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またも長くてすみません。
更新が一週空くかもしれないので、半分ずつ読んでいただけると嬉しいです。

またも超絶マニア向けの微Hシーンしかなくてすみません…。
女の聖地 5
 純白の光沢ある絹織物が、色白の肌に美しく映えている。丁度侍女の一人が、娘のゆるく巻いた淡い金髪を丁寧に梳っているところだった。
 侍女はイーノックの姿に気づくと手を止め、主の視線に応じるように、櫛を鏡台の上に静かに置いて、退出した。
 室内には、エミリーとイーノック、二人だけが残された。
 朝方までエミリーが閉じ込められていた、塔の上の小部屋ではない。大型の樫の寝台、衣装棚、暖炉、そして今エミリーが座っている、貴婦人が身支度を整える際に利用する鏡台もある。窓はやはり小さく、差し込む光は少なかったが、壁には泉の畔で語り合う乙女たちのタペストリが下げられ、部屋は華やかな雰囲気だった。
 ここはかつての城主夫人の部屋。つまりは巫女頭が使っていた部屋だ。
 子を産み、産んだ男児が村の主として爵位を継いで代替わりすると、母親は巫女頭となって、神殿に属することになる。今の巫女頭は、地階にある、もっと質素な寝室を使っている。
 イーノックは、長い間使われなかった、この部屋の新しい主となる娘を見下ろした。彼女は椅子に腰掛けたまま、立ち上がろうともしない。
 急ごしらえで仕立てた絹の晴れ着だが、エミリーによく似合っていた。
 彼女が婚姻を承諾してからすぐに、侍女たちに命じて湯浴みをさせ、身支度を整えさせていたのだ。軟禁していた数日の間の汚れを落とすと、彼女は輝くばかりに愛らしかった。初めて見た時から美しい少女だと思ったが、こうして衣装で飾り立て、肌を香油で磨いてやると、美貌が際立つ。自分の妻、そしてこの古の村の、女たちの頭としてふさわしいとイーノックは思った。
 唯一残念なのは、今夜彼の花嫁となる少女の瞳が沈んでいることだが、こればかりは今は致し方ない。
 神託が下るまでの間、彼は庶子でもいいので跡継ぎを作ろうと考え、村の娘たちを寝所に招いた。大地母神の声を聞く聖職者であり、村の守り手として、領主の家は村人たちから、代々尊敬を集めてきた。主と床を共にできるのだ。娘たちは嬉々としてイーノックに身を預けた。
 しかし男児を授かった娘はいない。やはり神託の娘でなければ、跡取りを産めないのだ。
 生まれてからこの方、母であり、神殿の巫女頭――つまり巫女である村の女たちを統べる長――から、繰り返し言い聞かされたことだった。
 イーノックは神殿の守護者たる男子の末裔であり、女神の住む家、ひいてはこの地を守ることが、生涯かけての使命である。
 しかし彼は半信半疑でもあった。彼自身は、大地母神の意志を聞いた覚えが無いからだ。毎日祈りを捧げているが、確かな応えがあったことはない。
 母なる神の祝福を受けていると言われても、実感したことはなかった。村の娘たちが、彼に見つめられて命令されると、喜んで従うのは、イーノックの地位に惹かれているためだと思っていた。
 しかし母は、どんな女もイーノックを拒まないのは、大地母神による加護だと訴え続けた。
 試しに今朝、エミリーの連れの女に、今まで村娘にしてきたように、瞳を見つめながら言い聞かせると、果たして少女は目に見えて従順になった。彼に体を触れられても、悦びこそすれ、嫌がる素振りも見せなかった。
 相手は無知で素朴な村娘ではない。王都の魔術師だ。自らの精神を操ることに長けているはずだ。
 その魔術師に、特別瞑想などの修練を積んでいない彼が、暗示をかけることができたのだ。もしかすると本当に、自分には大地の女神――この地上にある命、全ての母たる偉大な存在の息吹きを受けているのかもしれない。そう思った。
 朦朧とした哀れな少女を前にして、彼がそれ以上娘に触れる前に、エミリーはイーノックに哀願した。
 友人を無事に王都に帰して欲しい。その代わり、彼の要求を受け入れる。

