警告
この作品は<R-18>です。
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8・カナーン
昔のままの姿でシャナンが突然現れて、恐怖に顔をこわばらせたはるやは、その場に座り込んだまま、身動きできなかった。
「シャナン、どういうことなの?」
聞きたくない。でも、加奈は聞かずにはいられなかった。自分が何者であるのか。
「加奈、あなたは、私のマスター」
ぺたりと腰を抜かしたように座り込んでいる加奈に向かって、シャナンは淡々とした口調で真実を突きつけた。
「――マスター?」
「そう、私の主人。私をあなたの種族に導いたのは、加奈、あなた」
嘘だ! シャナンの洗礼を受けて吸血鬼になってしまったのだ。初めから吸血鬼であるはずがない。人の血を吸ったりしたことなんかない! そんなこと、認めない。認めたくない。
加奈は葛藤していた。
「加奈、自分でも体の異変に気がついているでしょう? 遠い昔、私はあなたを愛してしまった。私のために抹殺されそうになったあなたを、なんとかして救いたかった。でも、あなたから授かったばかりの私の魔力は微力で、吸血鬼の匂いを消して人間に紛れるように、あなたの記憶を封印するしかなかった。でも、不安定な私の魔力は、人間だと思い込んだままのあなたを、延々と彷徨わせてしまった。あなたの両親はあなたが無意識の魔力で人を操り作り出したもの。加奈は仮の姿でしかないの」
「嫌、そんなの、違う……」
加奈は耳を両手で塞いで俯き、目を強く閉じた。シャナンの話をそのまま受け止めることは到底できなかった。
「加奈という人間はやがて消える」
消える? 加奈である部分がなくなり吸血鬼になってしまうということか。嫌だ。私は人でいたい。吸血鬼になりたくない。
シャナンの「消える」という言葉に、加奈は一層動揺した。今の自分の存在はなんなのか。単にもう一人の私の、借りの姿に過ぎないのか。
「人間である加奈の中に棲んでいる『あなた』に会いたい」
愛しそうに加奈を見つめるシャナンの瞳。その瞳は、加奈の中にいるもう一人の自分に向けられたものだったのだ。シャナンをどうしようもなく好きという加奈の感情も、もう一人の自分に引きずられているだけだったのだろうか。では、自分は本当にシャナンのことが好きだったのだろうか。
加奈はわからなくなっていた。
「あなたの名は――」
「聞きたくない!」
「そんなこと、信じられるか!」
加奈が叫び声を上げた時、今までじっと二人のやり取りを聞いていたはるやが、いきなりシャナンに掴みかかった。
「人間ごときの力で、私に敵うとでも思っているのか」
うるさいハエでも追い払いように、シャナンは片腕を一振りした。はるやは壁に飛ばされて背中を打ちつけ、うめき声を上げた。
「加奈、はるやとは決別したのでしょう? 私と一緒に行きましょう。やっと、目覚め始めた……」
シャナンが手を差し出して近づいてきたのだが、加奈は退後ずさった。
人間ではないもの。シャナンのはるやへの冷徹な扱いを目の当たりにし、加奈は急に恐ろしくなった。シャナンといると自分の人間ではない部分が呼び起こされる。そして、自分は自分でなくなってしまう。
「……行けない」
「加奈?」
「私は、三神加奈だわ。それ以外の、何者でもない」
「わかっただろう? ここを去ってくれ」
よろける体を起こしながら、はるやが口を挟んだ。
シャナンは悲しそうに目を伏せ、差し出していた手を下ろした。
「ずっとあなたを探し続け、やっとめぐり逢えた。いつの時代も、あなたは覚醒せず、私を恐れ、拒み続けた。あなたと会えないのだと何度も諦めかけた。待ち焦がれて気が狂いそうなくらい長い年月を、一人過ごしてきたわ」
伏せていた目を見開いて強い意志を誇示するように、シャナンは加奈の瞳を凝視した。
