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慌てて掲載したので、誤字脱字多いです。週末に訂正します。
捕獲 3
 もう一度だけ彼に口づける。
 名残惜しいが、情欲を吐き出した彼には、もう自分の体など鬱陶しいだけだろう。シェリルは腰を浮かせて立ち上がる。するりと彼が抜けていった。
 彼に背を向けて、脱ぎ捨てた下着を身につけて紐を結んだ。股間が汚れているのが気持ち悪いが、拭うものもない。手早く上着の前も全て紐を結ぶ。
 振り返って彼の姿を見ると、やはりやや間抜けだった。後ろ手に縛られて足を投げ出して床に座っているのはいいが、ズボンが膝までずり下ろされ、下着も下ろされて腰が剥き出しになっている。力を失いかけた男性器が頭を垂れているのが、妙に哀れっぽかった。
 笑い出したくなったが、全て自分のしたことである。さすがに遠慮なく笑っては申し訳ないだろう。
 とりあえず下着だけでも穿かせてやろうとすると、コヨーテの憮然とした声が響いた。
「……まさか君に犯されるとは思わなかったよ」
「だって……」
 続く言葉が見つけられず、照れ隠しに彼女は手荒く彼の下着の紐を結んでやった。続いてやや強引にズボンを引っ張り上げる。彼女が作業を続ける間、彼は話し続けた。
「随分積極的だったけど、何かあった? 単に男日照が続いてただけ?」
「失礼な。そんなんじゃないよ。……そっちこそ、吟遊詩人はもう飽きたの?」
 ズボンを彼女に穿かせる為に、再び腰を持ち上げながら、彼は答えた。
「んー、飽きた。だって歌ってばかりでつまんないんだもん。大して金も入らないし」
「……あの踊り子とは?」
 抑揚を抑えた声で問いかける。もちろん彼女の名前を覚えていたが、シェリルがマルタを意識していたことを悟られるのは癪だった。
「あー」彼はやや顔を顰めた。「まあ、吟遊詩人辞めたのも彼女と別れたからなんですけどね。他に男ができて振られちゃった」
「へー」
 ばーか。ばーか。それ見たことか。
 どうということのない世間話のように頷いてみせたが、内心は舌を出して小躍りしたいほどだった。胸がすっとしたとはこのことだ。
「それでこっちの仕事に逆戻りしたんだ」
 彼の服を整えてやり、立ち上がる。再び挑戦的に見下ろすと、彼も見合った視線を返してきた。
「ま、そう。そろそろ僕の偽物の話も下火になってるんじゃないかと思ってね」
 コヨーテにあえなく殺されたウォルターのことを思い出した。彼に関して胸を騒がせるようなものはもう何も無かったが、躊躇もなく彼を手に掛けたコヨーテの冷酷さは、様々な意味で強烈な印象を残した。夏に谷の村で、動くことのできない哀れな令嬢をこの手で殺した時も、彼のことがふと頭をよぎった記憶がある。
「本業は暗殺じゃないって言わなかったっけ?」
 嫌味を込めて言ってやるが、彼は飄々と答えてきた。
「そうだよ。暗殺が仕事じゃないよ」
「じゃあ何が本業なの? 仕立て屋?」
「あの、あれ、縫い針じゃないから。……本業なんて無いよ。強いて言えば何でも屋。君らと似たようなもんだよ」
 引き受ける仕事の性質が違うと言いたかったが、黙っておいた。自分たちの価値観を押し付けて、正当性を主張するようなことは、彼は決して好まないだろうと思ったからだ。
「で、そろそろほどいて欲しいんだけど……」
 ほんの少しでも話を続けて、この時間を引き延ばしたかったが、残念ながら彼の方からそう切り出されては、これ以上忘れた振りをするわけにもいかない。
「あ、そうだったね」
