警告
この作品は<R-18>です。
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地下都市 3
扉を叩く拳の音が虚しく空間に響いた。
「おーい、まだ残ってるんだ。開けてくれ! プリシラ! シーマス!」
ルークが低い声を張り上げたが、仲間たちが消え、閉じた扉が開く気配は無かった。彼は再び取っ手を捻り、肩を扉につけて体重をかけて押した。しかしドアはびくともしないようだった。
徐々に焦りを見せながら、扉を押したり引いたりしているルークを見ているうち、足首の痛みが少しずつ引いていくと共に、エミリーは苦い後悔が沸いてくるのを覚えた。
閉じ込められてしまった。
つい今しがたシーマスが簡単に開けたように見えた扉は、他の四人の仲間が通り過ぎた後にぴたりと閉じて、どうやっても開かなかった。そして向こう側から仲間たちが扉を開けてくれる様子も無い。
(どうしよう……私のせいだ)
みぞおちの辺りがぐっと詰まる気がして、目の奥が熱くなった。
自分が扉をくぐる前に急にしゃがみこんだりしている間に、扉が閉じてしまった。エミリー一人ならまだしも、心配して残ってくれたルークまで巻き添えにしてしまった。
(私のせいなんだから、泣いちゃだめだ)
ここで泣いても、ルークを困らせるだけだ。
エミリーはこぼれそうになる涙をそっと拭って、立ち上がろうとした。だが、足首の痛みは先ほどよりはかなり軽くなったとはいえ、体重をかけようとすると激痛が走った。
仕方なく彼女は床を這うように、膝と手をついて扉に近寄った。
扉に辿り着く。そこに手を押し当てた。ルークが足元にいるエミリーを怪訝そうに見下ろしているが、構わず意識を集中する。扉に触れた手から、むず痒いような違和感が伝わってきた。
「魔法で閉じられているみたい」
顔を上げてルークに告げると、彼は拳を押し当てていた扉から体を離して、大きく息をついた。
そういう仕草を見ると、きっとルークにはそんなつもりはないと分かっていても、まるで自分が責められているような気がする。
「ごめんなさい」
彼から目をそらし、項垂れて謝ると、こらえていた涙が溢れそうになった。
「私がもたもたしてたから、閉じ込められちゃった……」
「違うよ、エミリー」
ルークが膝をついて屈んだ。顔を覗き込まれる気配があったが、泣き出しそうな顔を見られたくなくて、エミリーはひたすら床を見つめた。
「ドアの向こうの階段がどこに通じているのかは分からないけど、あそこが行き止まりだったら、閉じ込められたのはプリシラたちだ。俺たちが取り残されてよかったんだよ。こっちは出口に通じているから、最悪の場合、助けを呼びにいける」
確かに彼の言う通りだ。先に進んだプリシラたちも、さすがにエミリーとルークが続いてないことには気づいただろう。それでも、向こうから扉が開く様子が無いということは、彼らのいる側からも扉は開かないに違いない。
こうしてはいられない。
エミリーは床で体勢を立て直し、扉の前に落ち着いて座ると、腰につけている小袋から粉薬を取り出した。ルークがどんなに頼もしくても、魔法で閉ざされた扉を開けることができるのは自分しかいない。セルヴィスも扉の向こう側で解呪を試みているかもしれないが、様子の分からない彼らの行動を待っていても仕方ない。
今までの護衛や荷運びの仕事では、身の回りの雑事や迫る危険から、皆に助けてもらうばかりだった。やっと実現できた、この遺跡の探索でこそ、長い修行を活かして、逆にエミリーが仲間たちを助けることができる。
泣いてばかりいてはだめだ。
エミリーは気持ちを落ち着かせ、粉薬を扉の周囲に撒き、自分もそれを鼻に軽く吸い込んだ。意識を集中する為に、軽く目を閉じる。
