警告
この作品は<R-18>です。
18歳未満の方は
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16
狼が撃たれた。八坂がドアを開け車から降りようとした時に狙撃されたのだ。狼は弾丸を避けようともせず腹を撃たれて、膝をついた。薫水と八坂が狼に気を取られている間に狙撃手は人ごみにまぎれて逃げて行った。
そして、狼はいま自宅療法でベッドで眠っている。「入院しろ」と何度言っても「帰る」の一点張りで、化膿止めの薬と痛み止め、あと解熱薬をもらって帰ってきていた。
初日の2,3日は高熱がでると聞いていた通り狼は高熱をだして倒れている。狼が避けなかったのは後ろに薫水がいたからだ。
「うっ・・・ぅん・・・」
熱に魘されている狼に薫水は責任を感じる。避ければよかったんだ、と思いながらも強くは責められない。額や首筋にある汗の玉をみて、拭いてあげようと手を伸ばした。
ひんやりとした感触が額にあたり狼は目を覚ます。瞼を開けると心配そうな薫水の顔があった。なんて顔してやがる、と狼は苦笑いを浮かべる。狼は責任感じていますと書いてあるその顔についてある鼻をつまんだ。
「何すんだよ」
鼻を摘ままれて鼻声になっている薫水は、それでもわかる咎める声をだした。しかし、いつものように手を振り払おうとはしない。そんな薫水に狼は軽い口調で「気にするな」と言う。薫水は余計にしょげた顔になったが、ふん、と顔をそむけたからよしとする。
「なあ、本当に入院していなくてよかったのか?」
また同じことを言う薫水に狼は、熱で息苦しさを感じながら見る。そもそも薫水が責任を感じることはない。撃たれるようなヘマをやらかしたのは自分なのだ。返事をしないでいると薫水がベッド側に座り込んで覗きこんでくる。
「仕事は八坂さんがしてくれるし、家にいるよりいいと思うんだ。せめて、熱が下がるまで入院しようよ」
心配で心配でしかたないといった表情で訴えてくる薫水を狼は、なかなか可愛いじゃないかと満更でもない気分で見る。しかし、気にしすぎるところが気にくわない。
「気にするな。お前が悪いわけじゃない」
ぽろっと思わずそう言ってしまった後で、狼は自分の失言に気づく。自分の失態だといっても薫水は信じないだろう。原因が狼にあるとしても“自分がいなければ避けられただろう”と思うに決まっている。実際、銃発の前に気がついたのに、一歩も動こうとはしなかった。薫水にそれを言われれば言いかえす言葉がない。
「そうか、お前。オレに抱かれたくってしかたないんだろう」
茶化すように狼は薫水が何か言う前に言う。その言葉に薫水は絶句した表情を見せ、頬を染める。擦れているところを見せるかと思えば、変なところで純な姿を見せる薫水。
「安心しろ。これぐらいなら抱いてやれる。服脱いで跨るか?」
あわあわと泡を吹きだしそうな口を薫水は、キッと結ぶと「このバカ!」と怒鳴ってでていった。そんな薫水の後ろ姿を狼は可笑しそうに見送った。瞼を閉じるとそのまま意識が落ちていくのを感じる。それから再び目を覚ましたのは、夕方を過ぎてからだ。
目を覚ますと薫水がベッドに突っ伏して眠っていた。この前、風邪で倒れた時とは大違いの薫水を起こさないように気をつけながらベッドからでる。携帯を手にして、電話をかけたのは八坂だ。
狙撃犯の目星をつけないといけない。世間では、薫水は自分の女だと思われているだけに、自然と薫水は危険にさらされることになる。そして、今回、狙撃されたことで、その危険度はレッドゾーンに入ってしまった。
犯人を締め上げてきっちり形をつけないことには、薫水を自由に外に出してやるわけにはいかない。第一狼自身が安心して、薫水の側を離れられそうにもなかった。
熱も下がりあとは抜糸を残すだけとなった狼は、さっさと自分で糸を切り抜歯した。薫水が家にいたらがみがみと口うるさいので、いない時に糸を抜いた。だいたい刺されたり喧嘩傷を縫ったりとその類の治療は慣れている。見ていたら自然と覚えたのだ。その気になれば、自分で縫うこともできるのではないかと最近思い始めていたところだ。
さすがに、腹から弾を取り出すというのは無理なので大人しく病院に運ばれはしたが、病院の辛気臭い空気など吸っていたくなくて帰ってきた。それに、こんなもの日にち薬で、医者がどれだけ偉そうなふりをしてももう用無しだ。
「せめて、今日一日くらい様子を見てはどうです?そんなに慌てなくてもあの人なら逃げませんよ」
八坂は自分でけしかけておいて、そんなつじつまの合わないことを言う。狼は抜歯を終えた腹を一撫ですると立ち上がりクローゼットからシャツを取り出した。医者は「3日後に抜歯しましょう」と言ったがまっていられず、勝手にやって今に至る。
