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 9話から11話までの粗筋(覚醒)

 刻々と、加奈の飢えは強くなっていく。人ではない、生ける屍。
 カナーンというもう一人の自分。自分が自分でなくなっていく。
 そんな不安から、加奈は婚約者の山崎はるやを頼るが、はるやもまた、歪んだ愛憎を秘め、三人の運命は絡み合っていた。
9・封印
この先、どうなってしまうのか怖い。記憶がない間に何をしていたのか。
 三神加奈はもう一人の自分の影に怯えていた。
「何か、あったのか?」
 山崎はるやが、フォークを持ったままぼうっとしている加奈を見やり、心配そうに声をかけた。
「ううん、別に」
 三神加奈は慌てて目玉焼きを口に運んだ。
 味気なかった。味がしない。美味しく感じない。以前は大好きだった熱々のトーストもスポンジをかんでいるようだ。
確実に自分の体に変化が現れているのを、加奈は食事をするたびに思い知らされる。
それに伴い、飢えは日々強くなっていた。
 食物を摂っても、癒えることのない飢え。はるやには悟られたくなかった。
加奈は久しぶりの休日、無理をしてはるやの出勤時間にあわせて朝食を摂っていた。
あの夜勤から、二日経っていた。晴れている空が眩しくて、カーテンは閉めたままだ。
 それでも、はるやは相変わらず、変わらぬ態度で接してくれる。
 加奈も別れ話はその後、口にださなかった。
 自分を理解してくれる人を手放すのが心細かったのだ。
「はるやくん、私が怖くないの?」
「加奈は、加奈だろ? 何も変わらないよ」
 はるやは優しく微笑んだ。
 この笑顔に甘えて良いのだろうか。でも、誰かに頼りたい、寄り添っていたい。一人でいたらおかしくなりそうだった。
 加奈ははるやを利用している自分が嫌だったが、離れる勇気がなかった。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん、行ってらっしゃい」
「加奈……」
 はるやが、玄関先で足を止め、振り返った。
「なに?」
「一人で、出歩くなよ」
「うん」
 加奈が明るく返事をすると、はるやは玄関を出た。
 こんな晴れた日は、外に出られない。
 加奈はソファに横になると、いつの間にか寝息を立てて、深い眠りに着いていた。
 ピンポーン。
玄関チャイムが鳴り、加奈は目を覚ました。壁掛け時計は、午後六時を過ぎており、外は薄暗かった。
 慌てて、玄関へ出ると、見知らぬ若い娘が硬い表情で立っていた。
「山崎さんを、これ以上振り回さないでっ!」
 加奈が声をかける前に、その若い娘は泣き出しそうな勢いで、そう言った。
「あ、あの、はるや君の知り合いですか?」
「あんたこそ、山崎さんのなんなの?」
「大声を出さないで、ね? 部屋に入って」
 玄関先で金切り声を上げる若い娘になだめるようにそう言って、加奈はその娘を何とか部屋のソファに落ち着かせた。
「はるや君の職場のひと?」
「……そうよ。山崎さん、この一週間、ずっと仕事は上の空で、変だったわ。それに苦しそうで。私、見ていられなかった!」
 彼女は怒りで体を振るわせ、振り絞るように言った。
 二十二、三歳だろうか。瑞々しい肉感のある唇が美しい。茶色がかった髪を、バレッタで後ろにまとめ、落ち着いた薄緑色のタイトなスーツを着ている。きっと、仕事が終わってからここに直行してきたのだろう。彼女ははるやのことが好きに違いない。
「山崎さん、あなたに時間を合わせるためにずっと無理な残業しているのよ! いつも青い顔をして。このままじゃ、体壊しちゃうわ!」
 知らなかった。はるやは自分の仕事のことは一切口にしないのだ。加奈ははるやが青い顔をしていたのか思い出せなかった。加奈は自分のことばかりで、はるやことを何も見ていなかったことに気づいた。
「……ごめんなさい」
 加奈はソファの横に座りこみ、俯いた。
「別に、謝ってもらおうと思ったわけじゃないわ。ただ、はっきりさせて欲しいのよ。山崎さんに別れるって言っておいて、どうして一緒に住んでいるのよ」
 勢いこんできたその彼女は、謝られて、拍子抜けしたようだった。
 若い娘のスーツの胸元から見える、白い首筋が眩しい。パールの効いた口紅を差した薄紅色の唇が、悩ましい。若々しい張りのある肌に触れたい。
 加奈は、無意識に若い娘に見とれていた。
「ねえ、ちょっと、何よ。黙ってないで何か言いなさいよ」
「……欲しい」
「え? なんですって?」
「あなたが、欲しい」
 加奈の目が怪しく光った。もはやその表情は三神加奈のものではなかった。
 カナーンが若い娘の血に誘われて現れたのだ。
カナーンはソファに片膝を立てて手を伸ばし、娘の首筋を指先で撫ぜた。
「何を……」
 話そうとした彼女に、カナーンは唇を重ねて塞いだ。
「美しい……」
 カナーンが唇を離し、冷たい微笑をたたえながら娘の顔を見つめた時には、娘は既に恍惚とした表情になり、目はうつろだった。
