警告
この作品は<R-18>です。
18歳未満の方は
移動してください。
前編は前フリです。
「そのシーンだけでいいんじゃ!」という方は、後編から読んでいただいても差し支えない……と思います。
でも、まどろっこしいですが、前編も読んでいただけると嬉しいです…。
嫁入り (前編)
婚約者だと名乗り、目の前でひざまずく男を、彼女は信じられない思いで見つめた。
男は丁寧に礼を取った後、半ば呆然とする彼女に向かって微笑んでみせる。
伯爵令嬢フィリスは、公爵家の末子、三男である公子と結婚することを、十歳の頃から決められていた。父である伯爵が、有力貴族である公爵との繋がりを持ちたかった。それだけが結婚の理由だ。
十五になった今年、伯爵令嬢は住み慣れた父母の街を離れ、公爵家に顔見せに行くことになった。未来の夫である公子と、義父である父への面会の為だ。
お互いの国益の為に既に決まった婚約であるから、よほどのことが無い限り、そのまま公爵家に嫁ぐことになる。結婚が正式に決まれば、伯爵や夫人を呼び寄せて、婚礼をあげることができる。
しかし婚礼でもない限り、力ある公爵の領地に入る際に、父である伯爵が同行するのは許されない。無用な争いを防ぐ為にも、領地境で伯爵夫妻に別れを告げ、後は最小限の護衛を連れて、長い旅が待っていた。
公爵領までは、一月足らず。伯爵領との間には、緑豊かな辺境伯領が広がっている。
昔から、この隣り合った辺境伯と、伯爵家は折り合いが悪い。
辺境伯家は、元を辿れば盗賊だ。森に住み着いて、巡礼者を襲っている盗賊が徐々に力をつけ、勝手に貴族を名乗って税金を取るようになった。
かつて隣国の王と戦争があった際、王はこの自称騎士とその配下を戦力として参戦させた。
荒くれ者の彼らの活躍は素晴らしかった。多くの戦功を立てた盗賊騎士を、王は辺境伯に正式に封じ、彼らが住み着いた森林一帯を領地とさせた。
遥か昔より、王家に忠誠を誓ってきた伯爵家にすれば、辺境伯はたった一度の戦争で成り上がった新参者だ。辺境伯からすれば、伯爵家は血筋と歴史という、祖先の活躍に寄りかかった、無力な老人に見えるだろう。
その肥沃な大地を持つ豊かな伯爵領を、暗い森に住む盗賊貴族が狙っているのは、肌で感じていた。伯爵は辺境伯の脅威に備える為、近隣の諸侯との姻戚を結び、軍隊を強化するのに必死だった。
伯爵の長女であるフィリスの結婚も、無論その方策のひとつだ。フィリスは公爵家に嫁いだ後は、己を磨き、公子と公爵の関心を惹いて、伯爵家との関係を良好に保たなければならない。
本来なら伯爵は、フィリスを王家の第二王子に娶らせたかったらしい。七、八歳の頃、フィリスは伯爵に連れられて、王に目通りがかなったことがある。
しかし、残念なことに、王はフィリスを気に入ってはくれなかった。
『お前がもう少し美しければ』
子供なりに大人の事情を察して傷つくフィリスに向かって、悪気もなく伯爵は率直に言い放った。フィリスは父親似だった。
あらゆる縁戚のつてを使い、どうにか公爵家にフィリスを嫁がせることが決まった時、伯爵は一安心したことだろう。
伯爵令嬢は、幼い頃から頭の回転が早く、物覚えもよかったので、高い教育を受けてきた。知識・教養・礼儀に関しては、伯爵は娘について大いに自信があった。
しかし、公子が娘の容姿を気に入ってくれるかどうか。一度王に縁談を断られてからは、愛する娘の見栄えに関しては、彼は若干の不安があった。
公爵領に到達するまでは、どうしても辺境伯領である、薄暗い森を通る道を通過しなければならない。辺境伯領を迂回すると、およそ三ヶ月以上の遠大な旅路になってしまう。
伯爵は娘の旅を、領地の主である辺境伯に告げるかどうか迷った。
通常であれば、貴族の娘の輿入れを知らされれば、領主はその娘が領内にいる間、盗賊などから保護してくれるだろう。
しかし、相手は辺境伯である。公爵家との姻戚を結ぶのを邪魔しにかかるかもしれない。その方法はあまり穏便であるとも思えない。令嬢の略奪や殺害が一番手っ取り早い。
悩んだ末、伯爵は一計を案じた。
伯爵令嬢は、巡礼として辺境伯領を通過し、公爵領にある聖地に向かうと辺境伯に知らせてある。旅路も賑やかで宿場町が立ち並ぶ主街道ではなく、巡礼路を通る予定としてあった。公子との婚約は勿論伏せてある。
そんなことで辺境伯をごまかせるとは、到底思えない。
辺境伯はたった二代で、盗賊から貴族にのし上がったのだ。ある程度の頭脳と情報網を持つはずである。
しかし、彼女自身にはあまり関係の無い話だ。今はとにかく身を守り、安全に辺境伯領を通過すること。それが目的だ。
粗末な服を纏い、供の者と一緒に巡礼者に扮して辺境伯領に入り、十一日目の夕方。
その日宿泊する予定の、巡礼宿を兼ねた教会に入ると、客人が待っていると告げられた。
心当たりの無い客人に、彼女がいささか緊張しながら、案内された神父の応接間に入ると、そこに座っていた男は一度立ち上がり、彼女の前で膝をついた。