「お前らが、情報を聞きだせなかったのが悪いんだろう。そんなことより、薫水の護衛はしっかりしてるんだろうな?」
「ええ、火野をつけましたから安心してくださって結構ですよ。もしもの時は楯にもなりますから」
火野ならやりかねないなと思いながら「そうか」と狼は答える。八坂は一刻も早く今回の件の原因と主犯が知りたい、と焦っているのが手に取るようにわかる。
「もう、出ますか?」
「いや、一服してからな」
狼はそう言うとベッドサイドに置いたチェストから煙草とジッポをとりだす。煙草を口にくわえ、火を付ける。煙草の燃える音とともに煙を吸いこんだ。久し振りの煙は、一概にも旨いものではないが、それでも口元の拙さはなくなる。つまりただの習慣だ。
「体を気遣ってはいかがです。もう、そろそろいい年なんですから」
「まだ30にもなってないのに、体を気遣ってみろ。あっという間に老けこむ」
狼のふてぶてしい返答に八坂は心の中で、まったくと呟くとそれとなく薫水に言っておこうと考える。この人の弱みはあそこしか思いつかないからだ。
「今日は帰れないかもしれないからな。しっかり薫水を見とけよ」
狼はそう言うと煙草を銜えたまま立ち上がり、自分の部屋を後にした。残された八坂は、火野に電話をすると社長がでて行ったことを伝える。
日付も変わり空がしらばんでくる頃、薫水は疲れてソファの上で眠っていた。家に帰ると狼の姿はなく、始めはあんな体でどこに行ったんだとカリカリと怒りを表していたが、時間がすぎるにつれて帰ってこない狼の身を心配して心細くなった。
どこかで倒れていないか、また襲われて怪我をしたんじゃないか、と心配でとうとう八坂に狼の居場所を聞くために電話をした。しかし、八坂には「大丈夫ですよ」と軽くあしらわれてしまった。
不意に香る甘ったるい匂いに目を覚ますと、病み上がりの狼の姿が目の前にあった。帰ってきたんだ、と薫水は反射的にほっと息をついていた。体が抱きあげられている。狼に無理をさせてはいけないのに、いつものように振る舞う狼の姿が無性に嬉しかった。
「お帰り」
狼はその言葉に薫水が起きたことを知る。帰ってくるとテレビもつけず、薫水がソファで縮こまって眠っていた。日中は暑いとはいえ、秋口になって朝晩は肌寒い。抱き上げた薫水の体は予想したとおり冷たかった。
「オレのベッドにくるか?」
狼は冷えた体を温めてやろう、とそうやって誘う。それだけで終わるかどうかは保証しないが、無理強いをするつもりもない。
薫水は「ふうん」とYESなのかNOなのかわからない返事を返してきた。そんな返事の場合は、狼は自分の都合のいい方に受け取る。そのまま自分のベッドに運んだ。
「ほら、着替えろ」
薫水に自分のシャツをわたし着替えるように言うと自分も服を脱ぎ捨ててベッドへとはいる。薫水の体を布団で包むように抱きしめると横になった。
着替えをしたせいで頭がはっきりとした薫水は、狼についた香りを認知する。普段決して香水やコロンの類をつけない狼には、あまりにも違和感のある香りだった。甘ったるい花の香り。
「香水・・・か?」
「ああ、移ったんだな。仕事だ、気にするな」
『移り香』という言葉が頭に浮かんで薫水は動揺する。その意味を知らないほど世間知らずなわけではない。自分以外の女性とそういう行為があったということだ。甘い大人の香りに薫水は、わけも分からず、しかし、強く心を揺さぶられる。
意味もなく変な自信があったからなのだろうか。怪我が治ったら絶対に、セックスするぞと迫ってくると思っていた。わざわざ外に出て他の人となど考えてもいなかった。
狼から薫る匂いが嫌で、薫水は起き上がると「やっぱりもどる」と一言だけ言って自分の部屋へと戻った。引き留めもせず「そうか」と冷たく言われて、薫水は途方に暮れる。
その気持ちのまま自分のベッドに潜り込む。自分を包む狼のシャツごと体を抱きしめて、体を丸めるとシーツの冷たさも自分の体の冷たさも痛いくらいに感じた。淋しいのか苦しいのかよくわからない、綯い交ぜの感情だけがそこにあった。
すっかり回復した狼は、社長室のディスクの上で手を組み項垂れていた。深刻な表情のまま頭を垂れる狼は、自分が手を出したものへの畏怖すら感じている。しかし、ここで手放せるようなものではないので、困惑し困り果てているのだ。そして、それは資料を手にしている八坂も同じだろう。
狼が聞きだした情報は、菊池代議士の息のかかった者が狙撃手だったということと、桜海家御大が孫娘が木音美咲であること。そして、桜海家はその娘の子供を次期当主として迎えようと考えていること。
