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#15
#15

「ええい、クソッ」
静馬はいらだちをぶつけるように、診療所の庭に作ったお手製ゴールリングめがけ、バスケットボールを投げつけた。
ボールはリングに当たって鈍い音を立てると、地面に転がった。
それを拾い上げたのは、響だった。
「落ち着けよ。あの男が本当に十三年前の事件に関わっていたかどうか、分からないだろうが」
「それはそうだけど・・・」
落ち着いて考えてみれば、そうなのだ。
そうであればいい――という願望が、静馬の中で現実感を持ってしまっただけなのだ。
あの事件のこととなると、冷静さを失ってしまうことは自分でも分かってる。
「・・・バスケ、好きなんだな」
響が投げてよこしたボールを受け取って、静馬は頷いた。
「ああ。これでも、中学ではけっこうならしたんだぜ」
「高校では続けなかったのか?」
「入ったことは入ったんだけどな、バスケ部。
先輩ぶっとばして退部。
向こうがケンカ売ってきたのによ。
口惜しくて口惜しくて・・・それで荒れたら、すっかり不良扱いでさ。
学校にも行かなくなっちまったよ。
レンから聞いたろ?」
「ああ」
「他にも家のこととか色々あって、すっかりグレちまったけどさあ・・・それでも、バスケには未練があってよ。
やりたかったんだ、本当は。
だから、あの日、『ワンオンワンやろう』って言われたときは嬉しかった。
あの日のことは今でも覚えてる」
「あの日?」
この十三年間、忘れたことなどない。
あの事件のことを忘れることなどできなかった。
なぜならオレは――
「十三年前にあった『教会殺人事件』・・・あの事件が起こる前日、オレは、殺された少年と約束をしてたんだ」
庭に立てた棒に付けられたリングに向かって、静馬はシュートを放った。
綺麗な放物線を描いて、ボールはリングをくぐった。
十三年前と同じように。
「十三年前、あの教会でキョーヤは子供たちにバスケを教えてた。
シュートが外れて飛んできたボールをリングに入れてやったら、あいつが声をかけてきたんだ。
『バスケやってたのか』と。
キョーヤはオレを誘ってくれた。
『ワンオンワン、やろうぜ!』って。
『明日もここでやってるから必ず来い。待ってるから』ってな。
嬉しくて嬉しくて・・・オレは翌朝、あの教会に行った。
ああ、バスケができる。あいつとバスケができるって喜び勇んで。
まさか、あの夜、あんな恐ろしいことが起こってたなんて知らずに」
静馬は目を細めた。遠い記憶を辿るように。
「キョーヤはチビだったけど、すごいジャンプ力で、ダンクを決めようと飛ぶ姿はまるで羽根が生えているのかと思ったくらいだ。
そして、綺麗な目をした奴だった。
天使がいるとしたら、こんな姿をしているに違いない。
オレはそう思ったもんだ。
どうして、あいつが死ななきゃならない?
何も悪いことなどしていないのに。
十三年前、たった一度言葉を交わしただけの奴だけど、忘れることなどできなかった。
『ワンオンワンやろう』――あの日の約束を」
連日テレビや雑誌で報道されて、当時は日本中でこの事件を知らない者はなかっただろう。
メディアの過熱ぶりが冷めていっても、数年間は、無残な死を悼み訪れる者たちの姿を見かけたものだった。
それでも時が経つにつれ、その姿は減っていき、そのうち誰も訪れなくなった。
だが静馬は、今でも祥月命日には必ず花を供えに、あの教会を訪ねる。
あの少年の無念を決して忘れないために。
いつか必ず、犯人を見つけてやると心に誓いながら。
それなのに。
「未だに犯人の手がかりも掴めない。
オレは天国のあいつに、何て謝ったらいいんだ・・・!!」
「・・・お前はあの頃から背高かったよな。
あれだけタッパがあれば、ゴール下でも当たり負けしない。
飛んだり跳ねたりしなくても、ゴールリングにボールを持っていける。
羨ましかったよ。
おれがジャンプしてようやく届くところに、お前は手を伸ばせば届くんだから」
「・・・え?」
静馬が驚いて顔を上げた隙をついて、響がその手からボールを奪った。
「お前と勝負したいと思った。
シャクだったって気持ちもあったけど・・・
何より、お前の目が本当にバスケをしたそうにしてたから。
こいつとやったら楽しいだろうなって思った」
響はボールを放った。
