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  売買契約 作者:若紫
15
 体の線を綺麗に見せつけるような透き通るような色のドレスを着て、こじんまりとした質朴な雰囲気の店内でしゃがみこんで棚の商品をみていた。金で縁どられたダイヤのネックレスと緑の石のブレスレットも薫水には、あまり価値はないのだろう。つけていることを自覚しないような態度を取る。
薫水は棚に並ぶワインを見て歩いていた。銘柄、年代を真剣な眼差しで見ている。眼差しが鋭いのは、ワインの選択眼のためだけじゃない。
狼の付き合いにつきあわされて、闇闘技場に行き賭けに参加した。狼に賭けに負けて、大損し、そのうえ何とか取りもどそうとむきになった薫水が、新たに100万借金したのがおおよその原因だ。
 狼に最初の契約外の金だということで利子までつけられてしまった。さすが悪徳金融屋神嵜(かんざき)(ろう)、五一というバカな利子をつけてくれたのだ。新しい契約書はまだ仮で狼の簡単な書きつけだけのもの。
 されどもそれほどの痛手ではない。薫水にとっては50万など1回のセックスで完済できる。利子がついた金をさっさと片付けるために今夜にでも狼に買ってもらえば問題ない。
 だが、その前に憂さ晴らしをしてさっぱりすっきりしたい。気分のいい時には、悪い酒でも別に気にならないが、気分が悪い時には美味い、いい酒じゃないと許せない。そんな思いが薫水の瞳にありありと浮かびあがっていた。
「なぁ。これ、この間飲んだやつだったけ?」
銘柄はあっているはずだが、ワインはその年代によって味を大きく左右される。この間、狼が土産で持って帰ってきてくれた美味しくてあっというまに1本開けたあのワイン。あれなら申し分ない。しかし、年代が記憶になかった。狼にラベルを見せて薫水が言った。
「何年だ」
 薫水のすぐ後ろにいる狼が年代を訪ねてくる。8倍賭けの勝負に勝った狼の悠然とした態度にむっときながらも薫水は「1991年」と答えた。すると狼は「違う」と答える。その言葉に薫水は残念がると瓶を棚に戻した。これしかないのだ。
「もういいだろ。弱いくせにそんなに買ってどうする」
 狼は籠の中にある品物を見て言った。普通の感覚でなら薫水は下戸ではない。しかし、狼たちには敵わなかったので、弱い弱いと言いがかりをつけられるのだ。薫水はさらに違う瓶に手を伸ばし、狼に言う。
「いいの、飲むだけのんでスッキリしたら、さっさと仕事して、今日の負けを稼ぐんだ」
 淡々と言って品物を増やしていく薫水に、狼は「誰が?」と問いかける。狼の言葉に怪訝な顔をして、薫水は手を止めると狼を見上げる。
「だって、100万には利子つくんだぜ。さっさと支払った方がいいに決まってるじゃん」
「オレは買わない」
「まあ、いいけど。5日以内に支払えばいいんだから」
「だから、オレは買わないと言っている」
 薫水はその言葉に嫌な予感を覚えて、立ち上がると狼につめよる。薫水が察したことに狼はにやりと楽しげな笑みを浮かべた。狼の笑みを睨みつけたまま薫水は嫌な予感を口にする。
「どれぐらい?」
「たまには我慢してから楽しむのもいいだろ。1カ月はいけるかもな」
 5日で1割の利子がつく。5日後には110万、10日後には112万、20日後には135万5200・・・順調に増える。
・・・・狼に体を売るしかすべのない薫水は、血の気を失う。働けないということは、5日ごとに借金が増えて行くということだ。
「そんなの楽しくない。それにこまめに発散しないと体に悪いからね」
「お前、最近羞恥心を忘れてるんじゃないか」
 始めの頃に見せた恥じらいを最近あまり見せなくなったことに、狼は残念に思いながらもそれでも悪い気もしない言葉で言う。言われた薫水は心の中で、そんなものとうにかなぐり捨ててると反論しているとさらに恐ろしいことを言う。
「お前の場合、返済口が二つになってるんだぜ。当然の話だが最初の返済口を優先させてもらう」
「はぁ、そんなの契約の時に言わなかったじゃんか。聞いてたら100万借りてない!」
「そんなことわざわざ説明する金融屋があるか。金が欲しいならその気にしてみればいいだろう。受け身じゃ商売にならないぜ」
「?いつも勝手にサカッてるじゃんか。猿みたいに」
 失言をさらっと言いながら薫水が反論する。狼はその失言をスルーして、薫水の耳元で提案する。薫水はその言葉に、リンゴのように真赤になると目を大きく見開いた。そして、パクパクと酸素の足りない魚のように面喰う。
「くすくす、それなら自分で考えるんだな。それにあるじゃないか、お前にはとっておきが」
 狼の楽しそうな笑い声に気を悪くしながら何とか開いた口を閉じる。サカりのついた雌猫でもあるまいし、そんなことできるわけない。できるだけの罵詈雑言を呟きながら薫水は、自分で“誘惑”の仕方を考えることにした。
 ぶつぶつと言いながら自分を誘惑することを真剣に考えている薫水を、狼は愉快な瞳で見つめる。薫水の頭の中が自分のことでいっぱいなのはいいことだ。狼がご満悦な時間を堪能している間に薫水は名案を思い付く。
 酒の入った籠を手に持ちレジへと向かう。レジに籠を置き、店員に微笑みかけた。そして、台に肘をついて上目使いで見つける。いつもとようすの違う薫水の態度に、狼はまた何を考えたんだと興味津津の目で観察する。
「えっと、あ、あの、お釣りです」
