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禍は南より来たる 2
 どうしてこんなところにいるのだろう。
 ふと手の動きを止めて、ぼんやりと考え込んだ。
 古びた大きめの寝台があるだけの部屋は狭い。その左右の壁の向こうからは、男女の嬌声が絶え間なく聞こえてくる。
『ほら、どうだ? ん? ん?』
『ああっ、おじさま、素敵……あっ、あっ……』
 右の部屋では中年男と若い女が絡んでいるようだ。
『もっと丁寧に舐めなさい』
『はい、奥様……ううっ』
『まだよ……あっ、あんっ……うっ、へたくそっ……ああっ……』
 左の部屋では、やや年齢のいった女とそれよりは若い男のようだ。
 薄い壁を通して左右から違った種類の喘ぎ声を聞きながら、シーマスは黙々と汚れた敷布を畳んで、洗濯した新しい物と交換した。洗濯したとはいっても古びて染みだらけだが、窓もない暗い部屋ではあまり関係ないだろう。黴さえ生えていなければいい。
 当初は娼館の下働きなんて、なんと素晴らしい仕事だと思った。
 昨日は女の喘ぎを左右から聞きながら、想像を逞しくして楽しく部屋の掃除をしていたのだが、意外とすぐに慣れてしまった。
 一度聞きなれてしまうと、もはや男女が睦みあう声など滑稽にしか聞こえない。それどころか、我が身が虚しくなってくるのだった。
『あああん、あーんっ、オジサマ……ワタシ、いっちゃう~』
 右の壁際を箒で掃きながら壁の向こうからそんな声が聞こえても、どこにでも行ってくださいという感じにしかならない。それにどう聞いても、女の声は演技である。
(しかも下手くそだし。オレだったら萎える……)
 苛々として右の壁から離れれば、反対の壁からは男のか細い悲鳴と、低い女の声が聞こえる。男のほうは、そこそこ大きな商家に婿入りした若いやり手で、既に子供も二人いるらしいが、他人に知られたくない欲求を満たしにここに来ているようだ。
 娼婦の話では、細い靴の踵で尻を蹴られたり、尻の穴を弄られると泣いて喜ぶという。
『ああ~っ、あーっ、スタシア様ぁ、そこ、そこがすごく……』
『気持ち悪い声出すんじゃないよ、この変態男』
『申し訳ございません……んひっ』
 鳥肌が立った。思わず壁を蹴りつけたくなる。
 女に苛められて、うひうひと喜んでいる壁の向こうの男も、ひとたびこの建物を出れば立派な商家の若旦那なのだ。世の中の裏側なんて外からは分からないものである。父親が夜中にこんなことをしていると知れば、子供たちは泣くだろう。
 シーマスはさっさとそちらの壁際の掃除も終えると、床の拭き掃除に取り掛かった。
 常連客を持つ娼館はそれなりに羽振りがよく、清掃にもうるさい。せめて見えるところだけはしっかりしておかないと、後で客から文句がついた時に、シーマスが上から叱られる羽目になる。昨日は手抜きをしたばかりに、中庭で下働きを取りまとめる男に二、三発頬を張られ、腹を殴られた。細身の男に見えたが、結構な力であった。
 そんな思いまでして掃除に励んでいるというのに、左右の壁からは相変わらずふざけた男女の嬌声が聞こえてくるのである。教会の説教が聞こえてくる方がまだましかもしれない。
(帰りたい……)
 潜入三日目にして、シーマスは早くも仕事を下りたかった。

 『紅いばら』という名前の娼館に下男として入り込み、内情を探れという命を下したのは、盗賊ギルドの世話役だった。
 ギルドに属していても、冒険者であるシーマスたちは比較的自由な立場ではあるが、その命令は簡単には断れない。特に冒険者としての仕事も無い時期は尚更だった。
 『紅いばら』は、潰れた古い娼館の跡に入った、まだ新しい店だが、主人が大物と繋がりでもあるのか、すぐに客を増やして名前を上げた。
 とはいえ、上客といってもせいぜい商人くらいで、王都の貴族が顧客になったという情報は入っていない。それにもかかわらず、非常に店は羽振りが良いのである。
 どの娼館の元締めも、根は盗賊ギルドに繋がっている。そこを通じて『紅いばら』からも上納金は納められていたが、経営している主人は相当儲けているとみて、ギルドは兼ねてより目を付けていた。
 そこにきて、最近繁華街でよく旅人が消えるという噂が持ち上がった。
 巨大な王都のことである。行方不明者など毎日のように出ているが、その数が目に見えて増えている。不明者の多くは子供だった。
 王都の治安を預かる軍はいざ知らず、盗賊ギルドにとっては、行方不明者が増えたところで、頭も心も痛みはしないのだが、問題は組織が原因を把握していないことであった。
 王都の裏世界を制する盗賊ギルドが、犯罪を把握していないのでは面子が立たない。組織が隙を見せれば、属する犯罪者たちの離反や分裂を招くだろう。従ってギルドはもぐりの犯罪者を軍以上に厳しく追う。
 今回の行方不明者の増加も、盗賊ギルドの知らないところで組織的な殺人や誘拐が繰り返されているかもしれないと上層部は考えたらしい。
 しかし以上はシーマスの推測である。実際に彼が受けた命令は、娼館『紅いばら』に入り込んで、内情を探れということだけだった。
 動いているのは、無論シーマスだけではない。『紅いばら』にももう一人、ギルドの同僚が以前から娼婦として潜入しているし、他の新参の娼館やギルドと繋がりの薄い宿屋、居酒屋にも何人か入り込んでいる。いずれも組織犯罪の元締めとなりえる場所だ。
 世話役に命令を受けた時は、渋々といった体で引き受けたものの、内心は小躍りしたい気分だった。
 最近は儲かるような仕事が少なく、娼館とも縁が無い。
 大体が、プリシラたちと組むようになってからは、娼館に行きづらくなっていた。プリシラは娼婦を嫌っている。あからさまに嫌な顔をされることはないものの、娼館で外泊して帰ったりすると、嫌味のひとつふたつは飛んでくる。
 以前組んでいた仲間の男たちは、ルークを除いて皆女遊びが好きだったので、共に歓楽街に繰り出していた。紅一点の女は、男はそういうものだろうと考えたらしく、うるさい小言をいわれることもなかったのだ。そもそも彼女にとっては、ルーク以外の男が何をしようと、どうでもよかったのだろう。
 しかし今組んでいる堅物のミクエルも変人のセルヴィスも、女道楽には全く興味が無いらしい。プリシラの嫌味を受け止めるのは、シーマス一人しかいないのである。しかもルークは勿論、ミクエルもセルヴィスも、女遊びには『病気がうつる』『避妊薬代が高い』『貞節を知れ』だのと、同性のシーマスを庇うどころか、女と一緒になって非難してくるきらいがあるほどだ。個人の趣味はそれぞれとはいえ、互いに命を預ける仲間から総勢で非難されると、やはり堂々とは遊びづらい。
 そんな時期にふってわいた娼館への潜入である。下働きとなれば、新米の若い娼婦と親しくなることも容易いだろう。いや、内情を探るにはすすんで彼女たちと打ち解け、情報を聞き出さなければならない。
 しかも『紅いばら』は、シーマスの稼ぎではなかなか入れない店だ。なんと素晴らしい命令だろうと喜んだ。

