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この作品は<R-18>です。
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4・愛しくて
もう会わない。
カルンシュスタイン伯爵夫人にそう拒絶されても、シャナンの想いは一層募るばかりだった。
シャナンの心には、婚約者、パウル・バートリへの思いはかけらも存在していなかった。
カルンシュタイン伯爵夫人に会いたい。会って、この気持ちを伝えたい。こんなにも惹かれるのは何故なのか。恋に理由などないのかもしれない。だが、それだけではない何かを感じる。自分を見つめるあの瞳。
子をいとおしむ母のような瞳。最愛の人を愛でるような瞳。それを否定するような冷たい瞳。どの瞳も、シャナンを悩ませ、伯爵夫人のことを片時も忘れることができないのだ。
そんな折、カルンシュタイン伯爵夫人がこの村を発つという噂を、エッカルトザウ伯爵の城に使える洗濯女から耳にした。その夜、シャナンはいても立ってもいられなくなり行動した。寝衣にコートを羽織ったシャナンは吸い寄せられるように、ふらふらとカルンシュタイン伯爵夫人の元へと向かったのだ。
シャナンは闇夜に紛れ、教会の敷地に続くエッカルトザウ伯爵の城の庭へと忍び込んだ。忍び込むのは何年ぶりかではあったが、木立に隠れるようにある、塀の壊れた部分は昔と変わらなかった。
「父に会いたい」
幼い頃、その一心で城へ忍び込んでは実父、エッカルトザウ伯爵の姿をこっそりと盗み見ていたのだった。
後日、城に忍び込んだことがエアラッハ男爵夫妻に知れて何度か咎められた。育ての親、エアラッハ男爵に不満があったわけではないが、幼いシャナンには何故実の父親と一緒にいられないのか、城への出入りを堅く禁じられてエッカルトザウ伯爵夫人に毛嫌いされていたのか、理解できなかった。だから、養父母が困惑した表情でシャナンを見ることに後ろめたさを感じながらも、自分と血のつながりがある父の姿を追い求めて、城を幾度となくさ迷ったのだった。
だが、年頃になり、周囲の事情も飲み込めて自分の立場がわかったとき、エッカルトザウ伯爵夫人の憎悪の矛先が自分に向けられている理由がはっきりと理解できたのだった。その日以来、城へは行かなくなっていた。
そんなことがあり、城の警備が手薄な場所をシャナンは熟知していた。
シャナンは城の窓から忍び込み、カルンシュタイン伯爵夫人の休む居室の扉の前へたどり着いた。だが、ここまで来てシャナンは怖気づいた。片手が宙に浮いたまま、扉に触れることができない。
こんな夜更けに訪ねてみても、伯爵夫人に冷ややかな目で見られるだけかもしれないのだ。
「何をしている」
冷たく低い声に、シャナンは飛び上がった。怖くて背後にいる人物の方を向けない。言い訳しようにも緊張してのどがざらつき、声も出なかった。
「若い娘がそのような姿で、出歩く時間ではない」
先ほどより、幾分柔らかな声。まるで子供を諭すような口調だった。自分を知っている者のように感じ、シャナンは少し安堵してゆっくりと振り向いた。
雪明りだけの薄暗い廊下に、自分より幾分背の高い旅装束の若い男が、歩幅一つ分ほどのところからシャナンを見つめていた。
男の服装は地味に抑えられていたが、優雅な立ち姿はそれだけで高貴な身分とわかった。焦げ茶色の長い髪を後ろに結わえ、雪のように白い肌に、真っ赤な唇が美しい。瞳は長い髪に隠れていたが、強い視線が痛いほどわかった。見知らぬ男のようだったが、どこか聞き覚えのある声。
「もう会わぬと言ったはずだ」
それは、カルンシュタイン伯爵夫人だった。
どうしてそんな姿で、こんな時間に? シャナンは意外な再会に言葉が出なかった。
「帰りなさい」
黙ったままのシャナンに、伯爵夫人は容赦なく冷たい言葉を吐いた。
「帰りません」
それでもひるまず、自分でも意外に思うほどシャナンはきっぱりと言い返していた。傍にいたい、その一心だった。
「……ならば、城の者を呼ぶぞ。誰か――」
「いや!」
シャナンは、咄嗟にカルンシュタイン伯爵夫人の背に両手を巻きつけ、その唇を唇でふさいだ。