桜海家は明治の頃からの一流企業で、名門中の名門の家系だ。当然のように財界、政界に顔が利き、隠居こそしたがまだまだ健在の御大の権力はすさまじいものがある。長男が継ぐはずだった桜海家を現在は、次男が引き継ぎその中核となっている。
菊池代議士の菊池家は、桜海家の分家にあたる。菊池代議士は実力こそあれ決して、桜海家の中核には立ち入れない存在だ。今の時代には珍しく桜海家は血筋を重んじる。
これらの背景を元に狼は、一つの仮説を立ててみた。立てたくはなかったが、火野からの「菊池の者が薫水さんの周りをうろちょろしてますがどうしますか?」というタイムリーな報告で立てざる得なかった。
そして、その仮説を裏づけるために証拠を集めた物が八坂が手にしている資料だ。その資料には、直径長男の娘が木音美咲、つまり薫水の母親だ。しかも、次男夫婦には子供がいない。薫水は間違いなく桜海家の大切なプリンセスということだ。
一度、桜海家に薫水が足を踏み入れれば、もう自分など会うことすらかなわないだろう。桜海家の者が自分を受け入れるわけもない。薫水には家柄にあったものをと思うのは自然なことだ。
「どうします。あまりにも看板が大きすぎるかと」
「ふぅ、蛇に睨まれた蛙の気分だ」
一介の金融屋ごときでは、桜海家に太刀打ちできるわけでもない。しかし、薫水を手放すことは狼には出来そうもなかった。
このことを裕輔は知っていたのだろうか。自分が裕輔に頼らなければならないと思うと虫唾が走る思いだが、橘ほどの名家なら桜海家と対等とまではいかないまでも、それなりの交渉ができるだろう。
狼は気の進まない思いのまま、ニューヨークにいる橘裕輔に国際電話をかける。『Hello?』と裕輔の声がして、狼はため息をついた。仕事でニューヨークに行くと聞いた時にはどれほど嬉しかったか。目の上のたんこぶがとれたような気分だったのに。
「薫水のことで問題が起きた」
狼は端的にそれだけを述べると「そうか」と裕輔の真剣な声が返ってくる。論点だけを述べた会話を二言、三言交わし裕輔は「明後日には帰る」とだけ言って電話を切った。
「なりふり構ってられない状態ですね」
八坂の軽口に狼は今日何回目かの溜息をついた。
裕輔は日本行きの飛行機の中で、美咲のことを思い出していた。桜海家のことは美咲から聞いて知っている。御大には美咲さんが亡くなった時に会いに行っていた。それどころか、家の柵が嫌で独立した時、御大には手厚い支援をしてもらってもいた。
日本につくと真っ先にニコニコローンへと向かう。電話で前もって薫水がいないことを確かめると社長室にいる狼のもとへと急ぐ。
「待ってたぜ」
「約束通り薫水にはこのことを言っていないだろうな?」
「ああ、薫水は何も知らない」
狼は自分が撃たれたことは裕輔に伏せている。変な弱みを見せたくなかったし、格好がつかない。裕輔は誰が見てもわかるほど安堵の表情を浮かべた。そして、すぐに締まった表情を浮かべると話を始めた。
「このことからは手を引いてもらいたい」
「なんだと?」
裕輔の言葉に狼は険しい言葉をかえす。裕輔は強引に納得させるように同じセリフを物静かにそしてきつい口調で言った。
「お前の関知するところじゃない。ただの内輪もめだ、心配するな」
裕輔はそう言うと狼を排除しようとする。しかし、そんなことを狼が承諾できるわけがない。実際、その内輪もめとやらに巻きもまれて腹を撃たれたのだ。
「まるでお前は身内みたいな言い方をするじゃないか?」
「オレは身内だよ。薫水の母親と薫水の家族だからな。オレから言わせれば、お前こそなんだ?薫水にとってはただのビジネス相手じゃないのか。この問題は身内の話だ。ただのビジネスパートナーに口だしされては困る。ここまで言ってもわかってもらえないようなら今すぐ薫水を連れて帰ることもできるが、どうする?」
裕輔の本気の脅しに狼は、言うべき言葉を失う。裕輔を睨んでいた瞳を伏せると狼はそのまま沈黙する。狼の沈黙を承諾と受け取ると裕輔は「帰らせてもらう」と言って席をたった。
社長室の扉が閉まったと同時に物が散乱する音が鳴り、吠える狼の声が事務所を駆け巡った。
ビジネスパートナー。
そう揶揄されても言いかえす言葉がない。どれだけ長く一緒の時間を共有しようとどれだけ深く体を繋げても自分と薫水の関係は所詮そことまりなのだ。セックスも普段交わす他愛無い会話までもビジネスであるかのように揶揄された。
きっと薫水が最終的に頼ろうとするのは、橘裕輔あの男だろう。兄として父として時には母親のように見守り守ってきたあの男。薫水が全幅の信頼をよせている男。
その時、火野から連絡が入った。狼は息を整えると通話のボタンを押す。火野は慌てた口調で「すみません」と一言謝ると立て続けに言う。