 狼の視線をたっぷりと感じながら薫水は、店員が伸ばしてきた手をそっと握り蠱惑的な瞳で見つめて、狼に聞こえるように言う。
「あなた、この後あいてる?」
 その言葉に店員は、夢見心地でデレデレと鼻の下を伸ばした。それはそうだろう。狼との外出の時は、薫水は女装?している。しかも、狼の仕事に付き合ったので、それはもう着飾って女度もかなり急上昇だ。
 そんな女性に誘惑されれば、たいていの男は白旗をあげて降参するに決まっている。しかし、男を現実に戻す悪魔が美女の背後に立っていた。
「何のつもりだ」
 静かな声に激しい怒りを覗かせた狼の声。狼に見えないことをいいことに薫水は策士的に口元を歪めた。そして、それを整えるとレジに凭れかかりながら狼に向き合う。
「だって、50万の稼ぎ方は指定されてないでしょ。だったら、他で稼いでもいいってことよね」
 狼の所有物の強さを逆手に取った作戦だ。表情を見ても明らかなほど術中にはまった狼に、薫水は成功への高揚と身に感じる危険性に軽い身震いを覚える。
「なるほど、それで安売りするつもりか?」
「安くなるのが気に入らないなら、金持ち捕まえて売り込んでもいいよ。チェス時代のお客もいるもの」
 平然な顔をして売りをすると宣言する薫水に、狼はますます表情が強張っていく。ふつふつと腸にくる怒りに、狼は身を任すように薫水の手首を乱暴に握り締めた。
「そんなに買って欲しいなら、オレが今すぐ買ってやる。こっちに来い」
 薫水は手首を握る狼の力強さに、やっぱり捨て身過ぎたと聊か後悔しながらも引きずられて店を出る。目の前であんなやり取りをされて、さらに商品を置き去りにされた店員はおろおろと対応に困っている。当て馬にされた店員に目だけで謝罪した。

 薫水が闇格闘場でにぼろ負けする日の正午。
 公園のベンチで夏のだるさを感じながら聡司と薫水は、教科書片手に時間を過ごしていた。聡司の苦手な英会話を特訓するために、時間を決めて会うことになったのだ。
時間にある程度融通のきく薫水が聡司に合わせるといったかたちで時間を作って、英語の家庭教師をしている。
「She went to the gym to try and get in shape before her marriage.訳してみて」
 流暢な英語を聡司は真剣な目で聞く。自分が発音すると詰まったり舌を噛みそうになったりするところも薫水はさらさらと発音した。
「えっと、彼女は結婚前にシェイプアップしようとジムに行った」
 聡司は聞きとれた単語をつなぎ合わせて、それらしい文章を作っていく。英語は苦手で特に聞き取りは大の苦手だった。耳を鍛えると薫水は、教科書を見せてはくれない。
「OK。それで、これの文法は・・・・」
 いま言った言葉をすらすらノートに書くと薫水は説明してくれた。綺麗に要領だけを淡々と言う薫水の声は聞きやすかった。
「“Stop it,”I said sharply.」
「She came to love fell in love with her teacher.」
「I feel awkward about visiting him,for I haven’t paid off the money I owe.」
「She gazed mournfully out of the window.」
「He slapped me in the cheek.」
「What did she die of?」
「He is not what he used to be.」
「The husband stabbed his wife to death following a quarrel over their divorce.」
薫水の教え方は丁寧で、大学の講師よりよっぽどわかりやすかった。あれほど苦戦していたにもかかわらず、すらすらと頭に浸透していく文法に聡司は自分でも驚いていた。
 外国語を上達するには、恋人を作れとよく言うが何となく納得できた。教え方もあるだろうが、好きな人の声や言葉には魔法の力が宿っているということだ。たっぷり1時間薫水に教えてもらった聡司は「お礼です」と缶コーヒーを差し出した。
「オレさ、この教材どうかと思うんだよね。特に“become pregnant with his child”てとこなんて特にドロドロしか感じないだろ?」
「そうですね。僕も読んでいて思いました。浮気相手の子供ですしね」
「そうなんだよ。それを夫に黙って、育てさせてその後、一家心中だぜ。大学よ、それでいいのか?て気分になるよな」
 空気のはじける音をさせながら缶があく。薫水はちょうど喉が渇いていたので、ありがたく頂いた。夏特融の湿度のある風が頬を撫でるが、木陰だからまだ心地よく感じられた。
 教材の話の内容でつまらない討論を交わして笑い合う。そんな風に時間を過ごすとあっという間で、聡司のバイトの時間になる。
「バイトまで後どれぐらい?」
 薫水は大きな欠伸をしながら聡司に聞く。欠伸をしたおかげで、眼尻に涙が浮いてそれが風を冷たく感じさせる。
「えっと、移動時間も考えると30分はまだ余裕があります」
「ふ〜ん、それじゃ、ちょっとだけ寝る。ここ気持ちいいし」
「くすくす、わかりました。時間が来たら起こします」
 聡司はベンチに横になってしまった薫水にそう言う。しかし、薫水がその言葉をちゃんと聞いていたかはなぞだ。だってもう寝息を零しているからだ。聡司はしばらく薫水の寝顔を見ていた。
