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  鏡のかけら 作者:asami
12・臆病
 そうは言ったものの、真理谷はかなり帰りづらかった。こんなに長く外泊したのは初めてだったのだ。
 はつはどんな顔をするだろう。
 罵倒されるだろうか。ただただ泣かれてしまうのだろうか。それとも、黙って冷ややかな視線を突き刺してくるのだろうか。
悪いのは自分だ。
はつの非難を素直に受け止めるしかない。
 夕暮れ。真理谷が帰宅してもはつはいなかった。
整然と整えられた人気のない部屋に、真理谷はぽつんと取り残されたように座り込んだ。
「まだ帰ってないのか」
気が抜けた。
 真っ赤な夕焼けがベランダから見えた。眩しいオレンジの光が部屋に差し込んでいる。
 暖かな光のはずなのに、もの悲しい空に見えた。
 夕暮れ時はどうして人恋しくなるのだろう。
 ご飯の炊ける匂い、お味噌汁の香り。自分の帰りを待っている家族がいる幸せ。
 部屋は明るいオレンジ色に包まれているのに、はつのいない部屋は寒々として冷たい。
 自分だけが世界中からとり残された気分だった。
「はつ……」
 呼ぶともなしに、名を呼んでしまった。
 もしかして、はつはもうここに帰ってこないのではないか。
真理谷は急に不安になった。
 目頭が熱くなった。手でこすると、目尻から滲んだ液体が手の甲についた。
 どうしたのだろう。
 自分でも理解できなかった。もう一度こすったとき、ようやくそれが涙なのだとわかった。
「泣いている……」
 ほのかが亡くなったとき、涙は出る前に枯れていた。それ以来、もう泣くことはないと思っていた。
 あの時、寂しくて心細くて泣きたかった。泣けた方がよほど楽だった。自分はこんなにも弱かったのだと思い知らされた。
今まで、はつが待っていてくれるから強くなれたのだ。
真理谷は声も立てずに涙を流して泣きながら、窓を開けてベランダに立った。
 濡れた頬に風が当たり、冷たくて心地よかった。
 今、気がついた。はつがどれほど大きな存在になっていたのか。
 いることが当たり前だと思い、甘えていたのは自分のほうだったのだ。はつはいつ帰るともわからない真理谷を、いつも待っていてくれたのだ。
待つ身の辛さを真理谷は知ったのだった。
「はつ、ごめん」
 空に向かって呟いた。
 何を糧に生きていけばよいのだろうか。
 はつがいない生活など、真理谷には耐えられない。気づくのが遅すぎた。もう、手遅れかもしれない。
 考えは最悪のほうへとどんどん転がっていった。
「ベランダで何をしてるの。一人で世界作って浸ってるの?」
 真理谷が振り返ると、はつがスーパーの袋を提げて立っていた。
「はつ!」
 真理谷は慌てて涙を袖口でぬぐった。
「……泣いて、いたの?」
 はつはそろそろと真理谷に近づいてきて、背伸びをしてその手を真理谷の頬にあてがった。
 はつの手のひらが心地よい。そこからはつの温かさが伝わって真理谷の体中を包み込んでいるように感じた。
 真理谷はたまらなくなって、はつを強く抱きしめた。
 スーパーの袋が、はつの手から離れて床にどさりと落ちた。
「はつ、ごめん……ごめんね」
 真理谷は腕の力を緩めなかった。はつの温もりをしっかりと感じとるように、その腕に力を込めた。
「マリア、苦しい……」
 真理谷はうわ言のように「はつ」と何度も囁きながら、はつの髪や背中を撫ぜた。
「はつ……」
 瑞々しい小麦色の頬に手をあてがい、真理谷は感情の赴くままにはつの唇に唇を重ねた。
 真理谷はいつまでも唇を離さなかった。ほんの少し唇が離れて真理谷が再びキスをしようとしたとき、はつが「好き」と吐息交じりに呟いた。
 はつの言葉に、真理谷は少し冷静になった。
 自分勝手なことをしている。少しくらい寂しさを感じたからといって、はつにこんなことをしてはいけないのだ。
「ごめん、何も考えずについ……」
 真理谷はそう言って、はつから離れた。
「どうして謝るの? 私のこと好きって言ってくれないの?」
「……はつは、大事だから」
