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この作品は<R-18>です。
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26・和み
「殺された?」
優花は意外な言葉に鸚鵡返しに言った。真理谷は青い顔をして亡霊のように辛うじて立っていた。
「少なくとも、ほのかは死ぬ直前に誰かと会っていた」
「どういうこと?」
「缶珈琲」
優花はこぼれ落ちそうなくらいに瞳を見開いて、真理谷の次の言葉を待っていた。
「ほのかは、珈琲が飲めない」
「でも、絶対飲まないとは言えないでしょう」
「ほのかは珈琲を飲むと胸焼けを起こす。飲んだら具合が悪くなる飲み物を、わざわざ買う?」
ほのかが絶対口にしない缶珈琲が車内にあった。それも飲みかけの状態で。
それは優花が当時の担当から直接聞いた紛れもない事実だった。
「ほのかさんではない誰かが口にした缶珈琲が残っていた。だから誰かと会っていたというの? そうだとしても、何が変わるというの。殺人かもしれないなんて」
温泉街に向かう山間の緩やかなカーブ。かなりのスピードが出ていたにもかかわらず、白い雪道の上には軽いブレーキ跡しかなかった。そのため、自殺の線も否定できなかったのだが、飲みかけの缶珈琲が事故と断定する決め手の一つになったのだと優花は聞いていた。
夏川ほのかが珈琲を飲まないとしても、それだけで殺されたのかもしれないという答えをはじき出すには突飛過ぎる。
優花は真理谷の考えがわからなくてじれったそうに顔を覗き込んで答えを促したが、真理谷はなかなか口を開こうとしなかった。
「マリア、教えてよ」
「その呼び方はするな」
真理谷の目がきつくなり、優花を睨みつけた。
はつがいなくなって気落ちしているところに、はつしか使わない呼び名は聞きたくなかったのだ。聞くたびに苦しくて息ができなくなりそうで、思わず声を荒げてしまった。
優花は俯いて黙ってしまった。
「ごめん、今ちょっと滅入って、苛々していたから」
優花が背中を丸めてしょげている姿を見て、真理谷は八つ当たりをして悪いことをしたと反省した。
「うん、いいの」
嫌われたのではないとわかり、優花はほっとしたように顔をあげて優しく微笑んだ。
「ほのかは一人で温泉に来たのではなく、誰かと一緒だったのは間違いない」
「友達じゃないの?」
「あの頃、友達と会う暇がないとぼやいていたくらい仕事が忙しかった。だから、私と会うのも仕事の合間にランチを一緒に過ごすか真夜中に会うことが多かった。でも、あの日の前日、電話で明日は自分に嘘がない日にしたいというようなことを言っていた。意味がわからなくて聞き返したら、わからなくていいと言って笑っていた」
「ほのかさんは何を言いたかったのかしら。そのときのほのかさんの口調とか、何かいつもと違う感じはなかった?」
優花にそう言われ、真理谷は五年前を思い浮かべる。いつもは必死に忘れようとしていたことを、じっくりと思い起す。引き出しを次々と引っ張り出したように場面が呼び起されていく。
ほのかと立花の結婚式が刻々と迫っていた。ほのかの生活は残業と出張に追われていた。僅かの時間をやりくりして二人で会ったが、餓えたように抱き合うだけで言葉を交わすことが徐々に減っていったあの頃。
それなのに、最後に聞いた電話口のほのかの声は妙に明るかった。
「……何か決意をしたようなきっぱりとした口調だった」
「決意?」
「ずっと、自殺を決意しての電話だったのだと思っていた」
今まで真理谷は勝手にそう思いこんでいたのだ。立花にほのかは自殺だったと聞いた時から。
でも缶珈琲の件を聞き、自殺ではなかったと真理谷は確信したのだった。だとするとほのかは何を言おうとしていたのか。
真理谷はそのときのほのかの一言一言を忠実に思いだそうとした。
だがそれ以上のことは思い出せなかった。あんなに鮮明だと思っていた当時の記憶が、自分の思い込みによって脚色され記憶していたものだったとわかり、急に色褪せたようになり霧に邪魔されたようにぼやけてしまったのだ。
人の記憶など、こんなにも曖昧なものだったのか。自分はほのかの何を見て知っていたのだろうか。
真理谷はほのかの全てを理解しているつもりでいた。短い付き合いだったが、そのくらい濃厚な時間を一緒に過ごしたのだと思っていた。
だが、実際はほのかのほんの一部分しか見ていなかったのだ。
「あんなに分かりあえていたと思っていたのに、私の思い込みだった……」
真理谷は片手で顔を覆って弱音を吐いた。人に弱いところを見せることなどない真理谷だったが、優花がいることも忘れて肩を落としてうなだれた。
「それで、どうして殺されたかもしれないと思ったの?」
「今考えると、あの電話で言おうとしていたことが違うことだと思い当たったから」
優花は黙って真理谷の言葉を待った。
「立花数馬と話をつけようとしていたのかもしれない」
「婚約者と?」
「別れる気だったのかも」
「じゃあ、痴情のもつれで運転中に言い争って、ハンドルを切り損ねたとでもいうの? でも争った形跡なんてないし立花はその場にはいなかったわ」
「立花が一緒だったとしたら、一人で温泉に行ったと話していた立花は、嘘をついていたことになる。なぜ嘘をついたのか。ほのかは前にこんなことを言っていた。あのひとは私を愛しているのではなく、妻というポストを埋めたいだけなのだ。自分の敷いたレールの上を相手がうまく走っているうちはとても優しいけれど、一歩踏み外したら強制的に修正してでも突き進ませる人だと。今はそれ以上のことはわからないけれど、立花はほのかを修正しようとしたのだと思えてならない」
真理谷は強張った顔をして優花に言った。
「……殺されたかどうかは別として、途中で車を降りたのが立花であれば、車か公共の交通機関を使って帰っているはずだわ。まずはそれを調べてみたらどうかしら」
優花は真理谷の話を否定も肯定もせずに冷静な判断を伝えた。
そんな彼女の穏やかな声が心地良く、真理谷も徐々に冷静になった。
「わかった。……ありがとう」
真理谷の礼に、優花はあら、意外に素直なのねと微笑んだ。
「ひどい言いぐさ」
「だって、ひねくれているじゃない。ま、そこも含めて好きよ」
優花は懲りずに真理谷の腰に両腕をまわした。
「優花ちゃんは変わってるね」
「あら、真理谷のほうがはるかに変わってるわよ」
薄紅色の艶やかな唇が真理谷に迫った。
今度は優しくその唇を塞いだのだった。
真理谷のすさんでいた心は、優花によっていくらか解きほぐされたのだった。
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