「木音さんを見失ってしまいました」
その報告に狼は舌打ちをすると鍵だけを手にして、社長室から出て行く。駆け足で車に乗り込むとそのまま市内へと駆けだしていく。
薫水が火野に気づいたのは狼が打たれて2日後のことだった。それからずっと火野につけられていて、いきたい所にも気軽に行けなかった。狼が完治するまではそんなに自由に歩き回りたいと思わなかったんだけど、今は物凄くはしゃいで遊びたい気分だ。
「もしもし、聡司。突然で悪いんだけど時間ある?」
自由になった身で聡司に真っ先に連絡を取る。火野がいる前でというより、狼の関係者の前で聡司と会いたくなかった。それに、二人は相性悪い感じもする。
『ちょうどバイトが終わる頃です。どこにいます?』
「へへへ、ラッキー。それじゃ、いつもの公園でどう?」
『わかりました』
そう答えてくれた聡司の声も楽しそうだ。伏せているのは自分の気性にもあわない。パァと派手に遊ぶに限る。それに今は資金には困らない。ホストのバイトでガッポリほかほかの懐だ。
「散財しまくってやる」
薫水はそう言って、スキップでもしそうな足取りで駆けだした。薫水が公園についた頃、聡司はバイト先の先輩に「今日は早引きさせてくれ」と伝えて、薫水が待っている公園へと急ぐ。久し振りに声を聞けただけで、心がふわりと軽くなる。会えると思えば体ごと羽がはえて飛んで行けそうなほど軽くなっていく。
もう、薫水は公園についたかもしれない。と聡司は走るスピードをあげる。30分ほどで公園についた。
「聡司、待ってたぜ」
薫水がそう言って手を振る。聡司も同じようにだが、控え目に手を振った。まるで恋人同士の待ち合わせにようで気恥ずかしい。
日も暮れて、場所も変わり、半個室風の創作料理店に二人はいた。料理の皿よりもグラスの方が多いのは、ほとんど薫水が飲んだ後だ。いつもより2割増しに騒いでいることを自覚しながら薫水は、聡司と楽しい時間を過ごしていた。
「あ、ごめん」
聡司と楽しく飲んでいたら携帯が鳴っていることに気づいた。いつものなら確かめてからでるのに、酒がまわって油断した。通話ボタンを押したと同時に狼の刺々しい声がする。
『早く帰ってこい』
前おきもなく命令口調のその言葉に、薫水は小腹をたてる。珍しく繕う気もおきず、薫水は今の自分の気分のままのトーンで狼に返事を返した。
「なんだよ。まだ、時間じゃないじゃんか。偉そうに言うな〜」
かなり酔っているとわかる薫水の口調に狼は怒りで頭痛を覚える。時間が大丈夫?もう、深夜の1時を回っている。電話もどれほど鳴らし、何回もメールを入れていた。
『何が大丈夫だ。もう、深夜だぞ。いますぐ帰って来い』
「え〜、うそ?」
薫水はそう言いながら耳から携帯をはなし時間を見る。時刻は1時25分になっている。「ほんとだ〜」とのんびりと間の抜けた声が微かに聞こえてきて、狼の怒りを増幅する。
『わかったらさっさと帰ってこい』
いつものような暴君発言に薫水は、小腹から大腹が立ち本格的に逆らいたい気分になった。だいたい自分は夜遅くに帰ってきたり女の匂いをさせて帰ってきたりするのだから自分だけがそれを許されないのは不公平だ。人権無視だ。
「ヤッ!」
『何?』
「オレ、今日帰らないから。好きにしてて、だいいち気分よく飲んでる時にしらける電話かけてくるなよ」
電話ごしでも伝わる不穏な空気に薫水は、これ以上は意味なしとばかりに電話を切った。それだけじゃ不十分とばかりに電源まで切った。
「いいんですか?」
「ああ、いいの、いいの。あいつさぁ、最低なやつでさ〜自分勝手で、傲慢で、馬鹿で、それで冷酷無血の血の色緑か青なの」
心配そうに言ってくれた聡司に明るく狼の最低なところを思いつく言葉で言い並べた。
「それは、大変ですね」
「そうなんだよ。あんなのと24時間一緒にいるとさ。息苦しくて窒息しちゃう」
薫水はグラスに残ったビールを飲み干し、聡司に健康的な微笑みを返して言った。
「その点、聡司といるの楽し〜聡司は優しいもん」
聡司は手放しの讃辞に照れくさそうに俯く。しかし、薫水はそんな聡司に気づかず、今思いついたいい提案を聡司に伝える。その口調はどこまでも楽しそうにはずんでいる。
「なぁ、聡司。めちゃくちゃ気持よくて楽しいことしたくない?」
聡司は薫水の怪しいセリフに視線をあげる。目の前には嬌艶ななかに悪戯をする子供のような表情を忍ばせている薫水がいた。聡司は顔を真っ赤にして頷く。
「じゃあ、行こうぜ」
薫水はそう言って聡司の手を取って店を出た。気前よく万札を置いて「釣りはいらねえ」と気障たらしく言って駆け出す街は何とも言えない爽快感がある。