「エミリー」
 座ったままの娘に呼びかけると、少女は顔を上げた。小柄な体の全身でイーノックへの軽蔑を滲ませていながら、声をかけられて無視することもできない、心根の優しい、弱い娘なのだろう。他人の関心や好意を突き放すことができないのだ。 
 イーノックが微笑んでみせると、エミリーの顔にも戸惑いが走る。彼女の感情は緩んでいる。こうして辛抱強く、好意と優しさを与え続ければ、いずれ彼女も自分に微笑みかけてくれるようになるだろう。
 彼は今夜妻となる少女を見つめた。村の女たちとは違う、日焼けのない白い肌。実った小麦の穂よりも薄い、淡い金色の髪。丸く優しげな顔は小さく整っていて、大きな青い瞳と高くはないが、小ぶりの鼻がかたちよく納まっている。ほっそりとした小柄な体は、力を込めて抱き締めたら折れそうだ。
 初めて目にした時から、美しい少女だと思った。連れの女も愛らしい娘だったが、シャムリーナの可憐さを菫に喩えるなら、清楚なエミリーは白百合だ。イーノックには彼女の方が好ましく映った。
「いきなりこんなことをした私たちをさぞ怒っているだろう」
 イーノックは、娘に向かって微苦笑を見せた。エミリーは答えずに、彼の瞳を見つめている。
「突然、大地母神のお告げだなどと言ったところで、君たちが理解できないだろうことは分かる。君の意志を無視することになってしまったのは、申し訳なく思っている」
 淡々と語りながら、イーノックはゆっくりと腰を屈めて、椅子に腰掛けているエミリーと目の高さを合わせた。
 エミリーの視線は彼とぶつかった後、困惑に揺れた。それを押さえ込むように、イーノックは芯のある声で告げた。
「だが、昨日も言ったように、私は君を愛している」
 揺さぶられた杯の中の酒のように、エミリーの感情が泡立つのは、イーノックの目にもよく分かった。彼は向かい合った他人の心を読むことに長けている。そのまま混じりけの少ない、青い瞳を見つめ続けた。
 今朝、シャムリーナという女に暗示をかけた後には、イーノックは疲労を覚えた。気力を消耗したのだろう。今、同じ暗示の力をエミリーに使う気はないが、ただ黙って見つめるだけでも、人間の心は多かれ少なかれ揺らぐ。エミリーのような繊細な少女なら尚更だ。
 案の定、ほどなく目を逸らした彼女が、とても愛らしい。エミリーの仕草を見ていると、イーノックの心臓もどくどくと騒ぎ出す。
 こんな清楚で美しい、従順そうな少女が、妻として生涯傍にいる。自分の子を産み、母の跡を継いで、神殿の女主人となるのにふさわしい。
 長い間、妻の候補となる女性の神託が表れなかったことは、イーノックにとっても不安と屈辱の種であった。村の女を抱いても、彼女たちが孕むのは女ばかりだ。村人は表面上はイーノックを慕ってはいるが、それでも十八になるまで跡継ぎを作ることができなかった若い領主に、陰では何を言っているか分かったものではない。
 だがその屈辱の時間も、この美少女と出会うためのものだとしたら、納得できる。彼女こそ、この村とイーノックの、遅れてきた救い主なのだ。
 女に慣れたイーノックにとっても、胸が熱くなるような喜びだった。無論、イーノックを慕う村の娘たちも素直ではあるが、エミリーのような、いかにも男性に慣れていない、無垢な清楚さは持ち合わせていない。
 そんなエミリーには、愛する男がおり、既に乙女ではないということは、母である巫女頭から聞いた。
 母はそうでもなかったが、イーノックは彼女が男性を知っていることに、微かな落胆も覚えた。しかし考えてみれば、当然だろう。こんなに愛らしい少女が、王都のような大都市の中で、男に目をつけられなかったわけがない。
 誰にも見向きもされないような醜女を妻にしても、楽しくはない。
 エミリーに愛する男がいようとも関係ない。彼女はまだその男を愛しているのだろうが、必ず忘れさせてみせる。
 エミリーのような従順で繊細な娘は、若く、取り立てて醜くもないイーノックの好意を無下にできないはずだ。衣食住を充足させてやり、何より毎日愛を与え続ければ、いずれ心は動くだろう。女は愛されなければ満たされない生き物だ。囁きすら聞こえない遠く離れた恋人より、生活の全てを支えてくれ、日夜彼女を愛する夫に、いずれ心が傾くはずだ。
 エミリーの瞳にさざ波が見える。イーノックの真摯な愛情に対して、彼女の心の底から何らかの感情が溢れだしている。彼女自身が、それが何という感情であるか自覚した時、エミリーが彼に向ける気持ちにも変化が訪れるはずだ。
 彼女が着ている白絹の衣装は、かつて母が婚礼の際に身につけた物だ。結婚当時の母よりも、エミリーはさらに細身であったため、肩や胴のあたりを詰めて、大きさだけを急遽合わせた。できることなら、エミリーのために新しい衣装を仕立ててやりたいが、時間がない。村人や親戚を集めた盛大な結婚式と祝宴は、教会にて近々執り行わなければならない。
 教会もこの村の司祭も、村の人間が大地母神を信仰していることを知っているが、彼らの神を否定しない限りは、表立って細かいことは言ってこない。また、大地母神の教えも寛容なので、イーノックや村の人間たちも、教会の神へ祈り、その儀式に則ってもう一度婚姻を誓うことを否定してはいない。古代の女神と教会は、この村ではうまく共存していた。
 教会での式の際にでも新しい豪奢な衣装を作らせればよいだろう。まずは神殿にて婚姻の儀を執り行い、女神にエミリーとの結婚を申し立てて、村人たちの不安を払拭しなければならない。
 教会の結婚式は通常は日中に行われるが、大地母神の婚姻の儀は、未明から夜明けにかけて執り行われる。今宵はその前夜祭であり、エミリーの晴れ衣装もそのためのものである。
 大地母神の婚姻の儀式では、衣装は必要ない。生命と肉体そのものを賛美する女神の前で、夫婦となる男女は生まれたままの姿で夫婦の愛を誓う。村の女──つまり、女神の巫女たちの長となる、新たな神殿の主としてエミリーを、そして神殿と村の守護者としてイーノックを大地母神に認めてもらう儀式だ。女神の祝福を受けた男女が交わり、花嫁となる娘は新たな村の後継者を授かるはずだ。
 屈んだイーノックの目の前に、細身の衣装に包まれたエミリーの華奢な肢体が見える。飾り気のないローブを纏った、今朝までの姿では気づかなかったが、胸や腰回りは意外に豊かだ。骨格が華奢なので、着やせして見えたのだろう。
 しなやかな絹は、柔らかいくびれを見せている腰の線をなぞり、座った娘の鼠蹊部の形を浮かび上がらせている。慎ましい衣装に隠された、エミリーの白い素肌を想像して、イーノックの心臓はさらに弾み始めた。
 もうじきだ。今夜の宴が終われば、神殿で彼女は彼と結ばれる。この白百合のような娘の肉体が、イーノックのものになるのだ。
 彼は己に言い聞かせ、膝の上に置かれたエミリーの手をそっと握る。彼女の腕がぴくりと動いた。
「君のような女性に会えたこと、そして大地母神が君を私の伴侶に選んだことに、私は深く感謝している」
 イーノックは少女を見上げながら熱く囁いたが、エミリーは顔を曇らせたまま、小さくかぶりを振った。
「私とあなたはお会いしたばかりです。あなたが私のどんなことをご存知だというのですか? それで、私を愛しているとおっしゃられても……」
「人を愛するのに時間は関係ない」訥々と話すエミリーを、イーノックは穏やかに力強く遮った。「君たちは愛というものを難しく考えすぎている。その正体は相手に対する興味と関心だ。君はひと目で私の目を引いた。それで私が君を愛するには十分なのだよ。君という人格全てを受け入れ、慈しむにはもっと時間が必要だろうが、それが完了するまで待たなければ、愛と呼べないのならば、人が他人を愛することなど、生涯を掛ける至難の技だ。未完成のものを完成へと導く、その結果ではなく過程こそが愛なのだと、私は考えている」
 イーノックはそこまで語ると、握ったエミリーの手を恭しく持ち上げ、手の甲に唇を押し当てた。まるで彼女が纏う絹にくちづけしたような、滑らかな感触であった。
 彼はすぐに立ち上がった。無意識だろう、イーノックの動きを目で追うエミリーに微笑みかける。
「私は君を愛している。婚姻の前に、どうかそれだけは分かって欲しい」
 イーノックは彼女の反応も見ず、踵を返した。大股で部屋を横切り、扉を開けて外に出る。長居やこれ以上の問答は不要だ。エミリーは彼の手の甲へのくちづけを拒んだり、振り払ったりしなかった。今はそれで十分である。  