 だが現実はいつも残酷だ。
 手を回した宿屋からの紹介として入った新入りのシーマスは、とにかくこき使われた。薪割りは勿論、風呂の支度から浴室、手洗い、中庭、母屋、各部屋の掃除、厨房の床磨き、あげくには下働きの人間の食事の支度までさせられる羽目になった。入った初日にシーマスが適当に作った夕食がおいしかったというので、以降も食事当番を命じられてしまった。
 夜明けから夜更けまで働かされては、娼婦と仲良くなる暇などない。
 大抵の娼婦は、他の下男たちの誰かと既に懇意になっている。貞操観念などほとんど持ち合わせていない娼婦を相手にシーマスが間に入り込むのは不可能ではないだろうが、相手の男に見つかった時の報復を考えると厄介だ。本来の目的を念頭に入れれば、迂闊には動けなかった。目立つのはまずい。
 すぐ目の前に美しい女たちが多くいるだけに、気軽に口説くこともできないのが却って虚しかった。 
 しかも娼婦たちの多くは、新入りのシーマスにほとんど目も留めていないようである。
 娼館の下男や下働きの男たちは、ごろつきまがいの男や老人であることがほとんどだが、『紅いばら』の下男たちはいずれも若く、身なりもこざっぱりした者が多い。
 さらには時折、絹の衣装をまとった姿の良い男たちを見かけることもあった。どうやら男娼も抱えているらしい。
 長身の美丈夫たちの中では、小柄なシーマスはほとんど目立たない。しかも下働きとして怪しまれないように、今は非常に冴えないなりをしていた。
 髪は整えようがないほど短く刈り、脱色してくすんだ黄色になっている。しかも両のこめかみを剃り上げているので、元から目つきが悪いと言われる顔つきが、さらに強面に見えた。これで体格が良ければ、迫力でも出るのだろうが、小柄で細身という少年のような体型が、ちぐはぐな印象を与える。
 この姿を見れば、プリシラなどさぞ笑うことだろう。
『やだ、なにそのソリコミー。超チンピラ~』
 彼女の笑い声と共に台詞まで耳に響いてくるようだ。
(毛が伸びるまで帰れねえ……)
 強引にさせられた変装のこともあり、やはりギルドの仕事など何とか理由をつけて断ればよかったと後悔していた。


 左右の壁から喘ぎ声や嬌声を聞きながら掃除を終えて客室を出ると、廊下の向こうから女が歩いてくるのが見えた。長身でほっそりとした若い女性だ。
 彼女がまとう細身の服の長い裾は、膝のあたりからスリットが入っている。化粧も薄く、飾り気の少ない格好だったが、どこか艶かしさを漂わせていた。
「トマス」
 女は掃除道具を下げたシーマスを見かけると、うっすらと笑んだ。
 ギルドの内外でさほど名前も知られてないシーマスだが、念のため違う名前を使ってここに入り込んでいた。
「お掃除中?」
 二十歳くらいの若い娼婦は、壁から吊り下げられた角灯の下で足を止めた。
「はい」
 シーマスが首をすくめるようにして頷くと、女は手を伸ばして彼の腕を捕えた。細く長い指が絡みつくようだった。
「じゃあ、こっちのお部屋を掃除してちょうだいな」
 女は強引にシーマスの腕を引いた。
「あの、ちょっと……順番が……」
「いいのよ」
 つんのめりながら、シーマスは自分と同じくらいの身長の女に引きずられるようにして、三室ほど離れた空き部屋へと連れられた。部屋に引っ張り込まれる寸前、廊下に素早く目を走らせたが、誰の姿も無かった。

 扉を閉めて内側から鍵をかけると、女はシーマスを振り向いた。
「似合ってるよ、そのカッコ」
 女の紅い唇に、薄笑いが広がっていく。シーマスは渋面で溜め息をついた。
「勘弁してよ。このナリじゃほんとにゴロツキだ」
 シーマスの声に応じて、娼婦は低くかすれた笑いを漏らした。背筋がぞくりとするような色香が滲んでいる。
 女はひと月以上前からこの娼館に娼婦として入り込んでいる、盗賊ギルドのメンバーだ。ジュリアナという彼女は、シーマスら冒険者と違って、元から諜報や内偵を専門的に行っている。
 ギルドに入った時期も年齢も近いので、立場や役柄は違ってもシーマスとはそこそこ親しかった。若い頃の一時期は彼女に惚れ込んだこともあるが、一度か二度寝ただけで、結局は相手にされなかった。
「間違ってないじゃない」
 喉の奥から小さな笑い声を立てた後、ジュリアナは真顔に戻った。
「主人の客人として男が何人か来てるの」
 昨夜の仕事を終えて客が帰った後、一眠りする前に風呂を使おうとしたジュリアナは、中庭で見慣れない男たちの一団を見かけた。娼館の主人も交え、集まって何事か話していた彼らは、揃って生真面目な表情で、まるで商談でもしているかのようだった。
 入ってひと月にしかならない新米娼婦の彼女は、敢えて興味深そうに彼らを見つめていると、ついていた下男たちに邪険に追い払われた。短い時間で素早く観察した限りでは、身なりの整った男たちであったという。
「でもこのへんの貴族って感じでもなかったよ。服装も派手だったし、肌の色も濃かった。流れの芸人みたいに見えたけど」
 そこまで語ったジュリアナは肩をすくめた。
 普通、流浪の芸人の服装は安っぽくて薄汚れている。大規模な旅芸団の頭領だろうか。それが娼館に用事とは、女を買いにきたか売りにきたかのどちらかだろう。
 一晩の娼婦の売り買いならともかく、多人数の人身売買が行われているなら、裏で定期的に市を開いているギルドの商売敵だ。発端となった行方不明者の増加と関係があってもなくても、確認する必要がある。
「あたしもできる限り近づいてみるけど、あんまり出しゃばるわけにいかないから……」
「分かった。オレの方でも気をつける」
「よろしく」
 微笑みを残してさっさと踵を返す女の姿が、薄暗い部屋に妙に幻想的に映った。ジュリアナは顔立ちもそれなりに整っているが、体つきや仕草が本職の娼婦よりも艶かしい。特に背中から腰、尻にかけての曲線が美しい女であった。
 ついつい後をついていきたくなるような尻だが、シーマスは我に返って足を止めた。万一廊下に誰かがいたとしたら、二人で部屋から出て行くのはあまり良くない。
 ジュリアナが静かに扉を閉めて退室した後、シーマスは大きく息をついて、その部屋の掃除を始めた。