綺麗なシュートフォームだった。
ボールは無音でリングに吸い込まれていった。
――まさか。
静馬の背筋がぞくりとした。
「・・・おれだって、信じてた。
明日は、あの少年と一緒にワンオンワンをやるんだって。
昨日、今日、明日と、このまま未来が続いていくのだと、信じて疑わなかった」
「・・・響」
静馬は、若い刑事の顔を凝視した。
恐ろしい予感にうち震えながら。
「あの頃は、何も知らなかった。
この胸を焼く憎しみも。
この身を引き裂く悲しみも。
帰りたい。何も知らなかったあの頃に・・・!」
闇を孕んだ瞳から、一粒、涙がこぼれ落ちた。
「響、お前・・・キョーヤ・・・!?」
静馬は叫ばすにはいられなかった。
若い刑事は静かに微笑んでいる。
その微笑みには確かに見覚えがあった。
静馬は愕然として、十三年前と変わらない微笑を見つめた。
「でも、戻ることはできない。
時を巻き戻すことは、できないのだから。
おれにできることは、ただ一つ。
歪められた時間を終わらせることだけだ」
「・・・ダメだ」
静馬は必死に腕を伸ばした。
だが、響の痩せた体はするりとそれをかわす。
「あれからもう十三年も経つというのに・・・
今でも、おれのことを覚えてくれている奴がいた。
嬉しかった。
この時のために、おれは今まで生きてきたのかもしれない――
お前のおかげで、一瞬でもそう思うことができた。
ありがとう」
差し伸べられた腕をかわしながら響は、そっと静馬の肩を抱いた。
「行くな!!」
静馬は咄嗟に痩せた体を捕まえようとしたが、一瞬遅かった。
どん、と突き飛ばされ、その場によろめく。
その隙に、響は庭から飛び出していった。
辛うじてその場に踏ん張った静馬も、体勢を立て直して駆け出した。
華奢な後ろ姿が、車道を横切っていくのが見える。
「響!」
その後を追おうとしたが、近付いてくる車に気付いた。
激しく鳴らされるクラクションの中で、響の姿は車の間に見えなくなった。


十三年前のあの夜。
地獄の使者は、教会に現れた。
自ら「殺し屋」だと名乗り、虫けらを殺すように無造作に母を撃った。
床に倒れ、頭から血を流している母の目は、ガラス玉のように、祭壇の十字架を映していた。
苦しむ間もなくあの世に行けた母は、幸せだったのかもしれない。
悪魔は、母を襲った銃口を、今度は父に向けた。
理解を超えた突然の出来事に、父は青ざめていた。
それでも、父は気丈だった。
なぜ自分たちを殺そうとするのか?と尋ねた父に、殺し屋は、理由など知らないと答えた。
自分はただの殺し屋。
依頼された仕事をこなすだけだと。
「それに、神父には個人的に恨みもあるしな」
殺し屋はそう言って笑った。
その瞳は、血の通った人のものじゃない。死神のもの。
命乞いなどしても、無駄。
そう思わせるのに十分なほどに、冷ややかだった。
それでも、
「息子だけは助けてくれ」
父は、地獄の使者に懇願した。
たった十五年しか生きていない少年から、無限の未来を奪わないでくれと。
殺し屋は、恐怖のあまり口も聞けずにいる少年に目を向けた。
「可愛いな」
悪魔は、少年を抱き寄せると、その口に銃口をねじこんだ。
人の命を奪う道具の重く固い鋼鉄の感触に、少年はがたがたと身を震わせた。
「その台の上に寝ろ」
少年は、悪魔の言葉に従うしかなかった。
悪魔の人差し指は、しっかりと引き金にかけられているのだ。
教会の祭壇の上に横たわると、悪魔の肩越しに、十字架にかけられた瀕死のキリストが見えた。
悪魔と神が少年を見つめている。
「下着を下ろせ」
咄嗟に悪魔の命令を理解できず、少年は悪魔の顔を見た。
悪魔は少年を促すように、そのベルトを指でこずいた。
下半身を出せ、と言っているのだ。
思わず、少年は首を横に振った。
そんな恥ずかしいマネ、できるわけがない。
グン、と銃口が喉の奥まで押し込まれた。
少年はむせたが、銃を咥えさせられているために、息が満足にできない。
涙がぼろぼろと流れた。
少年はベルトを外し、ジーパンごと下着を下ろした。
「何をする!」
と叫んだ父に、悪魔は穏やかに微笑みながら言った。
「可愛い息子の命が大事なら、動かない方がいいよ、神父さま」
そうして、悪魔は祭壇に上がり、
「足を開け」
と命じた。
仰向けに横たわる少年の膝の間に体を入れ、悪魔は笑みを浮かべた。
少年がぞっとして、その身を引こうとした時だった。
