ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
警告   この作品は<R-18>です。 18歳未満の方は移動してください。
  鏡のかけら 作者:asami
6・甘え
 数時間後、真理谷は香津美のバーにいた。
重いため息をつきながら。
「女の子にかじられたって? 馬鹿ね」
 真理谷の右腕に、まだ赤々と歯型がついていた。それを見て、バーテンダーの香津美がくすくすと笑い続ける。
香津美の「馬鹿ね」を聞くと、真理谷は安堵する。この言葉は、過ちも悲しみも、何でも消し去ってくれるような消しゴムみたいなのものだ。すうっと気持ちが軽くなり、真理谷の顔が自然と笑顔になる。
「つい、ね。ベッドで口が滑って」
「どうせ、『はつ』とでも名前を呼んじゃったんでしょ」
「実は、『香津美』って出ちゃったんだよね」
「嘘ばっかり」
 香津美はころころと笑った。
「飲み屋で見つけたときは、可愛い女の子だったんだけどねえ。まさかかじるなんてね」
 真理谷は大袈裟に頭を横に振った。
 遅い時間。バーにいた他の客はもういない。
「これ、もう一杯」
 香津美に氷だけになったグラスを差し出した。真理谷のバーボンボトルは今夜だけで半分空いていた。
「もうやめときなさい」
 穏やかな香津美の顔が引き締まった。
「まだぜんぜん酔ってない」
 酔えそうにもなかった。はつの泣き顔が目に焼きついている。
「酔う前に帰りなさい。飛び出してきたきりなんでしょう?」
「……帰れない」
「あなたが帰れる場所はあそこしかないの」
「どんな顔をして帰ればいい?」
「そんなの、ただいまって帰ればいいのよ」
「やだ。今夜も泊めて」
「駄々っ子みたいなこと言わないの」
「お願い、絶対手を出さないから」
「馬鹿」
「あ、手を出したほうがいい? それだったら、大サービス――」
 カウンターにのせていた香津美の片手をとり、唇をつけようとした真理谷に香津美の拳骨が頭上に飛んできた。
「いってー! ゲンコツはないでしょ」
 真理谷は頭を押さえながら口を尖らせた。
「悪ふざけが過ぎるわよ」
 香津美の目がマジだった。顔を真っ赤にして本気で怒っている。
「ごめん」
 香津美に甘えすぎた。真理谷は肩をすぼめて俯いた。
「今夜は振られっぱなしだあ。私の恋人はこのバーボン」
 グラスの底に残った僅かなバーボンを、真理谷は恨めしそうに覗き込んだ。
「ああ、今夜の恋人はもう胃袋の中〜」
 変な節をつけて、真理谷は歌うように呟いた。
「もう、やめてよ」
 香津美が思わず噴き出した。
「あはは〜。今怒ってたのにもう笑った」
「この、酔っ払い!」
 香津美の鉄拳が振りかざされたのだが、今度はそれをふいと避け、真理谷はその手首を掴んだ。
「そう簡単にゲンコツされてたまるか」
 真理谷は悪戯小僧のようにぺろりと舌を出した。
「離してよ!」
「キスしてくれたら離す」
 掴んだ手首を手前に引き寄せ、唇を手の甲に押し付けた。
「やめなさいよ。あ……はつちゃん」
そう言って、香津美が店の入り口へ目を向けた。
「はつ?」
 まさか。
 真理谷は、振り向いた。
 そこには、仁王立ちになっているはつがいた。
「馬鹿、エロオヤジ!」
 大声で怒鳴って、はつは逃げるように飛び出して行った。
「オヤジじゃないよ」
「ほら、追いかけないと」
「いいの」
 香津美に促されても真理谷は立ち上がらなかった。
「良いわけがないでしょ」
「今夜は、何回馬鹿と言われたのか……ほんとに馬鹿になりたい」
「もう十分馬鹿よ」
「香津美にそう言われたら、立ち直れない」
「ほら、さっさとはつちゃんを追いかけて!」
「……わかったよ」
 香津美にせっつかれて、真理谷はのろのろと立ち上がった。
「優しくしてあげるのよ」
 香津美は優しく微笑んだ。でもそれは、ほんの少し寂しげだった。
「香津美、ごめん」
 真理谷はそう言って、カウンター越しに香津美の唇にそっとキスをした。
お礼のキス。
真理谷はバーの扉を勢いよく開けて階段を駆け上がり、全力で走り出した。
「馬鹿ね」
 バーに独りになった香津美は、ポツリと呟いた。
「私は馬鹿だわ。いいこになってどうするの」
 真理谷が飲んでいたグラスを手に取り、口付けするようにグラスの端を唇に押し当てた。
 そんな香津美を、真理谷は知らない。



+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。