 豪奢な造りの室内にいた男は、連れられてきたエミリーとセルマに目を向けると、薄い唇の端を引いて笑みを見せた。
 ランプがいくつも灯る部屋は明るい。床には鮮やかな色合いの織物が敷かれ、大きな寝台は光沢を放つ敷物で覆われていた。衣装箪笥と思しき背の高い家具は磨かれて、黒く艶やかな光を放っている。
 男が腰掛ける背もたれつきの椅子の前には、箪笥と同じ木材のテーブルが置かれ、銀の皿に果物が盛ってあった。隣に並ぶ器は硝子製だ。なみなみと満たされた半透明の液体は、馨しい柑橘の芳香を漂わせていた。気を失う前に同じ香りを嗅いだ気がする。
 目を覚ました部屋から脱出する方法も浮かばないうちに、エミリーとセルマは室内に入ってきた数人の男に連れられて、この部屋へとやってきた。
 途中、彼らが誰か、ここはどこか、一体何の為に捕まえられたのかとエミリーは震える声で男たちに尋ねたが、浅黒い肌の体格のいい男たちはそれを黙殺した。
 体を縛められるようなことはなかったが、男たちに両腕を掴まれてしまえば、エミリーやセルマの腕力ではとても振りほどくことなどできない。
 幼いセルマも泣き喚くようなことはせず、青白い顔でただ彼らに従った。抵抗が無駄だと悟っているのだろう。
「離してやれ」
 部屋の主は硝子の器をテーブルに置くと、立ち上がって言った。
 男たちがエミリーとセルマから手を離す。体は解放されたが、室内には五人の屈強な男が扉の前を塞いでいる。やはり逃げ出せそうな雰囲気ではなかった。隣のセルマが黙ってエミリーに体を寄せた。
 若い男はエミリーたちのすぐ目の前まで近づくと、彼女をじろじろと見下ろした。
 他の男たちと同じく、日に焼けた小麦色の肌をしていたが、彫りが深く、非常に整った目鼻立ちをしていた。長く伸ばしたくせのある黒い髪をひとつに束ね、両耳には金の小ぶりな耳飾りをつけている。彼がまとう服もまた、光沢を放つ布地で仕立てられた上等のものだ。襟と服の合わせ目に襞があしらわれ、留め具は銀でできているように見える。同じく絹と思われるズボンは裾を絞ってリボンで留めてあり、足には革のサンダルを履いていた。
 身なりの良い男だ。貴族だろうか。
 男は緊張するエミリーから目を離し、隣のセルマに視線を移した。それまで彼を見上げていたセルマは慌てて俯いた。
 彼はセルマを追いかけるように、彼女の目の前で屈んだ。
「こっちを見なさい」
 命令口調ではあったが、優しい声音だった。
 セルマが恐る恐る顔を上げると、男は目を細めて微笑む。
「可愛らしいお嬢さんだ。いくつだ?」
「……十歳」
 消え入りそうな声でセルマは答えた。ぐっと顔を近づけてくる男から、彼女は一歩後ずさった。
「名前は何という?」
 男はさらにセルマに顔を近づけてもう一度尋ねた。セルマの小さな肩がびくりと震えた。
 怯えているのだ。当たり前だ。
 エミリーは唾を飲み込んでから、勇気を振り絞って声をかけた。
「待ってください。彼女は私の妹です。質問なら私に」
 屈んだまま男はエミリーを見上げた。視線が鋭くなったような気がして、さらに気持ちが張りつめた。
 男が再び立ち上がる。彼はエミリーを見下ろしてふっと笑った。それはセルマに見せたような優しげな笑みではなかった。
「姉妹か。お前たち、名前は何という?」
「……シャーロット」
 エミリーは咄嗟に母親の名前を答えた。
「妹は?」
「アガサです」
 セルマについても、同様に違う名前を答えておいた。賢いセルマは、それについて余計なことは言わなかった。
 どういうつもりで捕えられたのかまだ分からないが、本当の名前を教えなければならない義理はない。
 男は笑みを消し、やや目をすがめて再びエミリーを頭のてっぺんから爪先まで、舐めるように眺めた。
「ふん……お前はいくつだ?」
「十六歳です」
「結構年がいってるな」
 エミリーは素っ気なく答えた男の言葉に絶句した。
 既に師である叔父から魔術師の称号をもらっているが、彼女の年齢では珍しいことである。冒険者としても、十六歳といえば親元を離れてすぐの年頃だ。
 どこに行っても、若いと言われることはあっても、年がいっていると告げられたのは初めてだった。
 若さを誇っているつもりはなかったが、自分でも驚くほどショックを受けた。  
「店に残しますか?」
 エミリーの背後から、別の男が若者に向かって言った。彼は軽く首を傾げる。
「いや、上品で可憐だ。安っぽい淫売にするには勿体ない」
 表情は変えなかったが、エミリーの心臓は小さく弾んだ。
 店。淫売。そんな言葉からすると、へたをすればこの後、娼館にでも売られることになるのだろうか。
 男は冷めた漆黒の瞳でエミリーを見つめ、淡々と尋ねた。
「シャーロット、お前は生娘か?」
「はい」
 両親にも叔父にも偽りを憎めと教えられてきたエミリーは、嘘をつくことが嫌いだったが、この時も咄嗟にそう答えた。そうしなければ、よりとんでもない目に合いそうな気がした。ほとんど直感であった。
 答えた後、嘘をついたことへの罪悪感と、かつて二度シーマスと肌を重ねた時のこと、そして昨夜──かどうか、もはや分からないが──見た夢のことなどが断片的に脳裏をよぎり、エミリーは顔を僅かに赤らめた。
「ふん。それなら、舞姫として使えそうだ」
 若者はエミリーの様子を気に留めた風もなく呟いた。
「……少し肌が白すぎると思いますが」
 男たちの一人がそう告げると、若者は軽く眉を寄せた。
「肌の色などどうにでもなる。染料を持ってこい。衣装もだ。──ああ、その前に、二人を湯浴みさせてやれ」
「待ってください」
 男たちが再びエミリーとセルマの腕を取ろうとしたので、彼女は声を張り上げた。
「私たちは広場に遊びに来ていただけです。ここはどこなのですか? 家に帰してください」
 言い募るエミリーに構わず、男たちは来た時と同じように左右から二人の少女の腕を掴んだ。その様子を眺めながら、若者はにこやかなほどの笑みで答えた。
「君たちの新しい家はこれから用意する。心配することはない」


