる。
 振り向いたイーミルは、すっかり話の外に置いてしまったサムソンに、愛想笑いを向けた。
「いやさ、太鼓なら誰でも叩けると思ったんだけど……。嫌ならいいよ。力自慢ショーみたいな感じで、大岩持ち上げてもらうだけでも、客は集まるし」
「岩を持ち上げればいいのか」
 サムソンの眉が、心持ち上がった気がする。顔は厳ついが、意外に気の長い彼は、あまり怒ることはない。シェリルやマライアの方がよほど短気だ。
 しかし長い付き合いから、僅かに彼の不満を感じ取ったのだろう。スタンリーが気を遣うように尋ねた。
「あ……それも気が進まない?」
「いや、いい。だが、何故太鼓なんだ」
「やー、太鼓なら誰でも叩けるから……。タンバリンの方がいいか?」
 イーミルはそう言ったが、タンバリンとサムソンというのは、果てしなく似合わないだろうとシェリルは思った。
 憮然とした顔のままサムソンは答える。
「他にも楽器はできる」
「えっ? 何?」
 軍隊時代からサムソンと付き合っているスタンリーも初耳だったのだろう。腕を組んだまま驚いた声をあげた。
「鈴とか?」
「竪琴だ」
 しばらくの間誰も何も言えず、食堂の他の客の笑い声だけがその場に響いていた。
 シェリルは笑った方がいいのだろうかと思った。世界でサムソンに最も似合わない楽器を選べと言われれば、十人中八人は竪琴を選ぶだろう。
 竪琴のような響きの淡い、造りも繊細な楽器は、貴婦人や線の細い男性、あるいは上品な老人などに似合う。見るからに力に溢れた体格のいい男が、太い指で弦を弾いただけで、竪琴のような楽器は壊れてしまうのではなかろうか。
「ホント? なんでまた? お前が竪琴弾いてるって、熊が竪琴弾いてるようなもんじゃん。ネタとして覚えたの?」
 顔を緩ませながら、ずけずけと喋っていたイーミルは、サムソンのひと睨みで口を噤んだ。
「母親に子供の頃習わされたんだ。当時は筋も良くて、領主に呼ばれて客人の前で演奏などもしたものだ」
 饒舌に語るサムソンは、気のせいかどこか誇らしそうだ。謙虚な彼にしては珍しい。
「へー。何でやめちゃったの? 続けりゃよかったのに」
「……成長するに従って、父親に似てきたからだ」
 再びサムソンの顔は僅かに曇った。察するに、幼い頃は母親似で、線の細い少年だったのかもしれない。体が成長を始める十二、三歳の頃に、今のような厳つい体つきになってしまったのだろうか。
「あー、ごつくなって、竪琴なんか似合わなくなっちゃったのね」
「……楽器の演奏に外見は関係無いと俺は思う。だが、母や領主はそう思わなかった。それだけだ」
 竪琴を辞めた際に良くない思い出でもあるのか、サムソンの表情は増々不機嫌になる。尤も、つきあいの浅い人間から見れば、その表情の変化は分からないだろう。
 あまり物怖じしないイーミルは、首を傾げてさらに語った。
「いやー。イメージは大事だよ。俺がこのガタイででっかい太鼓叩いたって、カッコつかないもん。子供の太鼓遊びにしか見えないでしょ」
「……つまり体格のいい俺は、たとえ竪琴が弾けても、イメージ通り太鼓でも叩いてろってことか」
 サムソンの声に力がこもったのを感じ取ったのか、さすがにイーミルも表情をやや引き締めた。とりなすようにスタンリーが口を開く。
「いやいや、弾けるんなら、ぜひ弾いてよ、竪琴。うまい人間が弾いた方が面白いって」
「そうそう、岩石人間が竪琴弾いてるみたいでウケるし。絶対」
 笑顔で付け足すイーミルを、サムソンは陰険な目で睨んだ。男たちを冷めた目で見ながら、マライアがシェリルにそっと囁く。
「なんでイーミルって、ああ余計なこと言うの。わざとかしら?」
「半分わざとだと思う……」
 彼のいらぬ一言に怒りが湧き上がるのはしょっちゅうだが、相変わらず子供のような愛嬌のある彼を見ていると、本気で怒っているのがばかばかしくなる。どうもイーミル自身、他人にそう思われているのが分かっていて、図に乗っている節がある。そうは知っていても、やはり憎めなかった。得な性格だ。
「よし、じゃ、決まった。俺がフィドルで、イーミルが笛、サムソンは竪琴で、男三人が楽器やって、シェリルは歌、マライアは踊りね」
 軽くテーブルを叩いたスタンリーは、全員の顔を見渡した。
「二、三日、歌と踊りの訓練するか。その後、谷の村に出発しよう」
 新しい仕事に対して心を高揚させながら、彼らは力強く頷いた。
 三日後、音楽に合わせて体を動かすことができず、イーミルに『胃腸炎を起こした猿』と笑われた挙句、結局マライアは太鼓叩きに変更されてしまうことになるが、無論今は知る由もない。


