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いよいよ母親との愛憎の核心へ―――それを示唆するあるローマ皇帝とその母親のエピソード。
第14話 アグリッピナ
「―――今日は少しお母さんの話をしようか」
 よく晴れた秋の午後だった。
 いくぶん汗ばむほどの陽気に、向坂は鉄柵のついた南向きの窓を七分ほど開け、外からの風を招きいれた。
 少年は相変わらず無表情だった。母親の話をする時はなおさらに。
「ま、こういう言い方もあれなんだが」
 そう前置きしてから、向坂は少年に母親の写真を示して訊いた。
「ずいぶんときれいな(ひと)だね、君のお母さん」
 病院のエントランスに立ち、白衣を着て微笑む美しい女医の写真―――その穏やかな表情。
 小洒落てスマートな眼鏡が、知的な印象を一層際立たせていた。
「……さあ」
 少年は短く答えた。
「それだけじゃない」
 向坂は続けた。
「お母さんは内科医として市内の病院に勤務、患者からの評判もよかった―――とても魅力的な女性だ」
 美しい……いや、美しすぎた。
 抗いがたいほどの魅力、とても言葉で説明できる種類のものではない―――
 自然と愛しさがこみ上げる。
 その傍らに仕え、ずっと見続けていたいと思うほど―――
 男の一生を捧げて有り余るほどの高貴な花、神秘の薔薇―――それだけの値打ちが、彼女にはあった。
 向坂は結論づけるように言った。
「だから君は、そんなお母さんと関係をもちたいと思った―――理屈としてはそういうことになるね」
「じゃあ、質問ですが」
 少年は切り返した。
「それほどまでに愛する母を、なぜ僕が殺さなければならないんです?」
「君はネロを知っているかね?」
 向坂は出し抜けに訊いた。
「ネロ?」
 少年の眉が動いた。
「ローマ帝国五代皇帝ネロ・クラウディウス・カエサル・ドゥルスス・ゲルマニクス、その治世の前半は名君、後半は暴君―――」
「なるほど、愚問だったね。君の世界史の評定は十段階中の10―――」
 向坂は少年の答えに満足げに頷いた。
「ネロは後期ストア派の哲学者セネカを師とし、元老院を重んじ、名君としてその治世の幕を開けた。その彼がどうして暴君へと変貌したのか―――」
 向坂は少年を試すようにして目を向けた。
「帝位についてから五年後、彼は自分を皇帝の座につけた母親を殺した―――それからネロはおかしくなった」
 少年はよどみなく答えた。
「そう」
 向坂は頷いた。
「ネロは母親のアグリッピナから溺愛されて育った。ところが、二十歳で結婚したのを機に、ネロは次第に母親を遠ざけるようになった」
 次第に重なる二組の母子像―――ネロとアグリッピナ、そして少年とその母親―――
「息子が離れてゆくのを怖れたアグリッピナは、自らのカラダをわが子に与え、ネロを篭絡しようとした。そんな母親との近親相姦が、彼を狂気へと追いやった」
 少年の表情が次第にこわばってゆくのが、手にとるようにわかった。
 これは歴史上の暴君の物語などではない。そう、少年の、彼自身の物語だったのだ。
「タキトゥスの『年代記』にあるこのエピソードをもとに、南博という分析家が提唱したのが『アグリッピナ・コンプレックス』だ」
 前振りを終え、核心に入ろうとする向坂―――
 今や荘厳なローマの宮殿は眼前から消え失せた。
 あるのは、あの美しい女医と、少女とまごう華奢な少年の異常ともいえる親密な接触―――その生の光景。
 向坂は続けた。
「アグリッピナ・コンプレックスは母親による息子への性的虐待を意味している。その記憶がトラウマとなって、自我が暴走を始める」
 少年の首筋に触れ、耳元に唇を近づける母親―――どこまでも美しい清らかな薔薇。
「母親殺しと近親相姦がペアになっている場合、このアグリッピナ・コンプレックスが背景にあると考えられる。君にもなんとなく覚えがあるんじゃないのかな?」
 向坂は訊いた。
「お母さんから性器を触られたり、必要以上に過保護、過干渉にされたり―――。ちがうかな、羽田野圭吾くん?」
 少年は明らかに不快な表情で向坂の前に座っていた。

 屈辱と敵意とが、黒目がちな瞳の奥にくすぶっていた。

                                     第14話 終
美しい母親からの愛撫―――次回、少年の生々しい性の告白。

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