警告
この作品は<R-18>です。
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プロローグ
海軍兵学校の流れを汲んでいるという学園には、その名残として桟橋があった。かといってそこに軍艦が停泊しているはずもなく、ただそこに昔日の日々を懐かしむように存在するだけである。
鮎川秀は高等部専用の寮部屋に移り、荷物も一通り整理し終えるとひと息吐くために屋外へと足を向けた。
小高い丘の上に建つ近代的な校舎の脇には、明治26年当時そのままの姿で残っているジャコビアン様式の大講堂があり、もちろん現在も使用可能の立派な建築物でもある。その大講堂を横ぎり、坂を下ると表桟橋へと続く小道に出る。
入学式を十日後に控えた四月の風は、午後を過ぎてもなかなか気温が上がらず頬に冷たかった。それは海に面した敷地内の公園に出ると、殊更感じるようになる。
園内には数人の学生がいて、各々が肌寒いなりにも陽射しの当る良い場所を探し、休んでいた。お喋りに興じる者、寝転がって昼寝をする者それぞれだ。
休日の午後を満喫している彼らを横目に、秀は桟橋へと向かった。潮風はきついに違いないが、雲ひとつない空から注ぐ陽光はそれでも暖かく感じ、きっと心地が良いだろうと胸を躍らせた。
湾に向かって伸びる桟橋に着くと、先客がいることに気づいた。たまに教師が釣りに勤しむことがあるから、彼もまたその一人なのかもしれないと、さして気にも留めずに歩を進めた。
黒づくめの彼は良く見ると教師ではなかった。
陽光に反射して見えなかったが彼の髪の色は黒ではなく、濃い茶で陽に透けると金茶に光っていて、少し長めの襟足が潮風に煽られて舞い上った。スーツかと思っていた上着には学生服独特の襟首があり、それが白に縁取られたカラーであることから彼がここの学生であることがわかった。
秀は首を傾げた。
校舎こそ違うが、中高一貫教育を施しているこの学園では、各行事ごとに中等部と高等部との交流も図っている。だから自ずと在校生の顔は覚えてしまうものだ。
しかし、桟橋に佇む彼は初めて見る顔だった。
春風にさんざめく海面を真っ直ぐにみつめている横顔は、不機嫌そうに歪んでいる。声をかけようか躊躇していると、そんな秀に気づいた彼の方が先に話しかけてきた。
「ここの海は綺麗なんだな」
流暢な日本語に、秀は目をしばたたせた。
てっきり外国語を話すと思っていたから、彼の唇が僅かに開いた瞬間から身構えていたのだ。
「まさかと思うが日本語が通じないのか?」
彼の眉間に皺が寄せられる。英語はからきしダメだが日本語は母国語だ。じゅうぶんヒヤリングもできるし、会話だってこなせる。情けなくなるようなことを思いながら、青年に向けて答えた。
「もちろん通じるよ。ただ……あまりに日本語が流暢だったから、驚いてすぐに言葉がでてこなかっただけ」
「そう」
懐こく声をかけてきた彼だが、その割りには素っ気ない返事でそれ以上の会話が続かなかった。居心地の悪い空間に違いなかったが、生来の気質から秀は彼のすぐ傍まで歩み寄り、屈託のない笑顔を向けた。
「少し話してもいい?」
迷惑じゃないかとは訊かない。そう訊ねて迷惑だと答えられたらまた会話が途切れてしまう。
「僕は高等部1年の鮎川秀。……名前を訊いてもいい?」
「ヴェレシュ・クリシュトフ」
「ヴェレシュが名前?」
「いいや。俺の国は日本と同じで姓名の順で発音する」
「じゃあクリシュトフが名前なんだね。……どこの国の人?」
「ハンガリー」
「ハンガリーって寒い? それとも暑い?」
クリシュトフの視線が秀から外れ、海面へと移動した。質問が矢継ぎ早過ぎたかと秀は内心焦ったが、それは次の瞬間に打ち砕かれた。
「質問責めだな」
口元は上がり、深海のように深い青を湛えた瞳に明るさが宿った。東洋人にはない白い肌は上気して赤くなる。僅かに下がった眦で秀を見たクリシュトフは、確かに笑っていた。
「笑うときれいだね」
思わずそんな言葉が口をついて出た。だが誉め言葉のはずのそれを聞いたクリシュトフの表情はすぐに暗く翳ってしまった。
「男にきれいは誉め言葉じゃないか。ごめん」
初対面の者に対してあまりに明け透け過ぎたことを後悔した。機嫌を窺うように上目遣いでクリシュトフを見る秀に対し、彼の反応は皆無だった。
海面で魚が跳ねた音がする。すこしきつくなった潮風が二人の髪をなぶり、吹きぬけていく。
そんな重圧な空気に耐え切れず、秀がまたも話しかけた。
「日本語が上手なんだね。長いの?」
けっきょく質問しかできないことに唇を噛む。
「さあ、どうだろう。これを流暢というのかどうか……わからないな」
クリシュトフは淡々と答える。
「いまさらなんだけど……。学年も訊いていい?」
「構わないよ。3年への編入になる。交換留学生だ。寮への荷物はほとんど運び込まれていて、時間を持て余していたから散歩に出てみた。きれいな場所でとても寛いだ気分を味わっていたところだ」
「僕も同じ……です。荷物の整理が終わったのでひと息吐くために出てきました」
「今度はこちらから訊ねてもいいか」
クリシュトフの顔は明らかに怪訝なものだった。その意味するところがわからない秀は、首を傾げながらも「はい」と素直に答えた。
「なぜ言葉が変わった?」
「言葉?」
「ああ。言い回しだ」
秀の話すことばが急によそよそしくなったことを彼は訊ねたいのだろう。合点がいった秀はぺろりと舌を覗かせて、
「僕は1年だから、先輩に対して馴れ馴れしい態度は良くないので」
「では今度から俺のことをなんと呼ぶつもりだ」
「ええと。ヴェレシュ先輩……?」
クリシュトフはさらに怪訝な表情をして見せた。
「クリシュトフでいい」
「だって先輩ですよ?」
「俺がいいと言っている」
「じゃあ、クリシュトフは長いからクリスでいいですか?」
「……──構わない」
少し間があったが秀は気にしない。エスカレータ式で繰り上がった高等部とはいえ、新しい友人を得るというものはいつでも嬉しいものだ。
あいかわらずクリシュトフの受け答えは素っ気ないものばかりだったが、秀はいっこうに気に留めず、当直の教師がクリシュトフを呼びにやってくるまでの3時間。桟橋の上で彼と雑談を楽しんでいた。
ぽつんと一人取り残されたが、もう一度眺めた水平線の煌きに秀は目を細めた。新しい友人が見せた束の間の笑顔は、とても印象的でいつまでも網膜に張りついたように鮮明な記憶として残った。
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