扉は今、霊的な力で閉じていて、どんなに膂力を込めようと決して開かない。開くにはその霊的な縛めをエミリーが解かなければならない。
呪文を唱えながらさらに意識を収束させると、足首の痛みも、隣で覗き込んでいるルークの視線も、脳裏から剥がれ落ちていった。
閉じられた扉に施された術は、エミリーには頑丈に結び合わされた光の糸に見えた。複雑に絡み合うそれを解いていくのは、かなり手間がかかりそうだ。
エミリーは一度集中を解いた。ルークの方を向くと、思いがけず目が合う。立っていた彼はいつの間にか、エミリーと視線を合わせるように屈んでいた。
「解けた?」
ルークの問いに、エミリーは力なく首を振る。
「駄目。かなり時間がかかりそう……」
「落ち着いてやればいいよ。多分、セルヴィスも向こうで同じことをやっているだろうし」
ルークは焦りも落胆も見せずに、柔らかく微笑んだ。
彼が強いと思うのはこんな時だ。もちろんルークは力もあるが、それ以上に精神が強いと思う。
今までもそれなりに危険な目に合ってきたが、大体の場合において彼は冷静だった。豪胆なプリシラでさえパニックになるような場面でも、常に泰然とし、最善の方策を必要な人物に仰いでいた。
自分がどんなに取り乱していても、リーダーのルークが落ち着いていると、恐慌が収まる気がした。それは多分他の仲間たちも同じだろうと思う。
今もそうだ。仲間たちとはぐれ、緊張して激しく打ち始めた鼓動が、少しだけ静かになる気がする。もし一人だけ取り残されていたら、きっとエミリーもこんなに冷静でいられなかったに違いない。
もう一度、術を解く為に集中しようとすると、ルークに声をかけられた。
「待って。時間がかかりそうなら、先に足を手当てしよう。……立ち上がれる?」
エミリーは頷いて、両手を床について、体を持ち上げようとした。大分痛みは引いた。ゆっくりと腰を上げる。
しかし、左足は問題無いものの、右足に体重をかけると、先ほどと同じような骨を締め付ける激痛が襲う。左足に体重をかける、不自然な体勢でないと立てない。この分では右足を引き摺って歩くのがやっとだろう。
「まだ痛い?」
屈んだまま、エミリーを見上げてルークが訊ねる。重荷に思われたくない一心で、つい首を振ったが、すぐに思い直して付け足した。
「座っていれば平気だけど……ちゃんと歩けない」
「骨が折れてないといいけど。手当てするから、もう一度座って」
腰を浮かせたルークが、エミリーに向かって手を伸ばした。それは、恐らく痛む足を庇って、片足だけで屈まなければならない彼女を支える為に、差し伸べられたのだろう。
そうと知っていても、エミリーはその手につかまることもできず、どころかルークと目も合わせられなかった。
エミリーの態度を見て、彼女に触れることを遠慮したのか、彼はその手をゆっくりと引いた。ルークの戸惑ったような動きに、エミリーは後悔と罪悪感を感じる。
特別な意図もない、ただの親切で差し出してくれた手なのに、どうして素直に礼を言って彼の手を取らなかったのだろう。ルークの優しさを払いのけたようなものだ。
見知らぬ同士ではない。寝食をともにしてきた仲間なのだ。何の感情もなく触れ合うことを意識しすぎては、まるで自分がルークを信用していないように見えてしまうかもしれない。
本当はいつも、その大きな手に触れることを夢みてさえいるのに。
閉ざされた扉に手をついて、再びどうにか床に腰を下ろしたエミリーの前で、荷物を肩から下ろしたルークも膝をついた。
手当てをしてくれるとルークに言われたものの、彼の目の前に足を差し出すのが傲慢に見えないかと、エミリーが躊躇していると、ルークが口を開いた。
「足、ちょっといい?」
先ほどより心持ち固い声だった。
痛めた足を遠慮がちにルークの前に出しながら、エミリーは彼を傷つけてしまったのかと不安になる。要領の悪い自分に苛ついているのかもしれない。先ほど彼の手を取らなかったから、怒っているのかもしれない。