 木漏れ日の模様が薫水を彩る。こうして見ているとしみじみと美しい顔立ちだと思う。すっと筋の通った鼻、細すぎず太すぎず整った眉、頬に影を落とすぐらい長く密集したまつ毛。唇は熱さからだろうか、ほんのりと色づいていて艶めいていた。
 吸い寄せられそうな唇に聡司の意識がもっていかれる。この唇の感触を自分は知っている。そう思うと無意識に聡司は自分の下唇を噛んでいた。そのことに気づいてゆっくりと硬質な感覚から逃れる唇が、その生々しい感覚を思い出そうとしている。
 眠っている薫水の周りだけが、特別な絵画のように時空が違って感じ、目を奪って離さない。崇高な美術品を眺めるようにその引力に惹きつけられている。
 身長は普通の男とあまり変わらない。性格だって、弱々しい感じではなく、芯のある強さと(おとこ)らしく豪快なところがあった。それでも、腕や首は細く嫋でとても同じ男とは思えないところもある。
 細く折れてしまいそうな手首を押さえつけてしまえば、完全に薫水の抵抗を奪ってしまえるのではないか。と考えて、やめた。
同じ男なのにそんな風に考えてしまう自分はどう考えても異常だ。第一もし自分が他の男からそういう風な目で見られていると知ったら、間違いなく嫌う。
混迷してしまう思考を止めるようにカバンから教科書を取り出した。薫水への思いは異常なのだと頭の片隅で思いながら、切なく甘い気持ちを消し去ることは不可能かもしれない。
風が吹いて、木々が揺れる。木立のざわめきと揺らめく陰影。白々とした雲と蒼々とした空のコントラストが眩しいほどはっきりとしている。流れる白い雲を青い空は当然のように感受している。
聡司は不意に、萌ゆる青葉ごしにその空を見て、羨ましくも感じた。自然で晴れやかでそれでいて穏やかなその空は、その愛を謳歌しているようだ。すべてのものを愛することを惜しんではいない。
まあ、聡司が抱く愛とは違うのだが。

 その日の深夜、聡司は工事現場のバイトをしていた。工事現場のバイトは給金がいい。さらに深夜だと特によかった。生活費の主となる稼ぎ口なのだ。削ったアスファルトを運んでいるとき、ふと不釣り合いな高級外車に目が止まる。
 その外車は、コンビニのような酒屋の前に堂々たる風格で止まっていて、車内には人はいなかった。聡司は別に羨ましいとは思わなかったが、自分には一生無理だなと達観する。
 トラックの荷台にアスファルトを捨てながら再び、外車のある方へと視線を向けた。「痛い!」とはっきりと聞こえる声がしたからだ。工事現場の雑音の中はっきりと聞こえたその声につい目がいく。
 見てみると男と女が揉めているようだった。ただの痴話喧嘩かと聡司は仕事に戻ろうとしたが、女の顔を見て手がとまる。女の顔が薫水にそっくりなのだ。化粧をしているぶん雰囲気は違うが、眼鼻立ちは薫水に瓜二つだった。それによく見ると顔だけじゃなく、体系も似ている。肩幅の感じや手足の比率が同じ。
 しかし、聡司の知る薫水は男のはずだ。目の前にいる彼女は、ロングドレスを着て、ストールをまいている列記とした女性。
 鋭い双眸で睨みながら彼女は、手を振り上げ相手の男の横っ面を平手打ちする。いよいよ痴話喧嘩も深刻化して、よほど気が強いのだろう、彼女は打った男から目を離さずより挑戦的だ。性格も薫水に似ているのかもしれない。
 男とは反対側に歩いていこうとする彼女を男は引き留めるが、彼女は抵抗する。長い裾を翻して蹴りあげた。男はその足をしっかりとホールドするとそのまま担ぎあげ、車に乗せた。そして、車は走っていく。
「おい、さぼるなよ」
 現場を指揮しているおじさんがそう言って声をかけてきた。聡司は、今の壮絶な痴話喧嘩から現実へと戻された気分だ。
「すみません」
 聡司が謝るとおじさんは、気のいい顔で許してくれた。そして、聡司が見ていた場所を同じようにみるという。
「すげえ喧嘩だったな」
「女の人が知りあいに似てて」
 するとおじさんはじっと聡司の顔を見る。そして、手をひらひらさせながら「やめとけ、やめとけ」と言う。聡司は何を言われてるのかわからずに間の抜けた顔をする。
「だから、相手が悪いって言ってんだ」
「何のです?」
「あの男、凄く性質の悪い金融屋の社長でな。ワシの弟も酷い目にあってな。オレら親戚中から金借りてなんとかなったんだが。たしか、神嵜狼とかいったなか?だから、あの女はやめとけ」
 聡司はおじさんが何を勘違いしているのかわかった。そして、その誤解を解くために苦笑いを浮かべながら言う。
「僕の知り合いは男ですよ」
「そうか、そうか。ならいいんだ」
 おじさんは安堵の顔をして笑って肩を叩いて去って行った。聡司も仕事をしながら、相手の男の顔を思い出していた。確かにその辺にいるような男のもつ雰囲気とは違っていた。
 そんなに悪い奴だったのかと思いながら、その男の顔を叩いた彼女は大丈夫だろうかと今更ながら心配になる。そう思ったのも一瞬だけ。聡司は再び仕事へと集中する。

 狼と薫水は険悪だ。3日前の賭博の帰り、酒屋の前で二人は派手に喧嘩をしたのだ。薫水が狼をその気にするために店員を誘惑したのが原因で、その後の狼の発言が良くなかった。酷く自我を傷つけられた薫水は、かなりご立腹であれ以来必要以上に口をきいていない。
 それでも、家事や狼の食事や身の回りの世話を薫水はちゃんとしている。家賃や生活費を免除してもらう代わりに食事や家の管理はするといったのは薫水自身だから、いかなる状況であっても投げ出すようなことはしない。