「もう……離さない」
「私をそっとしておいて!」
加奈は悲痛な叫び声を上げた。
怖かった。自分がどうなってしまうのか。シャナンを受け入れられなかった。
「加奈……」
シャナンはただ弱々しく名前を呼び、ふらりと闇へ消えていった。
窓を開け放っていた部屋は、すっかり冷えきり、雪が吹き込んでいた。
青いカーテンがはためいていた。それは、シャナンのコートを思わせた。
一週間、シャナンは加奈の前に姿を現さなかった。あれ以来、はるやは加奈を守るといって部屋に居座り、同棲状態になっていた。しかし、加奈はそれを拒まなかった。一人でいるのが恐ろしかったのだ。いつ、自分が自分でなくなってしまうのか。
シャナンの言うように、自分の異変には気づいていた。陽の光を嫌い、食欲がなくなった。肌は透き通るように白くなっていき、汗をかかない。それに、自分では気づいていなかったのだが、老化していないのだ。まだ二十代だからと思っていたが、勤務中、患者に「まだ十代かい?」と聞かれてはっとした。十代の若々しい肌のままだったのだ。
着実に吸血鬼に変貌している。それは否定できなかった。
「三神さん、三神さんっ!」
勤務中、同僚の看護師に声をかけられ、加奈は我に返った。
血液の入った試験管を運ぼうとして、持ったまま、意識が遠のいたのだ。
体が血を欲していた。
「どうしたの? 三神さん、ぼうっとして。疲れているんじゃないの?」
「ごめんなさい、大丈夫です」
彼女は加奈から引継ぎを受け、夜中から朝にかけて勤務する深夜勤務の看護師だった。まだ交替する時間には早かったが、几帳面な彼女は、いつも三十分前には出勤してきた。助産婦の資格をとるため、授業料を稼ぐために短時間で割高の仕事として夜間のパート勤務をしているのだという。彼女とは顔を合わすことが多く、たわいもない会話を交わすこともあった。
「ねえ、今の時間落ち着いているから、ちょっと休まない? ナースコールが鳴ったら私が行ってあげるわ。あなた、疲れているようだし、ね?」
彼女、本間桐子は、悪戯っぽくウインクした。加奈より二、三歳年下のはずだったが、何事にも妥協しない仕事振りは、しっかりとした印象を与え、加奈は好感を持っていた。
夕方から深夜にかけての準夜勤務は夕食、消灯等があり、一人勤務はそれなりに忙しかった。だが、整形の比較的若い患者が多いこの病棟の深夜勤務は、急変がない限り、朝まで静かなものだった。
加奈は頷き、二人は詰め所の横にある四畳程度の休憩室で休んだ。
休憩室は、壁際にカラーボックスと冷蔵庫、小型テレビ、レンジなどがぎゅうぎゅうに詰め込まれ、カーペットが敷かれた上にテーブルがあり、狭い空間は雑然としていた。
二人は向かい合わせに座った。
「ねえ、三神さんて彼氏できたでしょう?」
「インスタント珈琲をカップに入れてポットの湯を注ぎながら、本間桐子は唐突に言った。
「え?」
「とぼけないで白状しなさいよ。患者さん、チェックしていたわよ〜。三神さんが最近綺麗になったって。つい見とれちゃうんだって。ほら、三〇二号室にいる二十代の山田さん。三神さんのこと、本気みたいよ」
大きな瞳を細めて、本間桐子は「いいな〜」と呟いた。
今の加奈はこげ茶色の長い髪に透き通るような肌の白さ。瞳までもが琥珀色になり色素が薄くなってきていた。やや長身の加奈は、勤務先でも目立つ存在になりつつあった。
「本間さんのほうが、綺麗だわ」
加奈は本間桐子を見つめた。血色の良い健康的な美人。ショートボブの茶に染めた髪も、行動派の彼女によく似合っていた。本間桐子は内向的に見える加奈とは対照的な雰囲気だった。
「三神さんったら嫌だわ、そんなに見つめないでよ。美人のあなたにそんなこと言われたら、気恥ずかしいじゃない。私、実はね……彼と別れたばかりなのよね。これでも、ちょっと落ち込んでるの」
