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5・変わらぬ日常
 翌朝、雪もやんで青空が広がり、真冬の強い日差しが雪に反射して辺り一面が眩しく光っていた。
 あの屋敷で見たモノは幻だったのだろうか。
 山崎はるやは加奈の家に向かいながら、昨夜のことを思い出していた。
 夜遅くに加奈を自宅まで送り届けたとき、加奈の両親が玄関に出てきたのだが、娘が前日の夜中に出ていったきりだったというのに心配していた素振りもなく、わざわざありがとうございますと丁寧なお礼を機械的に口にしただけだった。
 はるやには、加奈の両親が何か見えないものに操られているように感じたのだった。
何か違和感があった。
「お早うございます。加奈さんを迎えに来ました」
 今朝は両親の様子はどうなのだろうかと、やや緊張しながら山崎はるやがインターホンに向かって声を張り上げると、少しして加奈が玄関から出てきた。
「お早う、お待たせ」
「加奈、体の調子は?」
「え? なんともないわよ」
「お母さんとか、なにか変だった?」
「別に?」
 きょとんとした加奈は、以前の加奈だった。
 だが、はるやは昨夜のことを話題にするのが怖くてその後黙々と歩いた。
 口に出せばこの日常が奪われてしまうような気がしたのだ。昨日の夜のことはそっとしておきたかった。
 そうしているうちに、加奈の学校前まで来てしまった。
 何事もなかったようにすごしたい反面、このまま離れてしまうのは加奈が不意にどこかに行ってしまいそうで不安だった。
 はるやは立ち止まり、思い切って口を開いた。
「昨日のこと、覚えていないの?」
「どうしたの。何かあった? 今日のはるやくんは変ね。ずっと黙っているし。ああ、それより変な夢を見てちょっと気になって。黒髪の凄く綺麗な娘がじっと私を見つめているの。それも泣きそうな顔をして。なんだか懐かしい感じがして、ずっと会いたかった人のような、好きだった人のような。あ、今好きなのははるや君だけだからね、これは夢のお話!」
 あの出来事は夢として処理されていた。加奈の中で、シャナンは実在しない。
 はるやは以前の加奈に戻ったことを確信した。元気はつらつな加奈の口ぶりに、はるやは急に肩の力が抜けて頬が緩んでしまった。
「よかった」
 はるやは加奈をきつく抱きしめた。
「ちょっと、まずいわよ、学校の前で。みんなが見ているじゃない」
「いいんだ、君がここにいるだけで」
 加奈のクラスメイトがくすくす笑いながら熱いわねぇなどと言って通り過ぎる。
「ほら、はるや君も遅刻するわよ」
「じゃ、放課後迎えに来るから」
 名残惜しそうにはるやは振り返り、そう言った。
「うん」
 加奈もそれに笑顔で応えて手を振った。
 昨日の夜のことは夢だったのだと、はるやは思い込もうとしたが、頭から、シャナンの言葉が離れなかった。
 加奈が泣くようなことがあればお前の命をもらう。
 いつもそばにいて見ているというのか。
 『吸血鬼』……夜、血を吸う魔物、魔術で人を惑わす、永遠の生命ある者、あるいは生きる屍……孤独。
 はるやは図書室でふと吸血鬼に関する本を手にとった。
 今でも信じられない、本当に存在するなどと考えていなかったもの、吸血鬼。
 加奈を泣かすようなことはしない。だが万が一、再び加奈の前に姿を現したら、その時一体どうやって加奈を守ればよいのだろう。夜でなくとも行動していたシャナンに、にんにくや十字架が本当に有効なのだろうか。どうやって加奈を守る? 加奈が不安になるようなことは言いたくない、折角シャナンのことを忘れているのだから。
 はるやは誰にも相談できずに悶々としていた。
 一瞬、図書室の窓辺を黒い影がよぎったような気配を感じ、はるやは窓を見たのだが、そこには風にそよぐ木の枝が見えるだけだった。
「俺、神経質になっているかな」
 頭を掻きながら視線を本に戻した。
  
 いつの間にか、森羅シャナンの形跡は学校から消えていた。以前からいなかったかのように、誰もその存在を覚えていないのだ。
 あれから一週間。三神加奈も彼女のことを忘れていたのだが、少しずつ記憶は蘇っていた。