 狼の食事だけを用意すると薫水はきなこをつれてさっさと部屋へと入っていく。ここ数日こういう態度なので、狼はきにせず食事に箸をつけた。
 狼の食事が終わる頃、部屋から薫水がでてきた。長くなった髪を後ろに撫でつけ、ひと括りにし、淡い水色のタキシードを着て、前の開いたシャツには淡い黄色いスカーフを巻いている。
「どこに行く」
 狼はその姿の薫水に刺々しく聞く。この間の売りの話もある。しかし、男装をしているということは、男の客をあさりに行くということはないだろう。
「・・・・・」
 薫水は無言を決め込むとそのままリビングを出るためにドアに手をかける。が、その時、食器が飛んできた。ガシャンと音を鳴らして壁に当たった皿。
「何すんだよ。服が汚れたらどうしてくれる」
 険しい表情で薫水が振り返る。薫水と同じく険しい顔をしている狼がふんぞり返ったまま言った。
「無視するからだ。質問には答えろ」
「見てわからないのかよ。働きに行くんだよ」
 賭けで負けた分の100万はまだ払えていない。狼の屈辱的な言葉があるだけに体を売りたくなかった。そうなると別で働くしかない。そう悩んでいるところにナイスタイミングでCHESSのオーナーと会った。
 オーナーは薫水を狼に売った張本人なのだが、背に腹は代えられないし、第一日給100万は魅力的だ。新店舗開店で人手不足で、しかも、大量に入れた新人教育にオーナーは手を焼いているらしい。
 もともと薫水はCHESSのNO.1ホストだったし、自分で言うのもなんだが、伝説級のホストなのだ。オーナーの思惑と薫水の金策が一致した瞬間だった。
「女でも客にするつもりか?」
 嘲るような狼の言葉に薫水の眉間に皺が寄る。しかし、取り乱すことはなく冷淡な声でやりかえす。
「男相手よりもいいかもな。遅刻すると先方に悪いから、もういくぞ。掃除しとけよ」
「ちょっと待て、勝手は許してない」
 狼のいつもの借金を盾にしたもの言いに薫水の気分はさらに険悪になる。薫水は狼に近づくと手で机を叩いた。食器がその衝撃で音を鳴らす。
「オレ、前から思ってたんだけどたった5憶ぽっちで偉そうに言うのやめてくれる。だいたいオレの客って言うこと以外、狼に価値ないよね」
 薫水の言葉に狼も机を叩いて立ち上がる。乗り出すように二人は睨みあっている。
「ほう、偉そうに。5憶ぽっちも払えないくせに言うじゃねえか。そう言うなら5憶払ってみろよ」
「ああ、お前専門じゃなかったらとっくに払ってやるよ。だいたいオレは客から金巻き上げるのが得意なんだぜ」
 仲裁役が必要な二人のいがみ合いを止めたのは、薫水が前もってセットしておいた携帯のタイマーだ。狼と出会う前、時間厳守のホストの世界で働いていた薫水は、遅刻しなように起きる時間・準備の時間・出勤の時間とタイマーをかけていた。
 二人の間に、携帯のピッピッピと電子音が響く。電子音を消すこともなく薫水は踵を返すと狼の制止も無視して部屋を出て行った。玄関まで追ってきた狼に、鬱陶しそうな目をしたが、それは狼の見えないところでだ。
 険悪な表情を隠し、営業モードになる。手なれた手つきで内ポケットから名刺を差し出した。急きょ作ったものだが、それなりにさまになっている。
「これ以上は、指名してからにしてくれる。といっても、ゴールドとピンクのタワーじゃないとオレはキープできないかもしれないけどね」
 にっこりと名刺を差し出されて、狼は思わず受け取ってしまった。薫水はそれを見届けると玄関のドアを開けて外に出て行った。

 ゆっくりとしたメロディーラインのBGMが流れ、男も女もきらびやかに着飾っている。女性の年齢層はさまざまだが、少しばかり若い気がする。若いといっても上流階級や金持ちの子息・令嬢ばかりだから一般的な感覚とは違う。遠い故郷に帰ってきたような妙な懐かしさがあった。
 薫水はホールに立ち新人へのアドバイスやミスのカバー、自らも客を取ったりした。ただ固定することはない。オールマイティーに動くことを求められているからだ。
「YASHU、あなたがいるからわざわざ来たのに、相手してくれないの?」
「そんな悲しそうな顔をしないでください。心が苦しくなります。後で顔をだしますから、ね」
「あいかわらず意地悪ね。でも、カッコいいから許しちゃう。ねぇ、弾くんでしょ?」
「ええ、もちろんリクエストがあればですが」
「楽しみにしてるわ」
 現役時代の客もかなりいて、それらの客は薫水を指名したかったが、薫水は席に着くことはない。なんせ客裁きと新人教育が薫水の仕事の内容なのだから。もちろん、格別な客がいれば話は別だが。
 そうこうしているとあっという間に4時間がたっていた。薫水は久しぶりの仕事への充実感と水を得た魚のように生き生きとしている。時間がたつスピードが速く感じられてしかたなかった。
 古巣の客のリクエストもあり、落ち着いたところで薫水がピアノの前に座った。するとざわめきが自然と静かになる。漆黒の艶やかなピアノを指先でそっと撫でる。その仕草も表情もドキリとするような色香を忍ばせていた。
 惚ける女性の視線を独り占めにして、悦に入るように瞼を閉じる。象牙色の鍵盤に触れるとその冷たく硬い感触にため息が零れた。狼に出会うまでは、これが薫水の日常だったのだ。
 瞼の裏に書かれた楽譜に自分なりの色をつけていく。指先が弾む、音が軽快に走っていく。愉快な曲には場を楽しく和ませる力が宿っていた。