タクシーを走らせること約1時間。大きな屋敷の前でタクシーは止まり、薫水に連れられて聡司は屋敷の中に入って行く。普段は使われていないのだろう。常日頃に使われている独特の人の気配はなかった。
薫水は聡司を連れだって、二階へと上がる。角部屋に入るとさらに奥の部屋へとはいっていく。暗くて細かいことは分からないが、そこには二人で十分寝られるほどの広いベッドがあった。聡司はその光景にどうしていいのかわからず、目を伏せて戸惑った表情を見せる。しかし、薫水は迷うことなくベッド横に立つとそこにある大きな出窓を開けた。
夜風がカーテンを揺らし、薫水の姿を包みこむ。見惚れるほど絵になる薫水の姿に、自分が惚れてしまったことは仕方ないことだと聡司は考えた。自分だけじゃない。性別などでは薫水の魅力を阻害できないのだ。
窓辺に薫水は座り、聡司に向けて手を差し伸べる。請われるまま導かれるままに手を取ると引き寄せられる。薫水に倒れこむようにバランスを崩す。そのまま窓から落ちた。
「え?わぁぁ」
落下していく、信じられない思いで薫水を見るとその表情は、悪戯をなした子供のように無邪気に笑っている。どうやら薫水の悪戯に嵌められてしまったらしい。迫ってくる水面に硬く目を閉じた。水柱と水音が響いて、体が泡に撫でられて沈んでいく。
「ぷはぁ、ははは。聡司、大丈夫だったか?」
薫水は水面から顔をだすとけらけら笑いながら言う。聡司も薫水に遅れて浮かび上がると鼻に水が思いっきりはいりむせていた。鼻に入った水のせいで鼻が痛くなり涙腺までもおかしくする。
「何をするんです。死ぬかと思いました」
「へへへ、でも気持よかっただろ」
「それよりここはどこなんです?」
ずっと思ってた疑問を聡司は冷静になって質問する。プールの水のおかげで馬鹿な熱をあげていた頭は正常になった。薫水は背中で水に浮かぶと空にある無数の星を見ながら答えた。
「兄ちゃんの家。まあ、別荘みたいなもんだけど」
市内から少し外れたこの場所は、自然に囲まれて都会の謙遜とはかけ離れた場所だ。裕輔がはじめて自分の金で建てた家だ。それも、家族水入らずで過ごせるようにと裕輔が買ったのだ。
「水遊びにはもってこいだろう。まあ、もうだいぶんと使っていないから食べる物はないけど、何か買いに行く?」
「いいえ、お腹いっぱいです。それより素敵なところですね」
プールはとても深く、今飛んだ窓から飛びこむことを前提につくられているようだった。それに建物とプールの間があまりにも狭い。それに家事態があまり大きいものではなかった。とはいっても土地の広さに比べればという意味で、一般階級の家よりは聊か大きい。
「それはどうも。薫水、飛び込みは禁止だとあれほど言っただろう」
そう言ってプールサイドにいたのはスーツを着た男。ふわりとかかったウェーブ状の髪の毛、耳に5つも付いているピアスが月の光を反射して光っていた。聡司は見たこともないその男に目をやる。もしかしたら薫水のお兄さんかもしれない。
「いいじゃん、飛び降りてもいいように設計されてるんだから」
「設計しなおしたんだろう。何度いってもとび下りるから」
薫水はプールからあがり海外にいるはずの裕輔に両手を広げた。そして、そのまま抱きつくと「兄ちゃん、お帰りなさい」と言って抱きしめた。薫水の頭に裕輔は手をのせると「スーツ濡れた」と一言いう。その表情は愛しげで、聡司の目から見ても彼が薫水を大切にしているのがわかる。
「で、そこの可愛い彼は何者?もしかして、彼氏かな?」
「えっ、私は、その友人です」
男の自分に彼氏と言った言葉に違和感を覚えたが、聡司は気にすることもなく答える。裕輔は「そう」と言って友好的にほほ笑み、聡司に手を伸ばしてきた。聡司がその手を取ると引き上げる。
「ふふふ、薫水のお友達は見目麗しい子が多くて、困っちゃうな」
裕輔のその言葉に薫水は「兄ちゃん」と冷視をむける。裕輔はそんな視線をさらりと流し、薫水をプールにつき落とした。
「どうせ、まだまだ遊ぶんだろう?兄ちゃんは明日早いからもう寝るぞ」
そう言って裕輔はその場から立ち去ってしまった。薫水は色々聞きたいことがあったのにな、と思ったが、明日朝早くから仕事があるのなら仕方ないと思って聡司と水遊びを楽しんだ。
朝になり冷静になった薫水は昨日の失態を思い出して、頭を抱え込んで倒れていた。朝帰り(正確にはまだ帰っていない)の上に、『放っとけ』とか『うざい』とか言った・・・ような気がする。どう考えてもヤバいよなと、悪いことをして何とか隠ぺいしようとしている子供の気分だ。
一刻も早く帰って謝る以上の策を思い付かない。実際それが最良の策なのだが、行使する勇気と覚悟がセットでついてくる。それに、甘んじて罰を受ける気にはなれなかった。