 仕方なく彼の背後に回り、屈んで手首の縛めを解こうとする。彼女が彼を捕まえた時に結んであった綿の布帯は外されてあり、もっと頑丈な太縄が幾重にも巻きつけられていた。それが壁に取り付けられた鉄の輪に繋がれている。シェリルの小さい繊細な手では、結び付けられた縄をほどくのは難しそうだ。
 短剣を使って断ち切れば済む話だが、せめて夜明けまで一緒にいる口実を探しながら、わざともたもたと縄をほどきにかかった。粗い縄目のささくれが、彼女の指や爪の付け根を少々傷つけたが、構わずゆっくり作業を続けた。
「ねー、まだ? 君、不器用だねえ」
 人の気も知らず、背中を向けたままの男は勝手なことを言っている。
「だって、どこかのバカが頑丈に結びつけるんだもん……。最初に結んでたあたしの帯は?」
「え? 知らない。捨てられちゃったんじゃない? あれ、手触り良かったのにね」
「気に入ってたのに…」
 実は市場で買った安物で、大して気に入ってもいなかった。つい最近まで、ベルトを無くしていたイーミルに貸していたくらい、どうでもいいものだったのだ。しかし自分が身につけていたものを、彼が手触りが良いと言ってくれた。それだけで、あの布帯が大切な物のような気がする。
 自分自身もそうなのだろうか。
 彼女は以前ほど、自分の豊満な肉体が忌々しいとは思わなくなっていた。豊か過ぎてまとまりにくい黒髪も、彼に撫でられる度に、価値があるように思えてきたし、男の目を引く以外に取り柄のない大きな胸も、ひとときであっても、彼に愛されたと思うと、かけがえのないもののような気がした。
 それだけでも彼に出会えた価値はある。もう十分だ。
 だからこそもっと長く一緒にいたい。
 固い結び目に爪を食い込ませて少しずつ解きながら、切ない葛藤に包まれた。
「あんまり文句言える身分じゃないけど……まだ〜?」
 口調は冗談めかしていたが、コヨーテの声には本物の苛立ちが混じり始めていた。
 もう一度だけ、その背中にしがみつきたい。
 しかし結局そんな勇気は無かった。欲望の力を借りなければ、彼に触れる度胸も無い。
 彼が望んでいないのに、この場にこれ以上留めておくのがいたたまれず、腰から短剣を抜き、頑なな結び目を断ち切った。

「あー、肩痛かった。短剣持ってるなら、早く使ってくれればいいのに」
 立ち上がったコヨーテは、わざとらしく肩や首などを回している。
「ごめん、持ってるの忘れてた」
「ああ……責めてるわけじゃないんだけど。助けてもらえただけでもありがたいよ」
 軽く苦笑いを返したつもりだったが、思ったより沈んだ表情をしていたのだろう。コヨーテは取り繕うように言い足した。
「あなたの剣は武器庫に放り込まれちゃった。鍵がかかってるから、取り返せなかった」
「ああ、いいよ、いいよ。何とかなる」
 首を振りながら微笑む彼を見て、胸が痛くなる。つい今さっき、その鼻筋や唇に触れたのが嘘のように彼が遠い。
 シェリルは腰から鞘ごと短剣を外し、彼に突き出した。
「よかったら持っていって。必要でしょ?」
 虚をつかれた顔で、コヨーテはそれを受け取った。
「うん。ありがたいけど……何か妙に親切だね。さっきはあんなにひどいことしといて」
 顔が赤くなる。もうここから立ち去るのだから、先程のことは忘れて欲しい。
「丸腰じゃ、あなたが困るだろうと思ったから。いらないなら返してよ」
「や、そーいうわけじゃないよ。ありがとありがと。貰っとく」
「誰があげるって言ったの。貸すだけ!」
 ちゃんと返して。返しに来て。
 こみ上げた思いは言葉にできなかった。頼めば彼は承知するだろうが、決してその通りに実行することはないだろう。
「分かったよ。ありがたく借りておくね」
 コヨーテは拾い上げたベルトを締め、そこに短剣の鞘を結びつけた。やはり返すと言う約束は無く、ただ再び彼女に笑いかける。