 店に男がひとり入ってくる。その顔に周りのスタッフがざわめき、慌ててオーナーを呼びいく。薫水は横目で確信した程度で、わざわざ手を止めることはしない。
「まぁまぁ、菊池様。わざわざお越しくださったんですね」
 オーナーがそう言ってその客を直々に案内する。代議士である菊池をVIP席に通した。センターホールを見下ろすようになっているその席に菊池は座り、ピアノを弾く薫水を見る。
「彼、いいね。指名させてもらうよ」
「申し訳ありませんが、YASHUは店の人間ではありませんのよ。教育係に臨時に頼んでいるだけですので、席にはつかないんです」
 菊池はそう言って薫水を指名してきたが、オーナーは申し訳なさそうな顔をしてそれを断る。しかし、菊池はよりいっそう興味をひかれて、オーナーにさらに指名をせまった。VIP席に座る者としての当然の我儘だ。
「YASHU君か。たしか、君のKINNGにいたのもYASHUだったね。評判があまりにもいいんで、ぜひと思った時にはいなくなってがっかりしたよ」
「さすが、菊池様。彼はそのYASHUなんですのよ」
「彼にタワーを3つ。ロマネとピンクふたつでいいかな?」
 オーナーは驚くと思わず「ええ」と承諾してしまっていた。ロマネコンティのグラスタワーがおよそ300万、ピンクのドンペリのタワーはふたつで900万だ。
1曲弾き終わると薫水の元に一人のホストが近付き、耳打ちしてくる。薫水はその言葉にいささか驚くとVIP席に視線をむける。菊池と目があい、反射的に蠱惑的な笑みを浮かべるのは客にたいしての愛想笑い。
席に着くこともなく、1200万も稼いだ薫水にみな尊敬のまなざしを向ける。薫水はその視線を心地よく感じながらVIP席に向かった。ゆっくりと焦りはぜず、他の客とかわらない足取りで行くのは、他の客に対しての気遣いもあるが、それ以上に自分を侮られないようにするためだ。
「YASHUです。素敵な贈り物をいただきありがとうございます」
 片膝をついて、薫水はソファの上の男に言う。にっこりと男は笑って見せた。脂がのったその顔に薫水は愛想笑いを浮かべて、隣へと座る。そして、久しぶりの接客業に勤しんだ。
 ホスト時代の習慣で、新聞や経済紙などなどチェックを怠らなかった薫水は、十分すぎるほどの接客を見せた。オーナーは勉強になるからと、酒やつまみを運ぶふりをして筋のいい子たちにYASHUの力量をみせた。
 夜の街で伝説となったホスト。その腕前を目の当たりにしたヒヨコたちはただただその力量の差に圧倒されるのみだ。その日、薫水が菊池から落とした金額は2千とんで4万5632円。その金額にまずまずだなと薫水は一応の納得を見せる。
 KINGよりも単価の安い(といっても、普通のホストクラブよりはだいぶんと高い)この店では、大金だった。きっと薫水以外にこの金額を叩きだせるものしばらくいないだろう。
 店が閉まる1時間前。最後の客が入店してきた。その客は神嵜狼。薫水は狼を見ても嫌な顔一つ見せなかった。さすがと言うべきだ。
「神嵜様、お越しくださいましてありがとうございます。どの子を指名なさいますか?」
 それどころか、自分から進んで接客をし始めた。代議士に東京一の金融屋。若いホスト達はどよめきと驚きを隠せない。しかも、その神嵜狼はYASHUを指名したのだ。
「申し訳ありませんが、私は席には着かないことになっておりますので」
「お前じゃ話にならん。オーナーを呼んで来い」
 狼の高圧的な言葉に薫水はあっさりと引き下がると「わかりました。お待ちください」と奥に入って行った。オーナーと狼という嫌な組み合わせだが、まあ、仕事ではしかたない。
「狼ちゃん、YASHUのお迎えかしら?それともドル箱?」
 親しげに軽口を叩きながらオーナーは狼に対応する。初めて狼を見た時も思ったが、二人は古い知り合いなのだろう。そんな雰囲気が二人の間にはあった。
「YASHUだと?千奈(ちな)まさか、席に着かせてるんじゃないだろうな」
 千奈はオーナーの名前だ。あまりその名前で呼ぶ人はすくなく、店ではもっぱら『ママ』か『オーナー』で通っている。口元を手で隠しながらオーナーは満足そうに「ほほほ」と笑うと狼に言った。
「してないと言いたいところだけど、タワー3つには敵わなかったわ」
「守銭堂カマ野郎、てめえはオレとの約束はすぐに忘れるんだな」
「いいじゃない、別にそんなにカッカしなくったて。それにボーイ扱いじゃ、YASHUの顔に泥がつくでしょう。だいたいいい年してそれってどうなのよ」
 薫水には狼とオーナーの会話がいまいちよくわからないが、自分にとっていいことではないのは確かだ。
「そんなに心配なら監視がてら毎日通ったら?私は儲かるし、一石二鳥じゃない。まあ、教育係として、来て貰ってるから席には無理だけどね」
「生憎とオレは忙しい身でな。暇な時間はないんだ。よって、レンタルは今日一日だけだ」
「ダメよ。ちゃんと10日分のレンタル料前払いしてあるんだから、ねぇ、YASHU?」
 オーナーに話を振られて、薫水は承諾の意味の笑みを返す。10日間で優秀なホストを育てるのが薫水の仕事だ。報酬料はゼロつだ。
「いくらだ?即効返してやる」
 狼はそう言って、財布から黒いカードを取り出した。しかし、オーナーは「ダメ。ダメ」とそのカードを拒絶する。
「この10日間に、店の将来がかかってるんだから。YASHU仕込みの接客を身につけた金の卵ちゃん達がいくらにして返してくれることか。想像するだけでもうっとりするわ」