責任転換とも言えなくはないが、今回こんな風に失態に走らせたのは、薫水個人だけの責任ではないような気がするからだ。狼が悪い部分だって9割はあった。どこだ、と追及されると困るのだが、いつもだいたい7割は悪いのだ。
考えていくうちに狼の悪い部分が増えていく。今回の失態のカバーよりも狼の悪い点にばかり頭が回って行ってしまう。
「おはようございます。起きてますか?」
ノックの音がして、聡司の声がした。返事をしようとして、薫水は自分が軽装なことに気づく。これじゃ、完璧に女だとばれてしまう。
「ちょっと待ってて」
薫水はそう言うと箪笥を開けた。そして、時の流れに気づく。そこにあるのは、小学生の時に来ていた服ばかりで、母さんが生きていた時の薫水の服しか入っていなかった。
「あっちゃ、これは着れないよな」
明らかに大きく成長してしまった自分の体では、この箪笥の服たちを着るのは不可能だ。他に服ないかなと思いながら探していると机の上に服が用意されていた。
「お、あるじゃん。兄ちゃんだな、気がきく」
置かれている服に手を伸ばすと意気揚々と着替える。どうやら裕輔の服のようで少し大きかったが、それでも全然着れる。
「ごめん待たせた」
聡司にそう言って部屋を出る。聡司は壁にもたれて待っていてくれた。「腹減ったな」と聡司に言うと「そうですね」と返してくれた。そう言えば、きなこ大丈夫だったかな、と思いながらリビングへと向かう。
リビングの机の上には、だし巻き卵、オクラと鰹節の和えもの、味噌汁の椀、鮭があった。これこそが純日本の食卓という感じだ。裕輔が用意しておいてくれたんだろう。
手を合わせて行儀よく「いただきます」をすると薫水は、まず味噌汁に口をつけた。そして、味が違うことに気がつく。たぶん昆布と鰹節のバランスが違うのだろう。鰹節のほうが多いのかもしれない。
「美味しくなかったですか?」
聡司は箸をとめた薫水の姿に心配そうに尋ねる。いつもは簡単な粒化だしの素を使うから、初めて昆布と鰹節から出汁を取ったのだが、やはり不味かったのかもしれない。
「え、いや。てっきり兄ちゃんが作ったのかと思ってたからちょっと驚いた。聡司も料理できるんだ」
「薫水と違って、得意ではないんです。ただ節約のためにもと思ってやっているんですが」
「大丈夫、美味しいよ」
薫水は鮭をつまんだ。鮭は少し塩加減が足りないような気がしたけど、それはほんの心持ち程度で美味しく食べられる範囲だ。
「お兄さんも料理なさるんですね」
「うん、母さんがさ。何もできない人で、兄ちゃんが食事とか色々してくれて。オレ、めちゃくちゃ兄ちゃん子でさ、兄ちゃんについてよく遊んでたんだ」
思い出に浸って今の現実をなかったことにしてしまいたい。よぎった母さんと裕輔の微笑ましい姿の上にかぶさるように鬼に化した狼の姿。
「はぁ、帰りたくないなぁ。でも、あいつ飯食べれてないんじゃないかな」
思わず情けない声で呟いてしまった言葉を、聡司は丁寧に拾ってくれた。そして、きちんと会話へと結び付けてくれる。
「昨日からそればっかりですね。シェアしている人のことばかり愚痴ってますよ」
「ごめん、愚痴ばっか聞いてもらってるんだよな。しかもこんなところもまで連れてきちゃって、バイトとか大丈夫か?」
聡司は気にしないように愛想笑いを浮かべると薫水に言う。
「いいんです。バイトは今日はないんで。それより薫水は、大丈夫なんですか?昨日も喧嘩腰で電話してたし」
聡司の言葉に、あれはまずかったよなと思いながらも億尾にもださずに箸を振りながら「いいの、いいの」と軽く言う。
「なあ、聡司は自分の予想が外れたらもう、なんていうのかなモヤモヤとかする?」
「よくわかりませんが、がっかりではなくて?」
唐突な話にイメージを膨らませることもできず、それでも一般的な感情で返事を返した。薫水は眉間にしわを寄せて、その感覚は少し違うことを訴える。
「がっかりはちょっと違う。相手は悪くないんだけど、何か期待を裏切った相手が悪いみたいな。ちょっと責任転換的な発想に近いかも」
聡司に伝えようと言葉にしてみて、他人に自分の責任をなすりつけているようにも感じられて、薫水は自責に駆られる。最近、あまり狼がお金のことを言わないから忘れかけていたが、対等な付き合いができるような関係ではなかったのだ。
薫水は箸をおくとずーんと打ちひしがれる。なんだかとても大人げないことをしてしまっていたのは自分の方だった。
深く反省して肩を落としていると聡司が複雑な表情を浮かべた。薫水が誰を気にかけていることが心をざわつかせて、ざらざらとした手触りの気持ちにさせる。