「初めてお目にかかります。公爵家第三子、レナードと申します。辺境伯には内密で、伯爵令嬢フィリス様をお迎えにあがりました」
彼女は公子について、良い話も悪い話も耳にしていなかった。
跡継ぎである長男は、頭脳明晰な、なかなかの人物らしい。次男は武勇に秀で、いずれ兄を助けて軍を率いることになると聞いたことがあった。
しかし、三男の伯爵令嬢の婚約者に関しては、ほとんど噂を聞いたことがない。兄二人に比べれば、平凡な人物なのだろう。
才能を持ち、期待を注がれる兄たちに比べて、目立たない、平凡な男なのだろうと思っていた。既に勢いを失った伯爵家の娘との婚約を、承諾するくらいだ。
彼女は特に秀でたところもない、いかにも裕福な貴族育ちの、ずんぐりした冴えない男を想像していた。
実際に会ってみて驚いた。
全く想像通りの男だった。
ずんぐりして冴えない公子レナードが話したところによれば、手段を選ばない辺境伯の脅威は、公爵家も感じているらしい。
「婚約者であるフィリス様お一人を、この薄暗い森を通過させて呼びつけるなどとは、私には考えられません。何度も父に、伯爵も供においでいただけるよう、許可を与えて欲しいと頼んだのですが、面子が立たないと断られてしまいました」
お互いにはにかみながら簡単な挨拶を交わした後、彼女に椅子を勧め、自分は膝をついたままで、小柄で小太りのレナードは話し続けた。
「致し方ありませんわ。他国の領主をそう気軽にご自分の領地に招くわけにはいきませんもの。父もそう長く領地を留守にはしていられませんし」
柔らかく微笑みながら彼女がそう答えると、レナードは目を細めた。元々目が細いので、目をつぶってしまったように見える。
「あなたは勇敢な方です。女性の身で、この蛮族に収められた領地を抜けようとお考えとは。──しかし私はどうしてもご心配で、父の許可を得て、あなたをお迎えにあがったのです」
非常に内向的に見える外見とは裏腹に、婚約者に対して勇敢な気遣いを見せるレナードに、彼女は小さな感動を覚えた。
レナードも供の者を数人連れているらしいが、この森の中の古びた巡礼路を少人数で抜けるのは、男でも恐ろしいだろう。追いはぎや辺境伯の兵だけでなく、昼なお暗い森には、人外の獣や幽霊がいてもおかしくない、薄気味悪い雰囲気がある。
彼女はレナードに向かって花開くように笑ってみせた。
しかし小柄でころころと太った公子は、人の好い笑みを返しただけで、彼女の手の甲や服の裾に口づけを請うことはなかった。
やはり女性と縁が少なく、野暮ったいのかと彼女は残念に思った。
教会では、女性の巡礼者は通常、離れの小屋で食事と寝泊りをすることになっているらしい。
しかし神父は公子からの多額の寄進を、神への感謝と共に受け取る代わりに、公子と婚約者が同席して夕食を取ることを許可した。
互いの供の者も同席した、政略結婚の婚約者同士の夕食は、しかしあまり話が弾まなかった。レナードはあまり口数が多くなく、話も楽しいとは言い難かった。
教養ある彼女が既に知っているような、公爵領の歴史や文化などについて話し続けたレナードは、伯爵令嬢がこれから嫁ぐ、公爵一家の話などはしなかった。彼女を褒めるようなことも口にすることはなかった。
迎えにきてくれたと知った時には、感動した彼女も、やがて退屈してしまった。
食事を黙々と取る公子を見つめる。
伯爵令嬢の婚約者は、彼女の視線に気づくことなく、温かい煮込み料理に息を吹きかけて冷ましていた。
歴史古い伯爵領のあたりでは、下品とされるその仕草と、すぼめた彼の厚めの唇に、どこか拭えない生理的嫌悪を感じ、彼女はいささか食欲が衰える気すらした。
簡素な夕食を終え、一同は寝室に引き下がった。
神父は公子と伯爵令嬢には、離れの個室を与えてくれた。無論、別室である。
木造りの簡素な寝台に横たわりながら、彼女は風呂に入って身を清めたいと思った。旅に出てから、風呂には入っていない。森の中の教会や巡礼宿には、贅沢な風呂を持っているところは無い。二日前に小川で水浴びをしたきりだ。
明日も川が見つかれば、水浴びをしようと考えていると、扉がこつこつと叩かれた。
こんな夜更けに誰だろう。連れならば、外から声をかけるはずだ。
彼女は不審に思いながらも、寝台から起き上がった。
「どなたですか?」
粗末な木の扉越しに誰何すると、思いがけない声が返ってきた。
「レナードです。夜分に大変申し訳ございません。失礼なのは承知ですが、ぜひ内密にお話ししたい件がございます」
彼女の心臓は急速に鼓動を早めた。
婚約者といえども、この時間に男性を寝室に招き入れるのは、上流階級では考えられない話だ。断るべきだろう。
しかし扉の外の声には緊迫した響きがあった。
レナードも失礼を承知で、この時間に訪ねてくるには、それなりの理由があるのかもしれない。
彼女は自分を見下ろして、服を直し、外套を羽織って扉を開けた。