 二人の会話を聞いていた薫水に、女性客が近付いてきた。KING時代に薫水を贔屓にしてくれたお得意様で、今日も長いこと来店してくれていた。
「ああ、美智子さん。もうお帰りになられるんですか?寂しいな」
「あら、あら。軽口ばかりね。ちっともそんな風に思ってないくせに」
「嫌だな。本心しか言いませんよ。またのご来店楽しみにしてます」
 薫水はそう言うと彼女の少しばかり肉づきのいい腰に腕を絡ませ、米神に軽いキスをする。KING時代に、特別な客をお見送りする時にしていた動作だ。今日、初めてする。彼女は優越な笑みを浮かべると「一度くらいはベッドを共にしたいわ」と耳に囁く。
「満足させる自信がないんですよ。あなたがあまりにも素敵過ぎて」
 そう言って薫水は遠まわしに断った。「仕方ない人ね」と言いながらも彼女は気を悪くすることなく帰って行った。
席についてサービスしなくても客に駆け引きや甘い男女の戯言だけでも楽しんでもらえればそれだけで、金を落としてくれる。それに、客それぞれにホストクラブでの遊び方は違うのだ。

ひと仕事を終えて、帰宅する薫水の後を黒のポルシェがとろとろとついてくる。運転席の窓は全開で、そこに肘を置きながら片手で運転する狼の姿。
「乗れ、どれだけ歩くつもりだ」
「うるさいな。いいだろう」
 以前険悪な二人は意地の張り合いをしている。薫水は本当なら店で始発が発射する時間まで仮眠を取ってから帰るつもりでいたのだが、狼が現れたことで閉店後の反省会が終わったと同時に帰らざる負えなくなったのだ。
 狼は久しぶりの仕事で疲れながらも意地をはることをやめようとしない薫水に、狼はため息をつきながら「まったく」と呟く。車を止める。
「乗れと言ってるだろう」
「うるさい、歩きたい気分なんだ」
 わざわざ車から降りて引き留めてやっているのに顔すら見ようとしない薫水を、無理やり車内に連れ込もうとした。力づくで思い通りにしようとしていると思った薫水は「離せっ!」と声を荒げるとその手を払いのける。手負いの獣のように話のわからない薫水に呆れながらもさらに手を伸ばす。
「お前なたまには素直に」
 狼の話の途中で薫水は「触るなっ」と怒鳴った。温厚な狼もさすがに切れる。ブチ切れた狼にそれでも尻込みすることなく、堪りにたまったものをぶちまける。
「ずっと言ってやろうと思ってたんだ。狼、お前なにもわかってない。何でもかんでも力づくで、金ですませりゃいいってもんじゃないんだ。オレにだって選ぶ権利があるんだからな」
「言いたいことはそれだけか?」
 狼はそう言うと薫水の髪を鷲掴みにする。そのまま思いっきり下に引っ張られて、薫水は喉を仰け反らせた。そのせいで、呼吸も声もままならなくなる。
「選ぶ権利だとわかってないのはお前のほうだろう。そう言えばこうも言っていたな。『性欲処理に使ってるだけなら変な執着するな』と・・・してるぜ、執着。てめえはオレの物だからな」
 酒屋の前での喧嘩を蒸し返してきた狼に、薫水は生理的な涙を滲ませながらもその時のことを思い出していた。自分だって『突っ込まれれば猿でもいいんじゃないか』と言ったじゃないか。だから売り言葉に買い言葉で。
「お前だって満更でもないんだろう?力でねじ伏せられて、従わされるのが。こんな風に弄られるのも」
「ゃ、やめっ」
 狼の手が下肢に伸びてきて、ズボンごと蕾を揉まれて薫水は焦る。いくら朝の人のいない通りだったとしてもこんな場所で。反り返った苦しい喉で懇願しても頭に血が上っている狼に届いていない。
「だいたい他の奴らに色目使い過ぎなんだよ」
 白い首筋に噛みつくように唇を這わせ、実際に歯で噛みながら痕をのこす。そのまま這いあがらせて、唇に辿り着くと愛撫を加えながらその口腔を貪る。薫水は送り込まれる唾液に溺れそうな窒息感を覚えながら、体中を弄る狼に背筋を震わせる。
 空気の足りない酸欠感と甘い快楽でしびれる体が解放された時には、力が入らずそのままアスファルトに腰をつく。手をついて、苦しい息を整えようとしたが、体を支える両腕に力を入れるのが精一杯だ。
 何度されても、何度キスされても体は慣れなくこんな風に蕩けてしまう。悔しい思いをしながら狼を見上げると嘲るような冷眼を浴びせられる。そんな自分が堪らなく無様で薫水は唇を拭うことで紛らわせた。
 狼といると敗北感ばかり味わう。薫水は男勝りで実行力のある性格のおかげか、あまり敗北感や無力感を味わったことがない。それが、狼に対しては違うのだ。
「帰るぞ」
 狼の瞳が急に和らいで膝の裏に腕をさしこんで抱きあげられる。不意の浮遊感に思わず、薫水は狼の首にしがみついた。ふっとバカにしたような笑い声が聞こえてムッとした表情になる。
 強引に力でねじ伏せたかと思えば、今のように途轍もなく優しくなる狼。薫水にはそんな狼の心情が理解できなかった。ぞんざいに扱われているとは思わないが、大切に扱われているという実感もない。
 助手席に乗せらせて、ドアを閉められる。薫水は狼が車に乗り込むのをじっと待った。仕事で疲労した体を椅子に座ることでつくづく実感する。
「バイト期間中は仕事も免除してやる。そのかわり軽いスキンシップくらい許せ」
 運転席に座った狼は薫水の方を向いてそう言った。そして、薫水を引き寄せると軽いスキンシップをする。軽いといってもディープなキスで薫水がうっとりとするまで続けられたものだから何ともいいようのない気分にさせられたのだが。
