ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
警告   この作品は<R-18>です。 18歳未満の方は移動してください。
  蜜月 作者:灰谷ソウヤ
10.僥倖なるひとの声(おと)
お前の心拍は速いって、しのぶちゃんに言われたことがある。
1分間60秒のカウントを、ちょっと追い越すくらい。
しのぶちゃんはどうなのって返したら、俺は普通、なんて、つれないの。

普通ってどれくらいよって言ったら、聞いてみろって抱きしめられた。
胸にくっついた右耳に心音が伝わってきて、それがとても恥ずかしかった。
顔がすっごく熱かったから、多分真っ赤だったんだと思う。
嫌がってるみたいなふりで逃げたけど、しのぶちゃんは気分を害した風でもなく、ただ穏やかな声で笑っただけだった。


その頃、私としのぶちゃんは今みたいな感じじゃなかった。
名前を教えてもらって大分経って、行きつけのお店の店長さんと女子高生だったのが、「お試し期間」に入ったばかり。
そっけなかったり、悪戯っぽいニヤニヤ笑いを浮かべてたり。
そのひとつひとつの表情に、私はいつも振り回されてた。
後になって、「いつもお前の気ぃ引くことばっか考えてた」って教えてくれたけど、当時はそんなの全然わかんなくて。


いつでも余裕があって、私のことからかっては楽しんでる、性質の悪い大人。
毛色の違うお子様をおちょくって、日々の不興の慰みにしているだけで、そのうち飽きるに決まってる。


私はしのぶちゃんのことを、そういう人だって思ってた。
そうだって決め付けて、色んなものを見ないようにしていた。
さんざんからかわれても、やっぱりお店に足が向いてしまう自分の気持ちも。
時々ふっと、力を抜いて優しい表情をする、しのぶちゃんの本当の気持ちも。





「……」

「……」

「…ねえ」

「………」

「ちょっとー」

「…………」

「おーい、しのぶちゃーん」

「なんだ」


あ、聞こえてはいるのね。


しのぶちゃんはさっきから、ずっと私に抱きついている。
それも自分は座って、私の胸に顔を埋めるように。
今日は二人とも全身筋肉痛で、歩くだけでも股関節とか腰とか腹筋とかがギチギチ。
さすがに自粛しようねって話した後のことだったから、さっきの決め事は何だったんだ、って思ったんだけど。


しのぶちゃんはただ、私の胸の間に耳を押し付けているだけ。
時々当てる耳を変えては、珍しいくらいに大人しく、私の心臓の音を聞いているのだ。


「ね、どうしたの本当に」

「んん…?」

「何してんの、さっきからさぁ」

「ぁ……何してるってか?」


どこか眠そうな、気の抜けた表情のしのぶちゃん。
すごく無防備な顔で、胸に顔をすりつけてくるばかり。
時々ほぅ、ってため息なんか吐いたりして。


「僥倖をだな……感じてるわけ」

「ギョーコー? なんじゃそりゃ」

「知らねぇか? 思いがけない幸福って意味だ
後でケータイででも調べてみ」

「…はぁ」


なんだかよく分からないけど、言われた言葉が気恥ずかしいくらい嬉しいことだっていうのは分かった。
私に抱きついてまったりしていることが、しのぶちゃんにとっては「思いがけない幸運」ってことらしいから。


