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禍は南より来たる 8
「あれ、人か?」
「何か荷物かもな」
 水音がした右舷の甲板から、暗い海を覗き込んだ船員たちは、顔を見合わせた。
 月も無く、まだ薄く霧が漂っている今夜は視界が悪い。
 同じ船の船員が落ちたのであれば、海に飛び込んででも助けなければならないが、ただの物であったりすれば飛び込み損だ。 
「でも荷物が勝手に海に落ちるわけはねえだろ」
 年長の船員は、手にしたランタンを掲げた。
「もしかして幽霊かな」
「あほ。船の上で不吉なこと言うな」
 迷信深い船員は、若者を軽くこづき、甲板をゆっくり移動しながら、海に落下した物を探して目を凝らした。
 しかし彼の腕を再び若い船員が引いた。
「あにき。何だかほら……遠くに……鬼火かな?」
「不吉なことばかり言うなってば」
 舌打ちをしながら、船員は若者が指差す方角に目を向けた。
 明かりだ。
 淡い霧の中、炎のように揺らめく明かりが幾つも幾つも、海上を漂うようにこちらに近づいてくる。
 港からの船にしては、こんな時間に出てくることがおかしい。
 まさか、本当に鬼火だろうか。
 二人の船員の体を悪寒が走り抜けた。




 頼むから目を覚ましてくれ。
 シーマスの祈りも虚しく、エミリーは意識を失ったままだった。
 脱水でも起こしているのだろうか。
(参った……)
 頭を抱えたかった。
 とりあえず華奢なエミリーの体を左舷の甲板へと引きずりながら、シーマスは必死に善後策を考えたが、何も思い浮かばない。
 エミリーが脱水や熱射病、栄養失調でも起こしているのなら、海に飛び込むのはあまりに危険だ。
 彼女が泳げなくてもまだ意識があるのならいいが、意識が無い人間と子供を連れて、彼方に見える陸地まで辿り着ける自信は無い。
 船員に見つからないように小舟を海に落とすのは至難の技なので、シーマスはセルマの助けを借りて、サミュエルの部屋の長椅子の背を座席部分から外し、即席の筏を作り上げた。
 作り上げたというと語弊があるかもしれない。ただの木切れと言ってもいい代物だ。
 しかしそんな物でも、あると無いとでは段違いである。
 エミリーとセルマをそれに乗せ、小舟から持ち出してきたオールを使って、どうにか岸まで漕いでいくしかない。 
 だがエミリーの意識が無いのでは……。

「エミリーはどうしたの?」
 左舷で物陰に隠れていたセルマは、意識の無いエミリーに気づくと、泣きそうな顔で囁いた。
「分かんねえ。生きてはいるみたいだけど、全然目を覚まさない」
 ぐずぐずしてはいられない。
 右舷に出ている船員が操舵室に戻れば、船員の遺体に気づく。そうなれば昨夜のように鐘を叩いて、船中に危機を知らせるだろう。
 危険だが、もう後戻りはできない。エミリーを抱いて、海上にそっと下ろした筏に下りるしかないか。

 その刹那、慌しい足音が響いて船室へ続く扉が開いた。松明の明かりが見える。
 シーマスは咄嗟にセルマの頭を抱いて、彼女が隠れていた甲板の大樽の陰に身を潜めた。月が無いのでほとんど真っ暗闇だったが、用心して明かりをつけておかなかったのは正解だった。
「甲板にはいないようです」
 聞こえてきたのは、先ほど昏倒させた例の中年男の声だった。息を吹き返して、どうにか縛めを解いたらしい。
(もうちょっと、寝てりゃいいのに……)
 最悪の状況がさらに悪化した。思わず小さな溜め息がついて出た。
「船倉まで探せ。どこかに隠れているに違いない」
 その後に響いたのは、他ならぬサミュエルの声であった。まだ上げ底だったらしい。さらに最悪の事態だ。彼も意識を取り戻したのだ。
「セルマ、先に下りろ」
 縁から縄代わりにして筏を繋いだ絹帯にセルマをつかまらせた。喘ぐような少女の囁きが聞こえる。 
「でも……エミリーは? シーマスは?」
 どうにか後からエミリーを抱いて筏に乗る。
 しかし答える余裕が無かった。松明の明かりと共に足音が二つ近づいてくる。
「早く下りろ」
 この場は争いになるしかない。自分が人を殺すところも殺されるところも、子供には見せたくなかった。
 硬い声でセルマを促すと、嗚咽のような息を吐きながらも、少女の姿は甲板の外へと消えた。

 それでも足音が二つというのは、まだ幸運だ。
 シーマスはエミリーの体を離して甲板に横たわらせると、先ほど船員を屠った薄刃の短剣を握った。
 耳を澄ませて、近づいてくる連中との距離を測る。
 あと二十歩。十五歩。十三歩。
 樽の陰から立ち上がった彼は、明かりを持っている人影の脳天を狙って、短剣を投げ放った。
 派手な悲鳴が聞こえて、人影がくずおれる。殺せたかどうかは分からないが、刃が頭部に命中したのは間違いない。
 シーマスはすかさず腰に下げていた短剣を抜いた。サミュエルの部屋から念の為持ち出してきたものだ。長剣一本よりも、彼のような人間には、軽い武器をいくつも持っているほうが役に立つ。
 身を翻すかと思っていた男は、逆に得物を構えてシーマスに向かってきた。
 倒れた男が床に落とした松明が、やや離れた場所から男を照らす。
 サミュエルだった。
 
「貴様……この下劣な猿が」
 眦を吊り上げたサミュエルは、シーマスが海に投げ込まれた密航者であると気づいたようだった。
 やや嗄れた声を呪詛のように絞り出しながら、小ぶりの剣を構えて、シーマスと対峙している。
(なめんなよ)
 プリシラやルークのような専業傭兵と正面から戦うほどの腕はないが、これでも短剣の鍛錬は積んでいる。怒りに我を忘れた、人攫いの監督をしているような優男に遅れをとるわけにはいかない。
「うるせえよ、幼女趣味の変態。オレに喉シメられて、碌に声も出ねえだろうが、バカ」
「何だと……あれは貴様か……」
 自分を不意打ちした賊がシーマスだと知ったサミュエルは、憤怒の為か表情を失った。シーマスは唇を歪めて笑う。
「髪の毛まで剃られちまって、出来損ないの坊主みたいだぞ。ざまあねえな」
 完全にシーマスの挑発に乗ったサミュエルは、剣を振り上げて彼に襲いかかった。
 一番困るのは、サミュエルに他の護衛や船員たちを呼ばれることだ。
 その前に一対一で彼を降参させ、人質に取るしかない。