 イーノックが静かに扉を閉め、足音が遠ざかると、エミリーの全身から力が抜けた。
 魅力的な男だ。それは認めないわけにいかなかった。
 思索と検証が趣味と言ってもいい、魔術師のエミリーには、万事断定的で自信に溢れた彼の言動は、好ましくはない。
 しかしイーノックがエミリーに好意的であるのは間違いない。
 そして彼は若く、十分な財力と権力を持っており、教養と礼儀も兼ね備えている。均整の取れた体つき、端正な目鼻立ち、朗々たる快活な声、男性的な魅力も余すところなく持ち合わせているように見える。
 問題は彼の倫理観だけだ。旅で立ち寄っただけのエミリーを留めおくために、プリシラとシャムリーナを監禁する、イーノックのその手段は許せなかった。
 しかしそれも、彼にしてみれば苦渋の決断なのかもしれない。領主である彼にとって、村の安全は何より尊いものなのだ。
 大地母神の神託など、プリシラなどは絵空事と思っているかもしれないが、エミリーは単なる幻想だとは考えていない。神は存在し、人によって見える形が違う。巫女頭やこの村の住人にとっては、神からの啓示であることを、エミリーが否定することは傲慢だ。
 彼らの信仰を尊重するからといって、自分の人生をそのために差し出すことは、考えられなかった。
 だが、プリシラとシャムリーナの命と人生が掛かっているなら、自我ばかり通すわけにいかない。エミリーがどうにかして、二人を救出できればよかったが、触媒も無くては、シャムリーナと意志の疎通を図ることもできなかった。
 今朝、イーノックに魅入られたような状態に陥ったシャムリーナを救うには、彼の申し出を受けるしか、エミリーには方法が無かったのだ。今、いくらか冷静になって考えれば、あれは脅しだけだったのかもしれないが、友人が目の前で男に体を玩ばれているのをとても正視はできない。

 不本意な結婚である。
 しかし、もしかしたら悪いことではないのかもしれない。
 あの通り、イーノックは夫としては、一般的に見れば理想に近い人間である。
 世間に出て半年。いまだ半人前であり、身の回りのことも満足にできないエミリーには、誰か支えてくれる人間が必要だ。それがイーノックでいけない理由は、考えれば考えるほど、思い当たらない。
 今のパーティーにいても、エミリーができることは少ない。エミリーやセルヴィスのような、実地調査に興味を示し、遺跡へと好んで出かけていく魔術師は、決して数が多くはない。一攫千金を狙う冒険者たちにとって、貴重な存在であるということは知っているが、エミリーは魔術の技術を活かす以前に、日常生活が一人で満足に送れない。少しずつ学んでいけばいいと思っていたが、半年前より前進しているかどうか、自分でも手ごたえはなかった。
『頑張ってるなんて、当たり前だ。誰だってそうだよ。結果がおっつかなきゃ意味ねえだろ』
 かつてシーマスに言われたことがある。あの時、一言も言い返せなかった。
 どうせ誰かの手を借りなければ生きていけないのなら、イーノックに支えられて、この静かな村で暮らしていくのも、ひとつの人生かもしれない。少なくとも、村人とイーノックの役には立てるのだ。
(でも、そうしたら……)
 イーノックは、彼の妻になったとしても、決して村に閉じ込められるわけではないと言った。望めば王都に連れて行ってくれると。
 しかしそれは旅行以上のものではないはずだ。家族や叔父に会うことはできても、もうルークたちと会うことはできないだろう。可能性の問題ではなく、意義の有無によってだ。もはやパーティの仲間ではない、子爵夫人となったエミリーとは、彼らは他人である。 
 イーノックの妻となるのなら、彼らとの縁は切れるのだ。
 最初にエミリーを大学の外へと誘ってくれたセルヴィス、女同士よろしくと微笑んでくれたプリシラ、いつも彼女に親切だったミクエル、苦手だったシーマスすら、もう会うことができないかもしれないと思うと、懐かしく思えた。
 それに、ルーク。
 初めて会った時から、ルークはエミリーにとって、完璧な男性に見えていた。聡明で冷静で、体も頑丈であり、誰に対しても親切だ。
 しかし最近、そんな彼の綻びも見えてきた。
 エミリーに見せないように振舞っているらしいが、彼にも機嫌の悪い時はあって、そんな時はシーマスやセルヴィスに対して、口調がやや荒くなる。几帳面なところもあるが、片付けなどは苦手らしく、宿の彼の寝台や荷物回りは意外と散らかっている。細かい作業も不得手で、普段気の長い彼が、縫い物などをしている時に、時折舌打ちを漏らしたりすることもある。
 地下都市ガレンで、足を挫いたエミリーの手当てをしようとした彼の手つきが、案外不器用だったことを思い出した。
 ルークのそういった、欠けた部分を知れば知るほど、エミリーは彼に対して切ないようなもどかしさを覚えた。ただ甘やかだった彼への想いは、時にひりひりするような渇きをもたらすようになった。
 ルークと比べても、イーノックの方が完璧だ。彼はルークが持っていない、財力や権力、村人からの人望もある。夫としては、理想的な人間のはずだ。
 言い聞かせようとすると、涙が滲んだ。
 泣いてはいけないと思うと、ますます目の奥が熱くなる。唇を噛んだまま、嗚咽もなく涙があふれ出した。
 ルークに会いたい。皆に会いたい。
 もう彼があの大きな手で、不器用にエミリーの怪我を看てくれることなどないのだ。
 プリシラたちが無事に王都に戻ったなら、意に染まない結婚を強いられたエミリーのために、彼らが何か手を打ってくれることはありえるだろうか。
 無いだろう。エミリーにはそれほどの価値はない。イーノックは由緒ある貴族であり、大学とも関係が深い。そんな領主の妻を無理やり取り返すなど、一介の冒険者には不可能に近いはずだ。
 嫌なら仲間を頼らず、自分でどうにかするしかない。しかしエミリーにはその方法が無いのだ。
 それなら、自分にできることを受け入れるしかない。
 だが、過酷で自由な生活を諦めることはできても、ルークを心から追い出すには、もっとずっと時間がかかりそうだった。
 椅子に座ったまま、両拳を瞼に押し当て、声を殺して泣いていると、静かに扉が開く。イーノックかと思って慌てて顔を上げると、先ほど退出した侍女であった。
 エミリーは急いで涙を拭った。
 それをどう思ったのか、侍女は何も言わず、僅かに顔をほころばせると、化粧台の上の櫛を手に取り、再びエミリーの髪を梳き始めた。


