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えー、今回もHシーンないです。
超ヒマって時に目を通していただけると嬉しいです。
女の聖地 3
 初夏の長い一日がようやく終わろうとしていた。名残りの光が王都の空を淡い黄金色に染め上げている。
 その天を突くように尖って聳える大聖堂の鐘楼から、夕方の鐘の音が響き渡った。それを呼び水としたように、広大な都の随所の教会で、同じように鐘が打ち鳴らされる。金属の澄んだ音色がいくつも溶け合い、湿気を孕んだ黄昏の空気を穏やかに揺るがした。
 王都の南側をほぼ東西に貫く川は、北の行政・商業地区と、南の庶民の住まう地域を分け隔てている。一日の仕事を終え、家路を急ぐ人々は、橋や渡し舟で、空を映して輝く川を渡ろうと、南へと動き出す。
 交易で栄え、日中は数多の旅人や行商を受け入れる都の門も、この鐘が鳴る時間を境に閉ざされる。閉門ぎりぎりに街に入ってきた旅人たちは、急ぎ宿を探し始めるのだ。
 春から秋にかけての王都は常に混雑している。宿が見つからなければ路上で寝る羽目になるが、治安が保たれている地区でそんなことをすれば、警邏にあたっている衛兵に見咎められ、場合によっては追放か一晩の牢獄いきだ。かといって南の猥雑な地域で野宿をしようものなら、夜間に身ぐるみをはがされて川に放り込まれるのがおちだ。
 戻るべき家に帰る者、今夜一晩の寝床を探す者が、王都の道々にあふれ返る時間である。

 ルークたちと夕食をつまみながら、シーマスは時折宿の入り口に目を向けた。閉門間際に街に入ってきた旅人たちや、酒を飲みながら宵を過ごそうという地元の男たちが入ってくる。
 しかし人の流れがやがて途絶え、食堂の中の喧騒が膨れ上がり始めた後も、プリシラとエミリーの姿は見えなかった。
 彼女たちが旅立ってから、六日目の夜になる。まだエミリーたちは戻ってきていない。
 その間に、セルヴィスの謎の実験は終わり、ミクエルが付き添っていた修道院長にも、別の修道士が付くようになったらしい。彼らは再び、少々手持ち無沙汰な毎日を過ごしていた。
 無論、己の技術を磨く為に、するべきことは山ほどあるが、夕食はまた四人で集まって食べるようになっていた。
 プリシラがいないと、座は静かであった。彼女たちが旅立った当初は、解放感を感じてもいたが、不在が長くなると寂しいような気もする。
 ことにルークなどは、口に出さずとも、二人の女たちを案じているようであった。
「お待たせー」
 無言になりがちな男たちのテーブルに、ひときわ明るい声が落ち、続けざまに酒の入ったカップが置かれる。新しい給仕娘のアデラである。
 小柄な彼女は、毎日はしっこく動き回ってよく働くので、早くも酒場に出入りする男たちの人気者となっていた。
 ちなみにシーマスも、何度か声を掛けているが、あまり相手にされていない。それでも名前と顔は覚えてくれたようなので――毎日食堂にいるなら、当たり前の話ではあるが――、脈がありそうだと彼は考えていた。
「今日もお兄さんたち、静かねえ~」まだ片手に、女の細腕でよくもと思うほどの数のカップを握りながら、アデラは首だけシーマスたちに向けて言った。「まだ、お連れさんは戻ってこないの?」
 ここ数日、昼食と夕食のたびに、シーマスは彼女に話しかけていたので、彼らが冒険者であること、今は女二人が別行動を取っているので、宿で骨休めをしていることなどは、既にアデラは知っている。
「ああ、まだ」
 シーマスは、取り立てて暗い顔も見せずに短く答えたが、アデラは僅かに眉を寄せた。
「女の子だけなんでしょ? 心配ね」
 彼女は返事をしたシーマスの方ではなく、ルークの顔を覗き込みながら言った。
「うん……」アデラの表情につられるように、ルークの声も濁ったが、すぐに彼は笑顔を見せた。「まあ、二人ともしっかりしてるし、大丈夫だと思うけど」
「そうね。女の子だし、あちこち寄り道してるのかも。じきに帰ってくるわよ」
 愛嬌のある笑顔を残し、アデラは次のテーブルへと駆けていった。
 美人というわけではないが、仕草も表情も可愛らしい。
(でもなんで、ルークの方ばっか見てんの)
 それだけが、彼女に対するシーマスの不満だった。脈がないわけではなさそうだが、道のりは厳しそうだ。
「何か大学の方に話は入っているか?」
 アデラが去り、シーマスが未練たらしく彼女の小振りの尻を目で追っている間、ルークがセルヴィスに尋ねた。昨日も彼は同じことを訊いている。
 プリシラとエミリーは、遺跡の村に一泊し、予定通りなら一昨々日、見学に時間がかかり、もう一泊したとしても、一昨日には戻ってくるはずだった。
