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9・吸血鬼
「あなたに必要とされないのであれば、あのとき死んでいたほうが良かった」
「そのようなことを言うな。この命に代えても、生きて欲しいと思ったのは本当だ」
「カナーン……愛しているとは言ってくれないの?」
 カナーンの腕に抱かれながら、シャナンはおずおずと訊いた。
 即答しないカナーンに、シャナンは絶望を感じながらも真剣な眼差しを向けてじっと答えを待った。
 その瞳に負けたように、カナーンは重い口を開いた。
「……正直に言おう。私はお前の母を愛していた。今も変わることはない」
やはりそうなのだ。予想していたとはいえ、シャナンはショックを受けた。
しかし、ほんの僅かに目を反らして顔を曇らせただけで、直ぐにカナーンに向き直りきっぱりとこう言った。
「母はもういません。今は身代わりでもいい。私はいつまでも待ちます。あなたがためらいなく私に愛していると言ってくれるまで」
「シャナン……」
 カナーンはまっすぐなシャナンの気持ちに心を打たれた。
禁欲を知らないカナーンは、情に任せてシャナンに口付けをしようとその顎を引いた。
「待って」
「嫌なのか」
「違う、あの娘が見ているところでこんなこと……」
 カナーンに連れ去られてきた若い娘が無表情で二人の方に視線を向けて立っている。シャナンはその娘のほうをちらりと見て目を伏せた。
「あの娘は意識がない。いないも同然だ」
「でも……」
「気にすることはない」
 カナーンはにやにやしながらシャナンの恥じらいを楽しんでいるかのように、強引に顎を引いて唇を奪った。
抵抗していたシャナンは、次第に力が抜けたようになり息を荒くした。カナーンは構わず口付けを続け、その張りのある胸に手を伸ばした。
「いや……」
 拒絶の言葉を口にするものの、シャナンはされるままになっていた。
 快感が体の力を奪い、立っていられなくなったシャナンは、とうとうその場によろけるように座り込んだ。
「愛を語るのはいく久しい。まして、同族となった者と愛を交わすのはお前が初めてだ」
 そう囁きながら、カナーンは執拗にシャナンの白い肌に口付けた。
「美しいシャナン」
 シャナンが恍惚に身を任せている間に、カナーンは傍に立っている若い娘を目で呼び寄せた。その娘をシャナンの背後へと回らせ、シャナンに気づかれないようにひざまずかせた。
「生と性は等しい。生きるために必要なものだ……特に我々には、な」
 カナーンの愛撫に、うっとりと目を閉じているシャナンの背後から、若い娘がシャナンの体に両腕を絡ませた。驚いたシャナンは目を大きく見開いた。
「良い香りがするだろう。若い娘の血の匂いだ」
「良い香り……」
 シャナンはすぐにその香りに恍惚となり、目を鈍く光らせた。後ろにいる娘の方へ振り向き、うっとりとその娘の首筋を指先でなぞり始めたのだ。
「シャナン、本能の赴くまま、生きよ」
 抗えない何かが、シャナンの中でうごめいた。シャナンはその鋭い牙を、娘の白い首筋に立てたのだった。
 真紅の液体がつつっと白い首を伝って流れた。
 生暖かい液体がシャナンののどを潤し、生娘の香りがシャナンを酔わせていた。
 体中が乙女の血を欲し、貪欲にそれを求めているのだった。
 娘の首筋に流れる血が首を押さえていたシャナンの指先に滴り落ちた。
「いやっ! 私、なんてことを……」
 血が指に触れた途端にシャナンは我に返って拒絶し、若い娘を跳ね除けてしまった。
「シャナン、怖がることはない」
「できない、私にはできない。そんな恐ろしいこと……」
 がたがたと体を震わせて、シャナンはその場に座り込んでしまった。カナーンは硬い表情でシャナンを抱き上げ、寝室へと運んだ。
 涙ぐむシャナンをベッドに寝かしつけたあと、カナーンは首筋からじわじわと血を流したまま床に座る若い娘を手元に抱き寄せ、その血を乱暴に味わった。
娘に覆いかぶさるカナーンの姿は、まるで本能の赴くままに襲い掛かる獣のようだった。
「血を求めない吸血鬼は生きていけない。私は過ちを犯したのだ」
カナーンは自分を責めていた。シャナンを助けたと自己満足しただけで、悪戯にシャナンを苦しませただけだったのだ。
このままでは、シャナンは吸血鬼として生きていけない。血を求めなければ生きられない己の存在を呪い、シャナンは苦しむことになるだろう。
カナーンは何もかも忘れてしまいたいとでもいうように、快楽に身を任せた。
 だが、快楽に逃げることはできなかった。シャナンのことが頭から離れない。
カナーンはシャナンの行く末を案じずにはいられなかった。
若い娘の血で満たされたはずだったが、重い楔が心臓に刺されたような重苦しさを、カナーンは感じていた。
「カナーン、私を見て。私を愛して」
シャナンの瞳は常にそう訴えていた。
だがいずれ、シャナンは吸血鬼であるカナーンを軽蔑するようになる。シャナンの命をもてあそんでしまったのだから、憎まれても仕方のないことだ。
カナーンは自分を責め、追い詰めた。
シャナンを吸血鬼にしてしまったのは間違いだったのだ。やはり、静かに眠らせてあげたほうが良かった。だが、同族となったシャナンを、この手にかけることはできない。ならば、自分が消えてしまえば良いのではないか。そうすれば、シャナンは苦しまないうちに安らかに逝けるだろう。このカナーンがバートリの前に身を投げ出し、聖なる銀の弾を打ち込んでもらう、それだけでいいのだ。