 屈強な男たちに連れられて廊下をまた歩かされ、今度は建物の外へと出た。
 真夏の湿った空気が港から潮の香りを運んでくる。既に夜だった。頭上にはぽつりぽつりと、浮島のように灰色の雲が浮かんでいるのが見えた。
 男たちが持つランプの明かりで、そこが周囲を建物に囲まれた中庭であると分かる。エミリーたちがいた建物は離れのような小さな造りだった。向こうにはもっと大きな母屋が見える。
 男たちは黙ってエミリーとセルマの手を引いた。
「逃げませんから、離して」
 せめてセルマと手を繋いでいたい。彼女も安心するだろうし、エミリーも安心する。しかし男たちは一言も口をきかず、無論彼女の要望に応じることもなく中庭を進んでいく。
 やがて離れと同じくらいの大きさの木造の建物に彼らは入り込んだ。
 エミリーの想像通り、そこは浴場であった。入ってすぐの場所には衣服を置いておく棚と、小さめの長椅子が置いてある。衝立の向こうには銅製の浴槽が見えた。
 どうなることかと思ったが、そこには若い娘が二人と老女が二人待機していた。男たちは彼女たちに何事か呟くと、エミリーとセルマの腕を離した。
 その後、彼女たちは老女と娘たちによって、衝立の向こうに連れられ、衣服を脱がされた。
 男たちから離れた隙に、何とか脱出できないかと思ったが、彼らは建物から出て行くことはなく、扉の前に五人して立ち塞がっていた。
 他に大きな窓などもなく、出口は無さそうに見える。
「逃げようなんて考えない方がいいよ」
 エミリーの服の帯を解きながら、老婆が冷たい声で言った。
「丁寧に扱われているうちに、言うことをきいておきな。あの方々は、逃げようとする者には容赦しないよ。ひどい目に合うからね」
 彼女は首の高さくらいまである衝立の向こうにいる大柄な男たちに目をやった。薄手の麻の服をまとった彼らは、見た目は商人の手伝いや若い職人に見えるが、何となくエミリーは彼らが自分たち冒険者と同業の、金で雇われて荒事にも慣れた手合い、あるいは軍人ではないかと感じた。
 もしその勘が当たっているなら、老婆の忠告は正しいことになる。今のところはエミリーもセルマも乱暴な扱いをされることはないが、どんなことをしても相手がいつまで丁重でいてくれるか、彼らの忍耐を試す度胸は無かった。
 もう少し状況を窺いながら、確実な脱出の機会を探そう。
「さあさ、綺麗に洗ってあげますからね。怖がらなくていいのよ」 
 エミリーの隣で涙ぐんでいるセルマに、若い娘が柔らかく言ってきかせた。この状況で怖がるなという方が無理だろうが、内気なセルマは意外に芯が強いらしく、大声で泣き出すようなことはなかった。
 十歳の子供が気丈に涙をこらえているのだ。自分も泣いている場合ではない。
(どこかで逃げる機会を見つけなきゃ)
 そしてそれを捕えたら確実に遂行しなければ。以前、遺跡の村に捕えられていた時のように、終始悲しんでぼんやりしていてはいけない。


 セルマと二人して湯浴みをさせられている間、男たちが近づいてくるようなことはなかったが、逆にこちらから逃げ出す機会も無かった。
 湯浴みの前にエミリーの服を脱がせていた老女に、腿に括りつけていた短剣を取り上げられてしまった。外してどこかに隠しておけばよかったと後悔したが、後のまつりだ。
 エミリーたちは結局彼女たちのされるがままになり、髪と体を洗われて簡素な薄手の服を纏わされた。 
 それが終わると、老女たちに追い立てられるようにして再び男たちに腕を掴まれ、浴場を出された。
 男たちは離れや母屋には向かわず、中庭を横切って建物と反対側の門へと二人を連れた。門の前には小型の荷馬車が停まっている。
「乗れ」
 初めて男たちの一人が、エミリーに向かって口を開いた。
「どこへ行くのですか?」
「早く乗れ」
 男はエミリーの問いに答えず、顎をしゃくっただけだった。
 尚もエミリーが動かずにいると、彼らはセルマとエミリーを二人がかりで抱えると、幌のついた荷馬車の中へと乗り込んだ。
「いやっ、離して!」
 初めてセルマが大声を上げた。
「静かにしろ」
 男の一人が彼女の口を塞ぐ。セルマは激しく首を振り、洗いたての赤い髪が乱れた。
「やめて。子供相手に乱暴なことしないで」
 エミリーは思わずセルマを抱えた男につかみかかろうとしたが、彼女自身も別の男に抱えられていて動けなかった。
「おとなしくしていろ。悪いようにはしない」
「勝手なこと言わないで。家に帰して」
 荷馬車に乗せられるということは、ここから遠く離されることを意味している。ここが王都の中だとしたら、街から出されてしまうかもしれないのだ。セルマも同じ焦りを覚えたのだろう。
「仕方ない。縛り上げろ」
 エミリーの懇願など一顧だにせず、男は仲間たちに冷然と告げた。彼らは荷馬車に積んであった麻紐を使い、腕を振りほどこうと虚しくもがくエミリーとセルマの両腕と胴体をたちどころに縛り上げ、口の中に布を押しこんで猿轡まで噛ませてしまった。
 そうして二人は物のように荷馬車の一角に座らされた。
 明かりは無かったので、幌の中は薄暗かったが、いくつかの荷物が積んであるほか、小さな呻きやすすり泣きを上げる人影がいくつか見えた。もぞもぞと動いているだけのところを考えれば、彼らもエミリーたちと同じく、拘束されているのだろう。
 男たちが荷台から出て行くと、セルマは膝立ちになってエミリーに体を寄せた。
 セルマ、と名前を呼んで声をかけたが、猿轡をかまされているおかげで言葉にならない。
 それでも案じる心は伝わったらしく、セルマは小さな顔をエミリーの肩に押しつけた。そこが熱く濡れていく。
 呼応するようにエミリーの瞳も熱くなったが、泣いている場合ではない。自分だけは冷静になって、どうすればいいのか考えなければならない。
 唇を噛んだ彼女の頬を、こらえきれなかった涙が幾筋か伝った。