 後ろに下がって一撃目を避け、下から振り上げられた二撃目を短剣で受け流した。
 見た目によらず、なかなかいい腕をしているようだ。早めに勝負をつけなければ。
 次の斬撃を短剣で受けると、シーマスは手首を返して刃を絡ませるようにして、サミュエルの剣を捻った。
 刃を引こうとするサミュエルに向かって、思い切って一歩踏み込み、その手に切りつける。
 防戦に徹していたシーマスの動きを予測できなかったのだろう。サミュエルは小さな声を上げて剣を取り落とした。  
 すかさずその首に短剣を突きつけようとしたが、次のサミュエルの動きは逆にシーマスの予想を超えていた。
 彼は伸ばした左手で、シーマスの右手を素早くつかみ上げた。
 右手に激痛が走る。驚くほどの力でサミュエルはシーマスの拳を締め上げた。
「いっ……」 
 思わず悲鳴をあげ、シーマスもまた得物を取り落とした。
 シーマスは咄嗟に頭突きを繰り出してサミュエルの手をもぎ離す。しかし間合いを取る前に、まだくらくらする頭をサミュエルに殴りつけられた。
 よろけるシーマスの胸倉をサミュエルがつかみ上げた。
 しかし二発目を食らう前に、シーマスの膝蹴りが相手の鳩尾に食い込む。
「ぐっ」
 呻き声を上げたサミュエルは一歩下がったが、すぐに肘を突き出してシーマスのこめかみを打った。
(やっべえ……こいつ、強いかも)
 なめてたのはこちらかもしれない。 
 少なくとも腕力においては、サミュエルはシーマスよりも上だ。彼の拳で殴られた左頬が熱く痛む。
 正面から殴り合っていては、勝てそうにない気がした。
 足がぐらついて、膝をついたシーマスは、落ちた短剣を拾おうと手を伸ばした。
 だがいち早く気づいたサミュエルがその手を蹴り飛ばす。咄嗟に手を引いたが間に合わず、指先で激痛が弾けた。

 指の骨が折れたかもしれないと思った瞬間、左手から明かりが差した。  
 右舷の囮に気を取られていた船員たちが、操舵室をくぐってこちらにやってきたのだ。
 絶体絶命だ。
 こうなれば海に飛び込むしかない。この怪我では溺れるか、後から泳いできた船員に捕まるかもしれないが、このままではサミュエルたちに嬲り殺しにされるだけだ。
「何している」
 身を翻そうとしていたシーマスは、しかしそこに響いた声を聞いて動きを止めた。
「曲者だ。捕えろ」
 サミュエルは嗄れた声ながら尊大に命じた。
「どっちがだ?」
 松明を携えた男は、低い声で尋ねながら、抜いた長剣の切っ先をシーマスとサミュエル、両者に油断なく突きつけた。
(……何が起こったの?)
 炎に浮かび上がった男の顔を認め、それでもまだシーマスは信じられない思いだった。
 ルークだ。

「誰だ?」
 現れたルークが船員でないことに気づいたサミュエルは、丸腰のまま彼に向かって身構えた。
「そのまま動くな。この船は治安維持軍が調査する。結果が出るまで、乗務員は全員拘束される」
「何の話だ」
「お前たちには、誘拐と人身売買の疑いがかかっている。抵抗しないほうがいいぞ」
 サミュエルの顔色が変わるのが見えた。
「ルーク……お前、よく……」
 息をついたシーマスがルークを振り向くと、彼は今さら驚いたように目を瞠った。
「え……シーマスか? 何してるんだ、こんなところで」
 シーマスは髪型を変えて変装していたため、どうやらルークはシーマスだと気づかずにこの場に割って入ったらしい。 
「そりゃ、オレの台詞だ。お前こそ、こんなところで……」
 言葉の途中で、緩んだ緊張の隙を突くようにサミュエルが背を向けた。
 手負いのシーマスよりも早く、松明を放り出したルークが追い縋る。
 長身の青年は後ろからサミュエルの襟首をつかむと、強引に振り向かせた彼を剣の柄で殴りつけた。
 小柄なサミュエルの体は、半ば吹き飛ぶように甲板にどうと倒れる。
 松明を拾ったシーマスが追いつくと、倒れたサミュエルの鼻と口が血にまみれているのが見えた。
 脳震盪でも起こしたのか、サミュエルは弱々しく手足を震わせるばかりで、起き上がる気配がない。
(強え……)
 長年組んできてルークのことはよく知っているが、シーマスが敵わなかった男を一撃で殴り倒してしまう膂力には、頼もしいながら少々妬ましいような、そして恐ろしいような気もした。

 顔を上げて甲板を見渡したシーマスは、各所で松明が揺れ、軍人たちの声や船員の情けない悲鳴が聞こえてくるのを耳にした。
「治安維持軍を連れてきてくれたのか?」
 冒険者や傭兵たちとはあまり相性が良くない連中であるが、こうなると軍の人間も頼もしかった。
「まあな。でも俺じゃない。ミクエルやジュリアナの助けがあってこそだ」僅かに相好を崩したルークは、一転して深刻な表情に戻った。「この船にエミリーはいるか?」
「さっきのとこに倒れている」
 ルークが大きく安堵の息をつくのが聞こえた。
 彼らは甲板の大樽の近くに戻り、横たわるエミリーの元で屈んだ。
 火の粉を散らす松明が照らした少女は、まだ意識を取り戻す気配も無い。シーマスは彼女の口元に掌をかざした。呼吸はある。
「……無事なのか?」
 隣で屈んでいたルークが立ち上がり、上着を脱いでいる。
「怪我は無さそうだけど、さっきから意識が無いんだ」
「いや……」
 ルークは口ごもりながら、袖の短い麻の上着をエミリーの体に被せた。長身のルークの衣装は、小柄なエミリーの肩から腰をすっぽりと覆ってしまう。
 エミリーは娼館の衣装箱から見つけた、透けるような布地の服しかまとっていない。おまけにサミュエルに全身に染料を塗られているのだ。エミリーのいでたちを見たルークが無事かと訊いたのは、負傷の有無だけでなく寧ろ彼女の貞操に違いない。
 シーマスはルークとは目を合わせずに答えた。
「オレが助けるまで、逃げられないように檻の中に閉じ込められてたから、多分船員どもにひどいことはされてないと思う」
 オレはやったけど。
 無論、口が裂けても言えない一言である。
「檻?」
「いや、まあ、詳しくは後で。オレもずっと一緒だったわけじゃないから、よく分からないんだよ」
 今までのいきさつを語るのは後でもできる。とにかくこの場は、エミリーの容体の回復の方が重要だ。シーマスは話を打ち切った。
 しかし、今だけでなく普段の言動からして、ルークはエミリーが乙女であると信じているようだ。
 実際シーマスも、自分自身が彼女の初花を散らしたのでなければ、現在のエミリーを処女だと考えていたに違いない。
 男を知ることで、急に色気づいて雰囲気が変わる女もいるが、エミリーは以前とほとんど変わらず、可憐だが色気に乏しかった。つまるところは経験よりも、本人の意識の問題なのだろう。
「エミリー」
 再び彼女の傍で屈んだルークは、自分の上着を被って、死んだように横たわっているエミリーに声をかけた。応えはない。
 エミリーにとっては哀れだが、シーマスにはこの二人は父娘か、いいところ兄妹の雰囲気にしか見えない。しかしルークは、エミリーの頭や体に触れようとはせず、どこか遠慮がちに呼びかけるだけであった。
 本当の肉親であれば、案じる人間に触れることをためらわないだろう。場末の娼婦のような格好の彼女を、ルークも多少は女として意識しているのだろうか。
   
