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1・美貌の伯爵夫人。
そのエキゾチックな琥珀色の瞳に見据えられると、逆らうことを忘れてしまうという。
 カナーヌ・カルンシュタイン伯爵夫人。

中欧。ドナウ河を下り、ウイーンの東方二十五マイルほどのところにある牧歌的な小さな村に、何の気まぐれか、その伯爵夫人は滞在した。
二月、平野部にも雪が降る季節に、遥かカルパチア山脈を抜け、よんどころない事情で従者を従えて、女主人一人、はるばる旅してきたのだという。
仰々しい四頭引きの馬車は、いかにも身分のある人物の旅行馬車だと、一目で見て取れる代物だった。
青白い顔をした若い従者に手を取られ、馬車から降り立った彼女は、さながら、白い雪景色の中に凛として咲く、大輪の赤い薔薇のようだった。
抜けるような白い肌に、ドレスと同じくらい鮮やかな真紅の唇が良く映えている。琥珀色の神秘的な輝きを持った瞳。女性にしては上背があり、均整のとれたすらりとした体、艶やかな焦茶色の長い髪。品の良い立ち居振る舞いの中にも、威厳のある存在感がにじみ出ているその様は、高貴な生まれであることを見せ付けていた。
 土地の豪族、エッカルトザウ伯爵は、金貨を手土産に現れたこの美しい異邦人を一目見るなり痛く気に入り、早速、居城に招いて手厚くもてなした。
 娯楽の少ない寒村において、エッカルトザウ伯爵家に使える召使たちの間では、この美しい客人の奇妙な噂話で持ちきりになった。
 地に響く、竪琴のごとき声音。その声音を耳にし、その琥珀色の魅惑的な瞳を目にした時から、熱い誓いをした恋人さえも、その麗しい足元へとひざまずき、とりつかれでもしたかのように、毎夜、伯爵夫人に逢わずにいられなくなるという。
 エッカルトザウ伯爵も例に漏れず、カルンシュタイン伯爵夫人の言いなりになっているというのだ。
 城の一室は、カルンシュタイン伯爵夫人の招きいれる見目麗しい紳士淑女たちが毎夜訪れていた。
 不遇の運命により、城のすぐ側にひっそりと住む、シャナン・エアラッハの耳にも、その噂は届いていた。
 十六歳のシャナンには、既に夫となる人物がエッカルトザウ伯爵により決められていた。相手は、パウル・バートリ神父。
 シャナン・エアラッハはエッカルトザウ伯爵の愛人の子。それは、公然の秘密だった。
 シャナンは、母を知らない。母は東欧から来た美しい黒髪の踊り子で、エッカルトザウ伯爵に見初められ、まもなく、身篭って出産と同時に亡くなったのだ。不憫に思ったエッカルトザウ伯爵は、エアラッハ男爵にその娘を託した。不自由の無い生活だったが、シャナンは肩身の狭い思いをして育った。小さな村で、常に人目を気にして生きてきたのだった。
 母と同じ、東欧から来た客に、シャナンは心穏やかではなかった。一度も顔を見たことが無い母に、思いを馳せ、シャナンはその東欧から来た客に一目会ってみたいと思ったのだ。
 それは、ふとしたことで実現した。
 シャナンが城の庭続きにある教会での礼拝を終え、小道を帰る途中、背後から声をかけられたのだった。
「シャナン・エアラッハ男爵令嬢か」
 焦茶色の髪の貴婦人が、教会の影から、よく響く声で名を呼び、シャナンのほうへ近づいてきた。
 カナーヌ・カルンシュタイン伯爵夫人! 噂通りの艶やかな衣装、威厳に満ちた態度。シャナンは思わず、声を聞いただけで顔も見ずに、身を屈めた。
「迎えに来た。今宵、我が元を訪ねるがよい」
 カルンシュタイン伯爵夫人は、一言そういい残し、雪化粧の教会の裏へ、すうっと姿を消した。
シャナンは、幻を見たような気がした。それほどに、一瞬の出来事だった。
確かに、迎えに来たとこの耳で聞いた。その声は、何故だか懐かしい響きに聞こえたのだ。
 会ったこともないのに、どうしてなのか。謎の言葉に、シャナンはカルンシュタイン伯爵夫人への興味が、急速に増していった。
 その夜、言われるままにシャナンは城を訪れた。
 門番は、カルンシュタイン伯爵夫人の名を告げると、すんなりと通してくれた。
 案内された部屋は、客間の中でも一番豪華と思われる部屋だった。
 シャナンが椅子の端に腰掛けて待つ間、静まり返った城内は、物音一つしなかった。
 その静寂は、薄気味悪くさえ感じられた。
「待たせた」
 続きの間の扉が開き、黒いビロードのドレスに身を包んだカルンシュタイン伯爵夫人が、足音もなく、シャナンの目の前に現れた。
「ようやく見つけた。シャナン・エアラッハ」
 魔女かもしれない。
シャナンは急に恐ろしくなった。伯爵夫人は、何故自分のことを知っているのか。
 この場から逃げ出したい衝動に駆られたが、シャナンは足がすくんで立てなかった。