ルークがエミリーの、足首までの短い靴の紐を解き始める。頬が上気した。三日前にシーマスが彼女の服の胸元の紐をほどいたことを何故か思い出す。
胸の奥からざわつきながら何かがせり上がってくる。その得体の知れない感覚を押さえ込む為に、エミリーはこっそり唇を噛んだ。
ルークは彼女の細い足首に軽く手を触れた。体が震えそうになり、エミリーは床に着いた両手に力を込めた。
「今、普通にしてても痛い?」
「ううん」
エミリーが平静を装い、短い返事を返すと、ルークは自分の荷物から清潔そうな布と水筒を取り出した。
「じゃあ捻挫かな。腫れてるから冷やすよ」
ルークは布を水で湿らせ、エミリーの足首に巻きつけた。熱を持っている足首に、ひんやりとした感触が心地よい。
その手つきはミクエルに比べれば、手馴れていない不器用さを見せていて、それまで何もかもほぼ完璧に見えていたルークが、ふと近しい存在になった錯覚を覚えた。
ルークは膝をついて、エミリーの足首に視線を落としながら作業を続けている。そうしていると、小柄な彼女が普段目にすることのない、ルークの頭の天辺が見えた。癖の少ない艶やかな黒髪に、手を伸ばして触れたくなった。
突然、エミリーはそれまでにないほどに不安を感じた。
今自分が見つめている、彼のこの美しい頭の先を、誰か他の女の人が違う時間に見つめ、そして触れたことがあったのだろうか。そして、無事にここから出て街に戻った後、誰か触れる人がいるのだろうか。
それまでにも、ルークに恋人がいるかどうかということは、エミリーの一番の関心事であり、心配だった。
彼女自身が問うまでもなく、酔っ払うと、しきりにプリシラがルークに恋人はできたかどうか尋ねていた。しかし、ルークはいつも首を振っていたし、実際、街にいる間も、女性に会いに行った様子もなく、外泊することもなかった。
だからエミリーはルークを見つめるだけで満足していた。いつか、彼の側に寄り添うのが自分であればいいと望んではいたが、それは今すぐでなくてもよかった。現実よりも、近い未来の夢想の方が、彼女には心地よかった。
でもそうしてエミリーが夢ばかり見ている内に、自分ではない女性がこうしてルークを見つめて、寄り添うようになるかもしれない。急激に迫ってくる焦燥は、ほとんど恐怖に似ていた。
布を巻き終えて、ルークは彼女の足から手を離すと、腰を引いてエミリーを見た。まだ心臓を弾ませたまま、彼女は伏し目がちに礼を言った。
「捻挫にしても骨折にしても、動かない方がいいんだけど……」
「大丈夫。座ったままでも解呪はできるから。時間がかかるから、ルークは先に助けを呼びにいって」
エミリーは無理矢理今ある危機に目を向けようとした。ほんの少しの間、全く頭の中から締め出してしまった、閉じ込められた仲間たちに申し訳なく思った。
「いや、魔術に集中しているエミリーを置いて、俺が離れるのは危険だよ。助けを呼びに行くのは最後の手段だ」
首を振るルークに、エミリーはさらに言葉を重ねた。他人の決断に従うことが多い彼女には珍しいことだった。
「でも、時間をかけても私が解けるかどうか分からないし、街まで一日かかるよ。往復で二日じゃ、助けが間に合わないかもしれない。ここには危険な生き物はいないと思うし、私なら大丈夫」
尚も渋い顔のルークに構わず、エミリーは首から下げているネックレスを外した。先端に銀製の小さなメダルがついている。複雑な文字が掘り込まれたメダルは装飾用ではなく、魔術師が持つ身分証のようなものだった。
「これを持っていけば、大学が助けを出してくれるはずだから。私の叔父を訪ねて」
突き出されたネックレスを、気圧される様にルークは受け取った。表情からして、納得はしていないようだった。恐らくエミリーの決意を尊重してくれたのだろう。
