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2・女神
「今宵は先約があるのだが。私の色香に迷ったか」
カルンシュタイン伯爵夫人はそう言って、シャナンにさげすむような視線を向け、くすりと笑った。
城に招かれてから一週間後の夕刻、シャナンはカルンシュタイン伯爵夫人を再び訪ねた。自分でも何故訪ねたのかよくわからないままに、ふらりと足が城へ向いたのだった。だが、出迎えたのは、伯爵夫人の意地悪い一言だった。門前払いではなく、わざわざ部屋へ通されたシャナンは、伯爵夫人から直に断りの返事をされたのだ。
会えないのであれば、使用人にそう伝言することで済むものを。
からかわれている、シャナンはそう思った。屈辱で顔が高潮した。だが、言い返せない。伯爵夫人が言った通りだと、ようやく自覚し始めていたから。
この一週間、伯爵夫人のことを想わない日はなかったのだ。シャナンは何も言い返せずに俯いたまま立っていた。
扉が半開きのままになっている続きの間から、ベッドのきしむ音が聞こえてきた。
誰かいる。シャナンは続きの間へ目を走らせた。
「もう用は済みましたの?」
 奥の部屋から、細い声が伯爵夫人に早く戻って来いと催促した。若い娘の声だ。
「今行く」と、伯爵夫人は声の方へ返事をしてから、シャナンに向き直り、「悪いが、そういうことだ」と、声のトーンを落として、事務的な口調で続けた。
早く立ち去れ。そう言われているのだ。シャナンは伯爵夫人が迷惑顔でこちらを見ているのではないかと思うと、視線を合わせられず、伯爵夫人の胸元辺りに視線を落としたままでいた。伯爵夫人のローブの襟足が少しはだけているのが目に入る。髪も心持ち乱れていた。つい今しがたまで奥の寝所で行われていたことを想像し、シャナンは赤面した。
伯爵夫人のそういった噂は耳にしていたのだが、こうして見せつけられると、辛い。落ち着けと自分に言い聞かせても、衝撃が強すぎて、顔のほてりも、早まった鼓動も治まってくれなかった。
 カルンシュタイン伯爵夫人は人を惹きつける魅力がある。魅力という言葉では片付けられないほど、強く惹きつけられてしまう何かがある。一度会うと再び会いたくなり、見ているだけでは物足りず、声を聞き、触れ、ついには自分のものにしたくなる。麻薬のように、次から次と溺れていくのだ。自分は絶対に大丈夫だと思っていたのに、シャナンもまたそれを実感していた。同性だということは、何の障害にもなっていなかった。それどころか、寝所の奥にいる娘が妬ましくさえ思った。
 伯爵夫人に見とれているシャナンを残し、伯爵夫人はふいと背を向けて寝所へ戻ろうとした。
「会わないといわれたのに……ごめんなさい」
 シャナンは、少しでも側にいたい一心で、伯爵夫人に声をかけた。その言葉を聞いた伯爵夫人は、足を止めて振り返った。
「私が謝るべきなのだ。混乱させたな」
 優しいけれど寂しげな笑みを浮かべ、伯爵夫人はシャナンを見つめた。シャナンは頬が上気しているのを自覚した。嬉しかった。ただ、その視線を独り占めしていたいと思った。だが、次の瞬間には再び奈落の底へと突き落とされたのだった。
「もうここへは来るな」
 伯爵夫人からかすかな笑みも消え、シャナンに冷たい言葉が返された。シャナンの顔が凍りつく。暖炉の火は赤々と燃えて暖かいはずなのに、その一言で、シャナンは凍てついた外へと放り出されたように、体の芯が冷えていった。
一度会ったら、もうそれで用はないというの。かけらも興味がない存在だったのか。
少しでも振り向いてほしい。シャナンは必死だった。
「一つだけ教えてください。母とはどこでお会いしたのでしょうか」
 伯爵夫人は一瞬困惑した顔を見せ、「忘れた」とはき捨てるように言い、逃げるように寝所へと姿を消した。
 母と伯爵夫人はどういう知り合いだったのだろう。自分のこともそんな風に気に留めてほしい。シャナンは伯爵夫人の思い出の中にいる母をも羨んでいた。シャナンは館に帰った後も、伯爵夫人の困惑顔が頭から離れず、母と伯爵夫人の過去を知りたくて、いても立ってもいられなかった。
 そんな折、この小さな村にある噂が立っていた。
 村の娘が吸血鬼に襲われた、と。
「娘の首に、牙のような痕が残っていたらしいよ」
「何が起こったのか、覚えていないって」
「そういやあ、エッカルトザウ伯爵家に滞在中のカルンシュタイン伯爵夫人は、昼日中、出歩かないそうだ」
「そういえば、教会のミサに一度も顔を出さないねえ」
「若い娘が夜な夜な伯爵夫人を訪ねているっていうじゃないか」
「吸血鬼かもしれないよ」
「ありゃあ吸血鬼に違いない」
 そんな噂は、シャナンの耳にもすぐ届いた。
 伯爵夫人は確かに人を惹きつける美しさがある。でも、吸血鬼だなんて。村の者ではないから、異質なものがあるからって、排除しようとしている。異邦人だった母も、そうやって辛い思いをしたに違いない。