「無礼な!」
伯爵夫人は、意図しないシャナンの行動に驚き、咄嗟に、片手でシャナンをはねのけた。
「うっ」
シャナンは弾き飛ばされ、廊下の壁に背中を強打した。
「すまぬ。どこか痛くしたか?」
小さくうめいたシャナンに、伯爵夫人は駆け寄り、背中をさすった。
「痛い……」
背骨がずきんと脈を打っている。シャナンは痛みに顔をしかめた。
伯爵夫人は無表情のままひょいとシャナンを抱き上げ、自分の寝室へと軽々と運び、シャナンをうつぶせにベッドへ寝かせて、手早く背中をはだけさせると、冷やした濡れタオルを背中に当ててくれた。
「こうすると痛みが和らぐ」
ずきずきと痛む背中に、冷たいタオルが心地よかった。
「骨は折れていないようだが、お前の背中を赤く腫らしてしまった。すまぬ。力の加減をしきれなかった」
伯爵夫人は狼狽した様子で、再び謝った。
されるままになりながら、シャナンは今起こったことを反芻していた。伯爵夫人は片手でちょいとシャナンを押しのけただけなのだ。なのに、シャナンは背中を壁に強打した。あの細腕にどんな力があるというのだろう。だが、不思議と恐ろしさは沸き起こらなかった。シャナンは伯爵夫人の腕をじっと見つめた。優しく包み込むように抱きかかえてくれたあの腕。さっきまであの腕に……。その光景を頭に思い浮かべただけで、シャナンは動悸した。人間離れした力さえも、魅力的なものに思えるのだった。
「仕方がない。今夜はここで眠るがよい。私は別の部屋で寝る。明日の朝、館まで送らせよう」
「行かないで」
シャナンは伯爵夫人の袖の裾をつかんでいた。
離れたくないその一心で伯爵夫人を見つめた。
「ここに、いてくれませんか」
「一人では眠れぬというのか」
伯爵夫人は口の端で笑った。初めからシャナンの気持ちに応える気はないのだろう。まるで子供扱いだ。シャナンには伯爵夫人が自分の気持ちに気づかぬ振りをしているように思えた。それでも、シャナンは傍にいて欲しいと目で訴え続けた。
伯爵夫人は根負けし、「いいだろう。お前が眠りにつくまで傍にいてやろう」と言ってくれた。
朝まで一緒にいたい。絶対に眠らない。
シャナンはベッドにうつぶせになったまま、熱を帯びた眼差しを伯爵夫人に注いでいた。
伯爵夫人はベッドの傍らにある肘掛け椅子にゆったりと腰掛け、コーヒーテーブルに置いた蝋燭の明かりを頼りに、本に目を落としている。シャナンの視線など気にも留めず、熱心に文字を目で追い、シャナンの存在は無視されていた。こんなにすぐ傍にいるのに気に留めてもらえない。
ほんの少しでも、こちらを向いてくれないだろうか。シャナンは、瞬きもせずに伯爵夫人を見つめ続けた。
焦げ茶色の後れ毛が、時折肩からさらりと落ち、それを片手で耳にかける。伏せた目は、文字を追って僅かに動き、その度に長い睫毛が揺れる。旅装束の男姿のままではあったが、白い肌に肉感的な真紅の唇は悩ましく、手を伸ばして触れてみたい衝動に駆られてしまう。足を組み直す仕草。ページをめくるしなやかな指先。
どうしてこちらに目もくれないのか。その指は触れようとしないのか。
シャナンは自分勝手な恨みがましい視線を投げつけていた。
「婚約者がいるときいた。皆に心配かけるようなことはするな」
その視線の意味を見て取ったかのように、伯爵夫人は本に目を向けたまま冷淡な言葉でシャナンをぴしゃりと叩いた。
伯爵夫人はシャナンの思いをわかっているのだ。その上で、言っているに違いない。それが分別のある見解だろう。だが、今のシャナンはもう他のことがどうなろうとたいしたことではなくなっていた。伯爵夫人のことと比べたら、養父母が悲しむこと、バートリ神父が落胆するだろうことなど。
「婚約は、間違いでした」
そう、あれは間違いだった。神父様が嫌いなわけではない。素敵な人だとも思う。必要とされている、自分を選んでくれたというだけで嬉しかった。けれど、一生添い遂げたい人とは違うのだ。カルンシュタイン伯爵夫人に出会い、それがはっきりとわかってしまった。今まで、人の迷惑にならないよう、養父母を悲しませないように生きてきた抜け殻のような人生。それが、この瞬間のためだけに生きてきたとさえ思えるのだ。伯爵夫人とこうして見つめ合うために、ここにいるのだ。