顎に脂肪がついたレナードの顔が見える。彼は小さな燭台を手にしていた。
「夜遅くに大変申し訳ございません。実は、父と辺境伯との間で内密のやりとりがあったようなのです。供の者に聞かれては都合が悪いので、こうして密かにお伺いしました」
彼女の体に緊張が走った。
伯爵と犬猿の仲である辺境伯と、これから姻戚を結ぶ公爵との間の密談。伯爵家に取っては、あまりいい話ではない予感がする。現在辺境伯領にいる彼女の身に危険を及ぼすような話かもしれない。
「……中に入れていただいてよろしいでしょうか? 他の人間に聞かれては困りますので」
「どうぞ」
彼女は扉を広く開き、公子を招きいれて、扉を閉めた。
レナードは寝台脇の小さな机に燭台を置くと、彼女の方を振り返る。
彼女は、その表情が先刻の憂鬱なものとは一変しているのを、見て取った。
突然伸ばされた腕を、彼女は後ずさってかわした。
「どうされたのですか?」
後退しながら、それでもまだ礼儀を保ちつつ、彼女は尋ねた。
しかし公子の方は、もはや取り繕うものは無いようだ。欲望を剥き出し、下劣な程に顔を歪ませて、彼女に歩み寄る。
「既に婚約をした身です。一緒に寝ても構わないでしょう」
構わないわけはない。
「レナード様……私たち、まだ結婚したわけではありませんわ」
恐怖よりもむしろ嫌悪から、彼女の声は震えた。
「同じことです」
再びレナードが彼女の腕に手を伸ばす。それを反射的に振り払い、彼女は咄嗟に背を向けて、扉を開けると廊下に飛び出した。廊下に出れば、互いの供の者がいる部屋がある。
廊下は暗闇に包まれていた。
僅かに頭上の小窓から、月か星の明かりが差し込んでいたが、足元すら定かではない。廊下を不気味に照らし出しているに過ぎなかった。
「誰か!」彼女は大声で自分たちの護衛を呼んだ。「助けて!」
しかしすぐ隣にいるはずの、彼女の連れは誰も出てこなかった。
「無駄ですよ」
室内からぞっとするほど冷えた男の声が響いた。食事中にぼそぼそと甲高い声で喋っていた男と同じ人間だとは思えない。
「私の供も、あなたのお連れも、神父様がうまく言いくるめて、本館に既に移っていらっしゃいます。離れには私とあなたしかいません」
なんてことだろう。迂闊に扉を開けるのではなかった。
離れの入り口はひとつしかない。さらに不注意なことに、彼女は廊下を建物の奥に向かって逃げてしまった。
行き止まりの壁まで追い詰められる。
彼女は何とかその隙間を通って出口に向かいたかったが、狭い廊下をレナードの体が完全に塞ぐ形になった。
屈辱と怒りを感じた。
婚約者であっても、結婚前に肉体関係を結ぶようなことは、貴族たちの間ではまず考えられない。
しかも、関係があった後に、フィリスが公爵に面会し、万一気に入られずに、婚約が破棄されてしまったら、フィリスは未婚のまま傷物ということになってしまう。極めて不名誉なことだ。
それが力がある公爵家の子息だというだけで、許されると思っているのか。
「どうしました? もう逃げないのですか?」
男の影は彼女の目の前まで来ると、肩を掴んだ。薄い服の上から、脂肪がたっぷり乗った短い指の感触に、怖気がした。
「どうせあなたの家柄と容姿では、私の家以外に嫁ぎ先などないでしょう。逆らわない方が、お父上の為ですよ」
言うなり、レナードは彼女の小柄な体を抱き締め、唇を寄せた。慌てて顔をそむけた左頬に、レナードのぬるい唇が押し当てられる。
彼女は悲鳴をあげて、レナードを振りほどこうとするが、非力な彼女では、小男の体を動かすことすらできなかった。
濡れた生臭い吐息が顔にかかり、今度こそ唇に男のそれが押しつけられた。唾液の匂いと軟弱な感触に、吐き気がしそうだ。彼女に取って、人生最初の口づけは、甘くも苦くもなく、ただ気色悪かった。
彼女は必死で口を閉じたが、レナードは唇を押し開き、舌をこじ入れてきた。歯を食いしばると、顎に手がかけられ、口を開かされる。忍び込んできた男の舌は、まるで得体の知れない怪物のようだ。
心底嫌だった。
足で蹴りつけてやりたいと思ったが、あまり見苦しい抵抗をして、仮にも公子である彼をあまり怒らせるわけにもいかない。
自分で選んだことではあったが、己の立場の惨めさに、涙が出そうになった。
レナードはさらにきつく彼女を抱き寄せる。体が密着し、ふくよかな胸が挟まれて潰れる。レナードにその感触を楽しませるのが悔しかった。
男の手が背中から尻に下りてきた。
「やめて……やめて下さい!」
あまりの無礼さに、彼女は大声をあげ、レナードの体を押し返した。このままでは、本当にこの場でこの男のものにされてしまう。
しかし相変わらず男の体を突き放すことはできなかった。彼女は半ば恐慌し、夢中で男の足を蹴りつけた。
男は小さな声をあげ、一歩下がる。彼女は男から離れようとしたが、すぐに背中が壁にぶつかった。そう、ここは行き止まりだった。
