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  鏡のかけら 作者:asami
22・秘密
 夏川はつは、真理谷が帰ってくるのをただひたすら待っていた。
 寝転がったまま、ベッドサイドのデジタル時計に目をやる。午前二時。もう何度時計を見たか知れない。
きっと今頃、誰かに腕枕をしている。
 優しい言葉をかけながら見つめ合い、熱を帯びた体を冷ましている。
 いいや違う、ほのかお姉ちゃんのことを聞き出すのに手間どっているだけ。
不安な気持ちで一杯になり、あらぬ想像をして心が押しつぶされそうになっては、打ち消すことを繰り返していた。
待つことしかできないのが悔しかった。
 マリアは、自分の存在を僅かばかりでも忘れずにいてくれているのだろうか。マリアは姉の事故と向き合うことで本当に罪悪感を断ち切ることができるのだろうか。
 もしかして、事故の再調査なんて無意味なことかもしれない。そんなこと、頼まなければよかった。
額にじっとりと汗が滲んでいた。窓を開け放しても微風すら入らない熱帯夜が、はつを一層苛立たせた。
 眠ろうにも眠れない、息苦しい夜。
数十回目の寝返りを打った。目を開けてしまわないように瞼に力を込めても眠れない。
救急車のけたたましいサイレン、バイクのアクセルをふかす轟音、トラックのエンジン音、そんなものがひっきりなしに耳に飛び込んでくる。街中が眠りを邪魔している。誰一人として優しく包んでくれる者はいない。
はつは酷く孤独だった。
「マリアの馬鹿。マリアの馬鹿。マリアの馬鹿」
 呪文のように口に出してみた。
 今にも泣きだしそうに震えたかすれ声が情けなく聞こえたが、少しだけ気持ちが晴れた。
 どうしてあんなひとを好きになったのだろう。
 たらしで、女の人にだらしなくて、来るもの拒まずで、最悪のひと。いつでも子ども扱いで、女性としてみてくれなくて、二言めには子供は関係ないだの、子供なんだからだのと都合のいい時だけ保護者面をする。
 前はこんなではなかった。
 ほのかが出会う前のマリアをはつは知っていた。
 そのことをはつは誰にも言っていない。
はつは姉より先にマリアに会っていた。だが、マリアは覚えていないかもしれないようなたわいない出会いだった。
優しいお姉さん。――少年のような大人のひとだった。
スタイルが良くて近寄り難いように見えるが、笑った顔は子供のようにくったくがないのだ。その笑顔は、姉にではなく自分に向けられるはずだった。だのに、自分に向けられた笑顔は初めの一度っきりだった。
はつはそう思っていた。
五年前。忘れられない、中学校入学の朝。
桜が満開だった。でも気分は最悪だった。あの頃、親がいなくてぎりぎりの生活で、姉は仕事が忙しくて長期出張に行ったきりだった。中学校の入学準備を忘れていた姉は制服を買うお金を余分に置いていかなかった。ひたすら電話をかけ続けたが連絡はつかなかった。そして、とうとう入学式に制服が間に合わなかった。
私服で行く勇気がなくて、風邪を引いたといい入学式を休んだ。
一人でアパートの部屋にいたら、涙があふれ出てきた。
泣きたくなんかないのに。泣いたら、こんな境遇に屈してしまったようで惨めになるだけなのに。
お姉ちゃんは、はつのこと忘れてしまったの? 