「それじゃ、行こうかな。もう聞きたいことは無い?」
 あるよ。
「無い」
 溜め息をこらえる為に、唇を引き締めて首を振る。
 ふと彼は表情を消して、彼女を見下ろした。

 コヨーテに抱き締められると、大抵シェリルは反射的にその背中に手を回していた。彼の抱擁はいつも情熱と欲望に高ぶって、熱かったからだ。その熱は触れるそばからすぐさま彼女に伝染した。すると彼女は溜まった熱を彼に返して、互いに循環されるように、彼のそう広くはない、小柄な彼女にあつらえたような背中を抱き締め返すのだ。出口の無い循環。それは永久とよく似ている。
 けれどこんなに優しく静かに、その両腕で包まれた覚えが無く、両手をどこに持っていったらいいのだろうと考えるのは初めてだった。
 半ば硬直するシェリルを抱き締める彼の体からは、劣情めいた熱いものは何も感じられず、ただ穏やかで澄んだ好意だけが伝わってきた。
「君、ほんとに何考えてるのか分からないね」
 言葉が紡がれる度に、頭の上に乗せられた彼の顎が動いた。
 本当に分からないのだろうか。苛立ちと安堵を同時に感じた。
 彼がくすりと小さな笑い声を漏らす。シェリルの小さな背中を抱えていた両腕をやはり彼女の両腕に回し、互いの全ての指を組み合わせるように、彼女の手を繋いで握った。その両手はしっとりと冷たかった。
「……負けたよ」
 邪魔者をどけるように、手を繋いだままシェリルの両腕を彼女の背中に回し、突き出された形になる彼女の額に、彼がくちづけを落とした。
 不思議な姿勢でそれを受けながら、コヨーテの言葉の意味を探ろうとした。心臓の方は、冷静な彼女の思考より早く彼の意図を先取りしたように、どくどくと激しく打ち始める。
「何?」
 結局、彼女はそう尋ねた。
「君には負けた。……ここのとこふと気がつくとね、いつも君のこと考えちゃうんだよ。こんな気持ちは初めてなんだ……」
 額から唇を離したコヨーテはじっとシェリルを見下ろしていたが、彼女ははち切れそうに激しくなる鼓動を抑えるように、耐え切れずに俯いた。顔が熱い。声も出せずに彼の胸元を見つめるだけの少女に向かって、彼は続けた。
「僕は君を愛してるみたいなんだ」
 心の奥、彼女の核のような場所が震えた。今まで望み、願い、飢えてきたもの全てが満たされるような、幸福という言葉では表せないほどの、めまいを伴う痺れだった。
 信じられない。嘘に決まっている。彼がそんなこと言うはずがない。だって彼に遠く及ばない、他のくだらない男たちにだって、愛しているなどと言われたことはない。
 目の前に突き出されたものがあまりに甘美過ぎて儚く思え、シェリルは瞳を潤ませながら彼を見上げた。穏やかで優しい、茶色い瞳が彼女を包んで見つめ返す。
「……本当? 本当に?」
「嘘に決まってんじゃん」

(……ぶっ殺す)
 顔でも腕でもとにかくひっぱたいてやろうと思ったが、彼に握られて背中に回された右腕が動かない。
 彼女の手をしっかりと握り、両腕を彼女の背中に回していたコヨーテは、ゆっくりと彼女から手を離し、一歩下がった。 
 いつの間に。
 背中に回された両手首に何かが巻きついていて、腕が動かせない。その柔らかい覚えのある感触は、恐らく彼女の布帯だ。
 数瞬の間、シェリルはぽかんとして、薄笑いを浮かべている彼を見上げていた。
 やられた。
 あまりにも手際が見事で、今しがた湧いた殺意のような怒りが掻き消えてしまった。
「女の子って、ほーんと、そういう言葉好きだよね。口先だけなら何とでも言えるんだから、もうちょっと気をつけた方がいいと思うけど。君みたいな仕事してるなら特にね」