「……分かった。でもせめて、この広間の他の部屋を調べてから出るよ。他にも何か仕掛けがあるといけないし。先に解呪を始めてて」
彼はエミリーから受け取ったネックレスを、丁寧にベルトに通した貴重品袋にしまい込み、立ち上がった。すぐに隣の扉の方へ歩き出す。
エミリーはその後姿を見て、涙が出そうになった。
(そばにいてくれるんだ)
言ったことは、間違っていないと思う。でも一人でこの妖しげで広大な広間に取り残されるのは、本当を言えば彼女は恐ろしかった。
本来なら、危険な生物がいる可能性が低い部屋を探るより、ルークは一刻も早く助けを呼びにいくべきだ。だが、今度こそ彼の優しさを素直に受け止めようと思った。ルークが広間を見て回る前に、術を解けばいいだけの話だ。
エミリーは柔らかく沸く気持ちを落ち着かせ、扉に向き直った。集中する。
セルヴィスは目を閉じたまま微動だにしない。
閉ざされた扉を開くのには、相当手間がかかるのだろう。相手が魔法で閉じた扉では、他の三人はやることがない。集中しているセルヴィスを見守るだけだ。
「ちょっと奥見てくる」
気の短いシーマスは退屈に耐えられずに腰をあげた。
「一人じゃ危ないよ」
「様子見てくるだけだ。やばそうならすぐ戻るよ」
顔をあげたミクエルにそう言うと、プリシラも立ち上がった。
「じゃあ、あたしも行く。ミクエルはセルヴィスについてて」
ミクエルは一瞬顔を曇らせたが、結局頷いた。
広間から続く扉を開いたのは、本当に何気なくだった。少し様子を伺おうと、中に入り込むと、他の仲間たちも続いた。突然後ろのセルヴィスが声をあげたので、振り返ると、入ってきた扉は閉じていた。
セルヴィスの話によれば、彼の後ろに続こうとしたエミリーが、扉の前でしゃがみ込むのが見えた。最後尾のルークが彼女を気遣うように声をかける姿が、振り向いた彼の目に入ったと思ったら、突然扉は閉じてしまったという。
それから扉は押そうが引こうが開かなかった。セルヴィスによれば、魔法によって閉ざされているらしい。
扉の向こうは出口に続いているが、こちらがどこにも繋がっていなければ、閉じ込められたことになる。
調べもせずに不用意にドアを開け、通路に入り込んで閉じ込められてしまったことで、シーマスは多少責任を感じていた。
通路は、入り口付近を除いて、狭まっており、人一人が通るのがやっとだ。
広間も階上と比べれば薄暗かったが、この通路はさらに明かるさが少ない気がする。ランプを灯さなければならないほどではないが、通路の外れにあり、下に続いている階段の奥は、暗がりになっていた。
用心しながら階段を下りると、後ろから続いているプリシラが口を開いた。
「あんたさ」
勝手に通路に入り込んだことを責められるのかと思い、内心身を竦ませながらシーマスは振り向いた。だが予想に反して、彼女の表情は微笑みに近いほど穏やかだった。
「最近エミリーに優しいじゃん。やっと大人になった?」
「え、そう?」
動揺を悟られないように、シーマスは素っ気無く返事を残し、また前を向いて階段を下り始めた。
「だって前は野宿する度に、姑の嫁いびりみたいにあの子に小言言ってたじゃない」
(姑って……)
他の喩えは無いのか。
シーマスは確かにのほほんとしているエミリーを叱りつけることが多かったが、それほど陰湿な言い草に聞こえただろうか。
野宿ともなれば、することは山ほどある。火を起こし、水を汲み、寝場所を整えて、食事の支度をする。
しかし普段エミリーはてきぱき働く仲間たちを目で追いながら、ただ座っていることが多かった。時折、見かねたミクエルが簡単な用事を頼むことがあったが、薪を拾いにいけば湿った枝ばかり取ってくる、水を汲みに行けば迷子になる、食事の支度にしても手順が分からない。結局尻拭いをするミクエルの手間が増えるだけだった。