本間桐子はテーブルに両肘を付いて、珈琲を口に運んだ。
加奈は彼女の手首の辺りに、大きな絆創膏が貼ってあるのが目に付いた。
「ああ、これ? うちの猫ちゃん。出掛けに引っかかれちゃって。結構傷が酷くて。消毒しておこうかしら」
本間桐子は痛そうに顔をしかめながら、絆創膏をそっと剥がした。痂皮までも剥がれ、血が滲んだ。
「あーあ、軟膏でも塗っておけばよかった。また血が出ちゃったわ」
血。
加奈の中で何かが疼いた。
「傷、見せ、て……」
「どう? 深いかしら」
本間桐子は加奈のほうへ右腕を突き出し、首をかしげた。
彼女の手首の辺りをそっと掴み、加奈はうっとりとその腕に見とれていた。
「綺麗……」
「三神さん?」
加奈の様子に違和感を覚えたのだろう。本間桐子は腕を引っ込めようとした。だが、予想以上に加奈の力は強く、手首を掴まれたまま身動きができないでいる。
「三神、さん……手を、離してくれない?」
加奈は何も答えず、ただ目を細めて微笑んだ。
「ひっ」
加奈は本間桐子の手首を口に持っていき、傷口を舐めたのだ。
「いや、三神さんっ」
テーブルを挟んで座っていたが、加奈は手首を掴んだまま傍へにじり寄り、桐子を押し倒した。
「三神さん……ねえ、彼氏、いるんでしょう? それに、私、そういう趣味はないの……手を離して?」
桐子は押さえつけられている両手を必死に解こうとした。加奈は片手で、桐子の両腕を易々と押さえ、桐子の怯える瞳を見て、余裕で微笑んでいた。その瞳には獲物を捕らえた獣のような残忍な鈍い光がやどっていた。
「桐子、可愛い赤い唇。血の色のようだ……」
加奈は熱を帯びた瞳で唇を見つめ、指先でなぞり、赤い舌先で桐子の唇を舐めた。
「ああっ」
桐子は悩ましい吐息を漏らした。
「三神さん……」
「ふふふ、美しい体、良い香りがする若い血……」
腕を抑えている必要がなくなった。桐子は次第に息を荒げて夢見心地になり、抵抗しなくなったのだ。
「三神さん……」
桐子はかすれた声で何度も名を呼ぶだけだった。
「あなたのその血が愛しい」
眼光鋭い加奈は不敵な笑みを浮かべ、桐子の白衣のボタンを外して、肩を露わにさせた。
「三神さん……キスを」
うっとりとした表情の桐子が、口付けをせがんだ。
「可愛い、桐子。私のものになるがいい」
加奈は桐子の髪を撫ぜながら、せがまれるままに激しく口付けをした。
桐子は益々息が荒くなり、恍惚とした表情になった。
「あぁ……私を捧げます。だから、好きにして、あなたの好きに……」
桐子は両腕を加奈の体にしっかりと絡ませた。既に意識は朦朧とし、目は虚ろだった。
「加奈! いいえ、カナーン」
加奈が振り向くと、休憩室の扉に寄りかかるようにしてシャナンが立っていた。
今にも泣き出しそうな悲痛な表情で、シャナンはやっとの思いで立っているようだった。
「シャナンか、また会うとはな。あれから何百年経っているのだ?」
シャナンが声をかけても、いつもの加奈には戻らなかった。加奈であって加奈ではない者はその場にゆらりと立ち上がり、ふんと、鼻で笑った。
「神聖な儀式の邪魔をしに来るとは、良い度胸だ。神父から私を救ったお前に、私から礼でも言ってほしいのか?」
シャナンは異形の者、加奈に、ただ悲しみの瞳を向けるだけだった。
「それとも、時を経て私を追いかけてきたということは、私に焦がれているとでも言うのか」
加奈の姿をした者――カナーンは、シャナンに近づき、片手でシャナンの顎を引いた。
「カナ―ン……やっと会えた。永遠の愛を誓った私の愛する人」
シャナンの瞳から涙が流れた。
「これは驚いた。私との再会が泣くほど嬉しいとは! それに、お前と愛を誓った覚えはない」
「私を愛していると甘く囁いてくれたあのひと時は、偽りだったと?」