「あ、はやくなった」

「な、何が?」

「鼓動、どんどんペース上がってる」

「ちょ、それは…しのぶちゃんが…っ、ヘンなこと言う、から…」

「何を?」

「ぎ…ギョーコーだとか何とかっ」


照れ隠しに、早口でぼそぼそした喋りになってしまう私に、しのぶちゃんは優しく笑う。
きついくらいに鋭く整った顔を、柔らかく綻ばせて。

いつからか見せてくれるようになった、しのぶちゃんのこの笑顔が、実は私は大好きだったりする。


「すげーことだよなって、思う訳」

「何が」

「お前が、ここにいるってこと」

「……ぅうん?」

「お前が生まれて、育って、俺と出会って、ここにいるってことがだ」

「………??」

「はは…わかんねぇ? そんならそれでいい」


いいじゃわかんないよ、教えてってば。
そんな風に返そうと思ってた言葉は、次の瞬間で不要なものになった。


「…!」


しのぶちゃんは、私の心臓にキスをしたのだ。

もちろん、実際に心臓になんて触れない。
その前には臓器やら肋骨やら皮膚やらがあるわけで、唇なんて届かないもの。
でも布を隔てた向こうから、しのぶちゃんは自分の唇を、それらを通り越した先にあるものに向かって捧げた。
今までの会話の脈絡からとかじゃなくて、ほとんど本能的に、そうなんだって思った。


しのぶちゃんは、わたしの心臓にキスしたんだ、って。


突然、さっきからしのぶちゃんがしてることの意味が分かった。
私の質問に対する、なんだかよくわからない答えの意味も。

それに、自分がしようとしていた質問に対する答えも。




しのぶちゃんの気持ちを見ないようにしている自分に、罪悪感を初めて感じたのはあの時だった。
脈拍が速いだなんだのって会話をしていたとき。
ふざけたような軽い調子を装って、「おら聞いてみ」って言いながら抱き寄せられた、あの瞬間だ。

あれはただ、ポーズとして両腕に囲うようなのじゃなかった。
強い力ではなかったけど、あの時しのぶちゃんは躊躇わず、私を胸に招いた。
そのまま後頭部に添えた手で、私の頭を胸に押し付けた。


その時、何故だか唐突に思ったのだ。
この人は本当に、私を望んでくれているのかもしれない、って。


途端に、しのぶちゃんに対して悪いような気持ちが湧いた。
もしかしたら、私はとても残酷なことをしているのかもしれない、って思った。
一瞬後には、心の中にもう一人の自分が現れて、
「そんなわけないじゃん、大人のやりくちにハマったら火傷するよ」って囁いて。

私は振り払うように、しのぶちゃんの腕から逃れた。



別荘滞在八日目の今日、こんな風にしのぶちゃんに抱き寄せられて、気がついたことがある。
緊急な状況だとか、お医者さん相手でもないのに、誰かに心臓の音を聞かせるって、すっごく親密な証だってこと。
大体、人の胸に他人が頭を押し付けてるなんて、よっぽど仲良しじゃなかったらできないもの。
それにこれって、ある意味では「心臓を差し出す」のと同じ事みたいな気がするし。

誰かに心音を聞かせるってことはきっと、ただ脈拍を感じるだけじゃないのだ。
鼓動を確かめるってことは、その人の心臓が動いて、身体に血液を運んで、頭のてっぺんからつま先までを「生かしている」のを知るってこと。

それってつまり、その人が今ここに「生きている」こと、難しく言うなら、その人の「存在」そのものを確かめてるってことじゃないのかな。


心臓って、脳ミソと同じくらい重要な身体の一部で、昔から「ハート」とか、「心」を示す象徴みたいに思われてた。
(現代医学に照らせばハートは多分「脳ミソ」の方にあるんだろうけど、その辺は今は置いとこう) そこに最も近い身体の表面に、誰かが耳を澄ませる。
心臓の持ち主は抗うことなく、相手を引き寄せ、受け入れ、抱きしめる。
それって、何かとても特別なことじゃないだろうか。
赤ちゃんがお母さんの心臓の音に安心するとかっていう話もあるし。


まあ…エッチなことして成り行き上ってことはあるかもしれない。
でもそれだって、興味がなければ終わったあとまでいつまでもベタベタして、相手の心臓の音聞いてるなんてことはないんじゃないかと思う。



あの日のしのぶちゃんはすでに、私にそれを許してくれてた。
私が懐にもぐりこんで、しのぶちゃんが「生きている」ってことを確かめるのを、許してくれていたのだ。

そして今、しのぶちゃんは私の鼓動に耳を傾けている。
時折押し付ける左右の耳を変え、その合間には、皮膚や骨を透かした先の心臓に向かって、私の胸の間に唇を押し付ける。