「傍へ参れ。どうした? 何を怯えている。心配するな。私は魔術を使えぬ。貴女の母上を存じているだけのことだ」
 カルンシュタイン伯爵夫人はシャナンの考えを見て取ったかのように、そう言ってくすりと笑った。
 それでもまだ、シャナンがその場にじっと座ったままでいると、伯爵夫人から歩み寄ってきた。
「お目にかかれて光栄だ」
 伯爵夫人は、紳士が行うように、シャナンの手をとり、うやうやしく口づけをした。
 シャナンは思わず顔を赤らめ、その手を引っ込めた。その口付けには、挨拶以外の情を込めたものが感じ取れたのだ。
 カルンシュタイン伯爵夫人の琥珀色の瞳を見てはいけない。
 噂を鵜呑みにしたわけではないが、シャナンは、ずっと俯いたままでいた。カルンシュタイン伯爵夫人は、シャナンのドレスに触れるほど傍に寄り、腰かけている。相手は女性なのに、何故こうも胸が高鳴るのか。
「……私には婚約者がいます」
「だからどうしたというのだ」
 カルンシュタイン伯爵夫人は、そんなことは意に介さないとでも言うように、含み笑いをした。シャナンはそれでも、毅然とした態度で答えた。
「不貞はできません」
「不貞? 不貞とはどういう行為か教えてほしいものだ」
「それは……」
 伯爵夫人の意地悪い質問に、シャナンは再び顔を赤らめた。
「説明できぬか? では、不貞はできぬと言われても、わけがわからぬ。……顔を上げよ。なぜ先ほどからずっと俯いたままなのだ?」
「このままで……お許しください」
「では、私が貴女の足元にひざまずけば、その顔を拝めるのだな?」
「伯爵夫人がそのようなこと……」
 伯爵夫人はソファから降りて足元に屈もうとした。シャナンは慌てて、手を差し伸べ、それを制したのだが、伯爵夫人の腕に触れた途端、手をまたすぐに引っ込めた。
 カルンシュタイン伯爵夫人の白い肩から伸びたしなやかな腕は、予想外に細く、繊細なガラス細工のように思え、触れてはいけないもののように思えたのだ。
「何故逃げる?」
「お許しください」
 自分の感情がわからない。戸惑うシャナンは、そう答えるのが精一杯だった。
「ふん。あのつまらぬ噂を耳にしたか? 嫌われたものだな。貴女はその噂を信じるのか。まあ良い。では、私は目隠しをしよう。これで、『伯爵夫人の瞳』は見ずに済む。心置きなく顔を上げるがよい」
伯爵夫人は、さも楽しそうに、どこから持ってきたのか、布の紐を使い自分で目隠しをした。
「もうよい。顔を上げよ」
そう言われて恐る恐るシャナンは顔を上げた。
カルンシュタイン伯爵夫人の艶やかな焦茶色の豊かな髪。細い首が、肩にかけて優美な曲線を描いている。胸元の大きく開いたドレスに包まれている肢体は腰が細くくびれ、豊満とはいえない胸は、どこか少女を思わせた。
 落ち着きのある態度で、こんなに威厳をお持ちなのに、お若い方だとは……。
自分よりも年上と思っていた伯爵夫人が、年の頃がそう変わらないのではないかという事実に、シャナンは驚いた。
「見かけに惑わされてはいけない」
 こちらを向いて微笑む伯爵夫人は、目隠しをしているはずなのに、シャナンの動揺した様が見えているのではないかと疑ってしまうほど、タイミングよくそう言ったのだ。
 シャナンは伯爵夫人には目隠しなど全く意味が無いもののように思え、薄気味悪く感じたのだった。
 落ち着かない。
 シャナンは目隠しをしたままのカルンシュタイン伯爵夫人の視線を、はっきりと感じていた。ドレスを透かして生まれたままの姿を見られている感覚。シャナンの動悸は治まりそうもなかった。ドレスが触れ合うほど間近に、伯爵夫人は座っている。そのきめ細かな白い肌に、目が釘付けになり、無意識のうちに手を伸ばして触れたくなる。これが、魔術ではないというのであればなんであろうか。
「私は何も見えない。ワインを飲ませてくれぬか」
 ソファにゆったりと腰掛け、目隠しした顔をシャナンのほうへ向けて、伯爵夫人が言った。
 シャナンは言われるままに、テーブルに置かれたワインボトルを開け、ワイングラスに赤い液体を注いだ。
 その間も、シャナンは伯爵夫人の視線を感じ、ボトルを持つ手が震え、こぼさないように全神経を手に集中させなければならなかった。
 伯爵夫人の熱い視線。ただ傍にいて座っているだけなのに、伯爵夫人をこんなに意識してしまうのは何故なのか。しかも女性である伯爵夫人に、不貞はできないなどと口走ってしまった。
突拍子もない無作法を、今になって思い出したシャナンは、一層赤面し、ワイングラスを持つ手に汗がにじんだ。
「どうした、ワインをくれぬか」
 促され、伯爵夫人の口元にワイングラスをゆっくりと運んだ。ワインの色に負けない真紅の唇が、グラスの縁にあたる。