カナーンはそうするしかないと思った。

翌日。夕闇が支配する時刻、カナーンはベッドからゆっくりと起き上がった。傍らに眠る、土気色の顔をしたシャナンを、優しい眼差しで見つめた。血の気がなくなった痛々しい姿に、カナーンは顔を曇らせた。
カナーンはシャナンをそっと起こし、自分の膝の上に引き寄せて優しく抱きしめた。
「カナーン、いつもと違う」
「そんなことはない」
「いつもより、優しいもの……」
シャナンは頬を染めて恥じらいながらも、カナーンの口づけを受け入れた。カナーンが唇を離した途端、瞳を閉じてうっとりとしていたシャナンが大きな目を開きカナーンを見つめた。
顔色こそよくないが、シャナンの海の底のような深い青色の瞳は瑞々しさを保っていた。
嘘などついたことがないのだろう。思ったことはやり遂げるのだろう。若い、曇りのない瞳が眩しい。本能の赴くまま、快楽に身を任せて背徳の限りを尽くす吸血鬼に、シャナンがなれるはずなどないではないか。
カナーンは目の前にある澄んだ瞳が眩しく思えて、側の窓の外へ視線を移した。
暗闇に、積もった雪が月明かりで青白く光る。沈黙の夜が広がっている。
目をそらしても、シャナンの視線が刺さるように感じる。カナーンはその瞳から逃れたくて、シャナンの背中に手を回して抱き締め、耳元で囁いた。
「教会の庭先でお前に初めて会ったとき、本当はそのまま連れ去りたかった」
「どうしてそうしなかったの?」
「お前の母の面影を追っていただけだとわかっていたから」
 シャナンの体が硬くなるのがわかった。髪を撫ぜながら、カナーンは話を続けた。
「今は……お前が愛しいと思う」
 もし、シャナンのあの純真な瞳で見つめられ、本気でそう思っているのかと問われたなら、カナーンは「違う」と答えてしまったかもしれない。
だが、本当のところ、カナーンは自分の気持ちがわからなかった。シャナンの母の面影を見ているのか、シャナンに惹かれているのか。
今は自分の気持ちはどうでも良かった。シャナンが望むようにして、安らかに逝かせてあげたい。その一心で、シャナンを抱き締めていた。
今宵を二人で過ごす最後の夜にしよう、シャナンの思うようにしてやろうと、カナーンは強く思った。
 腕の中のシャナンは、カナーンから体を離してカナーンの顔を悲しげな瞳で見つめた。
「何を、考えているの? カナーン、どこにも行かないでね。最期のときまで、あなたの傍にいたい」
「わかった」
 嘘をつくことに何の呵責も感じたことなどなかったのだが、カナーンはかすかに笑ってそのひとことを発するのが精一杯だった。
シャナンは吸血鬼として生きることを望んでいない。人の命を奪って生きるより、己の死を選んだのだ。
 いたたまれなくなったカナーンは、自分の胸に押さえつけるようにシャナンを一層強く抱き締めた。
 生き死にには冷酷でいられたカナーンだったが、シャナンをこの世から消し去ることを考えると、胸が凍る思いだった。
自分はいい。気が遠くなるほど生きてきたのだ。生に執着はない。
「シャナン、私の血であれば構わないだろう。生きる糧なのだから、ためらわずに口にしたらいい」
「……たとえあなたの血でも、私にはできません」
「死を、選ぶのか」
「このままでは朽ちてしまうというのであれば、それも運命です。最期にあなたに抱き締めてもらえた。それだけでいい」
「生きて欲しい。私がそう願ってもだめなのか」
「私には、できないのです」
 シャナンの揺るぎない意志は変えられなかった。
カナーンは沈黙した。
土気色になったシャナンの皮膚。もう長くはない。飢えで苦しみながら最期を迎えるよりは一思いに逝ける方がいい。
 そんな選択肢しかないことに、カナーンは打ちひしがれていたが、口では愛を囁いた。
「シャナン、お前は私の唯一の恋人だ」
「嬉しい」
 ただ抱き合っているだけだというのに、シャナンのその言葉を聞いただけで、カナーンは目眩を覚えた。
 胸の奥が熱くなる感覚。久しくなかった感情にカナーンは戸惑っていた。
「カナーン、もう一度キスして」
 言われるままに、カナーンは唇を重ねた。シャナンを抱き締めたまま、何度も何度もキスをした。
 シャナンの体をいたわり、カナーンはそれ以上のことをしなかった。シャナンもまた、望まなかった。一晩中二人は抱き合って過ごした。
 そうしているうちに、夜は白み始め、シャナンが目を閉じたので、ベッドへそっと寝かせた。
 シャナンをこれ以上苦しませたくない。
 その寝顔を見て、カナーンは改めてそう思った。
似つかわしくないことをしている。本気で好きになったというのか。
カナーンは自分の行動が信じられなかった。相手を思いやり、いたわろうとしている。
 人間の娘を同族にしきれなかったからと、心中のような真似をするとは、一族の笑い者だ。
 カナーンはベッドから立ち上がって、にやりと笑った。
「一人さ迷うのも飽きたところだ。愛する娘と供にこの世を去るのも一興かもしれぬ。さて、あの神父の元へ行くとしよう。シャナン、離れていても魂はお前と供にある」
マントを羽織ったカナーンは、振り向きもせずに木こり小屋を出て、灰色の空へと消えていった。
 あとには、雪煙が立ち上った。


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