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  鏡のかけら 作者:asami
4・逃げ
「馬鹿ね」
「そう、私は馬鹿」
「青い果実は、かじると苦いものよ」
「ほんとにそうだ」
「でも、一度かじると、その苦さが忘れられない」
「それは困る」
「真理谷はもう、かじってしまったでしょう?」
 馴染みのバーテンダー香津美が、意味深な笑みをたたえて真理谷を見た。
 遅すぎる夜。小さなカウンターだけのバーには客は真理谷だけだった。喧嘩した後、はつがいるマンションに居づらくなり、真理谷はふらりと出かけたのだった。
「ふふふ」
 真理谷ときこは自虐的な笑みを浮かべた。
 バーボンの中の溶けかかった氷がカランと音を立てた。ロックグラスの中身は、バーボンの水割りになってしまっている。
「一緒にお酒も飲めない恋人なんて」
「でも、好きなんでしょ」
「はつはきっと、熱に浮かされているだけ」
「真理谷はどうなの?」
「十一歳も年下の子供相手に? はつは、そんな対象じゃない」
「逃げね」
「違う、夏川はつは――」
「夏川ほのかの妹だから、手を出さないと決めた? まだ拘っているの?」
「……」
 二歳年上の香津美とは、真理谷が探偵業を始めたころからの長い付き合いだった。ほじくり出されたくない昔話も、色々知っていた。自分の弱いところもずるいところも何もかも知っているのだ。言いづらいことでも、ずばりと切り込んでくる。でも、嫌な気はしない。
「死んだ人のこと、いつまでも想っていてはだめよ。そうやって一生引きずるつもり? あれは事故だったのよ」
「わかっている」
 目を閉じると、今でも鮮やかにそのときの光景が目の前に広がる。逃れられない呪縛。
 夏川ほのか。
 真理谷ときこの脳のひだ奥深く、突き刺さるようにして刻み込まれた、忘れられない女性だった。
 今でも、過去にならない記憶。時が経てば、人の記憶は薄れていくものだ。だが、何年経とうと色褪せない。それどころか、そのことだけが鮮明になっていく。そこだけが強調され、脳髄までも支配していくようだった。
 真理谷には冷たい鏡のかけらが突き刺さったままなのだ。それはいつまでも痛む。そして真理谷の心を冷えさせる。
「困った人ね」
 過去の記憶に飲み込まれている真理谷に、香津美は美しい眉をひそめ、アップにしている髪の後れ毛を、指先で撫ぜ上げた。
 香津美のゆったりした仕草を見ているだけで、真理谷は気持ちが安らいでいくのだった。
「もう店は閉める時間だね」
「真理谷も帰りなさい」
 真理谷はカウンターに置いていた香津美の白い手に自分の手を添えた。
「香津美と、一緒に帰りたい」
「……馬鹿なことを言わないの」
 香津美はそう言ったがその手を払いのけるようなことはしなかった。
 真理谷はその手を自分のほうへ引いて香津美を引き寄せ、唇を重ねた。香津美はそれに動じることなく慌てずにゆっくりと唇を離した。
「きっと、後悔の味がすると思うけれど」
 香津美は寂しげに微笑みながら真理谷の唇を指先で優しく撫ぜた。
「そんなこと、あなたに言わせない」
 香津美は細めた目を真理谷に向けた。その目は同情を含んでいた。
どんな風に思われてもいい。今夜は帰りたくなかった。
真理谷はその夜、はつが待つマンションへ帰らなかった。


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