 どのくらい荷馬車が走っただろう。しかしエミリーが思ったほど長い距離ではなかった。
 英雄広場で意識を失った後、意識を取り戻したこの場所がまだ王都だとすれば、少なくとも巨大な街の外には出ていない気がする。門を通過した気配もなかった。
 ほどなく荷馬車は停まり、男たちに連れられて外に出される。
 潮の香りが強く鼻をついた。
 港だ。
 雲が滑っていく夜空の下に、黒々とした海面が広がるのが見えた。
 港湾地区は、エミリーたちの常宿がある繁華街よりもさらに治安が悪いので、用事が無ければエミリーも立ち寄ることはなかった。仕事で数度、仲間たちと来たことがあるだけだ。
 馬車を降りると、松明を携えた男たちの一団が待ち受けていた。エミリーたちについてきた男たちよりも、少々粗野な印象を受ける。身なりも貧しく、港の荷運び人夫のように見えた。
 人夫たちは荷台に乗り込むと、そこからエミリーたちと一緒に運ばれてきた木箱を積み下ろし始めた。
 他の数人は、エミリーたちに近づいてくる。
 松明の明かりが近づくと、エミリーやセルマと共に捕らわれていた人間たちが浮かび上がった。
 その小柄な影から予想はしていたが、いずれも子供たちだ。年頃はセルマと同じく十歳前後、男も女もいた。
 入浴前に、ひときわ身なりの良い男がエミリーを差してとうが立っていると言い放ったが、彼らの目的は子供なのかもしれない。
(人さらいだわ……)
 教会や王の支配力が強い北方では、領主は比較的モラルが高く、人身売買を禁じている地域が多い。無論王都も例外ではないが、巨大都市の暗部までは、いかな名君といえども法律を徹底させるのは困難だ。この港がある港湾地区の貧民街や、流れ者が多い繁華街では、子供の誘拐事件がたまに起こると聞いた。
 しかし標的は攫いやすい幼い子供である。エミリーくらいの年齢ともなれば、若くとも一応大人だ。あまり誘拐の標的になることは多くはないはずだった。
 多分、彼らの狙いはセルマだったのだ。一緒にいたエミリーは巻き込まれたにすぎない。
 だがそうすると、あの広場の露店でジュースを売っていた店主も人さらいの一味だということになる。随分手の込んだ誘拐だ。

 考えているうちに、人夫たちの一人がエミリーの体を抱え上げた。他の子供たちも同様に、まるで荷物のように屈強な男たちの肩に担ぎ上げられている。
 人夫たちはそのまま桟橋へと歩き出した。そこにはひときわ黒い影となって帆を畳んだ中型の船が浮かんでいる。港で最もよく見かける交易船だ。
 王都の港からは異文化を持つ人々が住む東の離島群、そして陸伝いに南北へ向かう船が出ている。
 船に乗せられると分かって、子供たちは猿轡をかまされたまま泣き声を上げた。しかし体格のいい人夫たちは縛られた子供たちがいくら暴れようとも、舌打ちもせずに黙々と船へと進み、桟橋から渡し板を渡って船内へと入っていった。
(落ち着いて)
 エミリーは冷静になろうと自分に言い聞かせた。
 王都の法律では人身売買は禁じられている。港の荷物は定期的に軍が検査しているし、全て申告して税金を納めなければならないはずだ。陸路と違って行き交う人々の数が少ない分、検査も慎重に行われる。出港は早くても明日の朝だ。
 それまでにセルマを助けて船を脱出するのだ。


 エミリーと子供たちは、船内の一室に連れてこられた。壁に沿って寝床が三段ずつ設えてある部屋である。どうやらここに監禁されることになるらしい。
 室内には中年の小柄な男が待ち受けていた。柔和そうな笑みを張りつけていたが、エミリーは何故かその男を好きにはなれなかった。
「よく来たね、君たち」
 男は相好を崩して言った。人夫たちの肩から床に下ろされた子供たちは、互いに身を寄せ合うようにして後ずさるが、部屋の出口は屈強な人夫たちが塞いでいる。
 縛られたままのセルマも、エミリーの腰に体を寄せた。泣き声はもう上げていないが、滑らかな頬に涙の跡を見つけるとエミリーの胸も痛んだ。 
「さて、これから君たちは、あるお偉い方のおうちに仕えることになる。心配しなくていい。奴隷みたいに働かされるわけじゃあない。綺麗な着物も着られるし、食べ物にも不自由しない。ご主人様に気に入ってもらえれば、尚扱いが良くなるんだよ」
 中年男は猫なで声で子供たちに言い聞かせた。
 一方的に攫っておいて、よく来たねもないものだとエミリーは思った。
 思ったとおり、このまま船でどこか異国に連れられて、そこの貴族か大商人に小姓か何かとして仕えさせられることになるのだ。
 そこに扉が開く音がして、背後から別の人間が入ってきた。振り向いたエミリーは、あの貴族風の若い男の姿を見つけた。
 この男が主人だろうか。
「サミュエル様」
 中年男は、些か表情を引き締めて声を上げた。
「これで全員か?」
「はい。──娘も連れて来ています」
 中年男は恭しく告げ、エミリーに目を向けた。
 サミュエルと呼ばれた男は頷くと、部屋の外に待機していたらしい女たち三、四人を招き入れた。皆手に果物や光沢のある衣装、香油のような壷を携えている。
「怯えることはない」
 今度はサミュエルが子供たちに向かって口を開いた。
「これから彼女たちが、君たちの身なりを整えてくれる。ご主人様に会う前に綺麗にしておかないとな。騒いだり暴れたりしなければ、その後で果物をやろう」
 猿轡をかまされた子供たちの目は、女たちが抱える果物や衣装に釘づけになった。
 エミリーもつい視線を向ける。そういえば捕らわれてからこちら、水も飲んでいない。喉が渇いていた。瑞々しい柑橘や桃の実を目にすると渇きはいやました。
 女たちは子供たちの前で膝をつくと、彼らの猿轡を取り外しにかかった。
 セルマの前にも一人の女が屈み、丁寧な手つきで彼女の猿轡を外した。
「さあ、着替えましょうね」
 女は猫なで声で言うと、セルマの縄も解きにかかった。セルマがエミリーを見上げる。エミリーは安心させるように頷いてみせた。
 縄を解いて着替えさせられた後、ここにいる男たちや女たちが退室すれば、その時が好機だ。
 しかしエミリーの腕を横から引く者があった。 
「待って!」
 セルマが甲高い声を上げて、エミリーの腕に取りすがる。しかし彼女の小さな手を側にいた女が押えた。
「この娘は私の部屋へ」
 人夫の一人がサミュエルの声に従い、縛られたままのエミリーを引きずるようにして連れ出そうとする。
「待って。あの子は私の妹なんです。一緒に……」
 エミリーはそう叫んだが、猿轡が邪魔して言葉にならなかった。屈強な男に半ば抱えられるようにして、その部屋を後にするしかなかった。