 門番が連れてきた、今日村に立ち寄った旅芸人たちは、確かに腕が良かった。演奏はそうでもないが、耳の肥えたイーノックが聞いても、少女の歌声は耳に残る美しさだ。
「素晴らしい歌声ですね」
 彼らの演奏が終わった後、巫女頭も素直に芸人たちを褒め称えた。
「お褒めに与り、恐悦至極に存じます」
 演奏中は鈴を鳴らしていた女が、美しい動作で礼を取った。藍錆色の布で頭と髪を覆った彼女が、この一行の長であるらしい。教養のある女らしく、言葉遣いは美しかった。布に縁取られた面差しも整っている。鼻にかかったような声だけが独特で、やや聞き苦しかった。
 それに比べると、歌姫である少女の美声は、繊細な玻璃細工を指で弾いたような響きであった。
 声だけではない。くすんだ色のフードを取り払った歌姫は、長である妖艶な女とはまた違った美貌の少女だ。十五、六歳くらいだろう。赤みがかった金髪の可憐で愛らしい娘だった。日焼けしていない、色白の肌は旅芸人には珍しい。この季節に暑そうなフードを被っていたところからして、普段から相当に日焼けに気を遣っているらしい。    
「いかがかしら、我が君。今夜の宴に彼らの演奏は相応しいと思われますが」
 実の母である巫女頭の言葉に、広間の壇上に設えた椅子に腰掛けたイーノックは頷いて見せた。
 旅芸人がこの村に立ち寄ること自体、珍しい。これも大地母神の祝福であるように思えた。
 同じ大地母神を崇める──流浪の民には、古代の神を崇める者が多い──彼女たちの目的は、神殿の参拝だったが、イーノックの婚礼を控えた今は、巫女たちが内部の準備に追われている。旅芸人たちを神殿に通すわけにいかなかったが、彼女たちは婚礼が終わるまで待つと告げた。
「ぜひとも今宵の演奏を頼みたい」
 イーノックは歌姫の少女を見つめながら言った。彼女はたおやかに微笑み、礼儀正しく目を伏せたが、自ら礼を述べることはしなかった。
「有難き光栄でございます」
 代わって長身の女が答える。彼女がもう一度礼を取ると、笛を吹いていた男と、演奏中は隅でぼんやりしていた荷物持ちの朴訥そうな男も、慌てたように頭を下げた。
「今夜はご領主様のご婚礼のお祝いが執り行われるとか。さぞかし美しい花嫁様でしょうね」
 長身の女はイーノックに意味ありげな視線を送ってきた。
 イーノックも鈍くはない。どこか艶かしいその眼差しの意図するところは察しているつもりだ。女の旅芸人の多くは、娼婦というもうひとつの顔を持つ。
 しかし今夜は彼の婚姻の前夜祭である。女神の前での聖なる交合を前にして、花嫁以外の女と交わる阿呆はいるまい。
 利口そうな女もそれは承知しているはずだ。彼女はイーノックを相手に望んでいるわけではなく、今夜宴に集まる男たちに対して、『商売』の許可が欲しいのだろう。
「いかにも、我が花嫁は美しい」イーノックは呟くように答えながら、席を立った。「今夜の宴は無礼講だ。大地母神の教えに従い、村の民たちも生命と肉体の喜びを謳歌するのが常だ。お前たちも演奏が終わった後は、存分に楽しむといい」
 女が三度丁重に頭を下げ、礼を述べるのを目にしてから、イーノックは広間から退出した。背後で巫女頭が、旅芸人たちのために、離れの部屋を整えるように召使いたちに指示を出しているのが聞こえた。

 初夏の長い日が暮れないうちから、宴は始まる。領主の結婚は、村にとっても特別な行事だ。未婚の男女が連れ合いを見つける、貴重な祭りでもある。
 教会の教えに則るなら、相手を見つけ、神の前で愛と信頼を誓ったのちに結ばれるのだろうが、今夜は大地母神の祭典である。かの女神は衝動的な性愛を否定してはいない。その結果授かった子供にも、たとえ父親が分からなくとも、分け隔てなく祝福を授けてくれる。私生児には入信の儀を行わない教会と比べ、女神は人間そのものをいとおしむ慈愛に満ちている。
 無論、イーノックは先代の前夜祭の様子などは知らないが、静かな村はさぞ喜びに沸いたことだろう。
 彼の頭にふと、エミリーの連れである、王都の魔術師と女戦士のことがよぎった。
 エミリーには彼女たちを王都に帰すと言ったが、特に魔術師の方は王都の大学に戻すわけにはいかない。
 先日、大学が放った鳩が、手紙を運んできた。果たしてエミリーとシャムリーナという魔術師についての問い合わせであった。彼はすぐさま、彼女たちは村を訪れていないと返信した。
 シャムリーナが大学に戻れば、イーノックの偽りが露見する。遺跡を抱える貴族であるイーノックには、大学もおいそれと手は出せないだろうが、できれば揉め事は避けたい。エミリーもシャムリーナも大学で重要な地位にいるわけではないようだが、彼女たちの失踪を知れば、誰が騒ぎ出すか分からない。
 要はシャムリーナも村に残ることを望めば良いのだ。友人であるエミリーの侍女として側にいられ、衣食住を保証されるのなら、彼女にとっても悪い話ではないはずだ。そしてそれが彼女の望みであるなら、エミリーも無理にシャムリーナを王都に帰そうという気はなくなるはずだ。
 女戦士も同様である。雇われ傭兵であろうが、王都に戻った彼女の口から、どこに何が発覚するか分からない。一介の傭兵にできることなどたかが知れているし、エミリーのために彼女が何か行動を起こすかどうかも分からないが、当面、エミリーの気持ちが落ち着くまでは、万全を期したい。彼女にも村に残ってもらおう。ほとぼりが冷めた頃、女戦士が望むなら、口止めさせた上で王都に帰してもいいし、腕がいいならエミリーの警護要員として、村に留めてもいい。
 二人ともなかなか美しい。外から来た人間と触れ合う機会が少ない村人には、彼女たちはさぞ魅力的に映るだろう。旅芸人同様、彼女たちも宴の美しい華となってもらおう。
 久方ぶりに活気に満ちるだろう、今夜の村を想像して、若い領主はうっすらと微笑みを浮かべ、改めて胸中で大地の女神の感謝した。
 彼らの饗宴が終わり、村が夜明けの静寂に包まれる頃、イーノックとエミリーは密やかに神殿に潜り、そこで宴の終焉を飾る、婚姻の儀を行うのだ。

 