 神殿遺跡は小さいし、見学するだけだから、一日滞在すれば用事は済むはずだとエミリーは言っていたが、もっと日数をかけているのかもしれないし、村までの道のりで手間取っているのかもしれない。それこそまた、エミリーが転んで足を捻ったなどということがあれば……。
(いや、それなら王都に戻ってくるか)
 まずい。シーマスの脳裏にも、一瞬いやな想像が浮かんだ。
「いいえ、特には。何かあれば、村から知らせが来るはずですし、便りがないことは、無事の知らせじゃないですかね」
 ルークの問いに、魔術師は静かに答えたが、心なしかセルヴィスの顔色も冴えない気がする。もっとも彼が溌剌としているところなど見たことがないので、シーマスの気のせいかもしれなかった。
「お前もプリシラにいびられたり、縫い物頼まれたりしないから、ほっとしてるだろ」
 落ちかけた沈黙を避けるように、シーマスはミクエルに冗談めかして言った。テーブルの上で、器用に梨の皮を剥いていた彼は、顔を上げると、困惑の混じった笑みを見せた。
「うん、まあね。……でも、やっぱり心配だけど」
 誰もが内心思いつつ、口に出せなかった一言だった。
 もしや女たちに何かあったのでは。男たちは心の隅で、大なり小なり案じていた。
 エミリーはあの通りの世間知らずだが、プリシラがついている。それにいざとなれば、エミリーも魔術が使えるのだ。同行しているシャムリーナも冒険者であるし、ただの女三人連れではない。二、三人の追いはぎなら、簡単に避けられるだろう。
 だが、それ以上の脅威が現れたら。
 獣の群れ程度なら、魔術を使えばやり過ごせるだろうが、徒党を組んだ大人数の盗賊団が出没したりすれば、三人では歯が立たないかもしれない。
 あるいは彼らがごく稀に遭遇するような、異形の怪物と出逢ったりしたら。
 冷静に考えれば、並外れた災難に遭った可能性の方が、遺跡の村で寄り道している可能性よりはるかに低い。女なんて気まぐれなものだし、特に魔術師は興味深い物に夢中になると、他を忘れてのめり込んでしまう。
 遺跡の内部で面白い記述を見つけ、エミリーたちは時間も日数も忘れて見学に熱中しているのだろう。プリシラは仕方なくそれにつき合っているに違いない。

 半ば言い聞かせるように考えていたシーマスは、食堂の喧騒の中から、入り口扉が軋む音を拾い上げた。
 そちらに目を向けたシーマスの表情が動く。それに気づいたルークたちも、一斉にシーマスの視線を追った。
 待ちわびていた、女たちではなかった。狭い椅子とテーブルの間を、体を捻りながらこちらに向かってくるのは、シーマスの友人であるジェフリーである。
 エミリーを遺跡に誘った、シャムリーナの仕事仲間でもある彼の固い面持ちに気づき、シーマスの胸に再び不吉な思いが去来する。
「どうしたの、店まで来て」
 ただごとではなさそうだ。シーマスは挨拶抜きに、ジェフリーに尋ねた。
 ここ数日、盗賊ギルドと関係のある錠前屋で、日雇いの仕事をしていたシーマスだが、ジェフリーとはほぼ毎日顔を合わせていた。彼の方も、一人負傷者が出たとかで、パーティー単位での仕事は無いらしい。シャムリーナが遺跡を見に出かけたのもそういった理由だったのかと、後に得心した。
 ギルドに行けばすぐに会えるジェフリーが、宵を過ぎて、宿の食堂にまで顔を出すとは、急ぎの用事なのだろう。
 ジェフリーは、ルークたちに目だけで挨拶を送ると、すぐにシーマスに視線を戻して言った。
「エミリーたちは戻ってきたか?」
 シーマスが首を振るまでもなく、座を見れば分かるだろう。ジェフリーの問いは確認に過ぎなかった。
「何か聞いたのか? ──ちょっと、座れよ」
 逆にシーマスが椅子を勧めながら尋ねると、彼は強張った表情を崩さず、機械的に椅子に腰を落とした。
「いや……四日ぐらい前のことなんだけど」
 ミクエルがアデラを呼び止めて、ジェフリーのために麦酒を頼んだが、それに構わずジェフリーは重い声で話し始めた。

 四日前、ジェフリーのパーティーにいる、負傷して寝台に伏せている魔術師が、村に出かけたシャムリーナから、奇妙な思念を受け取った。
 思考や念を形にし、物質的・精神的な力にすることが、魔術の基礎であり、真髄であると言える。魔術師たちは当然、その訓練を受けている。鍛錬を積んだ者は、言葉を介さずに思考の疎通ができる。
 だがこの時、シャムリーナから微かに流れてきたのは、戸惑いと焦燥、恐怖が入り混じった、原始的で判別しがたい思念であった。
 彼女は念のやり取りに特に習熟しているわけでもない。それが王都にいる魔術師に伝わってきたということは、相当に強烈な感情だったのだろう。
 仲間の身を案じた彼らは万一を考えて、すぐさま大学を通じて手紙を書き、神殿遺跡の村に宛てて送った。
 豊かなこの王国内の大都市では、各大学の地道な活動により、識字率が高い。王都から放射状に伸びる幹線街道に沿って、大都市に向けた郵便網も発達しつつあった。