 嘲笑されて、瞬く間に再び怒りがこみ上げてきた。だが彼の言う通り、口先だけの白々しい言葉に酔っ払って油断したのは事実だ。自分も悪い。そう思うと苛立ちをそのまま彼にぶつけるのも、さらに恥を晒すようで、ためらわれる。
 結果、シェリルはただ歯噛みをしながら、コヨーテを睨みつけた。
 そして彼の方は、騙すなんてひどいなどと泣き出すかと思っていた彼女が、大きな愛くるしい目を吊り上げて、刺すような視線を向けてきたことに、感嘆と好意を覚えた。
「別に本気にしたわけじゃないよ。どうせあなたの言うことなんて半分は嘘だもんね。よく真顔であんなクサイこと言えるよね」
 疑いながらも一度は受け止めて、心の奥底まで震わせたのが悔しい。そしてどれほどその言葉を欲して、焦がれて、求めていたか思い知らされた。
 その気持ちを欠片ほども彼に悟られたくない。傷ついた心を隠したい一心で、攻撃的に言い捨てたが、コヨーテは返事もせずに、彼女の後ろに回り、縛られてひとつにまとめられた両の手首を引っ張った。
「ほら、こっちおいで」
 その力は存外強く、シェリルは後ずさりながら、転びそうになる。
 怒らせてしまったのかもしれない。
(ううん、怒ってんのはこっちだし)
 彼のやや硬くなった声に萎えそうになる気持ちを、怒りをかき立てて奮い立たせた。
 しかし布帯に何かが結びつけられる感触が、不自由な両腕から伝わってくると、不安が次第に広がっていくのを止められない。かたかたと時折、金属と石がぶつかる音が聞こえるところを考えると、先程まで彼が縛り付けられていた鉄製の輪に繋がれているのだろう。
「ねえ、ひどくない? 逃がしてあげたのに」
 どうにか首を捻って、振り返ろうとするが、肩が固定された状態では、頭が半分も動かせない。彼女の背中にいる彼の横姿が僅かに視界に入るだけだ。衣擦れに似た音が聞こえたかと思うと、コヨーテはその場を離れ、再びシェリルの正面に立った。
「逃がしてあげたって、よく言うよ。誰のせいで捕まったと思ってんの」
 彼を生け捕りにする為に、彼女も結構気を使ったのだ。そんな風に責められると、反感を覚える。
「あたしのせいじゃないでしょ? 自分が油断したのが悪いんじゃない」
「だから」笑みを深くして、彼は彼女の語尾を掬った。「今君がとっつかまってんのも、君の油断でしょ。違う?」
 言葉に詰まった。反論することはできるはずだが、羞恥と怒りで頭に血が上り、すぐには論理の綻びを探せない。
 コヨーテは唇を吊り上げながら、視線だけを尖らせた。あまり彼女はこんな表情を向けられたことがない。情けなくも、身が竦んだ。
「捕まったのは僕の落ち度だし、こうして逃がしてくれたのはありがたいけどね」
 話し続ける彼をよそに、体を動かそうと試みるが、数歩前に進んだところで、両手首に圧力を感じて、動けなくなった。鉄輪から幾分のあそびはあるものの、やはり結びつけられて固定されてしまったらしい。
 見苦しくもがくシェリルの肩を無造作にコヨーテが押し戻す。
「よりによって君みたいな小娘に、男日照りの捌け口にされたのは、さすがにムカつくんだよね」
 彼は彼女のベルトに下がっていた牢の鍵を外して取り上げると、隣で鼾もかかずに熟睡している、あの斧使いの元で屈んだ。
 何をするのかと思えば、今のシェリルと同じ様に、壁の鉄輪に繋いでいる男の手首の縄に短剣をあてがい、彼女より遥かに手際良くそれを断ち切った。
 この捕虜たちも一緒に逃げるつもりか。
 十分注意はしたはずなのに、つまらない欲望から、とんでもない失策を犯してしまった。
 経過やきっかけはどうあれ、これまで彼と抱き合ったことを後悔したことは、発作的なものを除けば無いが、今度ばかりは、小細工を弄してまでこの男と重なったのを深く悔いた。