 逃げる隙が無かったわけではない。しかしエミリーは結局そうしなかった。シャムリーナとプリシラの無事も確かめず、一人で逃げることはできない。
 正午前に結婚を承諾してから、ほぼ一日かけて、簡素な軽食を挟んだだけで、あとは身体を磨き続けた。湯浴みをし、香油を髪と肌に塗り、化粧を施して髪を結い上げる。絹の肌着と衣装を着せられ、首や耳に装飾品を着けられた。
「まあまあ、なんてお美しい」
 村育ちにしては洗練された若い侍女は、ほぼ支度を終えると、一日かけて磨きたてた花嫁を、うっとりと眺めた。
 エミリーも思わず鏡を覗き込む。硝子を使った非常に高価な鏡は、彼女の見事な鏡像を映している。
 全身を飾り立て、化粧を施された鏡の向こうの姿は、普段知る自分とは別人のようだった。色白の肌は白粉でさらに滑らかに整えられ、唇に引いた紅が引き立つ。瞼には淡い薔薇色の粉がまぶされ、その際を黒い染料で縁取りされていた。強調された瞳は、エミリーの可憐さを損なうことなく、成熟しようとしている艶かしさを引き出していた。
 一瞬だけ、灰色の鬱屈を忘れて、エミリーは己の姿に感心した。彼女がこういった女性らしい自惚れに酔うのは、ほとんど生まれて初めてだった。
 侍女が嬉しそうに主を呼びに出て行ってしまうと、エミリーは傾き始めた陽が差し込む薄暗い部屋に取り残された。
 こんな贅沢は居心地が悪い。分不相応だ。
 だが今まで築いてきたものや、これからエミリーが手にすることができたかもしれないもの全てと引き換えにするなら、悪くないのかもしれない。
 唇を噛んでいると、ほどなく足音が近づき、ノックの音が響いた。エミリーが返事をしない内に、扉が開かれる。
 部屋に入ってきたイーノックも、既に身支度を整えていた。金糸と銀糸で刺繍を施した、鮮やかな翡翠色の上質の綿の上着とズボンを纏っている。凛々しい、立派な青年に見えた。
 だが彼は、エミリーを目にするなり、顔を緩ませて感嘆の息をついた。
「なんと……なんと愛らしく、美しい」
「そうでしょう、我が君。まあまあ、なんて喜ばしいことでございましょう。こんな可憐な方が、私たちの次の奥方様になるなんて。なんて幸せなのでしょう」
 大仰な侍女の台詞に、イーノックは素直に何度も頷いている。彼はすぐに床に膝をつき、座っているエミリーと目線を合わせた。
「ああ、エミリー。約束する。私は生涯、君を愛し続けるとも」
 それまで冷静だったイーノックの瞳は僅かに潤み、爛々と輝くようであった。エミリーの心臓は微かに鼓動を早めたが、それは不快や不安のためばかりではなかった。
 彼は間違いなく自分に好意を持っている。それはイーノックがエミリーを訪れるたびに、彼女の心に少しずつ沈殿していく確信だった。
 微かに震えるイーノックの顔が近づく。エミリーは身を固くして、本能的に僅かに体を引いた。イーノックは少女の反応を見て、我に返ったように小さく息をつくと、エミリーの手を取り、昼間そうしたように、手の甲に唇を押し当てた。
「さあ、エミリー、時間だ。村人も待っている」
 そのままイーノックはエミリーの手を取り、立ち上がろうとした。
「待ってください」
 彼に引っ張られるように立ち上がりながら、それでもエミリーはか細い声を上げた。イーノックのような自信に溢れた人間の動作に、エミリーはいつも引きずられてしまう。でも、婚姻を誓う前に、どうしても確かめておかなければならないことがある。
 怪訝そうな様子も見せず、イーノックは無言の笑顔でエミリーに問いかけた。
「あの……約束は、果たしてください。私の友達二人を、必ず王都に帰してください。それにもう一度、彼女たちにきちんと会わせてください。シャムリーナに妙な術をかけたなら、それも……」
「そうだったな」イーノックは微笑を崩さず、穏やかに頷いた。「君の友人がそうと望むなら、近日中に王都に帰そう。それに、友人たちにも君の慶事の報告をしなければな」


 エミリーたちに最初に客室としてあてがわれた、二階にある小部屋の中で、シャムリーナは寝台に横たわっていた。
 エミリーよりも先に侍女が駆け寄り、シャムリーナをそっと助け起こす。上半身を起こした彼女は、夢見心地のようなぼんやりとした瞳で、エミリーとイーノックを眺めた。彼女の手首の縛めは、既に外されている。
「シャミー……」
 エミリーが顔を歪めて声をかけると、シャムリーナは微笑んだ。
「エミリー……きれい」
 まだ暗示にかかっているのだろうか、彼女の漆黒の瞳には、どんよりとした幕がかかっている。
「シャムリーナ。エミリーを祝福してやってくれ。私の妻となるのだ」
 素早くシャムリーナに歩み寄り、主人然とした口調でイーノックが彼女に語りかける。シャムリーナは嬉しそうに彼を見上げると、顔を輝かせて頷いた。
「素敵です。エミリーとイーノック様がご夫婦だなんて」
「イーノック様」
 利発だったシャムリーナに、知性の輝きが見当たらないことが、エミリーの顔を曇らせた。彼女は花嫁らしからぬ、泣きそうな声でイーノックに告げた。
「お願いです。こうしてあなたとの約束を守るのですから、シャムリーナにかけた術も解いてください」
「残念ながら、君たちが使う魔術とは異なるのだ。解くということはできない」
 悲しげに眉を寄せて答えるイーノックの表情からは、返答が真実か否か、エミリーには判断できなかった。
「暗示はいずれ自然に解けるだろう。少し日数をくれないか。無論、それまでの彼女の生活と安全は保証する。──さあ、もう一人の友人にも挨拶に行こう」
 イーノックに促され、それ以上逆らえずにエミリーは、部屋を出た。振り向きざま、シャムリーナを見つめる。彼女はとても嬉しそうに、幸せそうに、晴れ姿のエミリーを見送っていた。