 そうだ、セルマも。
 考えに沈みかけていたシーマスは、慌てて甲板から海を覗いた。
 暗い色の海に浮かぶはぎれのような筏の上に、少女が所在なげに座っているのが見えた。彼女は船から顔を出したシーマスに気づくと、顔を輝かせた。
「セルマ。もう大丈夫だ。今、引き上げてやるから、つかまれ」
「うん」
 小さな返事が、しかしはっきりと聞こえた。
 シーマスは船から繋がる絹帯を引っ張った。しかしサミュエルに蹴り上げられた右手の指が熱を持ち、うまく力が入らない。
「エミリーと一緒に捕まった子供か?」
 苦労しながら左手で絹帯を引いていると、隣に並んだルークの力強い手がそれを手伝ってくれた。
「そうだよ。……よく知ってるな」
「色々探し回ったから」
 セルマを引き上げながらルークは苦笑いを浮かべた。
「しかし、よくここが分かったな。奇跡だよ。王都から船で来たのか?」
 シーマスが訊くと、彼はきょとんとシーマスを見つめ返した。
「船っていうか、港からは勿論、小舟で来たけど……」
「一日中小舟漕いで来たのかよ」
 不思議そうにシーマスを見ていたルークの表情は、やがて珍しく皮肉っぽい笑みになった。
「……お前、もしかして、今自分がどこにいるのか知らないの? 王都の入り江のすぐ外だよ」
 
 ということは、この船はもしかして王都から進んでいるつもりで、その周辺をぐるぐる回っていたのだろうか。 
 いや、昨夜脱出に失敗した際に見た外の景色は、確かに王都近辺の港のものではなかった。 
 首を傾げるシーマスたちの元に、大勢の足音が押し寄せた。
 セルマを引き上げたルークが、そちらに向き直る。シーマスはやっと甲板の縁に捕まった少女を抱き上げて、船へと下ろしてやった。
「甲板は大方制圧した。お前たちの探している娘は、今船室で探させている」
 真っ先に近づいて、ルークの正面に立ったのは、シーマスの見覚えのない、金髪の若い男だった。鎧の上から上衣を纏っているところを見ると、どうやら治安維持軍の人間らしい。 
「いえ、私たちの仲間は今見つけました。あとは、他に誘拐された子供たちを探してください」
 ルークの答えを聞き、金髪の男が口を開く前に、彼の後ろから軍人たちをかきわけるように進み出た人間があった。プリシラとミクエルである。
「エミリー」
「ルーク、無事?」
 駆け寄ってきた二人は、ルークとシーマスの足元で倒れているエミリーを見下ろした。
 彼女たちも軍に同行して、船に乗り込んできたのだろう。
「意識を失っているみたいなんだ」
 シーマスが呟くと、二人は目を丸くした。ルーク同様、髪型を変えていたシーマスに、今気づいたらしい。
「何、あんたシーマス? 何でこんなとこにいるの?」
 ルークと同じことを尋ねたプリシラは、言いながらぷっと吹き出した。
「それに、なーに、その頭? ガラわるー。超チンピラなんだけど。ヤダ似合いすぎ~」
「…………」
 全く予想通りの反応を返してきたプリシラに、文句を言う気力もない。
 しかし彼女がげらげら笑っていられるのも、状況が落ち着いたからこそだ。
 そう思うと、やっと体中の緊張が解けていく気がした。

「エミリー、頭を打ったりした?」
 屈んで彼女の様子を看ていたミクエルは、不安げな声を上げた。
 シーマスは再び表情を引き締め、首を横に振る。
「わかんね。オレが知る限りでは打ってないはずだけど、ずっと一緒にいたわけじゃないから」
「あー、やっと追いつきました」
 エミリーの状態がそれほど深刻なのかと、顔を曇らせる彼らの耳に、場違いにのんびりした声が割って入った。
 シーマスが顔を上げれば、忙しそうに動き回る治安維持軍の中から、セルヴィスが出てきたところであった。
「エミリーは見つかりました? ……あれ、シーマスもいたんですか?」
 今更、他の皆と同じことに驚いているセルヴィスに、ややうろたえた声でミクエルが告げた。
「少し衰弱して、脱水症状が出てるけど、ひどい怪我は無いみたいなのに、意識が戻らないんだ」
 シーマスと同じく、怪我でもしたのか、両手に包帯を巻いたセルヴィスは、屈んでエミリーの顔を覗き込んだ。
「これ……もしかすると、深い瞑想に入っているのかもしれませんね」
 セルヴィスの呟きに、シーマスは抑えた声で尋ねた。
「瞑想って……魔術を使ってるってことか?」
 もしかして、船がいつの間にか王都に戻っていたのは、彼女の魔術だったのかもしれない。
「正確ではありませんが、簡単に言えば、そうです」
「じゃ、じきに目を覚ますのか?」
 シーマスの問いにかぶせるように、エミリーを心配そうに見つめていたセルマも顔を上げた。
 しかし魔術師は首を傾げた。
「とは限りません。何度か説明してますが、魔術に集中している間、私たちの心は別の世界をさまよっていますが、あまり深く潜りすぎると、帰ってこられなくなるんです」
「えっ」
 セルマは口を開いたまま、そう言ったきり絶句した。
 そういえば、エミリーは海の精霊は気性が荒くて、制御しにくいと言っていた。手に負えないという口ぶりだったが、まさかシーマスが船員たちに海に放り込まれたのを見て、思い切って大きな魔術に手を出したのだろうか。
「どうにかならないの?」
 ミクエルに尋ねられたセルヴィスも、さすがに重い表情だった。
「できるかどうか分かりませんが、呼びかけて連れ戻してみます」
 彼は懐から、いつも使っている小袋に入った粉薬を取り出すと、自分の周囲に振り撒いた後に、それを吸い込んで目を閉じた。