シャナンはそっとワイングラスを傾けて、赤い液体を、伯爵夫人の口中に注ぎ込んだ。こくんと細い喉が動く。薔薇の花弁のようにふわりとした唇がワインで濡れ、艶かしい。伯爵夫人の仕草一つ一つが、シャナンを惹きつけて動揺させた。
胸で鳴り響く早鐘は、そんな感情を押し殺そうとすればするほど、反抗的に鳴り響く。見てはいけないものを見ているような気分になったが、シャナンは伯爵夫人に見とれてしまい目が離せないでいた。
唇を重ねたい。
 パウル・バートリ様がいるのに、なんてはしたないことを。それもご婦人に。
 湧き上がる欲望を慌ててかき消し、制御不能になった早鐘を悟られまいと、シャナンはワイングラスを持つ手が震えないよう、必死に手に力を込めた。
 伯爵夫人はワイングラスを持っているシャナンの腕を掴み、グラスを口から離した。
「震えている。私が恐ろしいのか」
 違う。そう言いたかったが声にならない。頭を強く横に振ったが、伯爵夫人は目隠しているのだから見えるはずがなかった。
 ひんやりとした手。伯爵夫人の白く繊細な指が、シャナンの腕を掴まえたままになっている。
 一瞬でも、伯爵夫人のことを淫らな想像で汚してしまうなんて。
 恥ずかしさで一杯になり、シャナンの瞳が潤んだ。
「お許しください」
 声までも震えていた。何がなんだかわからない。どうしてしまったのだろう。自分が自分でなくなったようだ。意味のわからぬ激しい感情が、荒れ狂う嵐のようにシャナンを襲った。泣きじゃくる幼子のように涙が溢れる。
「手を、離して――」
 シャナンは懇願した。なんにしても、自分をこんな風にしてしまったのは伯爵夫人だ。一緒にいたら、正気ではいられなくなる。やっぱり伯爵夫人は魔女に違いない。シャナンはそんな風に思った。
 伯爵夫人に触れられたことで、一層、体は火のように熱くなり、全力疾走直後のように息が苦しかった。涙は止め処もなく流れ、体中で伯爵夫人に反応してしまうのだ。
この不快な反応の全ては、伯爵夫人のせいだ。一刻も早く、この場所から逃げ出したいと、シャナンは祈るような気持ちでいた。
「そなたの母は……いやよそう。そなたには関係のない話だ」
伯爵夫人は、興奮状態のシャナンを前に、ふっと寂しそうに呟き、「無作法を詫びる」と言って、つかんでいた手を離した。
伯爵夫人が何を言おうとしたのか、シャナンには皆目見当がつかなかった。ただ、その声には、落胆の色が滲み出ていたことだけはわかった。
手を離されたことで、シャナンは少し落ち着きを取り戻した。
「最後に、顔を見てもよいか」
 伯爵夫人のどこか悲しみに満ちた声音に、シャナンは胸が苦しくなり、思わず、はいと答えていた。
 噂話が再び頭をよぎったが、そんなことはどうでもよくなっていた。伯爵夫人の悲しい声は聞きたくない。ただそれだけだった。
 伯爵夫人は目隠しをしていた布を自ら解いた。
 長い睫毛がゆっくりと持ち上がり、瞳が開かれた。シャナンを見つめる琥珀色の瞳。宝石が二つ、神秘的な光を宿し、そこに埋め込まれているようだった。その瞳はシャナンを優しく包み込み、愛でるような眼差しを注いでいた。
華やかさの中にも威厳のある大輪の真紅の薔薇。
 今まで聞き知っていた妖艶な魔女的なイメージとはまったく違うカルンシュタイン伯爵夫人に、シャナンは釘付けになっていた。
「美しく育った」
 伯爵夫人の声で、シャナンは我に返った。
 美しい伯爵夫人にそのように言われるのは、気恥ずかしく、シャナンは俯いてしまった。
「母君に生き写しだ」
 そう言って寂しそうに微笑んだ伯爵夫人は、すっくと立ち上がってシャナンに背を向け、
「もう会うこともないだろう」
 と、冷淡な口調で続けた。
伯爵夫人の態度が一変した。人を従える、威圧的な態度。
シャナンが唖然としていると、「客人のお帰りだ」と、伯爵夫人は通る声で言い放ち、使用人を呼んだ。そして、シャナンの方を振り返りもせずに、そのまま部屋を出て行ってしまった。
結局、伯爵夫人は何の用があったのだろうか。声をかけそびれたシャナンは、そのまま城を出るしかなかった。
自分とそう変わらない歳のようなのに、伯爵夫人は何故母を知っているのか。あの寂しそうな微笑は何だったのか。考えても、到底見当のつくことではなかった。
それ以来、伯爵夫人の影を帯びた優しい眼差しが、シャナンの心に深く刻まれ、焼きついて離れないのだった。
それが恋だとは、その時、まだ恋を知らなかったシャナンには知るすべがなかった。その恋に気付いた時には、呪われた運命を背負って生きるしか道はなかったのだった。


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