 階段を下りてきた二人の兵士は、油断無く槍を構えながら、無愛想に出ろと告げた。
 相手が二人では、へたに抵抗しても返り討ちだ。プリシラは疲れた表情でおとなしく牢の外に出た。体力の消耗を防ぐために動かずにいたので、立ち上がって歩くと、体の節々が引き攣るようだ。
 一人が槍を構えたまま、もう一人がプリシラを後ろ手に縛り上げる。
 彼らは彼女を追い立てるようにして、階段を上らせた。
 牢から出られるのだろうか。
 手を縛められているということは、自由の身になったわけではないようだ。だが、何か状況に変化はあった。 
 期待と不安がないまぜになりながら、見張り用の椅子と小机が置かれた地下牢の出口の扉をくぐる。
 黄昏の光が目を灼いた。久しぶりに見た空は淡い緋色に染まり、たなびく雲が夕暮れを惜しむように輝いている。
 夕映えに見入る暇もなく、兵士に背中を押されて、プリシラは中庭を歩かされた。空腹と衰弱で、軽く眩暈がする。
 中庭には、椅子やテーブルが並べられ、召使いたちがせわしなく行き交っていた。五日前には何も無かったはずだ。プリシラは何となく落ち着かない気分になった。
 彼女が連れて行かれたのは、厠の隣にある、風呂場であった。木造りの深めの浴槽には、既に湯気を立てている湯が張ってある。
「そこで体を洗え」
 兵士の一人が尊大に言った。よく見れば、今朝シャムリーナを牢から出した兵の一人だ。
「両手縛られて、どうやって洗えってのよ」
 理由を尋ねるより先に強気に言い返すプリシラに、兵士は一瞬苛立ちを見せた。プリシラは臆せず睨み返す。腹立ち紛れに殴るなら殴れ。
「なら、俺が洗ってやろうか」
 もう一人の若い兵が、下卑た笑みを浮かべて、プリシラの肩をつかんだ。日焼けした、締まらない顔の男である。純朴な男は嫌いではないが、馬鹿は嫌いだ。触れられたくもない。
「やめろ」
 年長の兵が若い兵の腕を押さえたが、若者は不満そうに鼻を鳴らした。
「いいじゃねえか。どうせ夜にはよう……」
「ご領主様の命を忘れるな。余計な騒ぎを起こすんじゃない」
 若い兵は不承不承といった体で、未練がましくプリシラの頬を撫でた後、泥臭い手を彼女から離す。
 兵士たちは、プリシラを狭い風呂場の中へ入れると、扉を閉めた。狭い空間に男二人と閉じ込められ、プリシラの胸に危機感が静かにせり上がってくる。 
 こんな連中に強姦されるなんて冗談ではない。あとで屈辱と自責に苛まれるくらいなら、男たちを受け入れて、その場は楽しんだ方がましだ。プライドなど、いくらでも折り畳める。
 プリシラが鈍重そうな男たちを、どうにか魅力的に見えないかと眺めているうち、彼らはプリシラの両手の縛めを解いてくれた。
 尚も警戒を解かないプリシラに向かって、年長の兵士はいくらか顔を歪めながら言い放った。
「それで湯浴みをしろ。お前が妙な気を起こさないよう、俺たちはここで見張らせてもらう」
「はあ? 冗談じゃないわよ」
 男の言葉を打ち返すように、プリシラは食ってかかった。だが兵士は小ばかにしたような笑みを見せるだけだ。
「こっちも冗談じゃない。嫌なら、もう一度縛り直してもいい。こいつがお前の体を洗ってくれるそうだ」
 手にした槍の穂先をぽんぽんと片手で弾ませている若い兵士が、再び鼻の下を伸ばしてプリシラを見やる。
(くそったれめ……)
 内心、歯軋りしたい気分だったが、こんな男たちに恥じらいを見せるのが悔しい。プリシラは無表情を保つと、黙ったまま薄汚れた麻の服の紐を解き始めた。
「お、ほんとに脱いだぜ」
 若い兵士の品の無い声が聞こえたが、プリシラは構わず上着を脱ぎ捨てた。手早く肌着も脱ぎ捨てる。脱いだ服からも、数日分の垢じみた匂いが漂うのが惨めだ。
「なんだなんだ、貧乳だなあ」
「おい、静かにしろ」
「でも胸は白いし、乳首はピンクだぜ。意外と遊んでないんだな」
 プリシラの肉体を品評するかのような若い兵士に、苦笑いを混ぜて年長の兵が窘める。素肌を見せていることも、それをこんな連中に批評されていることも屈辱だったが、彼女は極力顔には出すまいとした。
 靴紐を解いて長靴を脱いだ後、ベルトを外し、留め具を外したズボンを脱ぎ去る。
 さすがに下半身を覆う下着を脱ぐには度胸が要った。
「お、さすがに女傭兵でも、やっぱパンツ脱ぐのは恥ずかしいか? 俺が手伝ってやろうか」
 懸命に無表情に徹してきたプリシラだが、兵士の揶揄に対して顔が熱くなった。
(こいつ……あとで殺してやる……)
 女だてらに傭兵として稼いできた彼女には、こんな屈辱は初めてのことではないが、ルークたちと組んでからは、あまり無いことだった。彼らは──表面上は──皆紳士的なので、下卑た男の本性とは、しばらく縁が無かった気がする。
 猿だ。猿に見られていると思え。
 眉間に皺を寄せて言い聞かせると、プリシラは紐をほどいて、乱暴に下着を脱ぎ捨てた。
「おお~、いいねえ~。ごつい体でもやっぱり女なんだなあ。ついでに脚開いて見せてくれよ」
「うるさいぞ、お前」
 若い兵を諌める男も、プリシラの裸体を堂々と見据えながら、薄笑いを浮かべている。
 今すぐに二匹の猿に蹴りをくれて、首の骨をへし折ってやりたいが、彼らはそれなりに訓練を積んでいるらしい。丸腰のプリシラが、武装した二人の兵に勝てるとは、とても思えなかった。相手が一人ならば、まだ油断を誘えば隙ができるものを。
 プリシラはさっさと浴槽の中に体を沈めると、側に置いてあった、獣脂性の安い石鹸を手に取り、体を洗い始めた。面白いように垢が出る。髪も脂でべとべとだった。
「股もしっかり洗っとけよ、女戦士さんよう。あとでお楽しみが待ってるからな」
 うるせえ、ばか。
 そう返したかったが、後の一言がプリシラの耳に引っかかった。先ほども夜に何かあるようなことをこの若い兵は言っていた気がする。
「お楽しみって何よ」
 屈辱を怒りを見せないように、体を洗いながら抑揚の無い声でプリシラが問うと、兵士は肩を大袈裟に竦めた。
「そりゃ内緒だ。いまに分かるさ」
 いたずらっぽく笑った男は、恐らく馬鹿だ。間違いない。そして全裸のプリシラに警戒を解きかけている。
「教えてよ。あたしはこれからどうなるの? それにあたしの連れはどうなったのよ?」
 幾分口調を和らげ、怒りを押し殺して不安げな表情で尋ねると、案の定、兵士の顔も崩れた。元々半分崩れかけたような造りなのだが、とプリシラは個人的に思った。
「すぐに会わせてやるよ。だからこうして体を洗ってもらってるんだろうが。臭い体で花嫁に会わせるわけにゃいかねえからなあ」
 一瞬、プリシラの顔は強張った。
 花嫁。
 それは恐らくエミリーに他ならない。イーノックの求婚を受諾したのだ。
 もしや先に牢から出されたシャムリーナが、何らかの脅迫に使われたのだろうか。彼女が傷つけられ、あるいはこの兵士のような、複数の下品な男たちにいたぶられる様を想像し、プリシラは顔色を失った。
 焦燥が体を駆け抜けたが、先走りは禁物だ。とにかく、エミリーにはほどなく会えるらしい。事態を打開する隙を待つのだ。今はまだ不可能だ。
 冷静になれと言い聞かせて、プリシラは再び兵士の野次を聞きながら浴槽から出た。
「脚おっぴろげて、あんたのあそこを見せてくれるんなら、新しい服をやってもいいぜえ」
「やめんか、馬鹿者」
 ますます調子に乗る若い兵士の額を小突き、年長の兵の方が、生成りの綿の簡素だが、清潔な服を放り投げてくる。すっぽりと頭から被る、裾の長い服で、下着も無かったが、何日も履いていた物を、体を清めた後にもう一度纏う気にはならなかった。すかすかして落ち着かず、動きにくいので、プリシラはベルトだけ拾い上げて、胴を締めた。
 プリシラが支度を整えるのを見届けると、男たちは彼女の手首を再び背中で縛り上げ、風呂場の外へと促した。