 そういった手紙の配達も、冒険者の仕事のひとつであったりする。
 今日の昼、返事が届いたという知らせが大学から届き、動けない魔術師に代わって、ジェフリーが聞いてきたらしい。

 結果はと無言で促す一同に向かって、ジェフリーは深刻な表情のまま言った。
「そんな女魔術師たちは村を訪れていないって返事だったんだ」
 少しの間、そのテーブルにだけ沈黙がおりた。
「返事は誰から来た?」
 最初にそれを破ったのはシーマスだった。
「村の領主自らだよ。これ以上信頼できる返事はないって大学の導師は言ってた」
「じゃあ、エミリーたちは村に着いてないってことか?」
 食卓に肘をついて身を乗り出すルークに、ジェフリーは肩を竦めてみせる。
「普通に考えればね。で、オレも慌てて行商のギルドに飛んでいって、最近北街道を通って王都に入ってきた連中を運よく捕まえたんだけど、街道沿いに女の死体が転がってたり、怪我で足止め食ってる女たちがいたりってことはなかったらしい」
 シーマスたちは互いに顔を見合わせた。
 街道の災難で最も多いのは、野盗の襲撃である。抵抗しなければ、大抵は金品を奪われるだけで済むだろうが、こちらが抵抗したり、あるいは相手の血の気が多ければ、無論命も危ない。そして襲われた側が女であれば、別の危険もある。
 死体が無いのは、盗賊たちに連れ去られたからかもしれない。
 下劣な男たちの慰みものとして生かされているか、あるいは用が済めば殺されることもありえるだろう。
 彼らは唇を引き結び、押し黙った。別のテーブルの話し声、笑い声が無遠慮にシーマスたちを取り囲む。
 彼らの沈鬱な表情を見て取り、ジェフリーは首を横に振って、やや声の調子を上げた。
「あ、いや、で、続きがあるんだ。オレが商人のギルドに行っている間、オレたちのとこの魔術師が、苦労してシャミーの居所を探ってみたんだよ」
「魔術で?」
 シーマスの問いに、ジェフリーは頷いた。
「奴は怪我してて体調が万全じゃないし、正確な場所は分からなかったらしいけど、ここから北へいった、そう離れていない場所にいることは間違いないらしい」
「生きてるのか?」
「少なくともシャムリーナは。──多分、プリシラとエミリーも一緒だろう」
 ジェフリーの答えから察するに、魔術師が探り出したのは、シャムリーナ一人の居場所なのだろう。だが、彼が言うとおり、そこにプリシラとエミリーがいる可能性は高い。
 シーマスはセルヴィスに顔を向けた。
「あんた、同じようにエミリーの居所を魔術で探れないのか?」
 魔術師は軽く目を見開き、小刻みに首を振る。
「私には無理ですよ。肉親でもありませんし、特に距離が離れていてはとても……」
「エミリーはメダルを置いていかなかったの?」
 セルヴィスの声を遮ってジェフリーが訊く。彼はもう一度かぶりを振った。
「いいえ。シャムリーナは置いていったんですか?」
「ああ。それを使って、居場所を探したらしい」
 ジェフリーが口にしたメダルとは、エミリーがいつも首から下げ、服の下にしまっている小さな銀製のメダルだ。エミリーはかつてそれを、魔術師ギルドに所属している証だと語っていたが、同じく魔術師であるシャムリーナも、同じようなメダルを持っているに違いない。彼女は留守にする間、それをもう一人の魔術師に預けておいたのだろう。万一のことを考えてだったのかもしれない。
「エミリーも置いていきゃよかったのに」
 どうして自分のところの魔術師たちは、今ひとつなのだと思いながらシーマスがぼやくと、セルヴィスのやや固い眼差しが返ってきた。
「それはないですよ。普通は他人に預けることはしませんし、あってはならない代物です。魔術師ギルドと魔術師を結ぶ、信頼と契約の証ですし、悪用しようと思えば、いくらでもできます。私もエミリーや師にもメダルを預けたことはありません」 
 シーマスは視界の隅で、ルークの視線が追憶に翳るのに気づいた。
 他人に預けることはしない。あってはならない代物。エミリーはそんな大切なメダルを、かつて地下都市ガレンで危難に見舞われた際、ルークに託したことがあった。彼女がルークに想いを寄せていることにシーマスは既に気づいていたが、その信頼の度合いに、感心と僅かな羨望を覚えた。
 勝手なものだ。他人の厚すぎる信頼など、シーマスのような男にとっては重圧にしかならない。従って彼も望んでいないというのに。
 そして同じくらい、シャムリーナも仲間の魔術師、ひいては他の仲間たちを信頼しているのだ。組んで二年近くになる彼らの絆は、自分たちよりはるかに強い。
 ジェフリーはセルヴィスを宥めるように曖昧に微笑すると、再び口を開いた。