 君みたいな小娘。言い捨てられた言葉が重く胸に沈んだ。彼女と重なるのは、それほど屈辱的で、嫌だったのだろうか。
 何も彼を捌け口にしたわけではない。正直を言えば、男性が恋しかったこともあったし、相手がどうしても彼でなければならないという確信はなかった。だが他に肌を重ねてもいいと思う男も、今のところいなかった。ずっと会いたくて、やっと会えたのだ。そして次はいつ会えるか分からない。このまま会えないかもしれない。
 その一心から起こした行動が、これほど彼の矜持を傷つけ、嫌悪まで呼び起こしたことが、悲しくて惨めだった。この前会った時、『女なら誰でもいいわけじゃないけど、君となら寝てもいい』と彼が言ってくれたことで、調子に乗っていたのかもしれない。
 コヨーテは大男の隣の、黒ずくめの男の縛めも解くと、立ち上がってこちらを向いた。
「それじゃ、僕はこれで失礼するけど、ここの鍵は閉めていくから」
 これ見よがしに、彼女から取り上げた牢の鍵を掲げてみせる。
「あとはこいつらに可愛がってもらいなよ。じきに君のかけた術も解けるでしょ」
 彼の意図を悟り、血の気が引く。
 彼はさっさと牢の鍵を開け、扉を開けて外に出ると、元通り鍵を閉め直した。
 捕虜となっている仲間を逃がすつもりではなかったのだ。コヨーテの言う通り、シェリルが彼らにかけた眠りの術は、夜明け前までは持続する。しかし効果が切れた後、手を動かせない状態では、術を掛け直すことができない。
 目覚めた彼らは縛めを解かれ、鍵の掛けられた牢から出ることはできなくても身動きはできる。そんな彼らが、コヨーテの代わりに一人壁に繋がれたシェリルを見たらどう思い、何をするだろう。
 同じく階段の入り口で眠りこけている牢番の男が、目を覚まして彼女の悲鳴でも聞きつけてくれればいいが、男たちに口を塞がれて声を封じられれば、彼らのなすがままだ。
 昨夜の騒動で就寝が遅かった家人が起き出すのは、昼前頃だろう。騎士やその部下が捕虜の様子を見に下りてくるのは、早くても午後だ。あるいは彼女の姿が見当たらないことに気づいた仲間たちが探してくれるだろうが、よもや地下牢にいるなどとは思わないだろう。いずれにしても、シェリルが発見される頃には、とうに捕虜の男二人の餌食になっているはずだ。
「待って……」
 呼びかけた声は、か細く震えていた。格子の向こうにいるコヨーテは、相変わらず口元だけ笑って、彼女を見据えている。
「悪いけど急いでるんだよねえ。いくら君でも男二人も相手がいるなら、満足できるでしょ」
 横目で、まだ座ったまま眠っている斧使いを見下ろす。その禿げかけた頭や、筋が浮いて固く盛り上がった筋肉と、皮脂でてらてら光った肌を見ると、ぞっとした。コヨーテの繊細な指は、目にするだけで心臓が妖しく疼いたが、この男の筋肉と脂肪で膨れて体毛に包まれた毛虫のような指は、見るだけで虫唾が走る。こんな手に肌を撫でられるくらいなら、死んでしまいたい。
「そんじゃね」
 踵を返し、彼は無情にも廊下を歩き去っていく。
「待って! 嫌だ。助けてよ。置いていかないで! 謝るから。ごめんなさい!」
 声を限りに叫んだが、ランタンも持たない彼の黒い影は、通路の奥へと消えていった。
 本当に行っちゃった。
「待って! 待って! 嫌だ! こんなことするぐらいなら、殺してよ。嫌だあ……!」
 ついに涙が溢れて頬を流れた。
 前にもこんなことがあった気がする。身動きできないシェリルを置いて、やはりコヨーテはとっとと姿を消そうとしていた。あの時と同じ恐怖と不安が襲い掛かったが、見捨てられた悲しみは比べ物にならないくらい大きく膨らみ、それが彼女に涙まで流させていた。
「ねえ、助けて! 戻ってきてよ……」
