警告
この作品は<R-18>です。
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6・洗礼
長槍の先端がシャナンの左胸を突いていた。カナーンが怒りに任せてその衛兵の腕をねじ上げ、壁の端まで押し飛ばしたのだが、それは長槍が命中したあとだった。
「シャナン!」
カナーンは倒れそうなシャナンを支えるように、そっと抱き締めた。胸には長槍が痛々しく突き刺さったままだった。
シャナンの白い衣服はじわじわと赤く染まり、その染みはまるで生き物のように下へ下へと伸びていった。
シャナンはその血を見て、ようやく自分の胸を貫いている長槍の存在を理解したのだった。心臓が鼓動を打つたび、どくんどくんと血が吐き出されていく。痛いというより、胸が焼けたように熱かった。
「ほほほ! 吸血鬼をしとめたわ。これで救われる。私も村も!」
エッカルトザウ伯爵夫人の、狂喜する甲高い声が部屋に響き渡り、シャナンの薄れ行く意識の中にもその声はこだました。
「人の死が、そんなにも嬉しいか! 悪魔に成り下がった人間よ!」
カナーンの長い髪は、嵐の中にいるかのごとく逆立ち、瞳は燃え盛る炎のように赤々とし、怒りに満ちていた。
「覚悟するがいい、最も苦しみぬく方法でお前をあの世へ送る」
カナーンは地を震わせるような低い声で呟き、鋭い瞳はエッカルトザウ伯爵夫人を貫いていた。その様は、触る者を皆殺しにする地獄の使者のようだった。
カナーンが自分のために怒りを露わにしている。シャナンは嬉しかった。
カナーンはシャナンを床にそっと横たえて、エッカルトザウ伯爵夫人に飛びかかろうとしたのだが、息も絶え絶えに、シャナンがカナーンの腕を握り締めて引きとめた。
「もういいの……あなたが私を庇ってくれた。それだけで……」
シャナンの虚ろになった瞳には、涙が溜まっていた。もう助からない。でも、最後を伯爵夫人の手に抱かれて迎えることができるのなら、それでいい。シャナンは自分の死を悟っていた。
シャナンを見つめるカナーンの表情がすうっと和らぎ、カナーンは冷たい指でシャナンの頬を優しく撫ぜた。
「おまえが楯になる必要などなかったものを」
カナーンは顔を上げて、やり場のない怒りのこもった瞳でエッカルトザウ伯爵夫人を睨みつけ、「悪魔のような人間には、悪魔の顔を!」
と、人間の喉では到底出せないような二重三重に響く声で、呪いのような捨て台詞を残し、シャナンを両腕で抱き上げて立ち上がると、そのまま窓から音もなく飛び降りた。
バートリ神父はあまりのことに呆然としていたのだが、二人の姿を追って、窓辺によろよろと近づき、地面を覗き込んだ。そこには底のない暗闇がどこまでも続いているだけだった。
「吸血鬼が、シャナンを……。ようやく妻に向かえられるはずだったのに」
バートリ神父は、がっくりとひざを突いてうなだれた。その傍らで、エッカルトザウ伯爵夫人は一人、狂喜した。
「あの目障りな娘を殺してやった。とうとう、シャナンを!」
「……仕組みましたね。エッカルトザウ伯爵夫人、最初からそのつもりだったのですね。シャナンに何の罪があるというのだ」
バートリ神父は、伯爵夫人をきっと睨み付けた。
「私は当然のことを行っただけですわ。これで村に平穏が戻るのです」
「馬鹿な! あなたは狂っている!」
「狂っている? 私が狂っているというのであればあなたはどうなんですの? 夫はシャナンをひそかに養女にと、エアラッハ男爵に頼んだはずなのに、村中の誰もがそのことを知っている。事実を知っていたのは洗礼をした前の神父。あなたは前の神父から事実を聞いたのでしょう?」