「シャミーはそういうとこ慎重だからな。──とにかく、あいつは北街道沿いの、そう遠くないところにいるんだ。近くに盗賊団の根城でもあって、そこに捕まってるとかでなけりゃ……」
「村か」
 語尾を引き取ったシーマスの呟きをジェフリーは黙って首肯した。 

 神殿遺跡の見学のために出かけた魔術師たちの行方が知れない。
 ジェフリーは彼女たちの捜索のために、真っ先に魔術師ギルドの助力を頼んだが、シャムリーナの師でさえ、応対は冷淡であった。
 ジェフリーたちは、遺跡がある件の村の領主が、何か良からぬ企みのためにシャムリーナたちを捕えているのではないかと疑っていたが、魔術師ギルドに一蹴された。村の領主は子爵の地位を持つ貴族であり、かつて面妖な問題が発生したことがない場所であるらしい。領主もギルドに好意的である──つまり、遺跡の調査をギルドに許し、ギルドの知識と引き換えに、相応の寄付も行っているのだろう。
 エミリーたちはギルドの依頼や命令ではなく、自主的な見学のために出かけた。たとえその行き先で何かが起こったとしても、明白な証拠などが無い限り、捜索や救出のために魔術師ギルドは動かない。
 掟や制限も多いが、エミリーたちは魔術師ギルドから比較的自由な行動を許されている。自由に責任が伴うのは当然のことだ。
 組織に属しているからといって、組織が個人を守ってくれるとは限らない。それはシーマスやルークたちが所属する盗賊や傭兵のギルドも同じだ。
 自分たちで女たちを探すしかない。
「でも生憎、オレたちのとこは、戦える奴らが全員護衛の仕事で、南街道に出てるんだ」
 ひと通り状況を話すと、ジェフリーは初めて長い溜め息を吐いた。
「もう一人を使いに出したけど、奴らが戻るのは早くて明日の夜か明後日だ。それまではオレと足がへし折れてる魔術師しかいない」
「使いに出したって……その、今他の連中が受けている護衛の仕事はどうすんだ?」
「その場で契約解除して、帰ってくるに決まってるだろ」
 シーマスのなにげない問いに、ジェフリーは眉を逆立てて答えた。
「そんなこと、雇い主が許すかな」
「許されなかったら、ばっくれて帰ってくるだけだ。雇い主なんかいくらでも代わりはいるけど、仲間は替えがきかねーだろ」
 腕組みしたジェフリーの声が苛立ちにささくれたのは、単純に焦燥の表れかもしれなかった。だがシーマスは、もしかすると自分──そしてルークに対するジェフリーの言外の非難なのかもしれないと感じた。
 同じことをルークが考えたかどうかは分からない。しかしそれまで黙っていた彼は、シーマスたちに向けて、低い声で端然と言った。
「よし、俺たちは先に街道を下って村に行ってみよう」 
 ジェフリーは腕組みを解き、表情を緩めてルークを見やる。
「いや、今すぐじゃなくてもいい。オレたちのとこの戦士たちが戻ったら、一緒に村まで行ってくれないかってことを頼みたかったんだ」
「それじゃ間に合わないかもしれない。あんたが言った通り、万一のことがあれば、仲間は替えがきかないんだ」
 睨めるように見つめ返すルークに対し、ジェフリーは僅かに目を伏せた。微かな悔恨の仕草は、先ほどの彼の発言が、シーマスとルークを決して咎めるつもりが無かったことを述べているように思えた。
「分かった。頼む」ジェフリーはすぐに顔を上げた。「面子が揃ったら、オレたちもすぐに追いかける」
 ルークは力強く頷いた。彼は他の者の意志は確認しなかったが、一人でも村へと赴くつもりだったのだろう。
 しかしシーマスの見た限り、ミクエルもセルヴィスもルークと同じ考えらしかった。無論シーマス自身も同様である。
 面倒をかけてくれるという、女たちの油断に対する僅かな非難は覚えたが、すすんで同じことを繰り返したいわけではない。



 差し込まれたままの鍵が触れ合う小さな音で、エミリーは目覚めた。
 小窓から差し込む残照の欠片は弱々しい。室内は薄闇に包まれていた。
 寝台から身を起こし、素早く立ち上がる。その間にごとりと重い音を立てて錠が外れ、黒光りする分厚い樫の扉が内側に開いた。
 淡い灯火が差し込んだ。明かりを持った二十歳前後の若い男が静かな足取りで室内に入ってくる。拍車のついた重い長靴を受け止めた、古びた板張りの床が軋んだ。
 無意識に体を強張らせ、息を詰めるエミリーの前で、イーノックと名乗った若き領主は相好を崩した。相変わらずその笑みには少しの害意も無い。
「エミリー」
 彼女の名前を呼ぶ声も、親しみに満ちて穏やかだった。
「どうだろう。そろそろ考えを変えてくれただろうか?」
「いいえ」
 これまでと同じく、エミリーは彼を睨みながら首を横に振った。イーノックの顔が僅かに悲しそうに歪む。
「エミリー。もう決断して欲しい。このままでは君は満足に食事も取れないし、外にも出られない。そして君の友人たちもだ」
