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  鏡のかけら 作者:asami
25・疑問
 翌日、真理谷が仕事に出ている間に、はつの荷物が消えた。
 青ざめた真理谷は昼夜関係なく思い当たる場所すべてをしらみつぶしにたずね歩いた。そして、足の感覚がなくなってきた数日後の朝、事務所の留守番電話にはつからのメッセージが残されていたのだった。
《私のことは、心配しないで。……許してください。ほのかお姉ちゃんの件は、最後までしっかり調査してください。何もかも、それで、わかります……》
 やや緊張した声音。他人行儀な言葉が雑音にかき消されそうになりながら途切れがちにスピーカーから聞こえた。
 怒りと悲しみが一緒にこみ上げてきて、鼓動が早まっていく。もがいてもドロドロした黒い水の中から抜け出せず、孤独というおもりがのしかかって押し鎮められ、息ができない感覚。
真理谷は無意識に電話を床に投げつけていた。机の上の書類がその勢いで床にちらばった。
「馬鹿! はつがいなくなったら、調査に何の意味がある!」
 真理谷の苛立った声が、誰もいない事務所に冷たく響いた。
本当に一人になってしまった。
突然暗闇に放り出された子供のように心細い。はつの存在が大きかったのだと今更ながら感じる。やはり、頼っていたのは自分の方なのだと。
「私が、はつをわかってあげられなかったから……はつを苦しめたから……」
膝を折り、書類が散乱している中に座り込んだ。
自分を責める言葉が頭の中に押し寄せてくる。
この状況を作ったのは自分なのだ。自分が変わらないといつかはこうなることも分かっていた。だが、防げなかった。身体の一部をもぎ取られたような喪失感。
真理谷は動くことを忘れたように、その場にじっと座りこんでいた。
全ての思考が停止してしまった真理谷は辛うじて息をしていたが、何時間も同じ姿勢でじっとしていた。
はつがいなくなってから、仕事の依頼を断っていた真理谷の事務所には、誰も訪れる者がいなかった。静かに時間だけが過ぎていく。真理谷がいるこの空間だけが世界から取り残されているみたいだった。
陽が陰り始めた頃、斎藤優花が訪ねてきた。
「随分荒れているわね」
 明かりをつけていない事務所は薄暗く、たたきつけられた電話が床に転がり、書類の束が周囲に散乱している。それらをよけながら真理谷のそばに来た優花は、ため息をついた。
「この世の終わりがきたみたい」
ブラシを通していないぼさぼさ頭に、よれたシャツ姿の真理谷を見下ろして、優花は顔をしかめた。
「顔を上げなさいよ」
 真理谷は優花の声に反応しなかった。
「こんな状態で放ってなんておけないわ。……ねえ、何があったの?」
頼れるものがいなくなって一人になった今、優花の優しい声かけが、また何か企みがあって来たのではないかという疑心暗鬼を瞬く間に消し去ったのだった。
「……夏川はつが、いなくなった」
 数時間ぶりに発した声は、かすれて重々しく響いた。
「ほのかさんの妹が?」
「とうとう愛想尽かして出て行った」
 真理谷はふらふらと立ちあがってふふふと笑い声を洩らした。ようやく感情が戻った気がして体の力が抜けた。
「ふうん、じゃあ私が居座っちゃおうかなあ」
「だめ」
「あらいいじゃない、今不自由しているのでしょう。色々と」
 含みのある言い回しをして、優花は首筋に指先を滑らせてきた。弱っているところに付け込むような態度に嫌悪した真理谷は、その手を払いのけた。
「やめて」
 鋭い瞳を向けて凄んだ真理谷に、優花は両肩をあげて小さくため息をついた。
「ふざける余裕もないのね。ねえ、調査はまだ続けているの?」
 黙りこくった真理谷をいぶかるでもなく、優花は態度を変えずに続けた。
「これ、あげる。ほのかさんの事故調書。面白いことが書いてあるのよ」
 優花は茶封筒に入った書類を真理谷の胸元に突き出したが、書類をつかもうとするとその手をひっこめた。
「じゃあいらない」
 はつがいない今、事故調査の意味を見失っていた真理谷は、拗ねた子供のようにふいと顔をそむけた。
「意地悪」
 今度は優花が頬を膨らました。
「どっちが意地悪なの」
 そう言ってため息をついた真理谷を、優花はうっとりとした瞳で見つめていた。そして、白い腕をすっと伸ばして真理谷の首に絡ませたのだった。
「苦労して手に入れたのに何もなし?」
 悩ましく小首を傾げた優花にも、真理谷はうつろな瞳を空に向けて全く興味を示さなかったのだが、本当に事故だったのかという探偵としての興味が真理谷を突き動かした。「……わかった。何がほしい」
「ふふ、あ・な・た」
 真理谷の鼻先に人差し指を向けた優花は濡れた唇の端を上げてエロティックに微笑んだ。
 誘惑には目もくれず、無表情の真理谷はいきなり優花の腰を抱いて頭を押さえ、唇を重ねたのだった。
 息が詰まるような強引なキスは数分続き、優花が恍惚としてきたところで突き放した。
「な、なによ。ひどいじゃない」
 よろけて床に座り込んだ優花は、頬を紅潮させて息を弾ませながら、真理谷を睨みつけるようにして見上げた。
「十分でしょう」
 真理谷は冷徹にそう言い、優花の手から書類をもぎ取った。
「もう!」
 何もかもがどうでもよくなっていた真理谷は、むくれる優花に目もくれず、本能に突き動かされるように、その場で黙々と書類に目を通し始めた。
 書類には夏川ほのかの現場検証の詳細が記載されており、その中にマーカーで印をつけられた部分を見つけた。優花がつけたのだろう。
 軽いブレーキ跡を確認。
カーブでのブレーキ跡がないという理由で自殺の可能性が高いとされていると真理谷は聞いていた。だが、ブレーキの跡はわずかに確認されていたのだ。とすれば、はつが言うようにブレーキを踏み損ねたスリップ事故だったのか。それとも自殺を躊躇ってブレーキを踏んだのか。ほのかは普段から慎重過ぎる運転だった。雪道のカーブでスピードを落とさなかったとは考えられない。
真理谷はどうしても事故だったと思えなかった。
 考え込んでいる真理谷に、優花はおずおずと言葉をかけた。
「あの……当時の担当が言っていたけど、ほのかさんのジャケットに珈琲がかかって汚れていたって。飲みかけの缶珈琲が車内にあったらしいの。自殺する人が飲みかけを車に残すかしら」
 意外なことを聞いたとでもいうように、真理谷は険しい顔で優花に視線を向けた。
「だから、事故だったと、思うの……」
 きつい視線を向けられた優花は、真理谷の意にそぐわないことを言ってしまったのかと目を伏せて口をつぐんだ。
「違う」
「だって、遺書もなかったし」
「いや、自殺ではない」
 真理谷の声は苛立っていた。
「やっぱり事故――」
「事故でもない」
 同意見だったと安堵した優花の言葉を遮って、真理谷が強い口調で否定した。
「え?」
「殺されたのかも、しれない」
 そう言った真理谷の顔は青ざめていた。


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