 青みを帯び始めた空の暗さを払拭するように、中庭の要所に篝火が焚かれていた。数台並んだ長テーブルは生花で飾り付けられ、パンや果物、腸詰やチーズが並べられている。
 恐らく、結婚の祝いなのだろう。こんなに早く、華燭の宴を開くなど、既に婚姻の式を行ってしまったのだろうか。
 焦りを噛み殺しながら、プリシラは兵士二人に伴われて、館へと通された。
 例の食堂の前で兵士たちは足を止め、中に声をかける。イーノックの相変わらず快活な応えがあった後、彼らは扉を開けた。
 逆らわずに男たちに続いて室内に足を踏み入れたプリシラは、予感が正しかったことを知った。食堂には正装したイーノック、同じく紅紫色のゆったりした綿の服を纏った巫女頭、そして白絹の清楚なドレスに包まれ、全身を飾り立てたエミリーの姿が見えた。
「エミリー……」
 彼女の無事な姿を目にして、安堵と不安に襲われながらプリシラが呟くと、エミリーは打たれたように椅子から立ち上がり、衣装の裾を引きずりながらプリシラに駈け寄ってきた。
「プリシラ、無事でよかった」
 幸せそうな、美しい花嫁の姿をしているというのに、彼女はプリシラの前に立った瞬間、顔を歪めて涙を零した。
「あんたこそ。……ねえ、どういうこと?」
 エミリーの肩か頭を抱いてやりたかったが、後ろ手に縛られているのでそれも叶わない。プリシラは唸るような低い声で、エミリーとそしてイーノックの両方に問いかけた。
「プリシラ……私……」
 感情が高ぶるとすぐ泣いてしまう少女は、この時も嗚咽を漏らしながら、顔をくしゃくしゃにしていた。
 その背後から優雅な足取りで、若き領主が近づいてくる。彼はプリシラの眼光にも怯むことなく微笑んだ。
「エミリーは、最終的に私の求婚を受けてくれたのだよ」
「エミリー」イーノックを無視して、プリシラは俯いて涙を拭っているエミリーに尋ねた。「本当なの? ねえ、あたしのことなら、気にしなくていいのよ」
「ちがう……ほんと……」
 感極まったのだろうか、エミリーの嗚咽は激しくなり、言葉も聞き取りづらい。少女の細い肩に手をかけ、穏やかにイーノックは呟いた。
「エミリー、さあ、詳しい話はあとだ。宴の前に主役が泣いてはいけないよ」
 イーノックはエミリーの肩をそのまま抱え、元の椅子に座らせようと導いた。彼女はそれに逆らう気配も見せない。
 エミリーの本心だろうか。プリシラは束の間、彼女の真意が分からなくなった。
 エミリーは恋焦がれる男もいないらしい。特に冒険者や魔術師の仕事に未練を残していないなら、イーノックの求婚を受けて、この村で静かに暮らすことを選んでもおかしくはない。寧ろ賢明な選択かもしれない。
 でも。
「ちょっと、二人で話をさせてよ」
「後にしたまえ。──連れて行け」
 イーノックの背中に呼びかけたが、振り向いた領主の返答は冷淡だった。指示を受けた兵士が、再びプリシラの腕を取る。
「ちょっと……シャムリーナは無事なの? 会わせてよ!」
 しかし今度は答えすらなく、プリシラの目の前で分厚い木の扉は音を立てて閉ざされた。


 プリシラが連れ去れた後も涙が止まらず、エミリーは堰を切ったように泣き続けた。手の甲で目元を拭うたびに、化粧が擦れ落ちていくのを見て、巫女頭が落胆の息をついたが、勿論彼女の耳には入っていない。
 イーノックとの結婚は、安寧に違いないだろう。けれど今まで彼女を助けてくれたプリシラや、他の仲間たちに、何も返せずに、彼らの人生からエミリーが消えて、忘れ去られるのだ。
 悲しかった。
 領主は花嫁の気が済むまで泣かせておこうと思ったのか、エミリーを椅子に座らせると、時折その背中を宥めるように撫でるだけで、後は声もかけてこなかった。
 この人さえ、大地母神さえエミリーを見初めなければ、こんなことにはならず、今頃王都でルークたちに土産話でも聞かせていたのだと思うと、彼に対して怒りが再燃しかけた。だが温かい掌から、彼のエミリーに対する心遣いが伝わってくるような気がする。それが欺瞞ではないということが分かると、どうしてもイーノックを邪険にはできなかった。
 エミリーの嗚咽が収まるのを見計らい、イーノックは立ち上がった。
「さあ、エミリー。泣いてはいけない。女神が選び、君が受け入れたことなのだ。それならせめて喜んで欲しい」
 イーノックはエミリーを抱えるようにして、椅子から立ち上がらせると、まだ薄く涙の跡がある頬を中指でそっと拭った。子供のように号泣していたので、彼女の小振りな鼻には鼻水も滲んでいたが、彼は服の袖でそれも拭う。エミリーはふと、先日、シーマスが同じように号泣する彼女の鼻水を親指で拭ってくれたことを思い出した。
「エミリー、行こう。村人が救い主である君を待っている」
 子供を諭すように優しく囁きながら、イーノックはエミリーの肩を抱いて食堂を出た。その後ろから厳かな足取りで巫女頭が続く。