「こんなところに私や私の友人を閉じ込めておいて、何を考えることができますか。あなた方のおっしゃることは考えます。ですが、私にはこれまで過ごしてきた人生もあるんです。一度、王都に帰してください」  
 賢いエミリーは、イーノックの申し出を頭から拒絶することはしなかった。しかし偽りを吐くことを嫌う彼女は、狡猾に虚言を使って彼を弄することもまたできずにいた。イーノックは子供にそうするように、ゆっくりと何度も首を横に振る。
「それほど私も愚かではないよ。そんなことをすれば、君がここに戻るわけがない」
 エミリーは答えに詰まって沈黙した。肯定することは愚かだし、否定することは偽りだ。こんなときに、自分の口下手が恨めしい。
 視線を外して俯くエミリーに、若者が一歩近づいた。
 彼が腕を伸ばす。下がろうとしたエミリーの膝の裏に、寝台がぶつかった。後退できない。
 彼女の白い柔らかな頬に、イーノックの掌が触れる。その手は硬直する少女の顔を静かに撫で、亜麻色の髪を軽く梳くと、すぐに引っ込められた。
「エミリー」快活だった青年の声が熱く濁る。「こんなことをした私を誤解しているだろう。それが私には悲しいのだ。託宣ゆえにではない。私は君を愛している」
 一瞬も目を逸らさないイーノックの眼差しに縫いとめられ、エミリーもまた彼から目を逸らせなかった。見つめられ、少女の頬は淡い薔薇色に染まる。
 幼い頃から愛らしかった少女は、しかし両親と叔父に大切に守られて育てられた。ルークと出会うまで恋を知らなかったエミリーは、また男性に愛を直接に告げられたこともなかった。
「申し出を了承してもらえないだろうか。君を愛し、敬い、大切にする。掟を破るわけにはいかないが、できる限り君の希望に沿えるようにする。君の友人たちも無事に丁重に王都に帰そう」
 エミリーの心は小さく震えたが、やはり彼女は首を振った。言葉は出なかった。 
 イーノックは目を伏せて溜め息を吐くと、エミリーから目を逸らして呟いた。
「残念だ。もう一晩、考えて欲しい。君の心が変わるまで、私はいくらでも待てるが、君の友人たちもその間、この村に留めおかれるのだ。できる限り丁寧に扱うように兵たちには伝えているが……」
 沈鬱な表情の裏で、男が告げたのは脅しだった。エミリーの胸の中に再び怒りが沸く。
「彼女たちにひどいことをしないで。私は残ってもいいです。でも彼女たちはすぐに帰してあげてください。用があるのは私一人なのでしょう?」
 表情を一変させ、目尻を吊り上げたエミリーの表情は、彼女にしては珍しく怒りを露わにしていた。だがそれもイーノックには、愛らしいとしか映らなかった。追い詰められた小動物が、必死に相手を威嚇している様子さながらだ。
「そうだ。しかし、ことは私一人の問題ではない。村全体に関わってくることなのだよ。しくじるわけにはいかないのだ」
 イーノックはもう一度溜め息を落とすと、痛ましそうにエミリーを見た。
「食事を運んできた。簡素なものだが、許して欲しい。──君が承知してくれれば、すぐにでも食卓で温かい食事を共にできるのだが」
 エミリーは無言で首を振った。
 イーノックは背を向けると、扉を開き、外で待機していたらしい女を招き入れた。彼女は、牛乳とパン、いくつかの木苺を盛った盆を持って、しずしずとエミリーの前に進み出ると、寝台脇の丸椅子の上に盆を置いた。
 エミリーは助けを求めるように女の顔を見たが、終始伏し目がちの彼女は、エミリーを一顧だにしなかった。
「それではエミリー。また明日来よう。ゆっくり休んでくれ」
 イーノックはそう言うと、エミリーの返事も待たずに女を伴って退出した。
 彼の姿と彼が持つ明かりが消えると、外から再び鍵がかかる音がする。
 領主が訪れる前より、室内の闇は深くなっていた。長い日も沈み、もう夜が近い。
 食事を取らずにいれば、衰弱したエミリーを見て、イーノックが哀れみをかけてくれるかもしれない。
 軟禁された当初はそう思ったが、それこそ相手の思う壺だ。体が弱って動けなくなれば、側にいる人間にいいようにされてしまう。
 逃げ出さなければ。恐らく、違う場所に監禁されているプリシラとシャムリーナよりは、エミリーの方が動きやすいはずだ。
 考え直してからは、エミリーは与えられた食事をしっかり取るようにしていた。
 小窓から差し込むのは、淡い星明りだけだ。エミリーはほとんど手探りで探し当てた牛乳の入ったカップを取り、香りを嗅いだ。薬などが混入されている様子はない。
 慎重に舌で味を確かめながら、彼女は虚しい食事をゆっくりと始めた。


 **


 四日前、神殿遺跡に入るまで──正確には、大地母神の像を目にするまでは、今回の旅は順調だった。神殿遺跡の見学を終え、領主に一晩の歓待を受け、興味深く楽しい経験を土産に、無事に帰途につくはずだった。