昨夜、この遺跡に来る途中に林で野宿した時も、エミリーはしばらくの間、ぼんやり座っていたが、集めた薪で火を起こすミクエルに「何か手伝うことはない?」と尋ねるのが聞こえた。
(てめーで考えろ! ミクエルだって忙しんだよ)
チーズを切り分けながら、よっぽどそう言ってやりたかったが、こらえた。
ちなみにセルヴィスも野宿の最中は何もしない。忙しく働く仲間たちを尻目に、瞑想などに耽っている。居眠りしてるんじゃないかとシーマスは思っているが、何もできないならそれぐらい堂々としていればいいものを、エミリーは何か手伝わなければという焦りを見せながら、結局何もできずに、おどおどと周りを見回している。その仕草がいつもシーマスの癇に障る。
今にしてもそうだ。遺跡に下る最初の階段で、エミリーは軽く足を痛めたらしいが、それを誰にも告げずに、平然を装って調査を続けながら、結局は我慢できなくなってしゃがみ込んでしまったようだ。
一見、健気にも見える行為だが、他人にどう思われているかを気にしていて、自分の意志をはっきり伝えられないだけだ。
小言を我慢した理由はひとえに、はずみで彼女を抱いてしまったことにつきる。
一応、エミリーに失礼なことをしてしまったという自覚はある。それを棚にあげて彼女を怒鳴りつけるのもきまりが悪いし、怒鳴られた彼女が怒って、例の事件を仲間に告げれば、自分の身が危ない。
しかし彼の微妙な態度の変化に、プリシラが気づいてたとは思わなかった。鈍いように見えてもやはり女だ。
「ま、あんたのいつも言ってることも間違ってないけどさ、あれじゃ八つ当たりだったもん。見ててエミリーが可哀相だったよ」
「そうやって可哀相とか言って、お前らが甘やかすから、あいつ、いつまで経ってもぼけーっとしてんだろ」
言葉を続けるプリシラに、シーマスは思わず言い返した。
シーマスがエミリーを叱りつけると、プリシラやルーク、時にはミクエルが仲裁に入ることがある。「おとなげない」「そういう言い方はない」というのが、彼らの決まった言い分だったが、何のことはない。小柄な少女が怒鳴りつけられているのを見ていられないだけだろう。
エミリーがそうして庇われると、庇う人間にはもちろん、庇われてさらに涙を流すエミリーにも尚更腹が立った。さらに言葉が荒くなり、一度など、仲裁に入ったルークと危うく殴り合いになりかけたこともある。
「そりゃそうよ。まるで女の子がチンピラに因縁つけられてるみたいだもん。あんたも結構ひどいこと言うしさー。……ま、でもやっと落ち着いてあの子を見守る余裕ができた?」
「別にそんなことねーよ。グダグダ言うにも疲れただけ」
シーマスとエミリーの間に何かあったのかと勘繰られるのが一番困る。答えながら、シーマスは早くこの話題から離れたかった。
別の話を探すまでもなく、彼の望みは叶うことになった。
体が宙に浮く感覚を一瞬覚える。底知れず深く続いている階段の足元が突然消えた。
座り込んだままエミリーは既に集中を始めているようだった。
エミリーの言うことは分かるが、やはり無防備な彼女を一人置いて、街に助けを求めに帰ることはできないだろうとルークは考えた。
幸い扉は木製だ。エミリーがどうしても封印の魔術を解けなかった場合は、助けを呼ぶより、扉を叩き壊した方が早い。
それでもただ彼女の側で何をするともなく座っているのも手持ち無沙汰だ。エミリーに言った通り、念の為他の部屋を見て回ってもいいが、また妙な仕掛けがあっても困る。
ルークは立ち上がり、もう一度広間の中を歩いてみた。
壁のところどころに施された壁画は、どれも淫靡だった。全裸の少年──ミクエルより年下に見える──に、腹の突き出た中年男二人がのしかかっている図。枯れたような老人の陰部に少年と少女が顔を埋めている図。三人の逞しい少年たちが、でっぷりと肥えた中年の女の体を愛撫している図。
