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8・忠告
「あまり、よく思い出せない」
 吸血鬼として息を吹き返したシャナンは、あの夜の出来事を覚えていなかった。
死という極限の恐怖に、過去を葬ってしまったのかもしれない。それに加えて、気が抜けたようになっていた。
無理もない。吸血鬼として生きていかねばならないと宣告されたのだから。
 カナーンはそう思ったようだった。そんなシャナンをそっと見守ってくれたのだ。
シャナンは椅子に座るカナーンの傍から離れようとせず、カナーンの足元に座ったまま何時間でもその手を握り、甘えたように膝に頭をもたげてじっとしているのだった。カナーンが黙っていると、シャナンはいつまでもそうしてすごした。
「シャナン、そろそろ夜が明ける。眠りなさい」
「もう少しこうしていたいの」
「シャナン、気をつけなければならないことがある」
 カナーンの膝から離れようとしないシャナンに、カナーンは頭をよけさせて立ち上がり、シャナンを椅子に座らせた。
 聞きたくないことを聞かされる。シャナンは体を硬くした。
「よく聞きなさい」
俯くシャナンの前へ屈み、カナーンは改まった態度で話し始めた。
「お前はまだ生まれて間もない赤子と同じ。日の光は避けるべきだ。忘れるな」
「そんなこと、知りたくない!」
 顔を強張らせたシャナンは、立ち上がって扉を開けて外へ飛び出そうとした。
日が昇り始めていた。
「シャナン!」
 カナーンがすぐさまそれを制止したのだが、間に合わなかった。
「きゃああぁ!」
 シャナンは、外を駆けていくことができなかった。開け放った扉の手前で、その場に崩れるように座り込み、日の光に顔を背けて悲鳴をあげたのだった。
「無茶なことをするな!」
 シャナンはカナーンに抱き上げられて、窓に目張りをして暗くしてある寝室へ運ばれ、ベッドへ寝かせられたのだった。
「いいか、よく聞きなさい」
 シャナンはベッドに顔を伏せ、声を押し殺して泣き始めた。
 シャナンは自分が情けなかった。カナーンを悲しませている自分がいやだった。だが、どうしても吸血鬼になった自分を受け入れることができなかったのだ。
カナーンは声をかけるのをためらっていたようだったが、ゆっくりと語りかけるように話し始めた。
「お前はまだ弱い。日の光ですら恐れの対象になってしまうのだ。十字架も叱り。ヒイラギ、香草は、近づくと気分が悪くなるだろう。火や銀製の剣も、私には取るに足らない代物だが、お前には脅威になるだろう。気をつけるべきだ。特に、流れる水には気をつけろ。呪われた一族には浄化の水は死を意味する。寝ているところを人間に見られてはいけない。死の危険にさらされるだろう」
 カナーンの忠告は聞こえていたものの、今のシャナンにはただ、肩を震わせて泣き続けることしかできなかった。
「それらの注意を怠れなければ、我々は人間より丈夫にできている」
 カナーンはベッドサイドに腰を下ろし、シャナンの髪を撫ぜた。
「なによりも大事なのは……体力を取り戻すことだ」
 カナーンはそう言ってから一呼吸おいて、ゆっくりと話を続けた。シャナンが不快に思わないように細心の注意を払って言葉を選んでいるようだった。
「血は、命の源。必要不可欠だ。いいか? 人間に存在を知られないように、血を頂くのだ。屋敷に招いてもらい、身を変えて様子を伺い、あらゆる手段で行うのだ」
「そんなこと、できない……」
 顔を伏せたまますすり泣きながら、シャナンはか細い声で反論した。カナーンが気遣ってくれていることはわかっていたが、到底受け入れられなかった。
「心配はいらない。次第に慣れていくものだ。お前には我が血を分け与えたのだ。ただの下僕ではない。我が血を引く、立派な吸血鬼なのだ」
 カナーンなりにシャナンを勇気づけようとしたのだが、そんなカナーンの言葉にも、シャナンは泣くばかりで目を合わせようとしなかった。
シャナンは自分が吸血鬼であると認めたくなかったのだ。
二日、三日と過ぎても、シャナンは血を欲しなかった。カナーンの膝に頭をうずめる以外は、窓から見える雪景色を眺めて過ごす日々が続いた。