 あの日、神殿地下の最奥にある秘密めいた小部屋に、巫女頭に先導されてエミリーたちは入っていった。
 大地母神の像とは、もっと巨大なものを想像していたが、エミリーたちの目の前で、燭台の明かりに浮かび上がったのは、彼女たちの背丈とさほど変わらない女性像だった。
 丸いふっくらした顔は、瞳を閉ざし、柔和な笑みをうっすらと浮かべている。全体的に肉付きのいい体は一糸纏わぬ全裸であった。張りのある豊かな乳房、絞ったようにくびれた腰、張り出した桃の実のような臀部は、女性の美をあますところなく湛えている。なだらかに膨らんだ腹は、中年以降の女性の特徴を表しているのかと思ったが、両の手でそこを守るように押さえているところを見ると、子を宿しているのかもしれない。
 誰の手によるものか、非常に造作の細かい彫像だった。緩やかに閉ざされた瞼。肉感的な唇。腰まで覆うような、波打つ長い髪。乳首、爪の先、恥丘に茂る繊毛まで、まるで命を与えられたかのように生々しく刻まれている。
 素晴らしい彫刻だ。だが透明度の低い、赤黒い柘榴石に刻まれたせいか、生々しすぎてどこか不吉な印象すらもたらした。
 私語は禁じられていたので、エミリーは像に向かってただ感嘆の息を吐いた。
 彼女たちは間近で満足いくまで像を見つめた後、部屋を出ようとして巫女頭を振り返った。
 しかし彼女は答えずに、魂を抜かれたように呆然と娘たちを見つめている。その焦点はエミリーに当たっているような気がした。
 何か失礼なことがあっただろうか。
 エミリーは微かに眉を寄せたが、その表情に気づいたように、巫女頭は再び穏やかに微笑むと、無言で退出を促した。


 見学を終えた後、エミリーたちは領主の館に戻った。
 簡素ながら寝台が据えつけられた小部屋を一人ずつ与えられ、プリシラなどは大いにご満悦であった。
 防衛のためか、穿たれたような小さな窓しかない小部屋が暗くなる前に、彼女たちは夕餉の席に招かれた。
 昼間領主と面会した部屋の長テーブルには、ところせましと料理が並べ立てられている。燻製にした豚肉の切り身、新鮮な葉野菜と木の実、香草の香りを放つ煮込み料理、腸詰めと豆類の盛り合わせ。桃と葡萄。驚いたことに、こんな内陸の村では手に入りにくいだろう、魚の燻製まで饗されていた。
 食堂に入るなり、色とりどりの豪華な晩餐を見つめて、エミリーたちは立ち尽くした。
「おいしそう」
 思わず漏らしたのだろう、プリシラの呟きを聞きとめた領主は、温かく微笑んでエミリーたちに席を勧めた。
 テーブルには若い領主とエミリーたちの他、巫女頭と十二、三歳の少女が同席していた。領主のイーノックは、彼女を妹だと紹介した。丸顔の少女は愛らしい顔立ちだが、あまりイーノックとは似ていない。エミリーはてっきり幼い彼の妻かと思っていた。
 エミリーたちはあえて誰も尋ねなかったが、この二十歳ほどにしか見えない若者が領主だということは、彼の両親は既に亡いのだろう。  
 給仕が注いだ葡萄酒も美味であった。エミリーはあまり酒に強い方ではないが、注がれたカップの内側から漂う甘い香りは心地良く、遠慮がちに口に含むと、とても甘かった。
「おいしい」
 エミリー同様、酒に弱いシャムリーナも思わずそう漏らし、彼女たちは珍しくカップの中の葡萄酒を飲み干した。
 プリシラには甘すぎたようだが、彼女には麦酒も提供された。
 一口飲んで、顔を輝かせるプリシラに、イーノックは笑顔で語った。
「北方から取り寄せた、蒸留酒です」
「やっぱり。私、北にいた頃には、お祝いの席で何度か飲んだことがあるのですが、こちらに来てからはなかなか高価で飲めなくて……もう一杯もらっていいですか?」
「もちろん、どうぞ」
 丁寧とは言えない口調で、ちゃっかりしたことを頼むプリシラに、イーノックは気を悪くした様子もなく鷹揚に答え、給仕に酒を注がせた。苦味のある、しかし甘いような濃厚な匂いが、エミリーの鼻腔にも漂ってきた。
 豪華な料理のいくつかは、王都や別の都市から取り寄せた物であるらしい。領主は料理について話し、エミリーたちは王都の最近の動向や流行り廃りなどについて語った。領主の幼い妹や、巫女頭は微笑みながら話を聞いている。賑やかで楽しい夕食であった。
 しかし魔術師であるとはいえ、一介の旅人たちを領主がここまで遇する理由を、三人の娘たちは、誰も考えようとはしなかった。


 食事を終えると、酒壷と杯を残し、全ての皿が下げられた。食べきれないと思われた料理であるが、彼女たちは──特にプリシラが──旺盛な食欲を見せて、全て平らげられた。
 給仕たちが退出すると共に、領主もエミリーたちに一言断り、巫女頭と妹姫を連れて席を外した。
 酔いもほどよく回り、いい気分でちびちびと甘い酒を舐めていたエミリーの隣で、プリシラが囁いた。