 結局は折れてしまう自分に狼自身お手上げ状態だ。何とかの弱みとはよくいったものだ。しかも、悪い気分にならない。それが重症の証拠。
 和解?した二人はいつものような雰囲気にもどり薫水は、疲れを癒すようにすぐさま眠りについた。すう、すう、と寝息を立てる薫水を横目に見ながら、狼は降りる時に抱いて上がるかとそんな気まで回している。せっかく眠っているのに、起こすのは可哀想だ。
 そんな二人の一部始終を見ていた人物が一人。颯爽と去っていく車をその男は困惑しきった表情で見送った。

 バイト最終日。薫水の教育のおかげで、接客の質がかなり向上している。昔馴染みの薫水の客も他のホストの子を気に入りそれなりに客がついたりしていた。オーナーは連日ホクホク顔で、しまいには「このまま働かない」なんてことまで言いだしている。
「菊池様、ようこそお越しくださいました。お席へご案内しますね」
 初めて来店したその日から毎日、菊池は薫水目当てで来店している。さすがに3つのタワーを毎回だすのは無理なのだろう。それでも、得意客には変わりなくそれに見合った接客を要求されていた。
「YASHU君、君は席にはついてくれないのかな?」
「ええ、すみません。でも、暇を見つけてお席につかせていただきますよ」
「残念だね」
 さりげなく腰を抱いてくる菊池に笑みをこぼしながら、そつない手つきでその手をやんわりと外す。その連れない態度も菊池には好ましいのだろう。
満更でもない楽しげな口元を歪めた。媚びるよりも連れなくかわす方が興をそそがれる、というのはかなりセオリー通りだ。といっても、今日で終わり。
かなり動きを覚えてくれたおかげで初日とは違いかなり薫水には余裕ができた。しかし、今日が最後だと知っている客はわざわざ店にきて、「YASHUによ」と言ってボトルやら食べる物やらタワーを頼んでくれるものだから、その席に行ってボトルを開けたりつまみやらに手をつけたりと違った意味で薫水は忙しかった。
とりあえず一通り回った頃には薫水の腹はパンパンで気分が悪く、トイレに行くふりをして、最終手段を行使する。入って苦しいなら出してしまえ。荒っぽい発想だが、薫水は最終手段として、行使することが度々あった。
「ううう、久しぶりだな〜・・・・うっ、うぇぇっっ」
 気分爽快となった薫水は、トイレを流して気合いを入れなおし、菊池の座るVPI席へともどる。菊池はしつこく一度座ったら再び立つのは容易なことではない。
「菊池様、遅くなりまして申し訳ありません」
 薫水はそう言いながら菊池の隣へと座った。菊池は「構わないよ」と人のいい厭らしい笑みを返してくる。ホストクラブで一時の恋愛気分を楽しむ客ではないことは、初日席に着いた時に確信していた。
「それよりYASHU君、今日が最後だそうじゃないか。こんなに贔屓にしているのに冷たいな君は」
「私はただのバイト君ですからね。それにプライバシーと仕事は分けるんです」
 コースターに書かれた菊池の電話番号を礼儀上受け取りながらこれ以上はないと断る。そうすると腰に腕をまわし、そのまま内腿まで手を伸ばしてきた。ホストではなく、ホステス扱いだ。
「YASHUは枕をしないで有名だったね。じゃあ、明日から君を見かけたら何て呼べばいいのかな?」
「菊池様、明日から私は消えるんですよ。跡形もなく。それに、YASHUじゃなくなったオレはとっても手強いんです」
 薫水はそう言って線を引くとやんわりと近づいてきた菊池を押し返し、距離を取るとそれが不況をかわないようにと嬌艶な視線を投げかけた。根本から揺るがされるような薫水の眼光に菊池は歯噛みしながらもくらくらとくる。
「ますます欲しくなったよ。どうすれば本当の君を知れるのかな?」
「それが、醍醐味でしょう。それよりなにかもらっていいですか?喉が渇いて」
 薫水の言葉に「構わないよ」と言うとボトルを10本も頼んでくれた。「好きなのを飲みなさい」と言った菊池は、誇らしげだ。ここまで君にしてやっているんだぞと言っているのが顔に書いてある。
 ホストの中には、自分の力を誇示するために客に開けもしないボトルを並ばせたりもする奴がいるが、薫水はそれは好きじゃない。やはり呑まれない酒は可哀想だし、そんな見栄を張らなくったて、ホストの価値は客の通いがすべてだと思うからだ。
 一番近くに置かれたボトルを手に取る。それはスコッチで、普通ならボトルを稼ぐためにホストはロックで飲むのがセオリーだが、薫水は水割りにした。カランと音を立てて氷を混ぜるとスコッチと水が混ざりあっていく。
「ロックで飲めなくなるほどまいっているのか?何だったら、この後君の家まで送ってあげるよ」
 薫水が酔っていると思いこんでそう耳元で囁いてくる。耳元に感じる熱気ムンムンの息に溜め息をつきそうになるが、そこはプロ嫌な顔一つしないでグラスに口をつけた。氷の音も心地よかったが、スコッチの芳醇な香りが鼻孔に迫る。
 そうこうしていると閉店2時間前になった。すると狼が入店した。当然のようにVIP席に通されて、こちらを見たかと思うとクイっと顎だけで指示をだしているのが見える。
 偉そうな態度が板についている狼。するとすぐに申し訳なさそうな顔をして、下っ端のホストが困った顔で薫水に耳打ちする。その言葉に溜め息をつきたいが、客の前でそれができるわけもなく、菊池に向き直る。
「菊池様、申し訳ありませんが、お席を離れさせていただきます」
「どうしてだい?私より優先しなければならないことでもおきたのか」