暗がりの中、レナードの表情までは分からない。しかし彼の怒りは空気を経て伝わってきた。
言葉も無く、男が右手を振り上げる。小窓からの僅かな明かりに、その右手の先が光った。いつの間にか短剣が握られている。見下げていた家の女に拒絶されて逆上したのか。刃物をちらつかせて、言うことをきかせようとしているのか。
だが黙って死ねない。
彼女も外套の下に隠し下げた、護身用の短剣を抜いた。全てを台無しにしてでも、こんな男に殺されるのは御免だ。
「やめないか」
男の声が響くと同時に、レナードの影が後ろ向きに倒れた。その後ろに、いつの間にか別の人影があった。
彼女が事態を把握できない内に、廊下の向こうに明かりが見えた。ランプを持ったもう一人の人間が、離れの入り口から入ってきたようだった。
明かりを持った人物がこちらに近寄るにつれ、彼女の目の前の様子が分かる。
レナードは無様に尻餅をつき、その背を外套をかぶった男が後ろから羽交い絞めにしていた。本館に移動してしまった護衛が戻ってきたのかと思ったが、どちらの男にも見覚えはない。
「放せ! 貴様、僕を誰だと思っている……!」
床に座り込んだまま押さえつけられながら、レナードはわめいた。まるで子供だ。
しかし、その言葉を聞く限り、男二人は、レナードの連れの者でもないのだろう。
一体誰なのか。とりあえずの危機は脱したが、彼女は男たちの正体が分かるまで、短剣を握り締めていた。
「ほう。どちら様でしょうか」
レナードを押さえつけている男が、からかうように言った。
「公爵家の三男、レナードだぞ!」
「ご冗談を」
男はレナードの言葉を一笑に附すと、彼を無理矢理立ち上がらせ、背後から追いついてきた体格のいい男に腕をつかませた。レナードと交換するように男からランプを受け取る。
屈強な男は、そのままレナードの体を廊下の奥に引き摺っていき、建物から出て行った。
「危ないところでした。お怪我はありませんか?」
ランプを手に持ち、男は彼女の目の前に歩み寄った。冷たい暗闇の中、温かい明かりに包まれただけで胸の奥まで安堵が満ちる。
「……大丈夫です」
気丈にそう答えた瞬間、瞳から涙が溢れ出した。
恩人とはいえ、見知らぬ男の前で涙を見せたくない。彼女はゆっくり袖で涙を拭い、唇を噛んで嗚咽をこらえた。
「さぞ恐ろしかったでしょう。泣いてもいいのですよ」
男の優しげな言葉に、彼女は反射的に首を振った。
「いいえ、大丈夫です。……ありがとうございました」
まだ微かに震える声で礼を言うと、男は微笑んだ。
「なんて気丈で可愛らしい方だ。間に合って本当によかった」
男は外套のフードを取り払い、膝をついて屈んだ。
彼女を見上げる色白の顔は、まだ若い。二十歳前後に見える。
男はその姿勢のまま、彼女の粗末な夜着の裾を取って、口づけした。その仕草は極めて優雅だった。
偶然教会に泊まり合わせた、旅の貴公子だろうか。衝撃からやや覚めた彼女は、青年の正体を訝った。
「助けていただいて、本当にありがとうございます。あの、あなたは……?」
彼は服の裾から唇を離し、改めて深く頭を下げた。
「申し遅れました。伯爵令嬢フィリス様とご婚約の光栄に預かりました、公爵家の第三子、レナードです」
彼女の頭の中は、一瞬白紙になってしまった。
彼女に襲い掛かり、強引に口づけをした男はレナードと名乗った。そしてその危機を助けてくれた男も同じ名を名乗った。
「それでは、彼は……?」
背筋が冷たくなるのを覚えながら、彼女が問うと、若者はそれを継ぐように、厳しい顔で言った。
「無論、偽者です。私の名を騙り、あなたを狙った、辺境伯が放った暗殺者でしょう」
彼女は飛び上がらんばかりに驚いた。
偽のレナードが短剣を抜いたのは、彼を拒絶した彼女に激高したのではなく、最初から彼女を始末する気だったのだ。
本当に危機一髪だった。
腰から力が抜けそうになり、背後の壁に寄りかかった彼女を、立ち上がった公子が腕を取って支えてくれた。
「辺境伯の元に忍び込ませている者から、暗殺者が雇われたという話を聞き、いてもたってもいられずに、供を連れてお迎えにあがったのです。ご拝謁が遅くなりまして申し訳ございません」
「いいえ、とんでもないことです。本当にありがとうございました……」
婚約者としては、もう少し気のきいたことを言うべきなのだろうが、胸が詰まって言葉が出ない。
「それこそとんでもないことです。未来の妻をお助けするのは、当然のことです」
青年の穏やかな微笑みから目が逸らせなかった。
その時に生まれた温かく甘い感情は、同時に彼女の胸を虚しく焼き焦がして、爛れさせた。
彼女がこの青年の妻になることはないからだ。
彼女の名はシェリル。
伯爵家とは縁もゆかりも無い、金で雇われただけの人間だ。
護衛や荷運び、宝探し、怪物退治などを請け負う便利屋──冒険者と呼ばれている。
シェリルと仲間たちは既に二年の経験を積み、確かな実績と信用から、最近は中流商人や貴族相手の仕事も多かった。