その時の衝撃をどう表現したらいいのだろう。
少年は声にならない悲鳴を上げて、全身を弓なりに反らせた。
見開いた目から涙がとめどなく流れる。
痛い。苦しい。おぞましい。
いろんな感情がごちゃ混ぜになって、頭の中は真っ白にとんだ。
その間も、下半身は、焼けた鉄棒に貫かれたような激痛に苛まれている。
「力を抜け。余計に辛くなる」
悪魔が言った。
涙で視界がぼやけてはいるが、自分を犯している悪魔の姿は見える。
悪魔は相変わらず銃口を少年に咥えさせたまま、器用に腰をくねらせた。
「んふ・・・っ」
少年は思わず息を漏らした。体の奥がヘンだ。
ぞわぞわと背筋を這いのぼる、何か、名状しがたいもの。
痛い、苦しいのは、変わりない。
しかしその中に、少年の知らない何か別の感覚が生まれようとしている。
――恐ろしい。
体を引き裂かれる痛みよりも、未知の感覚が自分の中で生まれようとしていることの方が、少年には恐ろしく感じられた。
彼はこの年、高校に入ったばかりだった。
そのくらいの年代の男の子たちの頭の中を占めているものと言えば、決まってる。
だが、そんな同い年の男の子たちに比べて、彼はそのテの興味が薄かった。
女の子に告白されたこともあるし、バレンタインデーともなれば、一人では食べきれないほどのチョコレートをもらったこともある。
それでも彼はまだ、女の子とキスをしたこともなく、手を握ったことすらなかった。
少年にとっては、可愛い女の子と付き合うよりも、気の置けない仲間たちとバスケに熱中している方が楽しかったのだ。
自分はそういう性格なんだと、彼は思っていた。
いや、思おうとしていたんだ。
そういうことは良くないこと。
考えてはいけないこと。
何かの時に――例えば、自転車をこいでいる時、股間がこすれてヘンな感じがしたりしても、それはいけないことなんだから、なかったことにしなければならない。
宗教者である父を持ち、厳格な家庭に育った彼にとって、それは決して許されない、いけないことなのだ。
「よし、いい子だ。感じるようだな」
悪魔が体を揺すると、体の奥がじんわりと痺れる。
「はぁ・・・」
だらしない声が自分の口から漏れていることに、少年は愕然とした。
――助けて、神様。
悪魔の肩越しに見えるイエス・キリストに祈った。
厳格なクリスチャンの子として生まれ、物心ついた時からミサには参列してきた。
十字架の前で膝まずき、祈りを捧げた回数は、数え切れない。
それでも、こんなに一生懸命に祈ったのは生まれて初めてだ。
――神様!
声にならない声で、少年は叫んだ。
もう我慢できない。
彼の意志に反して、体は未知の喜びを迎えようとしている。
「いけ」
目の前の悪魔が、にたりと笑った。
悪魔の狡猾な表情に比べて、教会の壁面に埋められた神の貧弱さはどうだ。
「あああ・・・!!」
少年の股間で固く立ち上がった彼の分身は、歓喜の涙を迸らせた。
自分でも戸惑うほどに溢れ続け、少年の下半身を、そして結合している悪魔の下半身をぐっしょりと濡らす。
「元気なもんだな」
悪魔が笑って、教会の壁面を見上げている。
見れば、十字架に磔にされたキリストの顔に、白濁した液体がかかっている。
少年はたまらず、顔を背けた。
「いい締まり具合いだったぜ」
悪魔は体を引き、少年の中から出て行った。
少年はぐったりと脱力した。
股間の分身も、萎えている。
それでも、悪魔の指が少年の後方を撫でると、彼の分身はねだるように硬さを増し、立ち上がってきた。
そんなこと、彼は望んではいないのに。
「まだ足りないか。淫乱な坊やだな」
悪魔の嘲笑に、父の顔が青ざめているのが見える。
少年に向けられている父の目。
父親が息子を見る眼差しとは思えない、軽蔑に満ちた視線。
――違うんだ、父さん!
そう叫びたかった。
だが、少年の後門に差し入れられ這い回る悪魔の指に、
「はぁん・・・っ」
という、女みたいな喘ぎ声しか出ない。
銃口を咥えさせられたまま、少年は体をくねらせた。
「息子を離せ。
そんな辱めを受ける謂れはない」
父が声を荒げた。
そんな父の姿を見たのは初めてだ。
少年の知る父はどんな時も穏やかで、怒りを露わにしたことがなく、さすがは宗教者だと人々から尊敬を集めていたものだ。
体の中で駆け巡る熱の奔流に苦しめられながらも、少年は父と殺し屋を見上げた。
「坊やが感じすぎるのさ。
だいぶ具合いがいいらしい」
ちがう!