「ねえねえ、あの領主、独身かな。ちょっと感じいいじゃない? いい男だし、優しそうだし。ここもビンボウ村でもないみたいだし」
「そうだよね~」
 頬を赤く染めたシャムリーナも、大きく頷く。
 エミリーにはよく分からなかった。好印象の男性であることは間違いないが、今のところはそれだけだ。
 思えばルークも、出会った時は同じような印象しかなかったのに、いつの間にそれが変質していったのだろう。
 プリシラとシャムリーナが、彼について小声で話している内、再び扉が開き、領主と巫女頭が入ってきた。
 彼ら二人は座につかず、顔を上げた娘たちを立ったまま見下ろした。つい先ほどまで親しみやすく、柔らかかった巫女頭の表情が変じている。口元は穏やかに微笑んでいたが、どこかそこには厳しさが漂い、目はまったく笑っていなかった。
 そんな面差しをどこかで見たような気がするとエミリーは思った。
「エミリー様」
 彼女がまっすぐにエミリーを見つめ、凛とした声音で呼ばわった時、巫女頭が誰に似ているか思い当たった。赤い、柘榴石でできた大地母神の像だ。   
「どうぞお聞き届け下さい。神託が下りました」
 神託。その言葉は食事中の会話にも出てこず、意味はさっぱり分からなかったが、ほろ酔い気分の女たちは、巫女頭の端然とした雰囲気に呑まれたように、黙って続きを待った。
「あなた様こそが、我らが主の花嫁にして、母神の家の新たなる長、そして新たなる守人の産み手であると、大地母神は仰せになったのです」

 ちんぷんかんぷんとはこのことだろう。エミリーにも、他の二人の娘たちにも、巫女頭の言っていることは、同じ言語を使っていながら全く理解不能だった。
「エミリー殿」巫女頭の言葉を補足するように、イーノックが口を開いた。「俄かには受け入れがたいだろうが、君は大地母神に選ばれたのだ。この村の次代の主、あの古き神殿の守護者の母、つまり私の妻としてだ」
 三人娘たちはまだぽかんとしていた。
「何のお話でしょう?」
 最初に答えたのは、シャムリーナだった。いい加減に酒が回っているプリシラは、まだ眉を顰めて、しきりに首を傾げている。
「この聖なる村では、主であるご領主様の伴侶は、大地母神の神託によって代々決まるのです」
 シャムリーナに答えた巫女頭の表情は、再び昼間のように、穏やかなものに戻っていた。
「昼間、女神様の像にご拝謁した際、私に確かな託宣が下りました。大地母神はあなた様を次代の母であるとおっしゃいました」
 徐々にエミリーも酔いから冷めた。イーノックと巫女頭の表情は真剣そのものだ。冗談や余興ではなさそうである。
 しかしエミリー自身は、像の前に立った際にも、何も感じなかった。ただ彫像の造りについて感嘆を覚えただけだ。本人が全く分からないところで、神のお告げがあったと言われても、簡単には信じられない。
「ちょっと待ってください」
 同じく、いささか酔いから冷めたらしいプリシラが口を開く。
「このエミリーが、ご領主様と結婚するってことですか?」
「左様でございます」
 巫女頭は重々しく頷いた。
 プリシラとシャムリーナがエミリーの顔を見る。
 そうだ。問題にされているのはエミリーなのだ。彼女たちが自分の気持ちを代弁してくれるのを待っていてはいけない。自ら答えなければ。
 しかしエミリーを見つめる巫女頭の視線は、妙な威圧感を持っていた。それは母が子に注ぐ視線に似ている。それをはねのけるように、エミリーは腹に力を入れて口を開いた。
「急におっしゃられても、すぐにはお答えできません。明日は予定通り、王都に戻りますので、日を改めて使いを送っていただけませんか」
「これは神託です」小太りの巫女頭の声が冴え冴えと響いた。「あなた様に選ぶことは許されていません。たった今より、婚儀の準備に入っていただきます」
「ちょっと」
 彼女の高圧的な物言いに、プリシラが口を挟んだ。
「神託だから、いきなり初対面の男と結婚しろなんて言われて、引き受けられると思う?」
「申し上げましたように、エミリー様にお断りすることはできません。遥か昔、この王国が誕生するより前から、この地で行われてきたことなのです。村の主は神託が下った娘を娶らなければなりません」
 巫女頭はプリシラに対しては、表情をやや緩めて答える。しかし女戦士はさらに険しい眼差しを返した。
「昔から行われてきたことだからって言われても、あたしたちには納得できないんだけど。そうしないとどうなるのよ」
「村、ひいては王都を含めたこの近辺の地は、大地母神の加護を失うでしょう」
「だからって、女神様に選ばれた女が犠牲にならなけりゃいけないわけ?」