 もう一度涙声で叫んだが、コヨーテは本当に去ってしまったらしく、悲痛な声が石造りの廊下に不気味に響くだけだった。物音一つなく、彼女が持ってきたランタンの炎がちろちろと踊っている。
 コヨーテは去った振りをしていて、彼女が根をあげるのを待って、恩着せがましくいずれ戻ってきてくれるのではないかと、淡い期待を抱いていたが、相変わらず人間の気配も息遣いも感じられない。
 ひとしきり後悔と惨めな悲しさに打ちひしがれ、涙を流しながら嗚咽をあげていたが、やがてそれが収まると、代わって怒りが沸いてきた。
「恩知らず! 外道! 次会ったら髪の毛全部引っこ抜いてやる!!」
 もはや誰もいない廊下に向かって、とても他人には聞かせられないような下品な悪口雑言を喚き続ける内、体に溜まっていたほとんどの負の感情を吐き出してしまったらしい。幾分頭が冷えた。
 こうしてはいられない。冬至を翌月に控えた初冬の夜が長いとはいえ、もたもたしていると夜が明けてしまう。むき出しの両膝下が冷気に晒されて冷えてきた。
 縛られた布帯が解けないかと、力を込めたり肩を揺すってみたりしたが、緩みもしなかった。シェリルが知らないような、特殊な結び方をしているのかもしれない。自力でこれを解くのは無理のようだ。
「助けて! 地下に捕らわれてるの! 誰か! マライア! スタンリー!」
 再び喉が嗄れるほどの大声をあげたが、応えは無かった。地下牢の物音は、階上に聞こえにくいようにできているのが常だ。特に元から細くて高いシェリルの声では、たまたま地下牢の入り口を通りかかりでもしない限り、誰かに聞きつけられる可能性は低いだろう。それでも万一の期待を込め、しばらくの間叫び続けた。
 だが彼女の繊細な喉は、ほどなく嗄れて悲鳴をあげ始めた。ひりひりと痛み始めた喉に、労るように何度も唾液を流し込み、途方に暮れる。
 何か方法は無いだろうか。こんな男たちの、それこそ欲望の捌け口になって、あの気色の悪い手や体に好きなように弄ばれるくらいなら、死んでしまいたい。だがそれすら彼女には許されていないのだ。
 厄介な男に関わるからこうなるのだ。らしくもない行動に出た自分を自嘲する。どんなに惚れ込んだ男であれ、相手の気持ちも構わず、無理矢理重なってしまおうなどと考えたことはなかった。
 考えなきゃ。
 諦めるのはいつでもできる。万策尽きて時が来れば、嫌でも諦めなければならない。それまで時間があるなら、唯一動く頭であらゆる方法を考えるまでだ。
 もう一度手首をほどこうと力を込めたが、やはり丈夫な綿の布帯は緩まなかった。一体あの男はどこにこれを隠し持っていたのだろう。
 ふと閃いた。
 この布帯は、色合いがあまり気に入らず、最近までベルトを傷めてしまっていた仲間のイーミルに貸していたものだ。彼が新しいものを買ったので、返してもらって、就寝時などに使っている。
 もしこれにまだ、最近まで使用していたイーミルの念が残っているなら、これを触媒にして、彼の精神と感応できるかもしれない。
 ものは試しだ。眠っているであろうイーミルに、手を動かせず、身振りが使えないシェリルが、どこまで思念を送れるか分からないが、やってみるしかない。
 手は封じられているが、呪文は唱えられる。目を閉じて、何度か深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。呼吸を徐々に深く、ゆっくりにしていく。呪文を低く唱え始め、集中した。

 牢に捕らわれている自分の姿と、助けて欲しいという思考を、イーミルの精神に送り込む。眠っている彼の精神は、魔術的な視界の中でも見つけにくく、思念が届いているのかどうか、判らなかった。