彼女たちの顧客の一人である男爵は、愛娘の輿入れに頭を悩ませる伯爵の話を聞いた時、令嬢によく似た冒険者がいると告げたのが、ことの発端だった。
男爵を通じて伯爵に呼び出され、仲間と共に伯爵と面会した時、彼はシェリルを見てしきりに感心していた。
そのまま令嬢のフィリスと引き合わされた時、シェリルも驚いた。
確かにフィリスとシェリルはよく似ていた。
小柄な体格、ふっくらとした体つき、くせのある豊かな黒い髪と同じ色の大きな瞳。小さな耳と口。優しげな丸い顔。瓜二つというほどではなかったが、遠目から見れば、ほとんど分からない。
姿絵を交換する習慣の無いこの辺りでは、フィリスの外見は言葉で周辺諸侯に伝わっているのみだ。これなら、十分に伯爵令嬢と身代わりとして通用する。
しかし流れの冒険者風情に、生まれながらにして貴族育ちで、教養高いことを売り物にしているフィリスの代わりが務まるだろうか。不安に思った伯爵は、シェリルにいくつか質問をし、フィリスと議論をさせ、貴族娘の扮装をさせて、食事をともにした。
結果、全く申し分無かった。
シェリルは魔術師ギルドで育った。その教育はフィリス以上に高度で専門的だ。貴族の礼儀作法、受け答えから立ち居振る舞いまで、彼女はほぼ完璧にこなしてみせた。フィリスとの王国の歴史についての議論も、留まるところなく話は進んだ。端で聞いている伯爵がついていけないほどであった。
伯爵はフィリス嬢に選りすぐりの少数の護衛をつけ、旅芸人の扮装をさせて、主街道を取って公爵領へ出発させた。
そしてシェリルと仲間たち、加えて伯爵家から出した二人の護衛には、巡礼者の格好をさせ、遠回りの古い巡礼路を向かわせた。そしてわざわざ辺境伯には、令嬢が巡礼の旅に出る旨をしたためて送ったのだ。
つまりシェリルたちは、辺境伯に対するおとりであった。
危険な仕事ではあった。
だが、伯爵は王家から領地を授かった、正真正銘の名家だ。フィリスが無事に公爵領に到着した暁に支払われる報酬は、楽に半年は暮らせるほどの額だったし、その内少なくない額を気前よく前払いしてくれた。この仕事がうまくいけば、伯爵家のお抱えになることも夢ではない。流れの冒険者たちには、またとない好機だった。
それに何度かフィリスと話したシェリルは、自分とよく似た一つ年下の伯爵令嬢を気に入ってしまった。
シェリルの生まれたあたりでは、女は小柄な方がいいとされていたが、この辺りでは、女性は背が高く、ほっそりとしている方が好まれた。フィリスもシェリルから見れば、愛らしいほどであったが、周囲から容色が冴えないと言われていたし、実際、いくつかの家から縁談を断られている。
容姿に対する劣等感を持ちながら、足りない部分を教養を身につけることで補おうとする、前向き彼女の姿勢に好意と共感を覚えた。
実際、高い教養と客観的な視点を持つ彼女との議論は、時を忘れるほど楽しかった。フィリスもシェリルに好感を持ってくれたようだった。
この娘を安全に輿入れさせてあげたい。シェリル個人的には、仕事を引き受けるにあたって、利害のからまない理由もあった。そうでなければ、いくら大金を積まれたところで、慎重で誇り高い彼女が、ここまで自分の命を危険に曝すことはない。
偽者のレナードが襲ってきた夜は、騒然となった。
衝撃のあまりシェリルはよく覚えていないのだが、本物のレナードが、彼女たちの供と神父を起こし、自らの身分を名乗って、その夜の出来事を説明した。
暗殺者の情報を聞いた後、レナードは父である公爵の許しもそこそこに、最も屈強な従者を連れて領地を出発した。
辺境伯領に入り、巡礼路を下っていた公子たちは、今日の夜遅くに、この教会を見つけたという。
野宿を避けられると思って、喜んで戸を叩いたが、既に寝静まっていた教会の入り口は固く閉ざされていた。諦めきれずに、どこかせめて軒先でも借りられないかと、周囲を歩いていて、離れの建物に気づいたらしい。その時、彼らはシェリルの悲鳴を耳にし、何事かと離れに踏み込んできたという。
顛末を聞いた哀れな神父は真っ青になった。
彼にしてみれば、公子に多額の金と共に頼まれたことを行っただけで、公爵家の子息が婚約者に婚前交渉を求めることに目をつぶればいいだけだった。暗殺の片棒を担ぐ気などさらさらなかったに違いない。
騙された怒りで、シェリルに代わって神父に詰め寄る、彼女の仲間たち──無論、公子と神父には、伯爵令嬢の名誉ある護衛に見えるはずだ──を、レナードはそっと押しとどめた。
「神父様はご存知なかったのですから、仕方ありません。それに公子を名乗る人間の頼みを無下には断れないでしょう」
仲間たちは言いたいことがありそうだったが、シェリルがその言葉に頷くのを見て、それ以上言い募るのは諦めたようだ。
偽者のレナードとその供を名乗っていた数人の男の末路については、シェリルは公子に聞いていない。