 引きずられるようにして人夫に連れられたのは、寝台と長椅子、いくつかの木箱が置かれただけの殺風景な部屋であった。エミリーは船に乗ったことはないが、しかしこれでもこの規模の船の中では贅沢な部屋であることは推察できた。
 先ほどの子供たちへの台詞からして、これから連れて行かれる先の主人はサミュエルとは違うようだが、彼が今ここで動いている一行を統率しているのは間違いないようだ。
 人夫はエミリーを押し込めるように室内に通すと、すぐに退出した。
 サミュエルが突然エミリーの顔に手を伸ばす。
 彼女はびくりと肩を震わせて後ずさったが、彼はエミリーの後頭部に手を回して猿轡を外してくれた。
 空気を思い切り吸い込み、やっと肺が落ち着く。
「お前の妹のことは心配するな。暴れたりしなければ乱暴にはしない」
 エミリーが何か言うより早く、サミュエルは素っ気なく告げた。
「私たちをどこへ連れて行くのですか? 両親や友達がいるんです。家に帰して」
 常宿で待っている仲間たち、そして娘一人を大切に育てているであろうセルマの母親のことが浮かんだ。彼女には珍しく、エミリーは怒気を見せて言い募った。
「何度も言うが、それはできない。だが安心しろ。これからお前たちの生活がこれ以上悪くなることはない」
「そういう問題じゃありません」
「あまり喚くな。不従順な人間は、我らの寛大な主人にも用なしだ。着いた先で家畜のような扱いを受けたいか?」
 サミュエルの視線が尖った。身なりもよく、立ち居振る舞いも洗練されているが、どうも上品なだけの男ではなさそうだ。
 一瞬、迫力に圧されてエミリーが黙り込むと、サミュエルは長椅子の側の小さな卓から陶器の鉢を取り上げた。
「そこに座れ。お前はご主人様お抱えの舞姫として仕えてもらう。小姓になるには年を取りすぎているからな」
 またも年寄りと呼ばわれ、胸の奥がむずむずしたが、サミュエルに手を引かれては、おとなしく長椅子に座るしかなかった。
「舞姫というのは何ですか?」
 まさか、舞姫とは名ばかりの実質は主人の妾ではないだろうかと不安になり、エミリーは口を開いた。
「言葉通りだ。祭りの時や、ご主人様が客人を迎える際の晩餐で、舞を舞って彼らを楽しませるのが役目だ。ご主人様の意向により、生娘でなければならないとされている」
 鉢を手にしながら、サミュエルはエミリーの前で屈んだ。
「嫁入り前で幸運だったな。お前が人妻だったら、娼婦に落ちるところだったぞ」
 エミリーの心臓は弾んだ。
 彼らはどうやら、エミリーが嫁入り前でありながら生娘ではないというような、身持ちの悪い娘だとは考えていないようだった。
 彼は鉢の中からやや固めの茶色い液体を指先に取ると、エミリーの頬に触れた。じんわりと温かい。しかし泥のような感触があって不快だった。 
 思わずエミリーがぎゅっと目を瞑ってサミュエルの手から逃れようとすると、宥めるように彼は穏やかに言った。
「安心しろ。ただの染料だ。害はない。舞姫とするにはお前の肌は白すぎるから、染めておくだけだ」
 サミュエルはエミリーを静かに押さえ、頬や額、顎に染料を塗っていった。どうやら彼と同じく、小麦色に肌を染めるような染料らしい。
「綺麗な肌だな。染めてしまうのが少し惜しい」
 閉ざしたエミリーの瞼や鼻の唇の間、小鼻の横など、指先を使って丁寧に塗りこみながらサミュエルは呟いた。まるで女性の手のような繊細な感触だ。
 やがて彼の指は耳や耳たぶ、首筋や喉に触れる。くすぐったくなって、エミリーは再びぎゅっと目を閉じた。
「逃げないと約束できるか? それなら縄を解いてやろう」
 エミリーの首にまで染料を塗り終えた男は、穏やかに尋ねた。瞼を開いたエミリーは、サミュエルが目の前で微笑んでいるのを見た。先ほどまでの冷ややかな印象が消え去り、随分優しげな表情に変わっている。
 エミリーは頷いた。
「はい」
「いい子だ」
 サミュエルは満足そうに笑うと、彼女の背中に手を回して、腕と胴の縛めをほどいてくれた。 
 彼はそのままエミリーの右腕を取ると、手の甲から腕へと丁寧に染料を塗り始めた。
 捕らわれの身でありながら、なんだか召使いに傅かれているようで、居心地が悪い。
「あの……」エミリーは遠慮がちに口を開いた。「これからどなたにお仕えするのですか?」
「着けば分かる」
 若者の答えはそっけなかった。鼻白んだエミリーだが、気を取り直してもう一度尋ねた。
「あなたは?」
「私は家令の一人で、サミュエルという。小姓や舞姫たちを監督している」
 サミュエルは二十代前半、ルークとそれほど年齢が変わらないように見える。この若さで家令とは、よほど主人の覚えがめでたいのだろう。
 右腕が終わると、サミュエルは左腕を塗り始めた。エミリーが抵抗の素振りも見せないせいか、膝をついて俯きながら、細く小さな彼女の指先に丁寧に染料を塗りこんでいた。
 長椅子に座っているエミリーのほうが位置が高い。彼女は唇を噛み、腹に力を込めた。