「幸せを棒に振る気か?」
シャナンが見つめたその先の瞳は、優しく迎えてくれそうにもなかった。眉を寄せ、怪訝そうにシャナンを見つめ返している。
「進んで茨の道を歩こうというのか」
シャナンが黙ったままでいると、伯爵夫人は再び質問を投げかけてきた。シャナンの答えは一つしかなかった。
「私には、目の前の美しい薔薇しか見えません」
「私には夫がいるのだぞ」
「お側においていただけるのであれば、夫がいようと構いません」
嘘だった。伯爵夫人を独り占めしたい欲望でいっぱいだった。とり巻きの一人にはなりたくない。
「もうすぐここをお発ちになると聞きました。私も連れて行ってください」
「誰がそのようなことを。だが、良い頃合かも知れぬ。そろそろここを発つとしようか。だが、お前を連れて行くことはできぬ」
伯爵夫人はゆらりと立ち上がり、読みかけの本を椅子の上に無造作に放り投げ、寝ているシャナンにずいと顔を近づけた。
「私は悪魔なのだよ」
伯爵夫人の焦げ茶色の長い髪が、シャナンの頬に触り、薔薇の甘い香りが鼻をかすめた。長くたらした前髪の奥にある瞳が、薄暗がりの中で鈍く光ったように感じた。
伯爵夫人に見据えられた瞬間、シャナンは指先すら動かせず、息さえできなかった。心臓が凍りつく感覚。
『伯爵夫人は吸血鬼に違いない』
村の噂がシャナンの頭をよぎった。後頭部がじわじわと冷える。
伯爵夫人は若い娘を糧に生きる吸血鬼だというのか。もしそうであっても、悪魔でもいい。私をこの村から連れ出して欲しい。ここには、私の居場所はないのだから。
全身で畏怖を感じながらも、シャナンは目をそらさなかった。
「あなたにこの命を絶たれたとしても、後悔はしません」
「母君から授かった命を粗末にするものではない」
そう言って伯爵夫人は小さくため息を漏らした。瞳の怪しい光はいつの間にか消え、目を伏せて肩を落としたその姿は、悲しみに満ちていた。伯爵夫人はそれを隠すようにシャナンに背を向け、ベッドサイドの窓辺に立った。
伯爵夫人の弱々しい姿は意外で、シャナンの心を捉えるのに充分だった。背中の痛みも忘れ、シャナンはベッドから起き上がって体を乗り出した。
「母をよく知っているのでしょう? 恋人だった、そうなんでしょう?」
「違う」
「だったら、私に顔を向けて言ってください」
シャナンは立ち上がり、伯爵夫人の背中に手をかけた。
「私に触れるな」
強く払いのけられたシャナンは、よろけてベッドに座り込んだ。
「済まぬ。今夜の私はどうかしている。力の制御ができぬようだ。私に近寄るな」
「嫌です」
背中がずきずきと痛み、顔をしかめながらも、シャナンは引き下がろうとしなかった。
「これ以上お前に付き合うことはできぬ。私は別の部屋で休む」
「嫌、嫌です! あなたを、愛しています」
部屋を出て行こうとした伯爵夫人に、シャナンは無我夢中で背後から抱きついた。薔薇の甘い香りが、シャナンを酔わせた。
駄々をこねる子供のようにはた迷惑な行動だという自覚はあったが、今夜はどうしても伯爵夫人と一緒にいたかった。今を逃すと、明日にはいなくなり、一生会えないのではという思いにシャナンは支配されていた。
この人を離したくない。離れたくない。
「止めなさい」
シャナンの腕を優しく振りほどこうとする伯爵夫人の瞳は虚ろで、シャナンを通して別の誰かを見ている感じがした。
「その顔でそのようなことを口にするな」
伯爵夫人がうめくように呟いたと同時に、シャナンの意識は遠のき、「伯爵……」と、言葉を途切れさせて伯爵夫人の腕の中で急にだらりと体をのけぞらせた。
「シャナン、私をこれ以上惑わさないでおくれ」
意識のなくなったシャナンを、伯爵夫人はいとしむように両腕で包み込み、抱擁した。
「声までも、瓜二つ。情熱的なところも……」
バタン!
穏やかな時間を切り裂くように、突如、部屋の扉が激しく音を立てて開け放たれた。
そこには、パウル・バートリが怒りにうち震えて立ち尽くしていたのだった。
「悪魔め! シャナンから手を離すのだ!」