「この私が、人間を愛すると思うのか? 床の上での戯言に過ぎぬ。そのような娘は数知れずいたことを、お前も承知していたはずだ。それでも呪われた一族に引きずりこんだこの私のことが、愛しいというのか」
シャナンに触れていた手を離し、カナーンは顔をしかめ、一歩、後退った。まるで、シャナンの涙を恐れているかのように。
「カナーン、そんなに自分を卑下しないで。私はあなたに命を救われたのだから」
「この私が己を卑下すると? 私は誇り高き純血の吸血鬼。そのようなこと、微塵も思うはずがないではないか。それに、お前を救った覚えなどない。私は今飢えているのだ。儀式に横槍を入れるな」
カナーンの言葉に、シャナンは目を伏せて顔をそむけた。
「……そうか、私が他の女を手にかけるのが嫌なのか。いいだろう、そこまで私を好いているというのなら、この娘の前に、お前を頂こうか。同族とて、構わぬ。今の私は飢えているのだ」
カナーンは、にやりと口の端を上げて笑い、片手でシャナンの肩を壁に押し付けた。シャナンは抵抗するでもなく、涙で濡れた瞳をふせ、されるがままになっていた。
「何故泣くのだ?」
「カナーンを愛しているから」
「愛だと? そんなものをお前は信じるのか?」
「あなたがどう思おうと、あなたを愛してしまった。一言、私を恋人だと、その声で囁いてくれた。私はその言葉を信じて生きてきた」
「ふふ、酔狂な」
涙を流しながら、熱い視線を投げかけるシャナンに、カナーンは突然、声高に笑い出した。
「ばかばかしい。同族を手にかけるとは、私もどうかしている」
カナーンは自分を嘲るように言い捨て、シャナンから離れた。
静まり返っていた病棟に、ナースコールのメロディが鳴り響いた。
「あっ、行かなきゃ。……シャナン? 何故? 私、どうしたの?」
加奈は突如、我に返り、目の前で涙を流すシャナンに混乱した。
足元には同僚、本間桐子が尋常ではない状態――恍惚で意識が飛んでいる状態で白衣がはだけたまま、仰向けになっている。
「……覚えていない。何かあったの、ね? 私じゃなくなったの? いや! 私、私は……」
加奈は頭を抱えて、その場にしゃがみこんだ。
「加奈はカナーン。どちらもあなたで、あなたは一人。長く人間として生き続けたあなたは、人間らしさが本来のあなたを否定している」
シャナンの声が囁くように優しく響いた。
「私、消えたくない……」
「加奈という人間はいない。今のあなたもカナーンに変わりはない」
再び、ナースコールが鳴り響いた。
「さあ、行きなさい。この娘のことは心配ない」
シャナンは加奈の傍に屈み、そう囁いた。加奈が顔を上げると、シャナンの涙で濡れた悲しそうな瞳が、目の前にあった。
シャナンが愛しくて抱き締めたい気持ちに変わりはなかった。だが、その気持ちはカナーンの気持ちを反映したものでしかないかもしれない。それに、シャナンはカナーンが好きなのであって、加奈のことを好きなわけではないのだ。いくらシャナンが加奈とカナーンは同一だといっても、カナーンの時の記憶がない加奈には、受け入れられるものではなかった。
加奈がよろけながら、病室へ向かった後、シャナンは意識が朦朧としている本間桐子の両肩を掴んで起こし、視線を合わせた。
「本間桐子、今夜のことは忘れるのだ。全て夢幻の出来事」
魔力により、視点の定まらない瞳のまま、本間桐子は頷いた。シャナンは立ち上がると、風のように病院を抜け、黒い影となり暗闇に身を隠した。
「カナーン、やっと会えたのに、何故気持ちを否定するの? 昔のあなたは、冷たい態度を取っていても優しかった。人間の娘だった私を、愛してくれていたのに」
シャナンの声は風の音と重なり、闇夜に悲しくこだました。
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