本当に嫌いな相手なら愚痴をこぼしても相手を気にするような言葉を言ったりしない。食事の心配をしたり気を引くようにわざと突っかかってみたりするということは、大なり小なりその人物に好意がある証だ。
「今日は僕に付き合ってくれませんか?僕も愚痴で一杯なんです」
このまま帰してしまうのは悔しい感じがして、聡司は気の悪いことをしているとわかっていても言わずにはいられなかった。思ったとおり薫水は少し困ったような表情をして、少し思案するような声をあげる。でも、
「いいよ。昨日付き合ってもらったしな。どこに連れて行ってくれるんだ?」
「大学です。キャンパスを見てみたいって言ってたでしょう?」
「大丈夫なのか?部外者が入って」
「大丈夫でしょう。生徒かそうじゃないかなんてわかりませんよ」
意外と大胆なことを言う聡司に薫水は、驚きつつも大胆なところがある奴の方が一緒にいて楽しいと思いなおす。それに、薫水は大学に通ったことがない。高校はなんとか最後まで通ったものの大学は行きたくても行けなかったのだ。
「それじゃ、講義とかも受けてみたいな。聡司と一緒にいれば大丈夫かな?」
「僕と同じ講義でいいんですか?興味のある科目とか大学についたら確かめてみては」
「そうだな。でも、そうなると教科書とかないし、何も広げないで抗議受けるのも受けにくいじゃん」
「大学の講師はそんな細かいところまで見てませんよ。それに、気不味かったら教科書の変わりに数冊の大学ノートとか、他の教科書でも広げておけばいいかと」
「そんな適当でいいのか。大学よ。そんじゃ、気になった講義片っぱしから受けてやる。聡司も付き合えよ」
「大事なことを忘れてます。学生の楽しみ学食です。大学メニューを食べないうちは大学生とは言えないですよ」
「そうだな、学食くってみたいな。何が美味いかな?」
薫水と聡司は大学生一日体験ツアーの予定を具体的に練り込んでいく。聡司の講義は昼からで朝食を終えると薫水は聡司について大学に行った。
楽しかった大学体験も終わり、夕暮れ時。薫水と聡司は大学の門をくぐる。他の大学生と同じように帰宅するのだ。薫水はこの楽しい気分のまま聡司とどこかへ遊びに行きたかったが、聡司はこれからバイトなので残念だ。
「オレも聡司と一緒にバイトしようかな〜」
「肉体労働ですよ。薫水みたいに細い体じゃ、すぐダウンです」
聡司がからかう口調で言う。薫水はすぐさま「そんなことない」と否定した。これでも体力には自信がある。並みの男となら対等にやれる自負があった。
「細いですよ。手首だって僕より一回り以上細いでしょう?」
「背はそんなに変わらないじゃんか」
聡司に手首を握られて比べられる。明らかに違う太さにむくれてしまった。小さい頃から薫水は男の子になりたかったのだ。聡司は一見細くひょろりとした印象を持つ体をしているが、脱ぐと凄いのだ。
筋肉が均等についていて、狼とはまた違った筋肉美をしている。例えるなら狼がライオンのようにダイナミックな感じなら、聡司は豹のようにシャープで曲線的だ。どちらも機能的で美しいことには変わりなかった。
「オレも脱ぐと凄いかもよ」
薫水は冗談で言ったつもりだが、聡司は絶句して固まってしまう。薫水はその間に一瞬、まずいこと言ったかな?と思ったが、「冗談だ」と言おうとして、自分を呼ぶ険しい声に気づいた。声がした方に振り替えると狼がいた。
凄い剣幕であっという間に詰め寄ってくると逃げるよりも先に腕を握られる。「やめろよ」と薫水が叫ぶよりも先に聡司が割って入った。文字通り体ごと。
「何をするんですか!」
怒鳴るように告げられた言葉を狼は、無視するように聡司ごしに薫水を見て言いつける。
「オレは帰ってこいと言ったんだ。それを破ってただで済むとは思っていないな」
「お前はいつもそうだよな。自分は勝手にするくせにオレにばかり!」
薫水は声を荒げない狼に本気を感じつつも引けない思いがした。薫水は畏怖すら感じるそれを吹き飛ばすように声を荒げる。すると聡司が狼の手を握り、狼と睨みあう。
聡司は混乱していた。目の前にいるのは、酒屋のまえで痴話喧嘩をしていた男。その男が連れていたのは薫水そっくりの女だったはずだ。それでも、今すべきことは決まっている。
「嫌がっているでしょ。どういうご関係が知りませんが、引いてもらえます」
無言で睨みあう狼と聡司。ふと狼が口元に笑みをこぼした。そして、薫水から手を放し、胸ポケットから煙草を取り出す。そして、火をつけ煙を吸い込むと忌々しげに微笑み薫水に言う。
「そいつにもやらせてやったのか」
「なっ」
聡司はその言葉に驚き声を漏らし体をひいた。薫水は声にすらならず、瞳孔を見開いて表情を凍らせる。狼は余裕の表情でさらに屈辱的な言葉を繋げていく。
「よかっただろう?そいつの体は。そうじゃなきゃ、わざわざ庇うような真似はしないよな」