反論せず、黙って俯いたバートリ神父に、エッカルトザウ伯爵夫人は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「そして、伯爵をたぶらかしたどこの馬の骨とも知れない踊り子の娘だと噂を流して、村人が敬遠するように仕向けた。シャナンを妻にするために影でひどい噂を流し、シャナンを孤立させた張本人なのでしょう」
「黙りなさい!」
「ほほほ、この村でうまくやっていこうと思うのであれば私にそんな口をきかないことですわね」
「神に仕える私を脅すというのか」
「サタンの間違いでしょう? 私は何もかも知っているのですよ、バートリ神父。あなたがサタンを崇拝していることも。村娘が吸血鬼に襲われたという噂。あれはあなたが仕組んだのでしょう」
「何を根拠にそんな馬鹿げたことを」
エッカルトザウ伯爵夫人はにやりと笑った。
「カルンシュタイン伯爵夫人になりすまし、闇にまぎれて村娘を襲いましたね? 教会へ消える、黒いマントをはおったあなたを見たのです」
「……許せなかった。僅かの間にシャナンの心を奪ったあの伯爵夫人を。私はずっとこの日を待ち望んでいた。やっと妻に迎えられるというところだったのに……あいつさえ来なければ!」
シャナンは美しかった。このような悪い噂がなく、エアラッハ男爵の養女というだけであれば、結婚話など引く手あまただったに違いなかったのだ。シャナンに魅せられたバートリ神父は、シャナンを我が物にするために、悪魔と契約を交わしていたのだった。
バートリ神父は窓際の壁に寄りかかるように座り込み、頭を落として打ちひしがれていた。
「あんなあばずれのどこが良いのか気が知れない。けれど、カルンシュタインが本当に吸血鬼だったとはねえ。シャナンは諦めなさい。吸血鬼に魅入られた娘など、もう人ではない。そんな娘より、私の娘を妻にしたらいい。私に似てシャナンより数倍も美しいし、前々から、あなたに好意を寄せている」
バートリ神父を覗き込むようにして、エッカルトザウ伯爵夫人はひそひそと話しかけた。
「あなたの様に美しいと?」
重そうに頭を上げたバートリ神父は、じろじろとエッカルトザウ伯爵夫人の顔を見て、引きつったような笑いを浮かべた。
「すみれのように可憐で、薔薇のように気品がある自慢の娘――」
「伯爵夫人、鏡を見てみなさい」
薄ら笑いを浮かべ、バートリ神父は話を遮った。
伯爵夫人は、いぶかしげに思いながらも、壁にはめ込まれている姿見の中に映る自分の立ち姿に目を向けた。
「あ、あ……」
声が出なかった。なんと表現したらよいのか。鏡に映るこの女。同じ絹のドレスをまとっているこの腰の曲がった女は、いったい誰なのか。
元々小さかった目は、瞼が垂れ下がりほとんど見えない。低い鼻も、萎びた茄子のようになり、顔の真ん中で垂れ下がっていた。高価な化粧で必死に美しさを保っていた艶のある肌は、乾燥して干上がった湖の底のように、深いしわがくっきりと刻まれていた。その姿は数百年の時を生きてきた魔女のようだった。
「私の美しい顔が……」
伯爵夫人はごぼうのようになった両手で顔を覆って、その場に崩れた。それは、吸血鬼カナーンの魔術のせいとしかいえない現象だった。
「シャナンを吸血鬼に差し出した罰だ。私はあなたを助けない。死ぬまで苦しむがいい」
バートリ神父は、よろよろと立ち上がった。
「諦めるものか。吸血鬼からシャナンを救ってやらなければ。どんなことをしてでも、シャナンをあの吸血鬼から取り返す。偉大なるサタンよ、我に力を」
バートリはそう呟きながら城を出た。
雪が積もった青白い闇夜は、忌まわしい出来事全てを飲み込んだかのように、静けさを保っていたのだった。
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