 人を蹴ったことなどない。だがエミリーの細腕ではとても男一人の不意はつけないに違いない。
 ならば足を使うしかない。
 彼女は気合を込めると、右の膝をサミュエルの頭に叩きつけた。声を上げて彼後ろ向きにが床に倒れる。エミリーの膝にも激痛が弾けたが、構わずに立ち上がって身を翻し、部屋の出口へと走る。
 部屋には閂がかかっていた。手早くそれを横に滑らせ扉を押した。
 しかしそこで、足音が迫ることに気づく間もなく、恐ろしい力で背後から髪を引っ張られた。
「どこへ逃げるというんだ。船の中も私の部下で一杯だぞ」
 冷ややかなサミュエルの声が耳元で響き、エミリーは引きずられるようにして室内に引き戻された。
 振り向いたサミュエルの顔は氷のようだった。力一杯蹴りつけたはずだが、彼の額には痣ひとつできていない。彼はエミリーの柔らかな髪を手に巻きつけるようにして引っ張り、舌打ちをして言った。
「無駄なことを。次に同じようなことをすれば、農夫たち専用の淫売になると思え」
 髪を引き抜かれそうなほど強く引っ張られ、首ががくりと後ろに傾く。 
「いた……」
 エミリーは歯を食いしばりながら呻きを漏らした。
 サミュエルを押しのけようとした腕はあっけなく払われ、彼はエミリーが着ていた簡素な麻の服の前を留める紐を乱暴に解いたと思うと、引き剥がすようにそれを取り去った。
 その下に彼女が着ているのは下半身を覆う小さな下着だけだ。淡く桃色を帯びた白い素肌と、細身の体つきの割に豊満な乳房が露わになった。
「やめて!」
 本能的に危険を感じ、エミリーは手足をめちゃくちゃに振り回したが、やすやすとサミュエルに押さえ込まれる。脱げた服が無力に床に落ちた。
「喚くな。犯しはしない」
 冷めた声で言いながら、サミュエルは先ほどのようにエミリーの背中に両腕を回し、再び手首を縛り上げてしまった。
「舞姫の候補だからな。……だが、これで逃げられんだろう。部屋の外に出たところで、私の護衛たちが下着一枚のお前を見てどんな気を起こしても知らんぞ」
 耳元で恫喝すると、彼はエミリーの小柄な体を長椅子に突き倒すように横たわらせた。
「淑やかな顔をして、とんだじゃじゃ馬だ。女に顔を蹴られたことなど初めてだ」
 サミュエルは素早く屈み、起き上がろうと身じろぎするエミリーを長椅子にうつ伏せにさせた。
 そして何とその上に彼が馬乗りに腰を下ろしてしまった。重みと屈辱に、背中が僅かに軋む気がした。
 しかも背中で手を縛られているので、非常に窮屈な体勢だった。思わず呻くエミリーの耳元で、サミュエルがうってかわって優しげな声で囁いた。
「シャーロット」背中から伸びた手がエミリーの頭を撫でた。「おとなしくしていなさい。そうすれば、お前は妹と一緒にいられる。美しく磨き、従順さを見せて、まずご主人様に気に入ってもらわなければならない。そうでなければ、お前は娼婦としてどこかに売られる羽目になるし、お前の妹も同様だ」
 ぞっとした。妹──つまりたった十歳のセルマまでも、娼婦として男たちの慰み物になるかもしれない。考えるだけでもおぞましかった。 
「分かったか? お前は利口そうだ。それでいい」
 エミリーがゆっくりと動きを止めると、サミュエルは再び鉢を手に取り、エミリーの白い背中に染料を塗り始めた。
 腕や首を塗った時と同様──いや、それ以上に、繊細な手つきであった。産毛が逆立つような感触が湧いてくる。そういえば物心ついてから、あまり他人に背中に触れられたことはなかった。
「いい子だ、シャーロット」
 作業を続けながら、時折サミュエルは優しげな声で囁き、染料をつけていない方の手でエミリーの頭を撫でた。
 子供と同じ扱いだというのに、徐々に心が解けていく様な気がする。
 サミュエルの手が肩から背骨に滑り、そして腰へと下りたあたりで、エミリーはまたくすぐったいような、ぞくぞくする感覚を感じた。体がぴくりと動いてしまいそうになり、彼女は唇を噛んでそれを我慢した。
 サミュエルはやっとエミリーの体からどくと、今度は長椅子から下りて再び床に膝をつき、彼女のすらりとした脚に染料を塗り始めた。ほっそりした白い腿が、染料をひと塗りするたびに、淡いオリーブ色に染まっていく。
「可愛い脚だな。こんな脚で無闇に男を蹴るものではない」
 吐息が腿の裏を撫でたと思うと、そこに音を立てて唇が触れた。
 ただ染料を塗られているだけなのに、慈しまれているような錯覚に襲われる。エミリーは目を閉じてそれを頭から追い出そうとした。
 しかしサミュエルの手の動きは巧みで優しく、彼女を宥めるような言葉と共に、徐々にエミリーの尖った警戒心と反抗心を馴らしていった。