神父には寛大さを見せた公子も、自らの名を騙り、婚約者の命を狙った暗殺者をそのままにはしておかないだろう。誰も何も口にしないというのは、そういうことだと思った。
翌朝、神父からお詫びとして大量の食料と水を分けてもらったシェリルと仲間たちは、公子とその従者と共に、公爵領への旅を再開した。
レナードの供は、屈強な壮年の従者一人だけのようだった。たった二人で、公爵領からこの巡礼路を下ってきたのかと、シェリルは感嘆した。それは自分の為ではない、フィリスの為だと言い聞かせなければならない程、鼓動が高まった。
昼頃に道沿いに小川がぶつかったあたりで、休憩を取った。
シェリルは侍女を名乗る仲間の女と共に、公子と他の仲間たちに断って、水浴びに行った。
「あーもー、サイテー」
三日ぶりに体を清めることができ、寛ぐ仲間の女に、シェリルは顔を顰めて愚痴った。
「静かにしなよ。聞こえるよ」
伯爵令嬢の振りを捨てたシェリルの口調を、仲間がたしなめる。
「大丈夫だよ。公子には聞こえないもん」
言い返しながら、それでもシェリルはやや小声になる。
「公子には聞こえなくても。どこで誰が見てるか分からないでしょ」
侍女に扮した仲間の女は、シェリル以上に生真面目な修道女くずれだ。
曖昧に肩を竦めるシェリルに向かって、しかし彼女もややくだけた口調で囁き続けた。
「最低ってことないじゃない。あのもっさりした人が婚約者じゃなくてよかったでしょ」
「そうだけど……」
仲間の女とは友人と呼んでも差し支えない関係だが、昨夜のことを全て彼女に話すのは、恥ずかしい気がしてためらわれた。
シェリルは片想いでない恋愛をしたことがない。当然男性と交渉を持ったこともなければ、口づけをしたこともなかった。
流れ者の商売だ。恋愛などに夢を見てないつもりだったが、それでも昨夜、全く見知らぬ、しかも見苦しい程の男に唇を奪われ、舌まで入れられたのは、すこぶる不愉快で屈辱的だった。
もし、あの場で本物のレナードが助けに入らなければと思うと、今でも体が震えそうになる。
「本物の公子は素敵な人ね。よかったわね」
仲間の言葉に照れ笑いを浮かべようとしたが、その『よかった』という言葉は、シェリルにとってではなく、本物の伯爵令嬢フィリスにとって、という意味であることに気づく。
「ちょっと、大丈夫?」
シェリルの心を見抜いたように、仲間は水に浸かりながら、シェリルを軽く睨んだ。
「何が?」
「あなた、惚れっぽいから……。公子はあくまでフィリス様だと思って、あなたに礼儀を尽くしてるんだからね」
「分かってるってば」
仲間の言う通り、シェリルに対する公子の礼儀作法と心配りはほぼ完璧だった。
慣れない旅に出ているであろう伯爵令嬢を気遣い──実際は、冒険者であるシェリルはかなり長旅にも慣れているのだが──、休憩をまめに取り、疲れた足に塗る薬草を渡してくれた。岩や木切れが転がる悪路では、シェリルに断った上で、彼女の手を取ってくれた。シェリルに向ける公子の表情は、常に穏やかな笑みを絶やさなかった。
そうだ。あの自分の容姿に劣等感を持っている、勇敢で賢いフィリスの婚約者が、レナードのような男で本当によかった。幸福な結婚になるに違いない。
心から祝福したかった。
その後の三日の旅は野宿を挟んだが、順調に進んだ。
来た道を戻る形になる公子が、旅の主導権を取った。悪路や休憩に向いた木陰などをその都度教えてくれ、長い旅はいくらか楽になった。
朝晩は多少冷えるが、長時間歩かなければならない日中は、柔らかい日差しの為に、暑過ぎることもない。初秋はこの辺りの旅には最適の時期だ。
寂れかけて下草が生え始めた街道を歩きながら、夏の盛りの勢いを失い、秋へと色づこうとしている木々に目を留めることが増えた。いつ暗殺者が襲ってくるかと、緊張し続けていたが、森の景色に目を向ける余裕ができたのだ。
辺境伯は次の手を考えているかもしれない。脅威が消えたわけではない。だが、公子と従者、二人が加わっただけだというのに、こんなにも心強いのは不思議だった。
相変わらず公子の婚約者への気遣いも申し分なかった。仲間と対等の立場で長い時間を過ごしてきたシェリルは、貴婦人として丁重に扱われ、公子があらゆる物から彼女を守ろうとするのが新鮮だった。
古びた狭い巡礼路を、大抵シェリルとレナードは横に並んで歩いた。前後にシェリルの護衛は散らばり、すぐ後ろに公子の従者と、シェリルの侍女が続いた。
公子は偽者と同じく、やはり口数は少なかった。自分の話よりも、婚約者に質問をすることが多く、伯爵領のことやフィリスの小さな頃の話を聞きたがった。一通り伯爵領のことや、その家族についての情報は頭の中に入れてきたが、やはり何か勘繰られているのではと、シェリルは内心冷や汗をかいた。
影武者と言っても、あくまでおとりに過ぎない。まさか当の婚約者と話すことになる事態は想定していなかった。