叫びたくて、咥えさせられた銃口をはずそうと首を振った。
だが、悪魔は容赦なかった。
「ひ・・・っ」
衝撃に、少年は体を仰け反らせた。
悪魔の指が少年の辛いところを探し当てたのだ。
「あっ・・・はっ・・・」
体の芯から湧きあがる欲情を必死に堪えようと、体をエビのように丸めた少年の体を抱きかかえながら、悪魔は神父に笑いかけた。
「『女と寝るように、男と寝てはならない』・・・
あんたたちにとっちゃ、同性愛は罪なんだよな。
神様はきっと、ホモだったんだな。
だから、禁じたんだ。
快楽を独り占めするために」
「なんという罰当たりなことを」
眉をひそめる父に、悪魔の目が冷たく輝いた。
「・・・それが自分の息子を見る目か。
道端に落ちてる犬の糞でも見るのと変わりゃしねえ。
ジョシュアが死を選んだわけが分かったよ」
「ジョシュア?」
唐突な言葉に、父は怪訝そうな顔をする。
「ジョシュアってのは、俺の幼馴じみでな。
神学校を出たばかりの神父だった。
そして、俺にこうされるたびに、恥知らずな声を上げ、よがり狂った・・・今の坊やと同じように。
思い出してしまったよ」
くすくすと悪魔は笑った。
「神父には個人的に恨みがある、と言っただろ?」
少年を抱き、その身を玩びながら、興に乗った悪魔は神父に語り始めた。


・・・ジョシュアは、大昔、香港がイギリスの植民地になった頃にイギリスから渡ってきた一族の末裔で、生まれは香港だったが生粋の白人だった。
だが、両親を幼くして亡くした奴は、老神父に引き取られ、親代わりにして育った。
その神父が引き取っていた、身寄りのない子供たちと一緒にな。
その中に、俺もいた。
俺たちはガキの頃から一緒に育った幼なじみってわけだ。
俺たちは年は同じだったが、正反対。
奴は敬虔なクリスチャンに育ち、自分を育ててくれた老神父を手伝うべく、神父になった。
奴のことを聞かれれば、町中の誰もが、天使のようにいい奴だと口を揃えたものだ。
俺はガキの頃から手のつけられない悪ガキで、少年院を出たり入ったりしていたけどな。
町のまともな連中は、俺のようなクズのことなど、存在しないかのように振る舞った。
だが、ジョシュアだけは違った。
俺が警察の留置所にお世話になる羽目になったときには、着替えやら何やら身の回りのものを差し入れに来たりして。
人は、ジョシュアは天使のように優しいから、と言ったもんだが、俺はそんなのは信じなかった。
あれは、天使の優しさなんかじゃない。
可愛いが愚かな、ヤクザの情婦の甲斐甲斐しさだ。
だから、俺は言ってやった。
「お前、ホモだろう」ってな。
ちょっとからかってみただけなのに、あいつはたちまち真っ青になってな。
それはそうだ。
あいつは神父。
同性愛は罪だと言われて育てられてきた。
それは、この町に暮らす普通の人たちたちにとっても同じこと。
そんなこと、たとえ真実でなくても噂になっただけでも、白い目で見られる。
この町にはいられなくなるだろう。
ところが、あいつは自分の性癖を認めたんだ。
俺のことが好きなのだと。
地獄に落ちたとしても構わない。
それが自分の真実の姿なのだから。
そう、開き直りやがった。
俺はホモじゃない。女の方が好きだ。
でも、あれだけ けなげに懐かれりゃあ情もわくってもの。
便利だったしな。
尽くしてくれるし、いつでもやらせてくれるし、上手いし、後の始末の心配もない。
始めこそ、俺が誘ってもなんだかんだ理由つけて拒もうとするんだが、ムリヤリにでも始めてしまえば、こっちが辟易するほどに求めよがり狂う。
それでも事が済むと、自分のしていることの罪深さに恐れおののく。
ジョシュアは俺を諦めることもできず、自分の生きてきた世界を捨てることもできなかった。
俺とのことがバレないように、ジョシュアはずいぶん注意して暮らしていたが、やっぱり秘密にするのには限界があった。
ある日、俺たちのことが教会の老神父にバレた。
老神父には、息子のように愛し育ててきたジョシュアの性癖を認め、許すことなどできなかった。
それからすぐのことだ。ジョシュアが自らの命を断ったのは。
事の顛末を知った俺は神父を殺し、故郷を出た。
「・・・だから、神父さま、つい、あんたをからかいたくなっちまったんだよ。
あんたは、あの老神父じゃない。