 しばらく集中を続け、一方的に念を送った後、シェリルは目を開けた。
 やはり疲れた。身振りが使えず、触媒がこの布帯だけでは、相当精神を消耗する。
 寒い。情交の後で火照っていた体が冷えてきた。吐いた息が白い。地下牢にいては外の小雨の音も聞こえず、時間も分からない。
 ひんやりとよそよそしい静寂の中、後ろ手に縛られながらも、疲労からシェリルはうとうとし始めていた。
「シェリル……?」
 鉄格子の向こう、廊下の奥から、遠慮がちに響く小さな声を聞きつけた時、却って信じられなかった。
 イーミルの声だ。
「イーミル、こっち! 下! 助けて!」
 涙ぐみながら叫ぶと、驚いた声が微かに返ってくる。
「ホントにシェリルか? 何でこんなとこにいんの」
 階段を下る、軽々とした足音が聞こえる。助かった。やはり持つべきものは仲間だ。彼女の思念を夢か何かの形で捉え、地下牢に様子を見にきてくれたのだ。
 やがて廊下の奥から明かりが近づいてきた。
 顔を輝かせたシェリルは、次の瞬間、家畜の轢死体でも見たような顔つきになった。燭台を手に牢の前に立ったのは、イーミルではなく、コヨーテだったからだ。

「……あたしの仲間は?」
 彼に頼むべきことも忘れ、抑えた声で、確かに声が聞こえたはずのイーミルの安否を訪ねると、無表情だった彼の顔に、うっすら笑みが浮かんだ。
「君のお友達なら、階段下で寝てるよ」
「寝てるって、どういう意味? 正確に説明してよ。大体あんた、こっから急いで消えるんじゃなかったの?」
 仲間への危惧が、疲れ切っていたシェリルの気持ちを立ち直らせた。体が僅かに震えているのは、もはや恐怖の為ではない。
「まだ夜明けまで時間あるし、喉乾いたから、厨房でちょっと飲み物拝借してたんだ。せっかくの見せ物を見ないで帰るのも勿体無いし、こっちに戻ってきたら、丁度君の友達とぶつかっちゃったとこ。眠り薬で言葉通り眠ってもらっただけだよ」
 睨むシェリルに怯みもせず、のんびりと彼は言ってのけた。
 見せ物。その言葉の差す意味に気づいた時、髪が逆立つ程の痛憤がこみ上げた。動けないシェリルが、男二人に好きなようにされるのを、鉄格子の外から眺める為に、戻ってきたていうのか。
 手さえ自由になるなら、術を使ってでも思い知らせてやりたい。
 しかし最後の頼みの綱のイーミルが、運悪くコヨーテとはちあわせになり、眠らされてしまったのは痛い。再び彼女は絶体絶命に追い込まれてしまった。
「君も結構しぶといね。随分元気よく吠えてたけど、そろそろ反省した?」
 コヨーテは嫌みったらしく言いながら、牢の鍵を開け、扉を開いて中に入ってきた。
 見せ物だと言われたことは許せない。だがここから脱出しない限り、復讐してやることもできない。冷静に怒りを封殺し、口の限り罵りたい衝動をどうにか抑えた。
 シェリルの心境を知ってか知らずか、彼は燭台を傍らの床に置くと、腰から下げていた水筒を開けた。ふわりと湯気が立ち上る。
「飲む?」
「いらない。お酒飲めないから」
 水筒を差し出す彼に、無愛想に首を振ってみせると、男は苦笑いした。
「知ってるよ。だからこれはお湯」
 シェリルが下戸だという話も、伯爵令嬢に扮して旅をしていた時に、話した覚えがある。当時彼は「私も強い方ではないのでよかった。奥方の方がお酒に強いなどと知られれば、笑い物になってしまいます」などと、笑いを交えて言っていた。
 目の前の男は、その時の彼とほとんど同じ姿をしているというのに、立場も状況も全く違ってしまった。それでも彼が『覚えている』ではなく、『知っている』と言ったことが、妙に心を捕らえた。
「要らない」
 ほどけかけた心を結び直すように、目元を引き締めて答えると、彼は肩を竦めた。