 <深き底で満ちる黒瑠璃>の力を借りて、エミリーは自分の肉体がある船の周囲に霧を発生させた。
 できれば潮の流れを変えて、船を王都まで戻せたら理想的だ。
 その為には、もっと深く精霊と同調しなければならなかった。
 しかしこれ以上はどう考えても危険だった。自我を保てる自身が無い。エミリーは既に精霊の懐の中にいたのだ。
 そこで彼女が考えたのは、霧の中に幻の太陽を映し出すことだった。
 濃霧を発生させて、本物の陽光を遮り、反対方向に偽りの太陽を映して、あたかもそこから光が差し込んでいるかのように見せた。
 日中の方角を知るために、最も重要な太陽の位置を違えた船員たちは、船を南へと進ませているつもりだっただろうが、実際には北に戻っていたのだ。
 だが用心深い船長は、王都の入り江には入らずに、翌日の夜明けまで待つことにして沖合いで錨を下ろした。
 エミリーは魔術を解いて、一旦意識を戻し、別の方策を考えようとした。
 しかし長い時間、強大な海の精霊の懐中におり、同調を続けていた彼女の精神はひどく疲弊していた。
 それはとても心地よい倦怠であった。
 抱えていた、すべての緊張と重圧が緩み、心が溶けていく。
 肉体の檻から解放されていたエミリーは、体を通して認識する五感はない。感覚を通さず、ただ感じるだけだ。
 このままではいけないような気がした。
 しかし精神が弛緩していくとは、なんて安らかで甘美なのだろう。無限のぬくもりに包まれて、自分が世界そのものに受容されていく。
 自我を保つということは、常に外側に向かって自分の内側からその存在を主張し続けることだ。
 肉体を伴っていれば、自分自身と世界、他人の区別は嫌でもつく。考える必要すらない。
 しかし精神の世界には自分の体が無い。自らの存在そのものを支えるのも、また自らの精神でしかありえないのだ。小さな魂の人間が存在し続けるには、あまりに優しすぎて過酷な世界だった。
『もっと、我が懐へ』
 優しい闇に包まれた空間に響く精霊の声が、母のように慈愛に満ちて聞こえる。
 精霊には、エミリーを陥れようという意志は毛頭無い。
 しかしその本質を精神の世界に置く精霊は、当然ながら肉体を備えた人間とは価値観が全く異なる。
 エミリーが見せた謙虚さをきっかけに、彼女を気に入り、愛するが故にその矮小な心を己の巨大な懐に納めようと手を差し伸べただけだった。
 結果としてエミリーの自我が崩壊しようとも、それは強大な精霊が関知することではないのだ。

 ゆるゆると精霊の内側にとり込まれようとしていたエミリーは、ふと遠くから自分を呼ぶ意識に気づいた。
 億劫に思いながらも、そちらへ意識を伸ばす。
 ──エミリー。
 その名前を聞いた瞬間、溶け始めていた意識が急速に形を戻し、再び息苦しいような重さに取り巻かれた。
 誰かが私を呼んでいる。
『エミリー』
 もう一度、精霊よりもはっきりした声で彼女に呼びかけてくる声があった。
 呼ばれているのは「私」。
『エミリー』
 ぐずぐずと、ともすると生温かい、深い海の底のような闇へと引きずられそうになるエミリーに、声は辛抱強く呼びかけた。
 呼ばれるたびに自分という存在を自覚する。意識が形を為して、自我が戻ってきた。
 そう、自分はこの声の主を知っている。
 エミリーは綱につかまるようにして、声を頼りにその方向へと意識を進ませた。


 体中に感覚が満ちる。全身がとてつもなく重かった。
「エミリー」
 今度ははっきりと、精神ではなく肉体が耳を通して声を聞いた。
 涙まじりのか細い声だ。誰だろう。
 やっとのことで瞼を開く。光がエミリーの目を灼いた。
「エミリー!」
 眩しすぎる光を遮るようにして、彼女に覆い被さる影があった。
「セルマ……?」
 小柄な少女の名前を微かに呟いた瞬間、どっと記憶が溢れ出してきた。
 セルマと共にサミュエルたちに拉致され、船でシーマスと出会い、そして……。
「エミリー、頑張りましたね」
 自分を導いてくれた声が聞こえて、エミリーの瞳から涙がこぼれそうになった。
「セルヴィス、ありがとう……」
 嗄れた声で礼を告げながら、彼女はそこで気がついた。セルヴィスは船にはいなかったはずだ。
 ということは。
「エミリー、怪我は?」
 セルマに続いて、ルークに顔を覗き込まれ、エミリーの心臓は穏やかに鼓動を速めた。
 ルークやセルヴィスがいるということは、ここは王都なのだろうか。
「よくやったな。王都に戻ってきたんだよ」
 頭上からルークとは違う男の声が降ってきて、エミリーはだるい体を必死に起こそうとした。
 どうにか首だけ上げた彼女は、シーマスの姿を捉えて、大きく目を見開いた。エミリーが最後に見たシーマスは、もがきながら海中に没していく様子だった。
 一瞬、自分はもうこの世のものではなく、ここは冥府で、とても幸せな永遠の夢を見ているのかと思った。
 しかし違う。目で見ている光景も、耳に聞こえる声も、体に感じる緩やかな揺れと潮風も、全て現世の苦しい重みを備えている。
 喉がからからだったが、エミリーはしわがれた声を絞り出した。
「シーマス……生きていたの?」
「当たり前だ。あんな死に方してたまるか」
 怪我でもしたのか、彼は左の頬を腫らしていたが、普段どおりのぶっきらぼうな口調で答えた。 
 よかった。死んでしまったものかと思っていた。
 彼が息絶える瞬間を目にしたわけではない。心のどこかで、彼が生き延びているかもしれないとは思っていた。しかしそれが虚しい期待に過ぎないだろうとも考えていた。
 まさか本当に生きていてくれたなんて。
 エミリーの大きな瞳からは、再び新たに涙がこぼれた。いけないと思ったが、溢れてきた涙は止まらない。
「よかった……ごめんなさい……」
 熱い雫を拭いながら、いつものように泣きながら謝る彼女を、しかし今回ばかりは、シーマスは苦笑をもって眺めているだけだった。