だけど、あの老神父がジョシュアを見るのと同じ目をしてたから」
殺し屋は、優しく微笑んだ。
「心配いらないよ、神父さま。
あんたの言う通り、この坊やはまだ子供。
この世の本当の姿も何もかも、まだ知らないうちに殺されたんじゃ、あまりに可哀想だ。
坊やの命だけは助けてやる。
そして、オレが責任持って教えてやろう。
この世の真実を。
立派に教育してやるよ。
だから、息子のことは心配しないで、あんたたちは安心してあの世に旅立つがいい」
悪魔は、父の額に銃口を向け、引き金を引いた。
父の体は、朽木のように床に倒れた。
床に真っ赤な血が一筋流れ、河となった。
「坊や、名前は?」
悪魔に問われて、少年は答えた。
「・・・日比木ひびき・・・響也きょうや・・・」
「ヒビキ、か。
オレのことは、ニコと呼ぶがいい」

そう。
その時までは知らなかった。
本当の怒りも。本当の憎しみも。本当の悲しみも。
何も知らなかった。
悪魔は、聖書の中にいるのではなく、人の心の中にいることも。
地獄とは、物語の中にあるのではなく、この世そのものであるということも。
十三年前のあの夜に地獄の洗礼を受け、おれは初めて知ったのだ。


焼け落ちた教会の跡。
そこに佇む、影法師。
「・・・きっとここに来ると思ったよ」
影が立ち上がると、表通りのネオンにその顔が照らされた。
「あの時の坊やか・・・立派になったな」
殺し屋は響を見て、まるで甥っ子の成長を喜ぶ親戚のような屈託のない笑みを浮かべた。
響の記憶の中にある殺し屋の姿は、まだ三十そこそこの、若さが漲っていたものだったが、十三年の月日が彼に年齢相応の落ち着きを与えていた。
だが、その笑い方は、十三年前と変わっていない。
この殺し屋を最後に見たのは、両親を殺され、少年の響が会員制の秘密クラブに売られてから数ヶ月ほどした頃だった。
「客のアソコを食いちぎろうとしたんだって?」
殺し屋は、その手で地獄に叩き落とした少年に会いに、秘密クラブに現れたのだ。
店で男に奉仕することを強要され、必死に抵抗していた響を見て、殺し屋は楽しそうに笑ったものだ。
「坊や、お前はなかなか見込みのある奴だ。
復讐したいと思うなら、チャンスをやろう。
お前に上客を紹介してやる。
元・警察官僚の政治家だ。
美少年をいたぶるのが好きな変態サディストだが、気に入られれば、お前は強力な後ろ盾を手にできる。
お前の運が強ければ、両親の仇を討てるかもな」
それが、殺し屋の顔を見た最後だった。
それから、十三年。
ようやくこの時がやってきた。
両親の命を奪い、自分を生き地獄に叩き落してくれた、憎んでも憎み足りない男。
ニコラス・ウォン。
「見込みのある坊やだとは思っていたが・・・まさか本当にオレの前に現れるとは。
それも、刑事になって。
あの時紹介した上客をうまく利用したようだな。
坊やを助けてやった甲斐があったというものだ。
本当は、家族全員皆殺しにしろという依頼だったんだけどな。
だが、おかげで、人生の最期にこんなに楽しませてもらえる」
殺し屋はにこやかに微笑んでいた。
それを見つめる響の顔は、仮面のように無表情だった。
「・・・十三年前のあの夜、お前は、家族全員皆殺しにするつもりだったのに、おれだけ殺さなかった。
行き倒れのホームレスの死体を持ってきて、教会に火を放ち、全員殺したように見せかけた。
わざわざそこまで手間をかけたのは、別におれに同情したからじゃない。
お前は、神父という人種を憎んでた。
ゲイだったお前の幼なじみが死んだのは、神父のせいだと思ってるから。
おれを玩ぶだけ玩んで殺さなかったのは、おれの父への当て付け。
神父であるおれの父への嫌がらせのために、おれを殺さず、もっとも苦しむ方法を選んだんだ。
だが、それがお前の命取り。
十三年前のあの日、おれを殺しておかなかったことを後悔させてやる。
よくも両親を殺し、おれの運命を歪めてくれたな・・・!!」
響は銃を掴み、目の前の悪魔に向けた。
だが、殺し屋は相変わらずにこやかに微笑んでいた。
しかも、思いもかけない言葉を投げかけてきた。
「何を言う。
お前は、オレに感謝すべきだ。
オレは、お前を閉じ込めている檻の中から解放してやったんだからな」
「なんだと?」
(最終話へつづく)