シェリルの仲間たちも大いに慌てた。慎重に身代わりを探し、何が起こるか分からないと、服装から言葉遣いまで徹底的に準備させた伯爵の読みに彼らは感心した。仲間たちもまた、伯爵令嬢の護衛として、服や言動などの指導を逐一受けてきたのだ。
彼らは何より聡明なシェリルの機転に感謝し、誇りに思った。彼女でなければ、公子の前で、フィリスの身代わりなど務まらないだろう。
仲間たちは、自分たちの正体を公子に告げるかどうか、一度相談した。しかし、シェリルと、伯爵家直属の護衛たちは反対した。伯爵から与えられた仕事は、フィリスの身代わりを内密に務めながら、公爵領に辿り着くことだ。その仕事の内容を、例え婚約者と言えど、公子に暴露してしまうのは、雇い主である伯爵との約束に反するし、万一、公子か従者を通じて、彼女たちが身代わりであると辺境伯などに伝わるのは、最も避けたいところだ。暗殺者から助けてもらったとは言っても、公子がどのような人間なのかは、まだ分からないのだ。
身代わりを後生大事に公爵領まで連れてくれる公子には申し訳ないが、無事に公爵領に着き、主街道を取って先に到着しているはずの本物のフィリスに面会するまでは、仕事を続行することにした。
フィリスが無事に公爵家に到着した時点で、シェリルたちの仕事は完了だ。順調に進めば、馬車を使っている彼女の方が、シェリルより先に到着しているだろう。
替え玉として、のこのこ公爵家に公子と共に到着した後のことを考えると、やや不安はある。偽者の婚約者を守って、危険な巡礼路を下ってきたと知った公子は、少なからず怒りを覚えるだろう。だがそこはフィリスがうまく口添えをして、公子をとりなしてくれるはずだ。彼が見た目通り穏やかな人間であることを祈った。
できることなら自分の正体を諭られず、良い折りを見て、本物のフィリスと上手に入れ替わることができれば、波風立たず、理想的だ。
可能性は少ないが、その機会が訪れる時に備えて、シェリルはできる限り本物のフィリスに近い演技を続けた。
フィリスの安全と伯爵との契約を最優先にする気持ちは本物だ。
だが、正体を隠したまま旅を続けることで、少しでも長く、婚約者として公子の側にいる為の口実でもあることは、分かっていた。
「レナード様は今までどんなことをされてきたんですか?」
レナードの名を呼んで、斜め上にある彼の顔を見上げる時、シェリルは薄い罪悪感を感じる。最近は彼に質問される前に、シェリルの方から彼について尋ねることが多くなった。
「どんなこととは……?」
レナードは質問の意味を図りかねたらしく、少々困惑した声で問い返す。相変わらず口元は柔らかい笑みを浮かべたままだった。
「ご趣味でも、お父様のお手伝いとしてしてきたことでも、お好きなことでも……」
「そうですね……」公子は首を傾げた。「趣味と言える程のことは無いですね。元々体が丈夫な方ではないので、狩りも剣技も、あまり父が熱心に教えたがらなかったのですよ。私も興味はありませんでしたし。どちらかと言うと、古語や詩作の方が好きでしたね。子供の頃は笛の演奏などもなかなかだったのですが、すぐに飽きてしまって……。練習を積んでいないので、今は素人以下です」
確かにこの色白の青年は、そう痩せているようには見えないが、あまり頑丈な体格でもなさそうだ。がっしりとして強い男性が好ましいとされるこの地方では、この体格で損をしてきたことだろう。
彼女の同情に気づいてはいないだろうが、青年は微かに自嘲するような表情で続けた。
「幸い二人の兄は優秀です。存分に父を助けていますので、三男の私は宴会や軍事演習に引っ張り出されることもなく、好き勝手をやらせてもらっています」
その言葉の裏に、深い劣等感を嗅いだ気がした。それは、貴族女性にとって重要な要素である、容貌に対するフィリスのそれと通じるものがあるだろう。まだまみえてもいない二人に、繋がりができたような気がして、シェリルの胸を悲しく窪ませた。
「小さな頃は、本ばかり読んでいて、外に出なかった私は、父によく叱られました。それを母がかばってくれたものです。でも今は、母の方が『もう少し体を鍛えないと、嫁に逃げられる』と小言が多いのですよ」
公子は苦笑いを交えてそう語った。シェリルは彼に首を振ってみせる。
「私も体が弱い方ですので、古語や詩作は小さな頃から好きでした。生まれもった性質や体質というものがありますし、あまりお気になさらない方がよろしいのではございませんか? 私は、公子は今のままで素敵だと思います」
貴族の令嬢らしく優雅に微笑みながら彼女は言ったが、その実、心臓はどきどきと弾み続けていた。「可愛らしい」と彼女を褒めてくれた公子へのお返しのつもりだった。
「ありがとうございます」
目を細めてシェリルを見下ろした彼の表情に、礼儀以外のものがあったのかは分からなかった。
やがて道沿いに小川を見つけ、一行はやや遅めの昼食と休憩を取ることにした。
例によって交替で水浴びをする。