 **


 『紅いばら』のジュリアナからの知らせを読んだルークは、驚愕しながらも事態をどこかで予想していた気がした。
 彼女が娼婦や下男たちに聞き回ったところ、その夜に『紅いばら』に滞在していた、主の客人たちは、大きな荷物を港に運ばせたらしい。
 シーマスはそれを手伝いに行ったまま、戻ってこない。
 現場に行った下男に尋ねてみれば、シーマスは一人で荷運びの後始末に残してきたということだった。
 しかもシーマスの知らせで、下男の一人の情婦が客に絡まれていると聞いて、彼らは港から慌てて戻ってきたわけだが、情婦は無事で、そんな問題は起こっていないという。
 さっさと荷運びを終わらせたかったらしい下男たちは、シーマスのいたずらだろうと、特に気にしていなかったようだが、ジュリアナは何か理由があるのだろうと当然考えた。
 順当に考えれば、港で彼が調べている人身売買の場面を目撃したか、証拠をつかんだかということだ。
 シーマスは早速それを盗賊ギルドに伝えに行き、店からはこのまま姿をくらますつもりかもしれないと彼女は考えた。
 そしてまた、浴室で働く老婆から、実は今夜、客人が連れてきた幾人かの子供たちの体を洗ってやったと聞いた。
 その中には、ルークが探していた金髪で色白の十代半ばの少女が含まれていたという。
 子供に混じって、十五、六歳の娘が一人だけいたので、老婆もよく覚えていたのだ。
 彼女の話によれば、子供たちは荷馬車に乗せられて、客人が港に連れていったということだった。
 ジュリアナは自分の推論はあまり織り込まず、聞いた話をルークに書き連ねて、見習いの子供を使って、恋文を装って届けさせた。

 読み終えたルークは、迷った末、ジュリアナやシーマスのことは明かさずに、近しい人間から得た情報として、そのままをカーティスに伝えた。
 当初は、源を明かせない情報など信用ならないと主張していたカーティスだが、では自分たちだけで港に行ってみようとルークたちが立ち上がると、渋い顔をしつつも彼らに同行してくれた。切れ者のようだが、意外ととお人よしでもあるらしい。
 警備兵がいるため、夜間の出港は不可能だ。船はまだ港にあるに違いない。
 道すがら、カーティスはそう話していたが、既に探す船の姿は無かった。
「一体どうやって……」
 呆然としていたカーティスは、やがて険しい表情で呟いた。
「もしかすると、連中に港の警備兵が買収されているのかもしれない」
 
 翌朝、ルークたちが一度宿に戻って仮眠を取る間、カーティスは上役に事態を報告して、湾岸の警備兵の調査を早急に行わせた。
 結果、港の夜間の警備にあたる者の多くが、あの『紅いばら』の常連客であったことが分かった。
 カーティスの動きは、些か強引とも言えるほど速かった。
 すぐに『紅いばら』にも、一隊を派遣して大規模な立ち入り調査を行い、癒着の恐れのある警備兵を尋問させて、夜間に密かに『紅いばら』と関係が深い船が出航するのを傍観したと吐かせた。
 その頃には、既に夜になっていた。
 カーティスが上役にかけあって、人攫いたちを追う船を雇うことができたが、安全を考えると夜に出航するわけにはいかなかった。
 海上でも南に下れば下るほど、王の権力は及ばなくなり、湾岸に出没する貿易船狙いの海賊も増える。危険は少なくなかったが、足の速い船で、連中が王都近辺から出る前に追いつければ、攫われた人間たちを取り返せるはずだ。
 カーティスから話を聞いたルークたちは、当然同行を申し出た。今回は調査官もそれを拒まなかった。治安維持軍の権力の及ばない地域に出るのである。戦える人間は多い方がいいと考えたのだろう。
 夜明けと共に出発できるよう、ルークたちはカーティスたちと共に港に停泊する船で休んでいたが、夜中、不審な船が沖合いに停泊していると、警備兵──勿論、娼館の癒着と関係無い真面目な兵士たちである──からカーティスたちに連絡が入った。
 まさか、一日前に出発したエミリーたちが連れ去られた船ではあるまいが、カーティスは念のため船を検めることにして、治安維持軍や警備兵を連れて小舟で沖合いへと向かった。ルークたちも「ついでに手伝え」と狩り出されることになった。
 船に近づいた彼らは、それが警備兵たちの尋問から聞き出した、人攫いたちを乗せた船の姿とほぼ同じであることに気づき、幾手にも分かれて、慎重に船に乗り込んできたのだった。