財布には数千円しか残っていなかった。姉はいつ帰るかわからない。明日も明後日もその次も帰ってこないかもしれない。今日は学校を休んだけれどずっと休むわけにはいかない。
孤独だった。
先のことを考えるとまだいくらでも泣けそうだったが、もうどうでもいいという気にもなった。
さんざん泣いたら、おなかが減った。
時計の針は一時を回っていた。
近所の寿司屋から特上寿司を四人前頼んだ。これで手持ちのお金は使い果たした。
出前は威勢のいい若い兄ちゃんだった。
「まいど!」
はつはある一点に釘付けになった。その若い兄ちゃんのティーシャツの胸元には膨らみがあったのだ。
野球帽を目深にかぶっているので顔はよく見えなかった。
「はい、お釣り」
「は、はい」
「なに、いい男か顔を見たいの?」
「いえ、その……」
「あはは、女だよ。よく間違えられるんだよね。ちゃんと胸があるのにさ」
 そう言って顔をあげてからからと笑い、背筋を伸ばして胸の辺りを強調して見せた。
二重の大きな瞳を細めて、悪戯小僧のように楽しそうに笑っている。
出前のためか日に焼けて浅黒かったが、すらりと背の高いなかなかの美人だった。
「ごめんなさい」
 はつは顔を赤らめて俯いた。
「いいのいいの。よくあることだから。ふーん、きみ、なかなか可愛いね」
 今度は、はつの方がじろじろ見られた。
 はつは耳まで赤くなった。
「十年後にまた会えたら、付き合ってほしいな。泣いているより笑顔のほうが可愛いよ」
 そう言って、兄ちゃんみたいな姉ちゃんはウインクした。
 はつが目を腫らしていたから、泣いていたことがわかったのだろう。泣いていた女の子へのリップサービスだったのかもしれない。だが、心が弱っていたはつが瞬時に惹かれるには十分だった。
それが、マリアとの最初の出会いだった。
翌日、姉は久しぶりに帰宅し、入学式をすっかり忘れていたことをひたすら謝った。そして、すぐさま制服を買いに行き、三日間休んだだけで何事もなく学校へ行くことができた。
部活動に入部しなかったはつは、毎日、学校帰りにマリアをこっそり見に行くためにわざわざ遠回りをして帰宅するようになった。
どんな人なのかという好奇心からだった。
鮨屋の出前はアルバイトで、本業は探偵だとすぐにわかった。探偵事務所は商店街の古びたビルの二階にあって、向かいの喫茶店からよく見えた。事務所にいるときは事務机に向かって欠伸をしながら本を開いていたので、依頼がなくて苦戦していることが見て取れた。依頼を獲得するために寿司屋の出前をしながら、探偵事務所のチラシを配っていた。
はつは配り終えた郵便受けから、チラシをそっと抜いて持ち帰った。
どうやら独立したばかりで一人事務所のようだった。携帯電話の番号と名前を知った。
真理谷ときこ。ときこ。ときこ。
その名前を何度も呟いた。それだけでドキドキした。
どうにかして、また話しができないかと考えたが、事務所を突然訪ねる勇気はなかった。
そんな折、愛犬メリーがいなくなって姉がどうしたものかと困っていた。絶好の機会、と思い、探偵事務所のチラシをテーブルに置いて電話するように仕向けた。
ところが、一緒にマリアの事務所に行き、メリー探しの依頼をするはずだったのに、姉ははつが学校から帰宅するのを待ってくれなかったのだ。
本当はその時に、はつは堂々とマリアに会えたはずだった。
姉はそのあとも、毎回一人で事務所へ行った。嬉しそうに、お気に入りのワンピースを着て。
あのとき、あのチラシを見せなかったら。はつは何度後悔したか知れなかった。
姉は言わなかったが、間もなく二人が友達以上の仲になっていることを、はつは目撃してしまったのだった。
 わずかに開いた事務所のドアの隙間から息遣いが漏れ聞こえ、そっと除き見たのだった。
二人は抱き合っていた。
 事務机に両手を突いて上体を反らすように寄りかかるほのかに、マリアは覆いかぶさるようにしてキスをしていた。
 ドラマで見たことがあるキスとは違った。キスがあんなにも長く艶かしいものだと知らなかったはつの目には、嫌らしいものに見えた。
ドアの陰にいたはつは、足がすくんで逃げることも目を逸らすこともできなくなり、その場に釘付けになったのだった。
 涙が止まらなかった。
信頼し合っている二人が眩しかった。マリアに優しい眼差しを注がれている姉が羨ましかった。姉は立花さんと結婚するのにずるいと、腹を立てていた。
 どうして姉なのかとマリアに訊きたかった。
でも訊くまでもないということも分かっていた。
姉は婚約者の立花数馬といる時よりもはるかに輝いて見えた。
マリアもまた、生き生きとしていた。
姉がこの世にいる間は。


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