「あっそ。さっきは泣いてたのに、また随分と強気だね」
 コヨーテが立ち去った時に、子供のように泣き喚いたことを思い出して赤面した。しかし聞いていたくせに、悠々と厨房に飲み物など取りに行ったとは、血も涙も無いのか。 
 腹立たしい。だがこのままでは彼の目の前で、この二人の男たちに陵辱されるだけだ。今彼を罵倒して自尊心を保ったところで、そうなればもっと惨めだろう。
「……悪かったから。謝るから助けてよ」
 口に出した瞬間、不覚にも涙が零れた。自分のしでかしたことで、彼を喜ばせることができるとは思っていなかったが、こんな仕返しをされるほど、屈辱を与えてしまったのが悲しい。それに降りかかった災難を、自分でどうにもすることができない無力さが、最近新しい術を覚え、腕をあげて調子が良かった彼女を打ちのめしていた。
「そんなに嫌だったなんて思わなかったの。ごめん。もう二度とあなたの前に顔見せないから、ここから出して」
 泣くのは嫌だったが、堰を切ったように溢れた感情は止まらない。見苦しい顔を見せたくなくて、頭を伏せたまま、嗚咽をこらえて、途切れ途切れに呟いた。
「次会った時、僕の髪むしってやるとか言ってなかったっけ? 随分弱気になっちゃったねえ」
 コヨーテは一歩彼女に近寄ると、頭に手をかけて、俯いていた顔をあげさせた。慰めるどころか、にやついている彼と視線がぶつかる。彼はあの罵詈雑言も全て廊下の奥で聞いていたのだ。
「ごめん……。あたしが悪いのに」
 普段の彼女であれば何か言い返すところだが、ただひたすら詫び続けた。欠片ほどの屈辱ももう感じない。それほど彼を怒らせたことが悲しかった。
「十七にもなって、ハナ垂らしながら泣いてるの、みっともないよ」
 気のせいか微かに口元を震わせながら、彼は彼女の鼻から溢れた鼻水を指先で拭う。触れられた瞬間、痺れるような感覚が駆け抜けた。
 恥ずかしい。また顔を伏せようとしたが、頭に添えられた手に力が込められ、できなかった。その指先から何か、今までには無い甘いものを感じ取る。
「十八だもん……」
 嗚咽を堪え過ぎて、痙攣のように肩を震わせながら、舌の回らない声で彼女は言った。
「へえ、誕生日来たんだ。今月?」
「昨日……」
「ふーん。十八には見えないねえ」
 童顔の彼女がよく言われることを呟き、彼はいつもそうするように彼女の髪を撫でた。
 その手に触れたいのに、体が動かせない。もどかしい思いの中、せめてその感触を探るべく、全ての神経を頭の先に集中させる。
 少しの間、そうして彼は彼女の頭を撫で続け、彼女は落ち着いてきた嗚咽の余韻に僅かに体を震わせながら、黙ってされるがままになっていた。
「で、どう?」やがて彼は、シェリルの髪を撫でたまま尋ねた。「十分反省した?」
「したよ。もうしない。ごめん……」
 彼の怒りは既に解けているような気はした。しかし、そもそも感情をそのまま表に出さない彼が、本心では何を考えているのか、分からない。
「助けて欲しい?」
 恩着せがましい言い草に、僅かに屈辱を感じないでもなかったが、顔を覗き込んでくるその瞳の優しさを見ると、あっという間に霧散していった。この状況に彼女を追い込んだのは彼なのに、その瞳に浮かんでいるのは、慈愛としか表現できない。
「助けて」
 素直に彼女は告げ、前に同じことを彼に頼んだ時に、金目のものを根こそぎ奪われたことを思い出した。
 しかしコヨーテは、ただシェリルの瞳に視線を合わせたまま、頭を撫でて囁いた。
「じゃあ、言うこと聞いて」
 顔が近づいて唇が重なる。しっとりと温かかった。

陰険……
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