 **


「話の分かる軍人じゃねえか」
 流れ者には冷たい、他の治安維持軍の隊長や調査官では、そこまで親身になってくれたかどうか。
 少し離れたところで、部下に指示を出しているカーティスの背中を眺めながら、シーマスは感心をこめて呟いた。
「んん~、そうですねえ。理由がないことじゃないと思いますが」
 にまにまと不気味な笑いを浮かべて、意味ありげにセルヴィスが言った。
「どういうこと?」
「いやー、私の推理によれば、どうもあの御仁、プリシラにご執心みたいですよ」
「そんなわけないでしょ」
 背後からプリシラは平手でセルヴィスの頭を叩いた。
「そうですかねえ。どうもあなたを見るあの人の目つきが怪しいんですけど……軍人でも調査官様ともなると、変わった趣味の人もいるんですね」
「あんた、ケンカ売ってんの? 目つきが怪しいのはあんたでしょうが」
 プリシラは押し殺した声で返しながら、もう一度セルヴィスの頭を小突いた。今度は結構力がこもっていたらしく、セルヴィスは本気で痛そうだ。
「まあまあ。……とりあえず、エミリーは無事だったんだし、僕らはそろそろ戻ろうよ」
 ミクエルとセルマに支えられて、エミリーもようやく体を起こした。
 術を使うために、大量の海水を飲んだという彼女は、翌日も丸一日水分を取らなかったため、脱水症状を起こしていた。食事もしておらず、衰弱気味だ。
「そうね。──エミリー、つかまんな。ミクエル、シーマスの怪我の具合を見てやって」 
 プリシラはミクエルに代わってエミリーの体を支えてやっていた。
 頷いたミクエルが、頬を腫らせたシーマスの元に寄ってくる。
 持ち合わせていた布を海水で湿らせて顔を冷やしていたが、シーマスがより心配だったのは、右手の怪我だった。掌の擦り傷もそうだが、中指、薬指、小指の先も熱を持って痛む。こちらにも布を巻いていたが、特に小指は見て分かるほど腫れていた。
 ミクエルはまず彼の右手をとった。手先を使うシーマスの最も大切な商売道具だ。
 布をどけたミクエルは、シーマスの右手の掌や指先を慎重な手つきで、押さえるようにして探った。サミュエルに蹴り上げられた指先は、触れられると激痛が走った。
「いてて」
 思わず情けない声を上げるシーマスの様子に頓着せず、ミクエルは指を一本一本押さえて様子を看ている。
「擦り傷の方はすぐ消毒すれば大丈夫だろうけど、指先の方がね……。骨が折れてるほどじゃないといいけど……、動かせる?」
「何とか……」
 力を込めれば、小刻みに震える指先は五本ともぎこちないながらも動いた。
「脱臼はしてないみたいだね。このまま冷やして、宿で治療するよ。──顔は?」
 ミクエルに促されて、シーマスは頬を押さえていた布をどけた。
 真正面から少女のような童顔が覗きこんでくる。少し前までは、ミクエルの視線はシーマスよりもやや下だった気がするが、今はほぼ同じだ。そのうち抜かれるのではないかなどと、この場ではどうでもいいことを考えた。
 無論そんなことは知らず、ミクエルはシーマスの頬に手をあてて頬骨の具合を確かめている。
「こっちも結構ひどいね。骨は大丈夫みたいだけど、歯は折れてないかな?」
「多分……」 
 弱々しくシーマスが答えると、ミクエルは彼の手からやや温くなった布を取り上げた。
「じゃあ、冷やしておくしかないね。宿に戻ったら、湿布の薬があるから、それまではこれで……」
 布を冷やし直そうと広げたミクエルは、途中で言葉を切った。
 視線を向けたシーマスも表情を固める。
「シーマス……これ……」
 顔を赤らめてシーマスを見上げるミクエルに気づいたプリシラが、エミリーを支えながら一歩近づいた。
「あら、それ、絹じゃない? ……え、何これ。パンツ?」
 シーマスが我に返るより早くプリシラが声をあげた。一同の視線がミクエルに集中する。
(しまった……)
 一世一代の不覚であった。
 衣裳部屋やサミュエルの部屋を去る前に、普段の癖で金目のものを掠め取ってきたわけだが、一番邪魔にならずに金になりそうなのは、女物の絹の下着だった。
 幾枚か無造作にポケットに押し込んできたのだが、つい怪我の手当てに取り出して使ってしまった。
 断じて、下心があって盗んできたわけではない。
 いや、少しは無くもないが、具体的に用途を考えていたわけではない。売って、仲間たちの生計の足しにするつもりだったのだ。
「いやーだ、なによ。人が折角助けに来たのに、あんたパンツ顔に当ててたわけえ?」
「いや、違う」
「しかもこれ、穴あきじゃないよ。この非常時に、どんな変態なのよ、あんた」
「違うって。売れるかもと思って、ぱくってきただけだ」
「パンツを~? わざわざ? あれ、あんた、手の怪我に巻いているのも、もしかしてパンツ?」
 目ざとく彼女が気づいたとおり、掌に包帯代わりに巻いていたのも、ポケットから取り出した絹の下着だった。 
 プリシラの遠慮の無い大声を聞きとめ、周囲にいた治安維持軍の兵たちも、シーマスたちに注目し始めた。こちらを指で差している兵士もいる。 
「声がでかいよ。しょうがねえだろ、娼館から運んできた荷物からみつけたんだから……」
「シーマス、気にしなくていいんです」
 怪我の痛みも忘れて、プリシラに言い募るシーマスの肩を馴れ馴れしくセルヴィスが叩いた。
「そういう趣味があるのは理解しています。腕のいい暗殺者が、実は女性の下着を集める趣味があったという伝説を聞いたことがあります。それにあやかったのでしょう」
「あやかってねーよ。っていうか、そんな伝説聞いたこともねえ!」
「大丈夫。私にはすべてわかっています」
「わかってねえよ、何一つ!」
 仲間が助けに来てくれたのはありがたかったが、この時は彼らにも治安維持軍にも消えて欲しかった。
 エミリーとセルマを抱えて、ほぼ孤軍奮闘だったシーマスに軽蔑よりも同情したのは、当のセルマとエミリーだけだったが、しかし内気な彼女たちも顔を赤らめるだけで、彼を正面から庇ってくれることはなかった。




 塩分を含む海水を大量に摂取し、その後水分をとらなかったことで、エミリーの体は脱水症状を起こしていた。
 また海水を汲んだ桶が不潔だったのか、腹を下して高熱が続いた彼女は、丸二日寝込んでいた。脱水症状が治まらず、狭い宿の寝台で、体を丸めて寒気と腹痛と倦怠感に耐える時間が続いた。
 隣の下段寝台には、両手に裂傷を負って傷を縫合したセルヴィスが、やはり高熱を出して呻き声を上げていたし、反対隣の上段寝台には、幸い骨折はしていなかったものの両手をはじめとして、全身に打撲や擦り傷を負ったシーマスが寝込んでいた。
 船から救出されて三日目の朝、やっと熱が下がったエミリーを、客が訪れたとプリシラが呼びに来た。
 朝も遅い階下の食堂には人気は少なく、宿泊客に朝食を出す時間は終わってしまったようだ。
 エミリーたちより一日早く起きていたシーマスを含めた仲間たちに混じって、セルマと、彼女に面差しの似た三十代半ばの女性がテーブルについていた。
 エミリーと、まだ熱が下がり切っていないセルヴィスが階段を下りてきたのに気づいたのか、セルマが顔を向けた。
 隣に座っている女性は恐らく母親だろう。セルマの視線を追ってエミリーの姿に気がついた彼女は、目元だけを和ませて上品に微笑んだ。
 予想と全く違う女性だった。
 セルマの話から、もっと気の強そうな派手な美人を想像していたのだが、清楚な印象の品の良い女性であった。目立つ装飾品は身につけておらず、服装も慎ましい。髪も綺麗に編んであった。
 この大都会で、片親で娘を育てていけるような強靭さがどこにあるのだろうと、首を傾げたくなるような風情の女性だ。
 彼女は問いかけるようにセルマを振り向いた。娘が小さく頷くと、母親は椅子から立ち上がった。
「セルマの母です」
 エミリーがテーブルに近づいていくと、女性は深々と頭を下げた。ゆったりとした美しい動作であった。
「本当にありがとうございます。おかげで娘は大した怪我もなく無事に助けていただきまして、何とお礼を申し上げたらいいか……」
 言葉遣いも洗練されていた。
 エミリーは彼女に倣うように、丁寧にお辞儀を返したが、他の仲間たちは些か居心地悪そうに、曖昧な笑顔を作った。品の良い女性に、心から感謝されることなど、ありそうであまり無い出来事だ。
「こちらこそ……。セルマはとてもしっかりしてて、おかげで安全に帰ってくることができました」
 それを聞いたセルマの母は、やわらかく唇を綻ばせた。
「ええ。私の宝です」
 傍らで椅子に腰掛けたままのセルマには、母親の言葉が聞こえていなかったのか、あるいは照れているのか、テーブルに置かれたカップに目を落としたままだった。
「ほら、聞けよ。かーちゃんが、お前のこと宝物だって言ってるぞ。戻ってきて、よかっただろ?」
 恐らくセルマが照れているのを承知で、シーマスがずけずけと大きな声で言った。
 母親が振り向いても、セルマは目も合わせず、俯いたまま僅かに頬を赤く染めた。
「うん……」
 セルマの反応が静かだったせいか、シーマスは今度は彼女の母に向かって口を開いた。
「度胸ありますよ、この子。お母さんに会いたい一心で、船から小舟で海に逃げようとしたんですから」
「そんなこと言わなくていいよ」
 セルマは怒ったように言うなり、席を立った。
「何照れてんだよ。どこ行くんだ?」
「お手洗い!」
 子供の様子が微笑ましいのか、薄笑いを張りつけたままシーマスが訊くと、つっけんどんに答えたセルマは、店の奥へと走り去って行ってしまった。
 知らないうちに、内気なセルマはシーマスに随分懐いたようだ。
 怖くないのだろうかと、エミリーは不思議に思ったが、シーマスもセルマには気さくに話しかけていた。
 エミリーが操舵室に捕らわれている間、海から這い上がったシーマスが、サミュエルに捕まえられていたセルマを助け出し、その後も彼女を庇っていたという話は聞いた。
 その間に、セルマもシーマスに信頼を寄せるようになったのだろうか。
 まだ子供のセルマは仕事仲間でもないし、シーマスも当然彼女には何も期待していない。だからエミリーに対する時のように、極度に苛立つことがなく、素直に可愛がれるのだろう。
 それそろ彼らと組んで一年になろうとするのに、自分よりも自然にシーマスと話せるセルマが、少しだけ羨ましかった。
 そして子供が嫌いだと公言しているシーマスが、意外と楽しそうにセルマと話し、船の中でも親身に彼女を助けてやっていたことも、小さな驚きと感心を呼んだ。
 エミリー自身も、セルマを背後に庇っていることで、普段はとても躊躇してできないようなことまで試みたことに、自分で驚いた。
 もしかして、いつもエミリーを助けてくれるプリシラやルークが心身共に頑強なのは、庇う者がいるからこそなのかもしれない。
 他人が自分自身を映すことがある。
 他人に触れてみなければ分からないこと、学べないことがたくさんある。
 書物は偉大だ。しかし本だけでは知ることができないこともまた多い。
 師である叔父は、部屋にこもって読書と研究に明け暮れるエミリーの両親に、しばしばそう告げていた。