芸術に理解の少ないルークにも、淡い色彩で描かれたそれらの絵が美しいと言われるだろうことは分かる。だが、生来潔癖気味の彼には、刺激的にも感じられない。下劣だと思った。まだ子供と言ってもいいほどの少年少女たちを、分別を備えたはずの中高年の男女が、性の慰みに使っていることに、単純に義憤を覚えた。
街を出る前に、エミリーが酔っ払いに襲われたという事件を思い出す。古代人は奔放だとセルヴィスは言っていたが、結局現在でも人間は変わっていないのかもしれない。
違う場所にあった壁画では、四つん這いになった少年少女たちに首輪がかけられ、そこから伸びた皮ひもを年かさの女たちが、犬でも連れるように従わせている。この空間で千年も前に行われていた破廉恥な行為に、吐き気がしそうだった。
不意に心配になり、エミリーの方を振り返ると、彼女はまだ閉ざされた扉に向かって集中し続けているようだった。
エミリーももう子供という年ではないが、ルークはどうも彼女が心配で、目が離せないところがある。引っ込み思案で、言いたいことも言い出せないエミリーを見ていると、面倒見のいい彼は何とかしてやりたいと思うのだ。
盗賊のシーマスは逆にエミリーがそうして物怖じするところが気に入らないらしく、よく彼女を怒鳴りつけていた。
彼の言うことももっともだ。年頃を考えれば、エミリーは世間や物事を知らなすぎるし、自分の身の回りのことも満足にできないのでは、冒険者としてやっていくのには不都合だ。
しかし仲間からどやされてすすり泣いているエミリーを黙って見ているのは、弱者に優しくあれと教えられてきたルークには難しいことだった。
特に女性が目の前で泣いたりすると、自分のせいでなくても、ルークなどはどうしていいか分からず、それだけで落ち着かなくなる。
よくもシーマスは、あんな可憐な少女に大声を浴びせて泣かせた挙句に、さらに説教などする気になれるものだ。
見かねてシーマスを諌めると、彼はルークと喧嘩までする気はないらしく、すぐに興味を失ったように場を外した。
ただ一度だけ、興奮したシーマスが、エミリーの家族や叔父までも侮辱するかのような言葉を吐いた時に、珍しくルークは激高したことがある。
「大体、お前、なんでエミリーにだけそうきついんだ? 俺やプリシラにだってできない事はあるだろう。なんで俺たちには言わない? 結局エミリーが弱い女の子だから、言いたい放題怒鳴ってるんだろうが。ただの弱い者いじめだろ」
そのルークの台詞を聞いた時、シーマスの顔色が変わった。図星だったのだろう。
「なんだと、てめえ。ちっと外出ろ」
勝てない喧嘩はしない主義のシーマスが、ルークの胸倉を掴んだのは初めてだったかもしれない。殴り合いになれば、体格差だけでも、シーマスは圧倒的に不利だったはずだ。しかし同じく激怒していたルークも、当時は手加減するつもりはなかった。
さすがにプリシラたちが仲裁に入り、結局殴り合うことはなかったのだが、泣きながらシーマスに謝るエミリーを無視し、黙って背を向けて部屋に戻る彼の後姿を見ていて、果物でも投げつけてやろうかと思うほど腹立たしかった。
しかしその後、プリシラに呼び出された。
「エミリーがあのチンピラに怒鳴られてると確かに可哀相だけど、あんまり庇わないようにしない? あの子、ほんとにいい子だけど、ちょっとのんびりしすぎているからさ。あたしたちが庇うと、自分で何もしなくても周りが助けてくれることになっちゃうでしょ? 今までそうやって育ってきたんだろうけど、いつまでもそのままじゃ、あたしたちも困るし。何度も庇われると、自分は悪くないって、無意識に思っちゃうかもしれないし。別にシーマスもガーガー怒鳴ってるだけで、手まであげる気は無いみたいだしさ」