「誤解しないでください。決してエミリー様にご不便な思いはさせません。領主の妻として村人に敬われ、大切にされ、飢えることも、身を粉にして働くこともありません。跡継ぎとなる御子をお産みになった後は、私の跡を継ぎ、村の主の母、神殿の主として引き続き大切にされることでしょう」
 エミリーは彼女の言葉を聞いて初めて、巫女頭である女がイーノックの母であると知った。道理で教養も礼儀も備えているはずだ。先代の領主夫人なのだ。
「でも、当然ずっとここにいなければならないんでしょ」
「左様です」
 プリシラの問いに、巫女頭は鹿爪らしく頷いたが、隣に佇むイーノックは首を横に振った。
「この村に幽閉するわけではない。あくまで私の妻という地位だ。望むのなら、王都なりどこへでも、私の連れ合いとして出かけることはできる」
 領主の声は理知的だった。狂気や妄想に取り付かれているわけではないようだ。
 エミリーは一旦、彼らの申し出を考えてみた。
 いや、やはりありえない。
 イーノックには良い印象を持っているが、それ以上でもそれ以下でもない。生涯の伴侶とするほどの好意も魅力も感じない。
 働かずに、飢えることもない。村人から大切にされ、敬われる。
 今までのように、仕事仲間に気を遣い、シーマスに役立たずと怒鳴られ、時には痛みや苦しみと戦いながら、金を稼ぐ必要がない。
 だがそれでも、イーノックの妻となることなど、まだこの世界の広さのごくごく一部しか垣間見ていない身で、小さな村の母の座に納まる気になどなれなかった。
 何より、どんな安逸な将来が約束されていたところで、そこにルークが全く介在しないことは、今のエミリーには考えることができない。自分の手で、明日からの人生から彼を切り離してしまうことなど、できはしない。
「考えることができないなら、お断りします」
 エミリーはイーノックを見つめ返し、きっぱりと告げた。
 彼はいくらか張り詰めていた顔を緩ませ、僅かに悲しみを覗かせたが、若者より先に巫女頭が声を上げた。
「私の娘。断ることはできないと言ったはずですよ。──お入りなさい!」
 鋭く跳ね上がった彼女の声に応えるように、食堂の扉が開いて体格のいい男たちが数人踏み込んできた。全員革の鎧を身につけ、帯剣している。村の衛兵のようだ。小さな村では、農民たちが番兵も兼ねることが多いが、体つきや装備からして、彼らは王都にいる職業兵士と同様、訓練を積んだ兵に見えた。
 プリシラが椅子を蹴るようにして立ち上がる。シャムリーナとエミリーも続いて立ち上がり、身構えた。
 だが近づく男に対して、エミリーは身を守る術がない。護身用の短剣は、部屋に置いてきてしまった。まさか食事に危険が伴うなどと、考えてもいなかった。
「シャミー、エミリー、下がんな」
 傭兵であったプリシラは、長剣こそ持ち込んでいなかったものの、腰にはしっかりと短剣を佩いていた。右手でそれを抜きながら、彼女は左手一本で椅子を掴み、一番最初に近づいてきた兵に投げつけた。
 椅子が除けようとした兵の右腕にぶつかり、男は呻きを上げる。
 しかし椅子を投げたプリシラの方も、大きく体をぐらつかせた。楡でできた椅子が重すぎて、体の均衡を崩したのだろうか。あるいは酔いが回っているのかもしれない。
「やめたまえ。短剣をしまうのだ。我々も君たちを傷つけたくはない」
 イーノックの冷静な声が響く。
「うるせーよ。あたしたちに命令すんな」
 強気に言い返したプリシラの語尾が崩れる。彼女は後ろに踏鞴を踏んだ。
 プリシラ。
 酔いがひどいらしい彼女を支えようと、踏み出そうとしたエミリーは、自分の膝ががくりと崩れるのに気づいた。
(嘘……私、そんなに飲んでいないのに)
「やだ、エミリー」
 シャムリーナの悲鳴に近い声が遠くで聞こえる。床に両手をついたエミリーの目の前で、同じく膝をついたプリシラの腕を男たちが捉えるのが見えた。
「くそ……さわんな……!」
 プリシラの罵声も弱々しい。そして彼女の後姿が暗く翳り始めた。
(薬だ……)
 いくらなんでも、葡萄酒を少量しか飲んでいないエミリーに、こんな酔いが回ることはないはずだ。食事か酒に薬が混ぜてあったのだ。最初から有無を言わせず、エミリーたちを捕える気だったのだ。
 ほとんど効かない視界の中、床を蹴立てるようにして、男たちの足音が近づく。イーノックが何ごとか、声高に男たちに命じている。シャムリーナの悲鳴が聞こえた気がしたが、それも壁を隔てたように遠い。
 倒れてはだめだ。帰らなければ。王都にいる仲間たちが心配する。私が帰るべきところ。ルークたちが待っている場所に。
 だがエミリーの意識は、下りてきた赤黒い幕に覆われて閉ざされた。柘榴の実のような不吉で生々しい、なのに何故か安らぐような闇に。

   
一応、全五~六回の予定です。
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