「私が昼間一緒にいてやれないものですから、普段から心配なんです」
 エミリーがぼんやりと考えに耽る間、ルークに促されて再び椅子に腰掛けたセルマの母は、ぽつぽつと話していた。
 エミリーもプリシラに軽く肩を突かれて、近くの席に着いた。
「ご近所に預けようとしても、何だかうまく馴染めないみたいで……。でも学問所に通わせてみたら、とても面白がって、習ったことや先生の話などするので、父親に似て本を読んだりすることが好きなのだと思っていました」
「セルマのお父さんは、どうしたんですか?」
 セルマによく似た、細くて高い声で語る女性に、プリシラは遠慮せずに尋ねた。セルマの母は、特に不愉快そうな様子も見せずに微笑む。
「夫とは駆け落ちだったのですけれど……私と娘を見限って、消えてしまいました」
「えっ。ちょっと……詳しく話してくださいよ。ねえアデラ、お酒もう一杯もってきて」
「プリシラ……」
 苦い顔でルークが咎めるのも構わず、他人の恋愛話を聞くことが大好きなプリシラは、カップを片手にテーブルに身を乗り出した。
 微笑みを崩さずに──苦笑いに変わっていた感はあった──セルマの母が語ったことによれば、セルマの父は北方のさる貴族の家の息子であり、彼女は主人に仕える侍女であった。
 互いに惹かれあい、彼女はやがて子供を身ごもるが、相手には婚約者がいた。
 当然、彼の父親である主人に結婚を許してはもらえず、二人は故郷を捨てて王都にやってきた。
 セルマが生まれ、貧しくても幸せだったのは数年だった。
 親戚や縁故を頼って援助をしてもらいながら、セルマの父は代筆屋などで働いていたが、詩を書いてばかりで仕事に本気で身を入れていなかったという。
 夫婦の間に諍いが増えるようになり、夫に色目を使う若い女が現れた時、愛だけを頼りに結ばれていた男女の生活は、終わりを告げた。
「今思えば、私も幼かったのですけれどね。夫を頼ることしか知らなかった気がします」
 アデラが運んできた、冷水で割った蜂蜜酒を一口含み、セルマの母は淋しそうに呟いた。
「そうですよねえ。こんな大都会にいきなり出てきたら、旦那さんしか頼る人はいませんもんね。今までも、女手ひとつでは、大変だったでしょう」
 しんみりした表情でプリシラが頷く。
「正直を言えば、苦労もありました。どうしてこんなことになったのかと、夫やセルマを恨んだことも幾度もありました。──でもあの子がいて、家で待っていると思うと、不思議と力が湧いてくるのです。ですから今では、セルマを授けてくれた夫に感謝もしています」
 瞳を潤ませた彼女は、もう一度エミリーを振り向いて、礼を告げるように笑いかけた。エミリーの瞳もつられて熱くなる。
 船の中で、王都への帰還を諦めて南へ渡らずに、本当によかった。