ここまで考えてきたことと、しのぶちゃんのその行為が瞬間的に繋がって、私はそれこそ、胸がかっと熱くなるような思いがした。



しのぶちゃんは、祝福してくれているのだ。
私が今ここにいるってこと、生きているってことを喜ぶよって、私に示してくれているのだ。



その気持ちは、ありふれた恋心なんかよりずっと先にあるものみたいな気がした。

だってその気持ちは、何もかも飛び越えたところにあるのだ。
相手が自分を好いてくれるかとか、相手の今までの過去だとか、これからだとか、そんなものをみんな超越している。


今までに何があったとしても。
これから先、遠くない未来に別れがあったとしても。
自分でない誰かを想うとしても。
自分のこの心に、あなたが気付かないとしても。



ここにいる自分は、今ここにあなたがいてくれることを喜び、祝福する。



「……っ」


その感情は、もう恋なんて言葉では足りないような気がした。
しのぶちゃんが私にくれたものは、もっと深くて、確かなものだもの。
移り気で不安定な激情なんかじゃない。
目には見えないし、触ることも出来ないけれど、確かにここに存在しているもの。


昨日までの私が、一番欲しがっていたもの。


なら私も、その心に報いたい。
同じ気持ちを、しのぶちゃんに返したい。
しのぶちゃんがくれたからお返しってことじゃない。
うまく表現できないけれど、おんなじ気持ちが私の中にもあるんだよってことを、しのぶちゃんに知ってほしい。


されるがままになっていたけれど、そっと腕を上げて、しのぶちゃんを抱きしめ返した。
広い肩と、頭にそれを廻す。
私の鼓動が、もっとはっきり伝わるように。

私の動きにつられたように、しのぶちゃんは視線を上げてきた。
寒い寒い場所の、一年中溶けない氷みたいな色の目なのに、暖かい印象なのはなんでだろう。


「へへ、わかっちゃった」

「んぁ?」

「さっきの しのぶちゃんが言ってたこと」

「あ? …そうか?」

「うん、耳かして………」


内緒話みたいに、しのぶちゃんの耳にだけ言ったのは、大きい声では言えなかったから。
人生で初めて、自分の事としてこの言葉を使うのは、想像してたよりも、ずっと照れくさくて、恥ずかしかった。
それに、あんまりどこにでも聞こえるような声で言ったら、その声と一緒に、私の気持ちも空気に散ってしまうような気がしたのだ。


大事なことが載った言葉だから、しのぶちゃんだけに、全部受け取ってほしい。


「…あってる?」


言い終わったら、顔を上げて見つめあう。
顔が真っ赤なのは分かってるけど、本当は顔面隠しちゃいたいけど、どれも全部我慢。


しのぶちゃんは静かに、満足げで優しい、特別な笑みを刻んで。


「へっ……カンペキ」

「へへ」

「俺も……お前の返事わかるぜ」

「本当?」

「………」

「…正解」

「おっしゃ」


さっきとは反対に、今度はしのぶちゃんが私の耳に内緒話。
囁かれる内容は、十二分に私の気持ちを受け取ったもの。
嬉しくて思わず笑えば、しのぶちゃんも満たされたような表情を返してくれた。

図らずも私達は、気恥ずかしくも幸せな、お互いの秘密を分け合ったことになる。


「ねー」

「あん?」

「ギョーコーってさ、こういうときに使うので合ってる?」


顔が赤いまんまの私の唇を、しのぶちゃんは電光石火で盗んで、また両腕をぎゅっとしてきて。


「お前マジでいい女」

「でへぇ」

「『でへぇ』はやめろ『でへぇ』は」


二人してふわふわないい気分で、くだらないこと喋って、いつまでもべたべたくっついてる私たち。
どこをどう見ても、見事なまでにバカップル。

でもいいんだ、「ギョーコー」だもん。






―あいしてる、ってことでしょ?

―私も、ってことだろ?






滞在は八日目。
残っている時間はあと二日。


二人の休暇は、もうすぐ終わる。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。