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  鏡のかけら 作者:asami
29・あの日
 夏川ほのかは立花数馬に別れ話をするために会いに行ったのかもしれない。
確かに真理谷はそう推測していた。
だが、それは真理谷のそうあって欲しいという希望的憶測に過ぎなかった。だから実際は、ほのかが立花にそこまできっぱりと自分の気持ちを伝えているとは思っていなかったのだった。
 気持の整理をさせてほしい。ほのかはそんなことをやんわりと伝えたのではないかと真理谷は想像していた。
 ほのかの愛情を感じていた一方で、真理谷はどこか冷めていたのだった。
 真理谷が今まで付き合ってきた女性たちは最後には真理谷の元から去って行った。そんな経験を繰り返すうちに、真理谷はいつしか自分は通過点に過ぎない存在なのだと考えるようになっていたのだった。
 結婚間近だったほのかもまた、今までと同じかもしれないと真理谷は心の隅で自分が傷つかないように予防線を張っていた。惹かれあい、視線を絡めてお互いを求めあったのは事実だが、真理谷はほのかから告白を受けたわけではなかったし、まして将来の約束を交わしたわけでもなかった。
 お互い情熱を持って惹かれあってはいたが、いつ壊れるやもしれない関係だと思っていた。
だが、立花の口から聞いた事実は、ほのかの真理谷への揺るぎない想いだった。
それは真理谷に衝撃を与えたのだった。
ほのかを信じきれていなかった。
真理谷は愛情を注ぎながらもほのかを少しでも疑っていた冷ややかな自分を責めた。
「ほのか……」
 額の前で祈るように手を組みあわせて握りしめ、真理谷は流れ出しそうな涙をこらえた。名を呟いたその声は震えていた。
 悔み、後悔、懺悔。
 ほのかの愛を疑っていた自分が許せない。そんな感情が次々と湧き起こり、真理谷の胸を熱くした。
「もういいでしょう。終わったことだ」
 立花の、感情を逆なでするざらざらした声が、真理谷を後悔の渦から引き揚げた。
「……なにも、終わってない。終わりなどない! ほのかは私の中で生き続けているし、この先もずっと消えることはない」
 真理谷は立花に怒りをぶつけた。
「勝手にしたらいい。あんたはせいぜい思い出の中で生きてくれ。あいつは私がいくら懇願しても一切聞き入れなかった。だからあんたの悪口を捨て台詞にして立ち去るしかなかった。私は、振られたのだ。あんたのほうがほのかに選ばれた。これ以上俺の何を奪えば気が済むんだ。こんな屈辱はうんざりだ」
 立花は段々と当時を思い起こしてきたのだろう。恨みがましい目で真理谷を睨みつけたのだった。
立花に怒りをぶつけるのはお門違いだ。真理谷はわかっていて声を荒げたのだった。
 ぶつけた怒りを自分に倍返しにしてほしい。自分のことを滅茶苦茶に罵って虫けらのように押しつぶして消し去ってほしい。
 そうしてくれないと、正気でいられなくなりそうだった。だが、その期待は裏切られた。
立花は小さくため息をついて真理谷を覚めた目でちらと見ただけで、懐から財布を取り出し、札を一枚テーブルに押しつけるように置いて、黙って立ち上がったのだった。
「これで失礼する。もう二度と顔を合わせたくない」
 真理谷は大股で去っていく背中を見送るしかなかった。
 自分のことを粉々に砕きつぶしてくれる者は誰もいなくなってしまった。
 気が抜けたように真理谷は肩を落とした。
目の前にある珈琲カップへ無意識にゆっくり手を伸ばして口へ持っていった。冷めきって香りが消えた苦いだけの黒っぽい液体が喉を通過した。
苦しさで熱くなっていた胸がひんやりと沈められていく感じがした。
冷たい珈琲……。
真理谷ははっと顔をあげて素早く席を立ち、走り出した。
喫茶店を飛び出して、先に出た立花を目で探した。雑踏の中、背を丸めて横断歩道を渡っていた立花を見つけて走り寄り、その肩に手をかけた。
「立花さん!」
「何かまだ文句でもあるのか」
 振り向いた立花は、うんざりした顔をして真理谷の手を振り払った。
「一つだけ、最後に教えて」
「何を?」
「ほのかの車に乗ったとき、缶珈琲を飲みましたか」
「いや」
「本当に? よく思い出してください」
「そんなにゆっくりと話をする状況じゃなかった。二、三十分、いや十分か十五分だった。停車させた車の中で言い合いをして、すぐに降りた」
「車内に缶珈琲は――」
「しつこいな。そんなものはなかった」
「でも事故のあと、車内で飲みかけの缶珈琲が見つかったんですよね」
「そんなもの、あいつが飲んだんだろう!」
 立花はぷいと向こうを向いて信号が点滅し始めた横断歩道を速足で渡って行った。
 信号が赤に変わり、横断歩道に取り残された真理谷はクラクションを鳴らされた。
 ほのかが缶珈琲を飲んだというのか。
 立花はほのかが珈琲が飲めないことすら知らなかったのだ。知ろうとすらしていなかったのだろう、ほのかとはうわべだけの付き合いだったのだ。
 行きかう車に挟まれた真理谷は車道に立ち尽くした。
 立花は今の生活が重要なのだ。情熱をほのかに費やすほどの執着など、とうの昔に消え去っていた。ほのかは過去であり忌むべき過ちなのだ。
真理谷という輩が登場し、ほのかに横恋慕して何もかもをぶち壊しにされたために、婚約者を想うあまり、人にとられるくらいであれば自分の手で殺めてしまおうと殺意を抱いたのではという想像は全く裏切られた。逆上して咄嗟に殺めてしまった。それも無理があるように思えたのだった。
立花がほのかを愛していたことに嘘はないだろうが、そこまでの情熱があったとは思えない。たまたま相手がほのかだっただけで、自分に従順で家庭を守るような女であればどの女でも代わり映えしなかったのではないか。もしも、結婚式の日取りなどなく、交際程度の仲だったのであれば、立花は同性に好意を持つような女などあっさり別れたに違いない。
真理谷は立花に数年ぶりに会って、強くそう感じたのだった。
立花はあの日、ほのかに会い口論になったがそれだけのことだったのだ。やはり、単なる事故だったのか。
いや、違う。缶珈琲の持ち主がいる。立花がほのかと別れた後、会った人物がもう一人いるのだ。
その人物がはっきりしない限り、事故だったと確定できない。
クラクションの鳴り響く中、真理谷は夢遊病者のようにふらふらと車の間を横切って車道を渡ったのだった。


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