 
 セルマが手洗いから戻った後は、船で起こった騒動やその前後について、エミリーたちが代わる代わる彼女の母親に話して聞かせた。
 当然彼女は娘からあらかたの話は聞いていたのだろうが、他人が語る娘の姿に興味深そうに聞き入っていた。時折、シーマスやエミリーがセルマの機転を褒めるようなことを話すと、セルマは照れて俯いてしまう。彼らは少女を微笑ましく見守っていた。
 無論、彼女がサミュエルから受けた仕打ちなどは伏せた。我が子が大人の男の玩具にされたなどと、他人の口から語られて喜ぶ母親はいない。
 ひととおり話が終わると、母娘はエミリーやセルヴィスの体調に障るといけないと、暇乞いを告げた。
「エミリー、本当にありがとう」
 席を立ったセルマは、か細いが大人びた声で改めてそう言った。
 エミリーは感慨深くセルマを見下ろした。
 明日には学問所の教師であるアガサが戻ってくる。エミリーはお役御免だ。
 その気になれば、どちらからも会いにいけるが、職人街に住むセルマと会うことは、そう度々は無いだろう。
「うん……あの、ねえ、セルマ」少し迷った後、エミリーは思い切って口を開いた。「もし、本当に読み書き以上の勉強をする気があるんだったら、大学に入ってみない?」
 少女は大きな目を見開いた。そのすぐ後ろで、母親が戸惑ったように表情を崩す。
「でもエミリー、大学って学費がかかるんでしょ? うちじゃ、とても払えないよ」
「うん。でも、大学は今は優秀な人間を集めていてね、本当に才能のある人間には、きちんと研究をするという条件で、学費を安くしてくれるの。私はこんなだから、あんまりお金も無いけど、少しなら援助できるかもしれない。勿論、審査は厳しいし、簡単なことじゃないけれど、真面目に勉強したいんだったら、挑戦してみてもいいと思うの」
 その場の全員の注目を集めて緊張したエミリーは、早口に言い募った。
 考えてもみなかった提案を受けて、セルマは混乱したように黙り込んでしまった。
「エミリーの言うとおり、簡単なことではないのですが、その気があるならやってみてもいいんじゃないですか?」
 セルヴィスが助け舟を出して、セルマと母親の顔を交互に見た。
「まずは図書館に通ってみるのはいかがでしょう? 保証人となる学生がいれば、未成年でも図書館に入れます。そこなら、好きなだけ本が読めますよ」
「そうなの?」
 セルヴィスを見上げたセルマは、エミリーに向き直って尋ねた。
「うん。私が保証人になってあげる」
 自分でも思わぬ声がエミリーの唇から滑り出る。それを聞いたセルマは、はにかみながら微笑んだ。とても彼女らしい表情だった。
「それがいいですね。そこで、自分の肌に合いそうだと思った学問があれば、本格的に勉強してみたらいいと思います」  
 頷いたセルヴィスは、まだ不安げな顔をしている母親を振り向いた。
「お金のことはあまり心配なさらず。図書館に入る分には無料です。試験を受けて大学に入るとなると、色々と入用の物もありますが、それはその時に考えてもいいと思いますよ」
 曖昧な表情のまま、彼女は愛娘に視線を移した。
「どうかしら、セルマ? 読み書きをもう少し学んでみたい?」
「うん」
 少女は即答した。
 夫のことを思い出したのか、セルマの母は何かを懐古するように目元を緩ませる。
「私、こんな仕事をしているので、いつもここにいるわけではないのですが、手が空いている時は、学問所にセルマを迎えに行きます。それから図書館に一緒に行って、お家まで送っていきますから」
 多少どもりながらも、エミリーがまっすぐにセルマの母親を見つめながら伝えると、彼女は一瞬だけためらった後、よろしくお願いしますと細い声で答えた。


「勝手にタダで子守り始めてどーすんだよ。お前がついてたって、また子供ごと人攫いに連れてかれるかもしれねーだろ」
 セルマと母親が帰った後、そろそろ軽い昼食をと一同が席に着くなり、シーマスは渋い顔でエミリーを睨んだ。
 全くその通りだ。大人の自分がついていながら、子供と一緒に誘拐されていたのでは世話が無い。
 黙り込んだエミリーだったが、思い直して口を開いた。
「同じことは繰り返さないように気をつけるわ」
「ぜひそうしてくれ。オレもセルヴィスも怪我しただけで、苦労した割には儲けにならなかったんだからな」
 セルマだけでなく、他の子供たちも連れ戻し、旅芸人たちを操って大規模な誘拐を働いていた犯罪者たちを捕えるのに協力したということで、カーティスを通して、治安維持軍から報奨金が出ていた。
 しかし大金というほどでもない。また子供たちの親や縁者からは非常に感謝されたが、礼金を払えるゆとりがあるような親はほとんどいなかった。
 その少ない金は、ジュリアナに情報料としてせびられて、多くを彼女に取り上げられてしまった。
 何もジュリアナががめついということではない。組織に命じられて内偵をしている最中に、エミリーや旅芸人たちのことを危険を承知で聞き回ってくれたのだから、ある程度の金を払うのは当然だ。
 残ったのは怪我と衰弱、疲労だけである。
 元はといえば、自分の不注意のせいだ。
 今度こそ言い返せずに、エミリーは膝に目を落として俯いた。
 先月もシャムリーナと遺跡の村に出かけて領主に捕まり、わざわざルークたちに救助に来てもらったのだ。その際に傭兵を雇った賃金で、それまでの貯金はほとんど使ってしまった。
 確かに、こんなことを続けていては、いつガレンに再調査に行けるのか分かりはしない。
「いーじゃないよ。あんたが盗んできたパンツ売れば」
 アデラに軽食を頼んだ後、プリシラはシーマスを追い払うように手を振った。
「いや、パンツだけ取ってきたわけじゃねえよ。売れるもんはとっくに売って、オレたちの薬代に消えちまったよ」
「いいじゃない。大した怪我が無かったんだから。体が無事なら、お金はまた稼げるよ」
 再び下着のことを持ち出され、不機嫌になるシーマスを宥めるようにミクエルが言った。
「私以外はね。悪漢にばすばす斬られて、私の両手は素敵なぞうきんみたいになっちゃいましたけど」
「ミクエルの言うとおりだよ」
 ぶつぶつと呟くセルヴィスを無視して──本当に聞こえなかったのかもしれないが──、飲みかけの麦酒を片手にルークがテーブルに身を乗り出した。
「体が無事なら、金はまた稼げる。あれだけ感謝されたんだ。たまには慈善事業もいいだろ」
 誰もがルークにつられて、そっと微笑んだ。
「たまにならね。もう当分いいよ」
 掌に複数の縫い痕を残すセルヴィスほどではないが、商売道具である掌と指先に怪我を負ったシーマスは、一人渋い顔のままである。
「むくれるな。エミリーもセルマも頑張ったけど、お前がいたおかげで、二人も子供たちも無事だったんだから」
 ルークは隣に座っているシーマスの背中を軽く叩いた。
「いや……オレだけがやったわけじゃないけど。最終的に船が王都に戻ってきたのは、エミリーの魔術だし……」
「ううん。私やセルマが無事だったのは、シーマスのおかげだと思う」エミリーは小さく頭を振って、シーマスを見つめた。「ありがとう」
 それを聞いたシーマスは、珍しく彼の方から視線を逸らしてしまった。
「別に、そんな大層なことしてねえよ」
「あんた、お礼言われて何キレてんのよ。素直に、どういたしましてって言っときなさいって」
「さっきから、いちいちうるさいよ」
 プリシラに言い捨てて、シーマスは席を立った。
「どこ行くの? 料理来るよ」
「便所」
 背中で返事をして店の奥へ消えていくシーマスの姿が、先ほどのセルマのようだったと、彼らはひとしきり笑いあった。


<第三話:終>
すみません、結局全8回としました…。
色々伸ばしたり縮めたりしたのですが、最終話が膨大な長さになったので、二回に分けました。


修正は少し時間を置いて、頭冷やしてから入れたいと思います。

言いたいことは多いですが、あーうー、こんなはずでは…の繰り返しでした。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。


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