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  鏡のかけら 作者:asami
5・誘惑
 真理谷が帰宅したのは翌日の深夜だった。それも、飲みすぎていて足元が怪しい状態だった。
 素面で帰るのが怖かったのだ。
「マリア! どこをほっつき歩いてたのよ!」
 はつの赤く腫らした目が痛々しかった。一気に酔いが醒めてしまい、真理谷は正視できずに顔を背けた。
「お酒くさい! 飲みすぎ――」
「今までだって、こんなこといくらでもあったよ?」
 真理谷は自分の足元に視線を落として、苛々とした口調ではつの声を遮った。
 二人の間に緊張した空気が流れた。はつの顔が強張っているような気がして、真理谷は視線を合わせられなかった。
 やってしまった。はつは泣くだろうか。でもこれでいい。
 真理谷はそう自分に言い聞かせ、はつに背を向けて自室に行こうとした。
「喧嘩したまま出て行ったから……もう帰ってこないんじゃないかって……」
 はつが真理谷の背中に頭を持たれかけてきた。必死に泣くまいと涙を堪えているようだが声は震えていた。
 温かい。
はつのぬくもりが背中から伝わってくる。真理谷は振り向いて抱き締めたい衝動に駆られるのを我慢した。
「馬鹿。私ははつの保護者だからね。ま、ちょっと難ありだけれど」
 場を和ませようと、かなりおどけて言ったつもりだった。だが、はつはくすりとも笑わずに、重い言葉が返ってきた。
「保護者なんていや」
「はつ、私はあんたに微塵もその気がない――」
 そう言いながら、はつの方へ振り向いた真理谷はうろたえた。
 帰宅したときろくに見もしなかったのだが、はつはガウン一枚の姿だったのだ。それも、胸元がはだけていた。
「は、はつ、なんて格好で、風邪引くよ」
「夏だもん、風邪なんか引かない」
「でも……」
 真理谷は髪をかきあげながら俯いた。いい言葉が出てこない。
「なによ、私なんて眼中にないんでしょ? だったら、どんな格好していようがいいじゃない!」
「そういう問題じゃないでしょう? 年頃の若い娘がそんな格好で」
「関係ないわ! マリアは男じゃないし!」
 はつは挑発的な言動をやめようとしなかった。
 ――人の気も知らないで。まったくこれだから子供は嫌なんだ!
真理谷は段々腹が立ってきた。
「ああそうですか。いくら私でも理性が吹っ飛ぶことだってあるんだからね。知らないぞ」
「いいわよ、別に」
 しまった、と真理谷は思った。また話をそっちの方へ振ってしまった。
「好きとかそういうのじゃなくて、ただヤルってだけだぞ」
「構わないよ」
 うるうるした瞳で小鹿のように真理谷を見上げるはつは、可愛かった。
 ――だめ、だめ、だめ!
 真理谷の中で葛藤が始まった。
正面からまっすぐに向かってくるはつが怖かった。若い娘の、曇りのない心。それを汚してしまいそうで、怖かったのだ。でも、もう逃げてばかりはいられない。真理谷ときこは覚悟を決めてはつと向き合うことにした。ここで単に拒否してみても、はつは納得しない。今のはつは、恋に恋する乙女だ。拒否されればされるだけ、熱は冷めない。だから、醒めさせてやらなければならない。
真理谷は無言ではつの腕をつかんで自室のベッドへ引っ張っていき、乱暴に押し倒した。
仰向けに倒れこんだはつに真理谷はのしかかった。
「いいの? この前の、あんなもんじゃないよ」
「うん」
「私は、激しいのが好きなの」
「うん」
 返事とは裏腹に、はつは顔をこわばらせ、泣きそうだ。
なのにはつは、脅しても、すかしても、動じないのだ。いや、かなり怖気づいている。それは表情でよくわかったが、言葉では一歩も引いてくれない。
 真里谷は、ため息をついてはつの鼻柱を人差し指ではじいた。
「馬鹿。無理するな」
「無理じゃないもん」
 ベッドの端に座ったはつは、歯をくいしばったように口元に力が入っていた。どう見ても無理をしているのに、はつは譲らない。このまま顔を突き合わせていたら、また喧嘩になりそうだと思った真理谷は、ベッドから離れた。
「……出かけてくる」
「こんな夜中にまた? 私も行く」
「駄目」
「女の人のところへ行くんでしょ。そんなの嫌! したいんだったら、私としてよ!」
 こんな場面は苦手だった。痴話喧嘩などしたくない。そんなことにならないよう、今まで軽い娘としか関係を持たなかった。後腐れなく、手軽な快楽。一時の恋人気分。はつはきっとそんな関係を嫌う。汚いというかもしれない。
ちょっとすれたように見せたがるけれど、いまどきの娘にはないような、純真さを持っているはつ。澄んだ瞳で、真理谷を見つめるはつ。はつは重過ぎる。今の真理谷には、はつは重い鎖でしかないのだ。
真理谷に刺さった鏡のかけらが疼く。
決して自分をさらけ出さない。どこか醒めた冷たい瞳の真理谷は、はつを突き放した。
「はつ、これが私。こういうことを平気でするのが私。はつじゃ、私は満足できない」
「気持ち良くなるためだけにするものじゃないでしょう? 好きな人と……」
「私にとって、快楽。それ以外の何ものでもない」
「嘘! そんなのマリアじゃない!」
 真理谷は、はつの声から逃げるようにマンションを走り出た。振り返らない。振り返ったらだめだ。はつを抱き締めてしまいそうだから。


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