「なによ、それって好きじゃないっていうこと?」
「いや、違う」
「じゃあ、好きって言ってよ」
「言えない……」
「どうして」
 真っ直ぐに真理谷を見つめるはつの瞳。自分のどろどろとした部分を見透かすような、汚れのない澄んだ瞳が怖かった。
「ごめん」
 真理谷はそう言って顔を背けた。
 これではこの前と同じだ。いつからこんなに臆病になってしまったのだろうか。大切な人ができたとき、別れる辛さをつい想像し、始まる前から終わりのときを考えてしまうのだ。
 はつはまだ若い。これからも様々な出会いがある。自分とのことは、一時的な高揚に過ぎないかもしれない。男の人を選ぶ日が来るだろう。ほのかの妹までも、不幸な目にあわせたくない。ほのかを失ったように、また愛する人を失うのではないか。それが怖いのだ。
 真理谷はどうしても一歩を踏み出せなかった。
「マリア……」
 はつは何故謝るのか理解できないとでもいうように、首をかしげて真理谷の顔を見上げた。
そして、はにかむように微笑んでこう言ったのだ。
「私ね、マリアがキスしてくれてとっても嬉しい」
 真理谷は素直に自分の感情を見せるはつにたじろいだ。
 はつはそんな真理谷の態度に少し顔を曇らせて、
「マリアは、違うの?」
 と恐る恐る訊いてきた。
 はつに答えなければいけない。真剣な眼差しをしたはつから逃げるなんて失礼だ。もう目を逸らしてはいけない。
 真理谷は頭の中ではそう考えていたが、顔は強張り、その口はいうことをきかなかった。
 自分であって、自分ではないような感じがした。
はつは真理谷の言葉を待つように、その大粒の瞳を瞬きもしないでじっとしていた。
真理谷は重苦しい空気に押しつぶされそうだった。
そうして見つめ合っていた時間がかなり長く感じられたのだが、実際は一瞬のことだった。
そんな真理谷を見かねたように、はつが目を細めてふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「いいよ、無理しなくても。ちょっと言ってみただけ。私はマリアのそばにいていつかきっと私のことが好きって言ってもらえるまで待つから」
 答えを出さなくても、はつは傍にいてくれるだろうと打算しているずるい自分がいる。はつはそれをわかっている。わかっていて、そんな真理谷ごと受け止めてくれたのだ。
 はつのほうが、大人だ。
 真理谷は弱々しい笑みをはつに向けた。
 そうだった。真理谷は五年前もはつの笑顔にほっとしたのだ。
 親戚の養女の話を断って、子犬のようにここへ転がり込んできたはつ。
「メリー、……お姉ちゃんの犬は、今も私の友達の家で元気にしている」
「私が探した犬。白黒のブチで太っていて牛のような体格なのに、羊を想像してしまうような名前だったから、依頼を受けたときに名前と写真を見て思わず笑った」
「もう迷子にならないようにって、お姉ちゃんが買った首輪は、今もメリーの首についているのよ」
「そう」
はつはメリーも連れてきたいと言ったのだが、ここはペット禁止のため、引き取れなかったのだ。
「あのね、これだけは聞いてほしい。お姉ちゃんは自殺じゃない。あれは、事故だった」
 真顔になったはつは、真理谷に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「もう昔のことだ。その話は、やめよう」
 真理谷の声がつい冷たくなった。傷をえぐられたくない。そっとしてほしい。
「マリアは誤解している。お姉ちゃんの婚約者、立花たちばなさんからも聞いた」
「立花に?」
「うん」
 立花数馬。夏川ほのかの婚約者だった男。口にするのも嫌な名前。当時のどろどろした空気が真理谷に一気に押し寄せてきた。その名を聞いただけで、真理谷は顔がきつくなった。
「マリア、まだ忘れられないの?」
「……立花は、ほのかはお前に殺されたのだと言った」
「え?」
 日がすっかり沈んで暗くなった部屋は、真理谷の一言で一層冷え冷えとしたのだった。


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