薫水はその言葉に拳を握り締めると聡司の前に出る。俯いたまま手を振り上げた。激情の感情のまま手を振りおろす。狼の頬を叩くはずの手は阻止されて、握りつぶされる。
「残念だったな」
狼は弱いものを弄ぶように楽しげな声でいい。薫水の耳元に唇をよせると「いくらだったんだ?」と呟いた。薫水はその言葉に反応を返さなかった。そのことに聊か興が覚めて、狼は薫水から手を離した。
「薫水?」
聡司が俯いたままの薫水を気にかけて声をかける。薫水はその声を合図にしたかのように顔をあげて、狼を睨みつけた。今度は狼が言葉を失う。
「お、オレは・・・」
そこから先が声にならない。聡司は薫水の声が震えていることに気づく。薫水はそのまま狼に背を向けると聡司をすり抜け走りだした。聡司は薫水の顔を見て、反射的に後を追いかける。薫水が泣いていたのだ。
残された狼は一人車内へと戻る。後部座席に乗り込むと運転席にいる八坂に「出せ」と短く命じる。するとすぐに車は動きだした。仕事の外回りの途中で薫水を見つけ、慌てて車を止めさせたのだ。
「何をしているのですか」
一部始終を見ていた八坂が嫌みたらしく丁寧な言葉で言ってきた。八坂は薫水を泣かしてしまった社長と、身を硬くして固まるしかない姿を見ていたのだ。泣かせてしまったこともだが、あの場ですぐに追いかけて行かなかった狼に対しての言葉でもあった。
薫水は薄暗い空の下で途方に暮れていた。ぽつぽつとネオンが光りだしていて、それがよりいっそう薫水の気持ちを寂しくさせた。捨てられた子犬のように心細くて淋しくて悲しかった。
街角の植木に座り込み空を見上げる薫水は、本当に捨てられた子犬のようだ。
こんな思いをしたのはこれが初めてじゃない。いつもは怒りとすり変わって、気がつかなかっただけだ。狼に突き放されるように距離をとられるといつも感じていた。そして、この感覚を薫水は過去に一度経験している。
母が亡くなり一晩中、母に付き添っていた時に感じた思いと一緒なのだ。愛されたい。もう一度、あの温かな存在で愛されて包まれていたい。生者と死者となり交わらなくなった時が堪らなく哀しかった。そんな思いと一緒だった。
突き放されて、買われていると言われるたび、愛されたい、愛して欲しい、対等に自分を見て欲しいと。二人の間にある歴然たる距離を淋しい、悲しいと感じていたのだ。ただ、認めたくないと思う思いがそれを怒りへと変えていただけ。
聡司が追いかけてきていたことには気づいていたが、とても足を止める気にはなれなかった。誰とも会いたくない。
「YASHUくんじゃないか」
声をかけてきたのは代議士の菊池だった。CHESSのオーナーの新店舗で短期バイトをした時、しつこく声をかけてきた客だ。そういえば、最終日に狼と揉めた。
菊池は人の良さそうな笑みを浮かべて近づいてくる。最初の時にも思ったことだが、胡散臭いと薫水は瞬時に思う。かかわりたくなくて、薫水は立ち上がり去ろうとする。
「それとも木音薫水ちゃんと呼ぶべきかな?」
菊池の言葉に薫水は足を止める。自分のフルネームを呼べるはずのない菊池がどうして知っているのか。疑問に思うとともに嫌な予感がした。
「何のことかわからないな」
「誤魔化さなくてもいい。あの金融屋のことも、君の周りをうろうろしている橘社長のことも知っているよ」
狼のことどころか、裕輔のことまで言われて薫水は眉間に皺をよせる。あまり知らない他人に自分のことを知られているのは気分のいいものじゃない。
それでも、多少の興味をひかれるが、首を突っ込まない方が吉だ。それ以上会話を交わす気もなく去って行こうとした薫水の背中に。
「君のお母さん美咲さんといったね。彼女とは面識があるんだ。それだけじゃない。彼女とは昔色々とあってね。君の知らない彼女のことも私は知っているよ」
母さんのことを言われて、薫水は足を止めた。菊池の言葉の真意はさておき、自分が知らない母さんの秘密があるのはあまりいい気分じゃない。それに、菊池と母さんの間に何があったのか、母さんの敵なら自分の敵だし、それなりの対応をとらなければならない。
「興味を持ってもらえたようだね」
振り返った薫水に嬉しそうな笑みを浮かべて菊池が言った。
「君に危害を加えるようなことはないよ。彼女の娘である君に手を貸してあげたいと考えているだけだからね」
菊池が人のいい笑みを浮かべて言う。その瞳の奥があまりにも胡散臭く、嘘臭くて薫水は皮肉げに心の中で笑った。それは、嘲りにすら似ていて、信用してはいけない種類の人間だなと直感が告げる。
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