 今夜も、窓際の椅子にじっと座っている。シャナンの肌は色を失いつつあった。再び衰弱し始めていたのだ。
「シャナン、私の血であればかまわないだろう?」
見かねたカナーンが、シャナンの前に屈んで首を差し出した。
「そんなこと、できません」
 ちらとカナーンを盗み見たシャナンは、ごくりと生唾を飲み込みながらも、暗闇に舞う雪に視線を外したのだった。
「無理をするな」
「できません! できない……そんな恐ろしい……」
椅子から崩れ落ちるようにして、シャナンは床に座り込み、両手を顔で覆ってすすり泣いた。
「シャナン……」
 カナーンの声に落胆の色が見えた。
「シャナン、すまぬ。お前にはこうして生きることはあまりにも酷だったのだな」
 シャナンはカナーンを悲しませている自分が嫌だった。嫌で嫌で自分に腹を立てて泣いていたのだった。
カナーンはそんなシャナンを抱き寄せてその髪を優しく撫ぜてくれた。
 どのくらいそうしていただろうか。外は白み始めていた。
 泣き疲れたシャナンは、カナーンの膝の上に頭を置き、いつの間にか眠ってしまった。
 カナーンは穏やかに眠るシャナンの豊かな髪を撫ぜた。
「永遠にこのような時が続けば良いのだが」
カナーンはふっと口の端で笑い、そっとシャナンの頭を枕に移して立ち上がった。
 夜が明けきる前に狩りをしなければならない。カナーンは獲物を求めて飛び立った。
 数時間後の朝方、シャナンが目を覚ましたときには、カナーンが一人の若い娘を連れて木こり小屋に戻ってきていた。
カナーンの後ろに連れの娘がいることを見るや否や、シャナンは挑むような視線をカナーンに向けたのだった。
シャナンはカナーンと体が触れるのではと思うほど近づいてきて、顔を見上げた。
「この娘はなに?」
 シャナンは目だけで、その若い娘を指した。
「下僕だ。何かと不自由だからな」
「吸血鬼にしてしまったの?」
「いいや、眠ったような状態だ。なんでも思いのまま動く」
 カナーンの後ろにぼんやりと立っているその若い娘を、シャナンはじっと睨むような目つきで見つめた。
 艶やかな長い栗色の髪に、ブルーネットの瞳。いくらか幼さの残る薔薇色の頬が初々しい。
カナーンの目に留まった娘。その娘の何もかもがシャナンの気に触った。
「私がいても不自由なの? 私は、カナーンのなに?」
 シャナンのきつい視線はその娘からそのままカナーンに戻され、真正面から興奮気味に問いかけた。
「何を怒っている? シャナンは、私の大切な人だ」
「どういう意味」
「大事だと思っている」
「大事になんてされたくない。私が訊きたいのはそんなことじゃない」
 カナーンはシャナンを見つめたまま、何も言えないでいた。久しく恋愛から遠のいていたカナーンは、シャナンの嫉妬が理解できないのだった。
「私がいるだけではだめなの? 私を吸血鬼にしたのは何故?」
「すまぬ。お前のことを何も考えていなかった……私のわがままでこのようなことになってしまった」
「謝らないで!」
 そう叫んだシャナンは、カナーンの胸に頭をもたれさせた。
カナーンは吸血鬼なのだから、娘を連れてきたとしても当然のことなのだ。嫉妬するのはおかしい。そうわかっていてもシャナンは不安だった。ただ一言、愛しているという言葉がほしかった。
「どうして謝るの……そんな言葉を聞きたいわけじゃない」
 カナーンは、シャナンの華奢な体を抱き締めた。
「お前のこの髪、この細い手に、触れたかった。再びお前のその美しい唇から、小鳥のようにさえずる声を聞きたかった」
 カナーンはシャナンの髪を優しく撫ぜながらささやいた。
シャナンが何を望んでいるのか、カナーンには理解できていないようだった。
「カナーン、私の言ったことに答えてくれないの?」
 腕の中で、カナーンを見上げるシャナンの瞳には、涙が溜まっていた。
「カナーンは、死にそうな私のことを可哀想に思って助けただけ?」
 シャナンはカナーンをじっと見つめた。カナーンの琥珀色の瞳には、戸惑いの色が見えるだけだった。
シャナンの意識がなくなったとき、カナーンは確かに愛していると口走っていた。だが、それは本当なのだろうか。単にシャナンを不憫に思い、咄嗟に口走っただけなのかもしれない。それとも、カナーンが愛していた人の娘だから?
シャナンは不安でならなかった。