「シャナン、聞いていますか?」
 パウル・バートリ神父に声をかけられ、シャナンはスープをすくったまま持っていたスプーンを、危うく落としそうになった。
「ごめんなさい」
「やれやれ、私達の大事な結婚式のことですよ? ぼんやりして、何を考えていたんです」
 碧眼の青年、パウル・バートリ神父が小首を傾げて微笑んだ。キャンドルに照らされた黄金色の髪が優しく揺れる。
今夜は、フィアンセであるパウル神父を館に招いての晩餐だった。
 養父母のエアラッハ男爵夫妻も、心配そうにシャナンの方を見ている。
エッカルトザウ伯爵の愛人の子である自分を、優しく受け入れてくれたエアラッハ男爵夫妻を裏切ることはできない。シャナンは品の良い笑顔を作り、「なんでもありません」と答えた。
 パウル・バートリ神父は、穏やかでとても優しい。村の女性が憧れる容姿。村人の信望も厚く、非の打ち所のない青年だ。その青年がシャナンを見初めたのだ。エアラッハ男爵は、たいそう喜び、一も二もなく承諾した。シャナンはといえば、こんな境遇の自分を、妻にしようという物好きが現れるとは思えず、結婚は諦めていた。だから、この話が持ち上がり、養父母が大喜びしている姿を見て、あっさりと受けたのだった。だが、それはそれで幸せだった。カルンシュタイン伯爵夫人に出会うまでは。
 今はもう、伯爵夫人のことしか頭になかった。日増しに強くなる想い。否定しても、どうあがいても、恋焦がれてしまう。叶わぬ想いとわかっても、消し去ることはできない。心に深く刻み込まれた伯爵夫人の姿が、頭から離れないのだ。
「シャナン、あなた、エッカルトザウ伯爵の城を訪ねたと聞きましたよ。まさか、あのカルンシュタイン伯爵夫人に会ったのではないでしょうね」
 こっそりと館を出たのに。使用人が告げ口したに違いない。嘘をついても無駄だろう。シャナンは正直に答えた。
「お義母様、心配なさらないで。伯爵夫人が東欧からいらしたと聞き、もしや母をご存知ではと思い、お話を聞きたかっただけです」
「子がいない私達にはあなたは宝なのよ。何でもお話してほしいわ」
「不満があるわけではありません。ただ、私を産んでくれた母は、どんな人なのだろうと気になって」
「それで最近、使用人にも色々訊いていたのね」
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいのですよ。私も詳しいことは知らないのです。前にも言ったように、東欧から来た美しい踊り子を伯爵が見初め、まもなくあなたを身ごもったお母様は、離れた街で、ひそかにあなたを産み、その直後に亡くなったと……」
 全てはエッカルトザウ伯爵しか知らないのだ。母の名さえもわからない。赤ん坊を連れ帰った伯爵は、そのままこの養父母に授けたのだ。シャナンは色々と訊いて歩いたが、誰一人としてそれ以上のことを知る者はいなかった。
「どんな理由であれ、吸血鬼だなどといわれるような人物とは、もうかかわるのはよしなさい。お前はもうすぐ花嫁になるのだからな。変な噂が立つと――」
「あの方は、吸血鬼じゃありません!」
 思わず、シャナンは養父の言葉を遮ってしまった。気まずい空気が流れた。伯爵夫人を悪く言われるのが耐えられず、つい、声を荒げてしまった。養父母の動揺した顔。シャナンはすぐさま後悔して俯いた。
「そうですね。根も葉もない噂かもしれません。人のことを悪く言うべきではない」
 バートリ神父が穏やかな笑みを崩さぬまま静かに諭した。
「ええ、そうですわね」
 養母も笑顔に戻り、「お義父様もあなたのことが心配なのよ」と、付け加えた。
 晩餐は和やかに終わり、結婚式の日取りは七日後と取り決められた。もう後戻りはできない。
 自室に戻ったシャナンは、窓辺にたたずみ、窓を開けた。一気に冷気が流れ込み、足元から冷えていく。このまま、心臓も凍えてしまえばいい。そうしたら、時は流れない。自分の胸の中に、あの方の面影を刻んだまま、誰のものにもならずに済む。
「私、今何を……」
 刹那に湧き上がった考えが恐ろしくなり、シャナンはよろけて窓の桟に寄りかかった。カルンシュタイン伯爵夫人とはほんの数時間会っただけなのに。それに、思ってくれるどころか、興味さえ示してくれそうにもない相手に、こんなにも思いつめてしまうなんて。
ため息をつき、見上げた蒼い闇夜には、満月がすっきりと姿を見せていた。
シャナンの黒々とした髪が風に撫ぜられてふわりと揺れ、その白い頬に触った。その髪を邪魔くさそうに手で耳にかけると、細いうなじが月に照らされ、白いローブを羽織ったシャナンは、まるで月の女神のように輝いていた。
その様子を、窓の傍の老木に一羽、蝙蝠がぴくりともせず潜んで見つめているのを、この時のシャナンは知る由もなかった。


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