シェリルたち女性が先に済ませた後、公子と従者が小川に浸かった。その間一同は離れた場所で昼食の準備をしていた。
「仲良さそうじゃないですか、フィリス様」
パンとチーズを切り分けながら、仲間の男が、からかい混じりに小声で話しかけてくる。
「婚約者ですからね」
シェリルは素っ気無く答えた。
「いい男だもんなあ。惚れないように気をつけなさいよ」
「ちょっと、二人で同じこと言わないでよ」
シェリルは笑いながら、先日同じことを忠告した仲間の女の方を見た。しかし、いつもまめに働いている彼女は、微かに俯いて、仕事の手を止めていた。
「どうしたの?」
シェリルが声をかけると、振り向いた彼女は首を振る。
「少し吐き気がして、お腹が痛いの……。ちょっと休んでていい? 私、お昼ご飯はいらない」
彼女は仲間の輪から少し離れた、木の根元に腰掛け、幹にもたれかかってしばらく目を閉じていた。
体力のある彼女が体調を崩すことは珍しかったが、すぐに治るだろうと思っていた。
しかし、休憩の後、再び移動を再開してからも、彼女の顔色はすぐれなかった。
辛抱強い彼女はそれでも歩き続けたが、夕方を前にして、休憩の際に座り込んでしまった。
「熱があがってきています」
彼女の額に手を当てた、別の仲間の男は、シェリルに向かって言うと、水筒で冷やした手ぬぐいを仲間の女の額にあてがった。
「これ以上歩かせるのは……」
仲間が静かに首を振る。今日はここで野宿かと、シェリルが覚悟を決めた時、レナードが進み出た。
「もう少し歩けば、巡礼宿があるはずです。そこで侍女の方の具合も見ていただけるでしょう」
「しかし公子、これ以上侍女に無理をさせるわけにはいきません」
仲間が口を開く前に、シェリルがレナードに訴える。
青年は微笑んだ。
「大丈夫です。夜になる前には着けるはずですから。私の従者に侍女殿を背負わせましょう」
言うが早いか、レナードは従者を呼びつけ、仲間の女を背負うように命じた。そして自ら、従者がそれまで担いでいた、彼らの旅の荷物を取った。
仮にも公子とあろうものが、背嚢を背負って歩くなんて。シェリルはその姿に、若干の滑稽さを覚えつつ、彼を心の内で称賛した。伯爵家の護衛が飛び上がって、公子から荷物を受け取り、自分たちが運ぼうと申し出たが、公子は首を振った。
「結構です。あなた方のお荷物に比べれば大した量ではありません。身の回りのものだけですので、これくらい運べなくては、ご令嬢の夫になる資格もございませんよ」
公爵より身分の低い伯爵家の、しかも護衛風情にまで、レナードは丁寧な口調を崩すことはなかった。
そうしたレナードの振る舞いに感銘を受けるほどに、シェリルは胸の奥が疼くように痛む気がした。
レナードの言葉通り、太陽の端が隠れようとする頃、森の奥に素朴な煉瓦造りの宿が見つかった。
修道士風の姿をした主人は、彼らを暖かく迎え入れ、早速発熱している、仲間の女の体調を看てくれた。
「川熱でしょう」
主人は聞き慣れない言葉を告げた。
話によれば、この周辺の川で泳いだり、取れた魚を食べた人間が、時折発熱と下痢、嘔吐などの症状を出すことがあるらしい。
滋養と休息を取れば、直に回復するだろうと彼は続けた。死に至る程衰弱するようなことは滅多にないらしい。
病の正体が分かり、シェリルも胸を撫で下ろした。
その晩、三日ぶりのテーブルでの夕餉に、一同は舌鼓を打った。提供されたのは素朴なスープであったが、温かいというだけで、ありがたかった。
伯爵令嬢だと名乗ると、宿の主人はシェリルに二階の個室を提供してくれた。
本来なら、辺境伯に狙われる危険がある身で、宿泊先で身分を名乗って回るのは賢明ではない。しかし彼らは囮である。できるだけさりげなく、伯爵令嬢であることを宣伝する必要があった。
病で熱を出している仲間の女にも、寝台が二台の小部屋を用意してくれ、主人の妻が看病についてくれることになった。
主人夫婦の親切と、久しぶりの寝台での睡眠に、彼女は心から寛いだ。個室に入って、やっと伯爵令嬢フィリスの仮面を脱ぎ捨て、そして冒険者としての自分も取り払って、自分自身に戻れる。
それでも万一に備えて、伯爵令嬢として夜着に着替え──普段の彼女は当然夜着など着ずに、下着姿か服を着たまま寝る──、板張りの上に藁と幾枚かの布を敷いた簡素な寝台に横になった。念の為、外套と短剣は枕元に置く。
燭台の明かりを吹き消し、旅の疲れから、シェリルがあっという間にまどろみ始めた頃、扉が外からこつこつと叩かれた。
すみません、頭の中では話はできあがっていますが、諸々の事情により後編の更新は少し遅れそうです。
…単純に時間が無いだけなんですけど。
既に話がまとまってて、あとは書くだけという状態なだけに、非常にもどかしいのですが、忘れずに待っていただけると幸いです。
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