**


 まどろみから目が覚めた。
 ひどく懐かしい夢を見ていた気がするが、目覚めて周囲の状況を把握した途端、夢の内容は脳裏から儚く溶けて消えた。
 地下牢には窓が無い。太陽の位置は分からないが、とうに沈んでいるだろう。夜にはもうこの町を出発しなければならないのに、指輪の奪還どころか、外に出るめどすらつかない。
 シェリルたちを捕らえたフレデリック司祭は、この教会の司祭に、彼女たちを罪人だと話し、地下牢に押し込めた。
 どうやら彼は町に着いた後、典礼には参加せずに、教会の司祭の部屋を借りて、護衛を一人つけて寝室で休んでいたらしい。
 シェリルとコヨーテはそこにのこのこと忍び込み、寝室を確認もせずに調査していたのだ。失敗だった。
 居室にいる彼女たちの話し声に気づいた護衛とフレデリック司祭は、頃合を見計らって、賊を捕らえるために、寝室から飛び出してきたらしい。
 夜になり、寝静まるのを待ってから動けばよかったのかもしれない。だが、一刻も早く指輪を取り返して、廃屋に出発したかったシェリルたちは焦っていた。
 コヨーテと共に牢屋に閉じ込められるのも何回目だろうと思った。今は苦笑いする気にもなれない。
 後ろ手に縄で縛られた彼女は、術を使えない。もっとも、鉄格子の正面には、脱走を警戒したのか、武装したフレデリック司祭の護衛の一人が目を光らせている。コヨーテと脱出の算段を話し合うこともできなかった。
 彼の気を引こうとして、コヨーテが話しかけたが、全く無視された。よく訓練された軍人のようだ。
 牢の奥の壁に背を預けて座り込み、じわじわと湧いてくる絶望から、シェリルは項垂れた。隣に腰を下ろしたコヨーテが、縛られたまま、そっと肩を寄せる。護衛の兵士には、兄が妹を慰めているように見えるだろうか。他人ごとのように考えた。
 そうしている内に、疲れと酔いに苛まれていた彼女は、うとうとしてしまったらしい。
「今、どのくらい……?」
 寝起きの掠れた声で彼に尋ねると、コヨーテは首を傾げた。
「分からない。でも、真夜中くらいじゃないかな」
 間に合わない。
 シェリルは俯き、唇を痛いほど噛んだ。
 男爵夫人と会い、指輪の現物を確認した時点で、それを強引にでも奪ってしまえばよかった。彼らに情などかけている場合ではなかったのだ。コヨーテも言っていたではないか。どんなに彼らが哀れでも、仲間が大切なら非情に徹するべきだったのだ。
 沈黙しながら歯を食いしばり、自分を責めた。壁に頭を打ち付けたいほどだ。
「どうしよう……」
 冷静を失い、嗚咽混じりの声をあげるシェリルに、コヨーテは静かに囁いた。
「シェリル、まだ生きてるんだ。機会はある。奴らだってそう長くここには滞在していない。教皇領に出発する時、僕らも外に出される。その時がチャンスだよ」
「それじゃ、間に合わないよ……!」
「しっ。見張りに聞こえるよ」感情が高ぶるにつれて、声も大きくなるシェリルを、彼は穏やかに制した。「奴らは明日の朝にでも出るかもしれないんだ。その時に指輪をぶんどって脱出できれば、間に合うかもしれない。諦めたらダメだよ」
「分かってるけど」
 首を振りながら、こらえきれない涙が溢れた。泣いても何も解決しない。けれど仲間たちに残された時間が、刻一刻とすり減っているというのに、何もできずに縛られて座っているしかない自分が情けない。惨めで悲しい。
 不安と焦燥から、いつになく感情を高ぶらせてすすり泣いているシェリルを、彼は隣から無限とも言える深い哀れみを込めて見つめていた。

すみません、あまりに長いので予定していた第九回を二つに分けました。
…つまり全十一回予定です。三話より長いじゃないですかね(泣)

第十回は早目に更新する予定です。
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