「人間の男にお前の身を委ねようとは、無粋極まりない。ましてや、あのはるやとか言う若造を好いているというのか。このカナーンが、おまえの目を覚まさせてやろう」
「カナーン様……あなたの思うままに……」
「ふふふ、可愛いことを言う。その美しい体を私の前に差し出すが良い」
 カナーンは娘をソファに押し倒して、乱暴にブラウスのボタンを引きちぎり、下着までも引き裂いた。そして、赤い舌を彼女の首筋から胸元にゆっくりと這わし、弄んだ。
「あぁ……カナーンさま」
娘はカナーンにされるがままだった。
「えもいわれぬ快楽を、お前に与えてやろう」
カナーンは、にやりと口の端で笑うと、その冷たく細い指先を乳房へと伸ばした。
カナーンの指先の動きに反応し、若い娘の豊かな白い双丘は、荒い息をするたびに揺れた。
「高揚した娘は美しい。血もまた良い匂いを放つ」
 再びカナーンは唇を激しく重ねた。唇を塞がれたまま、娘は喘ぎ声を漏らす。
 カナーンは何かが潜んでいる気配を感じた。
 口付けをしながら、目だけで部屋の中を見回し、耳を澄ませて辺りを窺った。
「……シャナン! さきほどからずっと、ここにいるのであろう! 隠れていず、姿を現せ!」
 カナーンは突然顔を上げ、苛々した口調で叫んだ。
「カナーン……」
 ソファの傍らにシャナンは姿を現して、消え入りそうな声で名を呼んだ。
「私のすることをいちいち見張るつもりか?」
 ソファに座ったまま、カナーンは腕組をしてため息をついた。
「そんなこと……あなたが、邪魔をするなと言ったから」
「姿を消して私の周りをうろついているのであれば、同じことだ」
「カナーン、わざと私を挑発したのでしょう」
「挑発? そんなことをして何になるというのだ。お前など、初めから眼中にはない。この娘をじっくりと味わっていただけのこと」
「どうして、私を避けるの? カナーン、忘れてしまったの? 二人で交わしたあの誓いを。私は、あなたを封印しただけではなく、あなたの心までも封印してしまったの?」
「誓いなど知らぬ。それに、未熟なお前は私を封印できなかったのだ。私を封印したのは、神父だ」
 カナーンは自虐的な笑みを浮かべた。
「お前も覚えているはずだ。あの若い神父を。あいつはお前に気持ちを寄せていた。だから、私がおまえを同族に迎え入れたことを知り、私を灰にするのを躊躇ったのだ。私を灰にしてしまえば、お前も消えてしまうからな。だからお前が責任を感じる必要はない」
「そんな……あの神父が……」
 顔を両手で覆って、シャナンはその場に崩折れた。
「加えて言えば、その神父の匂いがあのはるやという若造から僅かばかりだが匂う。私が覚醒したあの夜、半分、三神加奈のまま若造を襲おうとした時に気づいた。ふ、因縁だな。あの神父の末裔が身近にいるとは。若造といることで、三神加奈の存在は増し、このカナーンは力が萎える。お前を好いていた神父の末裔が、こともあろうか、憎むべき吸血鬼カナーンである私に、それと知らず好意を寄せるとは。間の抜けた話だ。それとも、神が我が魂を封印するために遣わしたのか」
 カナーンはクックッと笑い声を漏らした。
「では、はるやといる限り、カナーンは本来の姿に戻れないというの?」
「……今宵のように、処女の匂いに誘われて我が魂が呼び起こされることもあるだろう。……とにかく、シャナン、私の前から立ち去れ」
シャナンから目をそらしたカナーンの横顔は、悲しそうに沈んで見えた。
「カナーン、まだ何か私に隠している? もしかして、神父に戒めをかけられたのではないの?」
「勘ぐるな。何もありはしない」
 顔を見られまいとしたのか、カナーンは立ち上がり、シャナンに背を向けた。
「カナーン……」
 シャナンは背後から、カナーンに抱きついた。
 強靭な力を持つようには思えない、細い肩。シャナンよりやや高めの背丈のカナーン。
 シャナンはその華奢な腰に手を回し、いとおしそうに背中に頬をつけた。
「私に触るな」
「もう、離れたくない」
 払いのけようとして振り向いたカナーンの頬に手を添えて、シャナンは口付けした。
 長い間、待ち焦がれていたカナーンとの抱擁。
 一瞬、カナーンは切なそうに眉を寄せ、シャナンを抱き締めようと両手を挙げたのだが、直ぐにその手でシャナンを払いのけた。
「馬鹿な真似はするな。戯言は終わりだ。さて、私はこの娘を頂く」
 カナーンはそう言い捨て、ソファに横たわったままの娘を片手で抱き起こし、シャナンに見せ付けるように娘の首筋を撫ぜ、牙を剥いた。
「娘よ、我が下僕になるがよい」
「あぁ、カナーンさま……」
 シャナンの目の前で、恍惚が絶頂へと上りつめた娘の声が響いた。
 シャナンは目を伏せ、顔を逸らした。
 頬に涙が伝って落ちた。
 カナーンが次に顔を上げた時には、シャナンの姿は消えていた。


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