「ええ、それに後2時間もしないうちに閉店の時間です。今日はもうもどれないかと」
「最後なのに冷たすぎるんじゃないか?」
「申し訳ありませんが、ヒヨコたちがぴい、ぴい、鳴いて困っておりますから」
 未熟ホストたちを『ヒヨコ』と称して菊池に言うと菊池もそれ以上は駄々をこねることをしなかった。薫水が席について本格的に接客をしていること自体、稀なのだ。ここにはヒヨコ教育に来たのだから。その事情を菊池は知っている。
「わかった。そのかわり電話番号くらい持って行ってくれ」
 そう言うと菊池にコースターにかいた電話番号を渡された。菊池がかけてこいと言わなかったのをいいことに薫水は「わかりました」と言って、丁寧な手つきで内ポケットにしまった。
 そして、狼のもとへと戻る。すると対応に困り切ったヒヨコたちの哀れな目が薫水を一斉に見る。狼が来ることは知っていた薫水だが、機嫌が悪いのは予想外だ。
「極悪面で怯えさせるのやめてくれないか?」
「うるさい。オレは機嫌が悪いんだ。サービスしろ」
 腕も足も組んで偉そうにわざわざ自分の気持ちを言ってくれた狼に、溜め息をつくと薫水は額を押さえて隣に座った。そして、ウーロン茶を狼に渡した。どうせ車で来ているから、狼はアルコールを口にしようとはしないだろう。変なところで律義でそれが薫水にはおかしかった。
「サービスってここはホストクラブだからな。その辺よく考えてくれよ」
 薫水は小言を言いながら狼の手をつねる。ウーロン茶を口に運びながら薫水の腰を抱いてきたからだ。しかし、抓ったくらいでは手は離れない。
「あのオッサンは腰抱いてたじゃねえか。お前は客で扱いを変えるのか?」
「そう、菊池様は正真正銘のお客様。でも、お前は違うだろう」
「どう違うんだ?」
 違うという言葉ににやりと期待の笑みを浮かべて狼が言う。はあ、疲れると思いながら薫水が答えずにいると頬にぷにゅっと温かいものが。
「こういうことができるからか?」
 いやと言うほど低く艶っぽい色気を入り混ぜた言葉に、薫水は狼が自分に何をしているのかわかった。頬に軽く口付けてから耳を舌で嬲っているのだ。逃げようと上体を引いたががっちりと押さえつけられている。
「バカっ!悪ふざけはやめろよ」
 薫水は押し返そうと腕を突っぱねたが、その腕を逆に一まとめにされて押さえつけられてしまう。薫水は厭らしい舌使いで耳を弄られて、場所も考えず体の奥がムズムズする。
「このままヤリてえ。オレは我慢してやってるのに、あのオッサンはいいのかよ」
 それこそバカなことだ。何を言い出すのかと薫水は驚いて目を見開く。セックスしたいという発言も問題だが、菊池はいいのかよ、なんてまるで菊池にこんなこと許しているみたいだ。
「こらっ。馬鹿なこと言ってないで離れろ。だいたいオレのことはお前がよく知ってるだろう。その、あれだ・・・・」
 人目が気になって、最後の部分は小声で狼の耳に呟いた。「お前しか知らねえ」そう言った薫水は顔を背けて真っ赤になって不機嫌面だ。狼はふつふつと歓びが湧き上がってきて、「勘弁してやる」と偉そうに言うと薫水を離した。
 ほっと薫水は胸を撫で下ろし、上機嫌になった狼を恨めしく横目で見る。こんなところで何を言わせると羞恥心にうち震えていた。そんな薫水に菊池が声をかけてきた。
「YASHU君、今日はこれで帰らせてもらうよ。君はもう相手をしてくれなさそうだからね」
 菊池はそう言って薫水に微笑みかけてきたので、薫水も愛想笑いを浮かべる。それでお別れだと思った薫水の思惑とは違い、菊池は狼を見た。その目があまりいい目つきではなく薫水は頭を抱えたくなる。
「ウーロン茶か、YASHU君にはあまりそぐわないのではないか」
 狼に向けての棘棘した言葉に、投げかけられた狼ではなく薫水の肌にチクチク刺さる。狼は涼しい顔をして、睨みつけることもなく菊池に言った。
「オレはこいつの運転手でね。危ない目にはあわせられないからな」
 運転手と言った言葉のなんと重たいことか。薫水はその言葉の意味深・・・意味深々の言葉にもうやめてくれと思う。菊池は狼の言った意味を正しく取り、歯噛みして悔しそうな顔をしている。
「それにしても代議士の先生と言うのはよほど暇のようだ。こんな若造にまで気になるんだからな」
 挑発的で攻撃的な狼の言葉、薫水はやめてくれと心の中で叫んだ。いや、唯一の救いはこれが最終日だということだ。
「なんだと!?」
 激昂した菊池を抑えるように薫水は彼と狼との間に立ち入った。今にも掴みかかるんじゃないかという雰囲気の菊池を制するために彼の胸に手をかける。
「菊池様、落ち着いてください。お外までお送りしますから」
 薫水は菊池の腕をひくとそのまま店の外へと出て行った。外へでも憤ったままの菊池をなんとか宥めて、薫水は店へと戻ってきた。元凶の奴は涼しい顔をして薫水の帰りを待っている。自宅なら間違いなくその頭を叩いているところだ。
「就業時間まであと30分だ。もちろん30分相手してくれるんだろう?」
 若いホストへの教育も終わっている。断る理由が薫水にはなかった。ソファに座り前かがみになると「頭痛い」と呟く。目聡く聞いていた狼が心配そうな表情だけを作ると言った。
「それはいけないな、家に帰ったらオレが看病してやるよ」
 妙に楽しげな声に薫水はどんな看病だと心の中で悪態をついた。


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