 脚を塗り終えると、サミュエルはエミリーをごろりと裏返した。手を後ろで縛られているので、乳房がむき出しになる。エミリーは顔を赤らめて言った。
「やめて……もういい」
「これを塗るだけだ」
 答える男の顔には、昂った様子は表れていない。
 新しく染料を手に取ったサミュエルの手が鎖骨に触れた。またも体がぴくりと震えそうになる。
 彼は躊躇もせず茶色の染料をエミリーの乳房へとのばした。震えて男の手から逃れようとする柔らかい肉を彼は執拗に追いかけて、丁寧に染料を塗りこんだ。
 その手が乳首をかすめるたび、エミリーの体に小さな刺激が走った。
 眉を寄せるエミリーの反応に気づいたのか、サミュエルは指先で乳暈を丸く撫で回した。エミリーは顔を背けて肌を震わせた。
「どうした、シャーロット? ここが気持ちいいのか?」
 笑い声と共にサミュエルの囁きが落ち、指先で軽く乳首を弾かれた。
「う……っ」
 こらえきれずに、微かな溜め息がエミリーの唇から漏れた。
「生娘のくせに敏感だな」
 染料をさらに鳩尾から腹へと伸ばしながら、サミュエルは反対の手でエミリーの胸の膨らみをそっと握った。唇を噛みしめたが、徐々にそこから漏れる息が荒くなる。
 ほっそりしたエミリーの胴と腰、そして小さな臍回りにも染料を塗ったサミュエルの手は、さらに下腹へと下がった。
 まるで労わるようにそっと下腹部を撫でられると、じんわりとその奥が熱を帯びてくる気がした。
「美しいな……少し、可愛がってやるか」
 縛られて転がされたまま、肌を淡い薔薇色に染めるエミリーの前で冷笑を見せると、サミュエルは染料に汚れた手を布で拭い、下着の上からエミリーの恥丘に触れた。
 湯浴みの後に穿かされた下着は、普段エミリーが着ているものよりも布地が小さく、ところどころから金褐色の恥毛がはみ出している。
「やめてっ……」
 エミリーは声を上げて、苦しい体勢のまま起き上がろうとしたが、それより早く覆いかぶさるように屈んだサミュエルに姿勢を戻されてしまう。彼はテーブルから取り上げた布をエミリーの口の中に押し込み、別の布で縛って再び猿轡をかませてしまった。
 これではどんなに声を上げても呻き声にしかならない。
 サミュエルは再び彼女の乳首を指先で突いた。触れるか触れないかという微かな動きだが、胸の突起はその刺激に鋭敏に反応した。
「んっ」
 吐いた溜め息が苦しく口の中の布を湿らせた。うっすらと瞳に涙が滲む。
 反対の乳首を今度は少し強めに摘み上げられた。ぴりぴりするような刺激が脳に達する。エミリーはもう一度くぐもった声を漏らした。
 左手で濃い桃色に染まった蕾を弄びながら、彼は右手で再びエミリーの下着を撫で、脚の間に指を滑り込ませた。
 彼女は必死で脚を閉じたが、柔らかな内腿が男の手を挟んだところで、その感触が彼を喜ばせるだけであった。
 サミュエルの長い指がエミリーの秘部を下着の上から撫でた。彼は真上からエミリーの顔を覗きこみ、にやりと笑った。
「驚いたな。濡れているぞ」
 羞恥にさらに紅潮するエミリーの脚が強引に割り開かれた。彼はしっとりと濡れた下着を押しのけ、その奥へと指を滑り込ませた。裂け目の間に満ちた熱い粘液が男の指を絡めとる。
 サミュエルはそのまま下着の中で指を上に滑らせ、裂け目の端にある小さな肉の蕾に触れた。
「ううっ……!」
 エミリーの腰が微かに浮く。
 彼女の反応に気を良くした男は、膨らみかけた肉芽をそっと震わせ始めた。鋭い刺激が下腹に突き刺さる。
「んっ……う……ふっ……」
 やめてと何度も言ったが、口の中でくぐもって言葉にならない。代わりに唾液だけが溢れて布を濡らした。
 男の指先の動きは徐々に速くなり、エミリーは何度か腰が浮き上がるのを止められなかった。
「惜しいな。処女でなければ、今私が慰めてやったものを」
 しかしエミリーが上りつめる前に、サミュエルは立ち上がって彼女から手を離した。
 肌と体の奥に熱だけが残る。ほっとしたというよりも、正直にいえば切なかった。だがエミリーは目を瞑って、体がくねりそうになるのをこらえた。
 サミュエルは彼女の腕を引いて長椅子から抱え起こすと、寝台の上に無造作に放り出してあった衣装を取り上げた。
 光沢のある素材はやはり絹のようだが、生地は非常に薄く織られ、素肌が透けるようだった。先ほどまでエミリーが着ていた麻の服と同じように、ガウンのように羽織って前身頃の数箇所を紐で留めるようになっている。
 彼は淡い紫色のその着物を縛られたままのエミリーの肩から纏わせ、前を留めた。
 次に卓の上に置いてあった籠から大きな櫛を取り出し、乱れたエミリーの髪を丁寧に梳いた。
「美しい髪だ。我らの地方では珍しい。ご主人様もお喜びになるだろう」
 淡い金髪を褒められながらサミュエルに髪を梳かされていると、心地良いような気がした。小姓や舞姫を監督するというだけあって、彼らの身づくろいもできるようだ。
 サミュエルは器用な手つきでエミリーの髪を結い上げ、同じく籠から取り上げた絹のリボンで彼女の髪を結び、硝子飾りのついた髪留めを挿した。
 続いて彼は籠から金色のひし形の飾りのついた耳飾りを取り出したが、エミリーの耳に耳飾り用の穴が空いていないのを見つけて、残念そうに眉を寄せた。
「お前は普段から耳飾りはしないのか?」
 声が出せないので、エミリーは小さく頷いた。
「では到着後に空けてやろう。出血があるので、ここではやめておいた方がいいな。今のお前に金の耳飾りはよく似合うだろう」
 先ほどのことなど忘れたように、サミュエルはにこやかに笑った。自分の玩具や愛玩動物を自慢する人間そのものだ。
 ふと、もしもこの男を愛していたら、きっとこの瞬間幸せだろうなどと考えた。
 サミュエルの目がエミリーの胸元に落ちる。そこには銀の細い鎖に下げられた小さなメダルがあった。入浴の際に短剣は取り上げられてしまったが、こちらは幸いそのままにされていた。
 彼はそれを興味深そうに指先で取り上げた。一般の人間には分からない複雑な文字が紋様化されて刻まれている。
「それは……お守りなんです。取り上げないで」
 ふわふわと淡い熱を帯びたままの頭で、エミリーは懇願した。魔術の師である叔父が、ギルドの長老に術を施してもらい、魔術師の証として授けてくれた物だ。
 猿轡をされたままなので、エミリーの声はまともな言葉にはならなかったが、彼女の切羽詰まった表情から、サミュエルはおおよその意図を読み取ったように見えた。しかし彼は僅かに眉を寄せると、メダルを彼女の首から外してしまった。
「今はお前の肌には銀は似合わない。こちらをつけておきなさい」
 彼は籠から今度は金色の大ぶりな首飾りを取りあげて、エミリーに身につけさせた。
「よし、見違えた」
 サミュエルはひとり満足げに頷くと、エミリーの腕を取って彼女を立ち上がらせた。
「待って。返して」
 銀のメダルは、首飾りが入れてあった小さな籠に無造作に放り込まれたままだ。
 エミリーは身ぶりと視線でそれを返して欲しいと訴えたが、気がつかないのか無視しているのか、サミュエルが応えることはなかった。
 彼に引かれるまま部屋を出ると、入り口には体格のいい男が佇んでいた。恐らくサミュエルの護衛だろう。先刻、不意討ちが成功して部屋の外に出ることができたとしても、たやすくこの男に捕えられていたに違いない。
「荷物は?」
「後で店から運んできます」
 サミュエルの問いに、護衛の男は無表情で答えた。
「そうか」
 サミュエルはエミリーを一瞥して冷笑を浮かべると、護衛に向かって告げた。
「この娘は脱走を企てた。しばらく衣裳部屋に閉じ込めておくが、ご主人様が気に入れば舞姫となるかもしれん。くれぐれも妙な真似はするなと、皆にも伝えておけ」
「はい」
 エミリーを見下ろす男の目に、好奇心と興味が映った。サミュエルもそれに気づいたようで、もう一度小さな笑い声を上げた。
「どうだ、美しいだろう。見るだけなら構わん」
「はあ……」
 曖昧に頷く護衛を尻目に、サミュエルはエミリーの手を引いて廊下を進んだ。 
 天井の低い廊下を数歩もいかないうちに、彼は足を止めて一室の扉を開いた。サミュエルが持つランプが照らした空間は狭く、木箱が三つ積み上げてあるだけだった。人間が滞在する部屋ではなく、物を積んでおくための空間だろう。
 彼は明かりを下げるために壁に設えた突起に細縄を結わえ付けると、その反対の端を縛められたエミリーの両手首に留めた。
「待って……何するの」
 エミリーは慌てて声を上げたが、やはり言葉は不明瞭になってしまった。だが意味合いはサミュエルに通じたらしい。彼は再び冷笑を浮かべた。
「脱走を企てた罰だ。少し、そこにそうしていろ」
「待って」
 エミリーはもう一度声を張り上げたが、彼は冷然と背中を向けると、言葉も残さずに扉を閉めて出て行った。明かりも無い室内は暗闇に閉ざされた。

えーと、次回の更新は来週…の予定ですが、それが為せなければ来月になってしまう予定であります。
…頑張ります。


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作者ブログ『椰子の実ライブラリ』

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