 中庭に出ると、空に葵色の幕が広がり、短い初夏の夜の入り口が見えた。
 並べ立てられた長テーブルには、料理と飲み物が用意されていて、村人と思われる男女がひしめき合っていた。広めの中庭には、村中の人間が集まっているのかもしれない。彼らの朗らかなざわめきが耳を打ち、麦酒と焼いた羊肉の香りがエミリーの鼻腔の奥を突いた。
 エミリーとイーノックの姿に気づくと、どこからともなく、さんざめきが喚声に変わっていく。やがて村人たちは声を揃え、拍手を添えて新たなる若い夫婦を迎えた。
「皆の者」エミリーの隣にいる青年が右手を差し上げると、村人たちのどよめきは引いた。「長らく待たせた。先日、我らが大地母神より神託のあった娘、我が妻にして、神殿の新たなる主をご紹介しよう。エミリーだ」
 芝居がかった台詞が終わると、再び村人の拍手と喚声が大音声で響き渡った。
「なんて綺麗な娘っこだろ」
「まあまあ、可愛らしい」
 村人たちの称賛の声が耳に入ったが、無論、エミリーを微笑ませることはなかった。彼女に集まる無数の好奇の視線は、ただでさえ沈んでいる彼女を萎縮させた。
「明日、我らは女神の前で晴れて夫婦となる。今宵はその祝いの宴である。今まで耐え忍んでくれた分、存分に楽しんで欲しい」
 再びときの声が村人の間から沸いた。領主とエミリーを讃える声が続き、彼らは再び飲食を楽しみ始めた。
 イーノックはそれを見届けると、彼女の手を引いて、中庭の隅に設えた一段高い上座の二席に腰掛けた。すぐさま侍女が飲み物を二人に運んでくる。
 受け取った銀杯からは、濃密な甘い香りがした。プリシラが飲んでいた、高価な蒸留酒らしい。生憎エミリーは下戸のため、口もつけることができずにいた。
「どうぞ」
 侍女が続いて、蒸した野菜と腸詰めの盛られた皿を差し出す。温かく柔らかい匂いは、少しばかりエミリーの冷えた心をほぐしたが、食欲が沸くまでに至らず、彼女は首を振ってそれを断った。
「エミリー。少し食べてくれないか。君と私の為の祝いなのだ」
 隣に座ったイーノックが、気遣わしげに顔を覗きこんでくる。
「すみません。でも……」
「ああ、君は酒にあまり強くないのだったな。誰か、葡萄の果汁を持ってきなさい」
 イーノックは側にいた召使いにすかさず指示を出し、エミリーの手をそっと握った。
「間もなく私たちは夫婦になるのだ。何度も言ったように、君を愛し、敬い、大切にする。だからどうか、笑っておくれ」
 俯いていたエミリーはほんの少し顔を上げ、イーノックの顔を見た。花嫁を浮き立たせようと必死の、若い青年の姿がある。懸命な彼の仕草を見ていると、エミリーの繊細で優しい心は、再び怒りに育つ前に温度を失ってしまった。
「今日は珍しく芸人が来ているのだ。これも女神の思し召しであろう」
 イーノックは彼女に向かってもう一度微笑むと、別の召使いに旅芸人を呼ぶように伝えた。
 やがて裏手の離れの暗がりから、数人の男女が姿を見せる。彼らの姿を目に留めて、村人たちはまたも喚声を上げた。
 先頭を歩いているのは、男かと思ったが、よく見れば長身だが女のようだ。慎ましく髪と頭を布で覆っている。彼らは領主夫妻の前で跪いた。
「今宵、かようなおめでたき宴にお招きいただいて、誠に光栄のみぎりでございます」 
 女は美しい礼を取ると、鼻にかかった独特の声で言った。 
「早速、閣下と未来の奥方様、そして大地の女神様の為に、我ら一同、声が涸れるまで歌い続ける所存でございます」
「はは。声が涸れては困るだろう」イーノックは明るい笑い声を上げた。「幸せな恋の歌、婚礼の歌を頼むぞ」
「御意に」
 女は伏せていた顔を上げた。篝火に浮かぶ肌は白く、濃い目の化粧を施した顔立ちは麗しい。
 彼らは立ち上がり、演奏の準備を始めた。大男が担いでいた荷物を下ろし、そこから布やら楽器を取り出している。最後尾にいた小柄な人影が、外套のフードを被ったまま、領主の正面に進み出た。しゃらしゃらと美しい音を奏でる鈴を握った長身の女は、そこから一歩下がって後ろに控えるように立つ。
「素晴らしい演奏だぞ」イーノックはエミリーに首を近づけ、親しげに囁いた。「いや、演奏よりも歌声が素晴らしい。王都にいた君も、これほどの美声はなかなか耳にできなかったのではないかな。楽しみにしているといい」
 邪気の無いイーノックに対し、エミリーは答えられずにいた。
 再び俯きがちになる壇上の彼女の前に、艶のある木製の縦笛を組み立てた旅芸人の一人が近づく。彼は興味深そうに下からエミリーの顔を覗きこんだ。
「これはこれは。なんと若く、お美しい花嫁でしょ。さすがは女神に守られた村の奥方様。目が潰れそうですわ」
 長身の女に比べれば、訛りが混じって言葉も汚い笛吹きの言葉に、イーノックは寛容に受け答えた。
「大袈裟な世辞だな」
「お世辞なんかじゃありませんて。はあ~、羨ましい。あたしもこんな嫁さんが欲しいですわ」
 肩を竦める芸人に、新妻を褒められたイーノックは再び上機嫌で笑い声を上げる。
 快活な声を聞きながら、その隣でエミリーは俯いたまま表情を固めていた。
(この声……)
 シーマスだ。

 帽子を被り、薄汚れた青い上着を着込んだ小柄な笛吹きは、確かにシーマスだった。彼はエミリーと目も合わせず、笛の音合わせを始めていたが、見間違えではない。
(それじゃ……)
 エミリーは動揺を表さないようにさりげなく、一同から少し離れた後ろで、退屈そうに荷物の側で屈んでいる男に目をやった。やはり薄汚れた服を着た大柄な男は、陽に焼けた黒い肌をしているが……。
(──ルーク)
 懐かしさに涙が出そうになった。ルークだ。顔や腕に何か塗っているのだろう。肌の色は違うが、ルークに間違いない。
 エミリーは目だけを動かして、一行の長に見える、長身の女を見やった。頭を布で覆っているので、顔が見えづらいが、細身のあの体つきは、セルヴィスではないか。鼻にかかった声は、どうも耳障りだったが、彼の作り声に違いない。元から彼の声は男にしては甲高い。
(もしかして……)
 エミリーは、セルヴィスと思われる女の前、イーノックの真正面に立つ人間に目を向けた。
 伸びた手が外套の覆いを外す。柔らかそうな蜂蜜色の髪が、波打ってこぼれだした。フードの中から現れた、淡い化粧を施した白皙の美少女に、周囲の人間は感嘆の声を漏らした。
 思わず目を剥くエミリーに、イーノックは穏やかに笑いかけた。
「驚いたかい、エミリー。あのような色白の肌の娘は、芸人には珍しいからな」
 ええ、驚きました。
 そう答えそうになりながら、エミリーは無意識に頷いていた。
(ミクエル……)
 恐らく鬘を足しているのだろうが、背中までの見事な金髪を見せる歌姫は、ミクエルに違いなかった。
 
 もう会えないと思っていた。王都にいる彼らは、エミリーの苦悩など知らず、新しい魔術師でも見つけて、切り離された別の人生を歩むのだと思っていた。
 帰りが遅いエミリーたちを心配してくれたのだろうか、女装までして旅芸人に変装し、村まで様子を見に来てくれたのだ。涙が零れそうになったが、いきなり泣いてはイーノックに怪しまれる。唇をきつく噛んでこらえた。
 長身の女がしゃらんと鈴を鳴らす。それを合図にしたように、笛吹き──シーマスがリズムをとって体を揺らしながら、縦笛の音を響かせ始めた。
 女──セルヴィスが振る鈴が、澄んだ音を規則的に響かせる。耳から入り込んで、エミリーの頭に響き渡るその響きは、銀の鈴が立てる音色だ。規則的にすぎるその音は、やがてシーマスの笛と少しずつずれていく。
 銀は魔よけであり、魔術の触媒の一種である。
 あたりに、世にも美しい女の歌声が響き渡った。玻璃細工を弾いたような、透明な響きは、ミクエルの声ではない。
 幻術である。得意とするセルヴィスが、鈴を使って精神を集中させ、幻の歌声を周囲に届けているのだ。ミクエルはそれに合わせて、歌っている振りをして口を動かしているに過ぎない。
 素晴らしい歌声に違いないだろう。人間の喉ではなく、魔術師によって精巧に組み上げられた、澱みもない幻の歌声なのだから。
(逃げなきゃ)
 魔術の歌声に聞き惚れるイーノックと村人を横目に、エミリーは膝の上の両手に静かに力を込めた。数日に及ぶ監禁で、萎えかけていた気力がふつふつと沸き上がってくるのを感じる。
 彼らがここまで来てくれたのだ。居所の知れないプリシラとシャムリーナを救出し、揃って村を脱出するのだ。
        
あと…多分…二話で終わる予定です。

更新が一週空くかもしれません。
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作者ブログ『椰子の実ライブラリ』

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