「でも……エミリーが怖くなって、パーティー抜けちゃったらどうする?」
プリシラの言っていることは正しいと思いつつも、ルークは口を挟んだ。プリシラは苦笑いを浮かべて、軽く肩をすくめた。
「それは、残念だけど仕方ないんじゃない? エミリーが決めることだよ。シーマスに怒鳴られるのが嫌でパーティー抜けちゃうくらいなら、今後も冒険者生活なんか続けてられないんじゃないの」
随分とエミリーを可愛がっているように見えたプリシラだが、意外にドライだ。ルークはエミリーが少々哀れになり、続いて自分がとても甘い人間のように感じられた。表情からルークの心中を読んだのか、プリシラは僅かに微笑んで続けた。
「あたしだって、あの子は好きだし、抜けて欲しいなんて思ってないよ。でも彼女の親みたいに、いつまでも手取り足取りできるわけじゃないしね。あんな失業中のゴロツキみたいな男に怒られたぐらいじゃ、びくともしない女になって欲しいな。むしろひっぱたき返して鼻血吹かせるくらいタフになるといいけど」
そこまでタフにならなくてもいいだろうとルークは思った。プリシラが二人になるようなものだ。鼻血を出させるほどシーマスを張り倒すエミリーなど見たくないような気がした。無論、賢明な彼は、その場で口には出さなかった。
しかし、プリシラの言っていたことは正しかったようだ。彼女もルークも、エミリーがシーマスに叱られている時はそっと場を外すようにした。
その度にルークの心は痛んだが、エミリーが泣き出すことは徐々に少なくなった気がする。
今日とて、足を痛めたというのに、ルークを頼ることなく、実に冷静にできることをしようとしていた。娘の成長を見守る父親というのは、こんな気分なのだろうかとぼんやり考えた。嬉しい反面、自分が彼女の為にできることが少なくなったことに、少し淋しさも覚える。
しばらくエミリーの後姿を見守った後、ルークは再び壁の方に視線を向けた。
そこは手枷や足枷のついた怪しげな寝台がいくつも並んでいるあたりだった。少し先にある扉が開いている。内心息を呑んだ。
(さっき開いていたか……?)
覚えていない。最初に広間をざっと見て回った時は、この怪しい器具に目がいき、いくつか扉が並んでいたが、それが全て閉じていたかどうかまでは記憶に無かった。
恐る恐る足を運び、開いた扉をそっと覗き込んだ。
そこには簡素な寝台がいくつも並んでいた。ルークが目を見張ったのは、その寝台に壁画にあるような十代半ばくらいの少年少女たちが、何人も横たわっていたからだ。
そっと入り口に近寄る。先ほどのように勝手に扉が閉じてしまっては困るので、部屋の中には入らないようにした。
エミリーの話によれば、この地下都市が滅びたのは約千年前。恐ろしく昔の出来事だ。壁画に描かれた貴族も奴隷も千年前の人物たちのはずだ。
だが、目の前で寝台に横たわる少年たちは、白骨でもミイラでもなく、生身の人間のように見えた。いずれも全裸で、皆驚くほど美しく、ただ目を閉じて横たわっているだけなのに、どこか艶かしかった。
生きているはずはない。しかし、死体にしてはどこも損なわれていないのが妙だ。それとも魔法で保存されているのだろうか。何の為に?
ぼんやり考えながら、ルークは一番近くにいる少年を眺めた。まだ十五歳になるかならないかという年頃だろう。痩せていて、体格は子供と言ってもいい。しかし白銀色の巻き毛といい、陶器のような肌といい、実に見目麗しい少年だった。ルークは少年趣味は無かったが、それでも心臓の鼓動が早くなった気がする。
目を離せずに見つめていると、突然少年の両目が開かれた。その瞳は類稀な菫色だった。
作者ブログ『椰子の実ライブラリ』

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