誰の記憶にもないが、確かに存在していた青い瞳の少女。シャナンという名前が、ぽつんと頭に浮かんだ。シャナンと呟くと胸の奥が熱くなった。シャナンのことをもっと思い出したい。日増しにその思いは強くなり、徐々にシャナンと過ごしたあの数日間がよみがえってきた。
 何も確かなものはないのだが、シャナンは存在する。三神加奈はそう確信していた。
 しかし、彼氏である山崎はるやにも、そのことを黙っていた。
 心配させたくないから。
 加奈は、そう自分に言い聞かせた。だが、それは本心ではなかった。本当は自分の気持ちを悟られるのではないかと、不安だったのだ。
 自分の気持ち。
 それは、森羅シャナンを求めてしまう気持ち。
 ざわざわと木々がそよげば、木陰に目を凝らし、いるはずのないシャナンを探し、夕暮れ、ひとり歩いていると、視線を感じてふと後ろを振り返ってしまう。そんな自分がいた。
 数日間、僅かに言葉を交わし、見詰め合ったあの短い時間。ほんの僅かな一瞬だったのに。なのに、何故ここまでシャナンは心の中に入り込んでしまったのか。加奈はわけもわからないまま、シャナンの影を追い求めていた。
 放課後、夕闇が雪道を青く覆い隠し始めていた。
 加奈は山崎はるやと肩を並べて歩きながら、そんな気持ちを悟られまいと常に笑顔を作っていたが、頭の中はシャナンで一杯だった。
「……な、加奈!」
「えっ?」
「ボーっとして、何考えていたんだよ? 最近、いっつもだ」
 山崎はるやが立ち止まり、いつになく険しい顔をして加奈を睨んだ。
「べつに、そんなことないよ」
 言葉とは裏腹に、うわずってしまった声。はるやの視線が痛い。
 加奈はいたたまれず、目線を足元に落とした。
 足元の青白い雪のように、加奈は心を冷たく閉ざしていた。
 薄暗がりの夕暮れの中、青白い雪道が一層冷たく感じる。
「……俺のこと、眼中にないみたいだ」
 苦しそうに、はるやは言葉を吐いた。
「はるや君……」
 加奈は何と声をかけていいのかわからず、はるやの名前をただ弱々しく呟いた。
「俺の……俺の目を見て答えてくれないか? 加奈は、何か俺に隠しているだろう?」
 はるやの両手が、加奈の肩をしっかりと掴んだ。暖かく、力強い手。寄りかかれば直ぐそこに温もりがある。
 安心して頼りがいのある、はるやのがっちりした胸板。でも、何かが喉に引っかかるのだ。
 このまま彼に寄り添ってしまっていいのか。本当に後悔しないのだろうか。彼を悲しませるようなことにはならないだろうか。
 加奈は自問しながら、ゆっくりと顔を上げ、はるやを見つめ返した。
 悲しげな加奈の表情を見て、はるやは何かを感じ取ったのだろう。
 加奈が口を開く前に、一言こういった。
「俺、どんなことがあっても加奈を守るから」
 真一文字に口を結び、はるやは思い続けていたことを口にしたようだった。
「だから、忘れろ。加奈は、悪い夢を見ていたんだ」
 加奈は驚いた。はるやはシャナンのことを覚えているのだ。何もかも、加奈の心を全て読み取っているかのようにはるやは言った。
「でも、私……私きっとはるや君を悲しませてしまう」
 加奈ははるやを見つめたまま、苦渋の表情を浮かべ、しかし、きっぱりと言った。
 加奈の憂えた瞳。
 その瞳は、何処かシャナンに似ていた。
 純粋無垢な少女のようにも見え、妖艶な成熟した女にも見える。相反するものを兼ね備えている、人を惑わすこの世のものではないもの――シャナン。
「加奈は、思い出したのか。あいつのことをまだ……そうなのか? でも、あいつは人間じゃない、魔物なんだぞ。加奈を人形の様に操って……」
はるやは目に見えない敵に向かって、怒りをぶつけるように言った。
シャナンを恐れているようだった。
「俺、加奈が側にいてくれたら、それでいいんだ。どこにもいかず、ずっと」
 はるやは加奈をきつく抱き締めた。どこにも加奈をつれて行かせない。そんな決意が、その腕に込められているようだった。
 加奈は、はるやに何も言えなかった。
 星のない夜空に、白い月だけが雪を冷たく照らしていた。
 満月だった。
 黒い翼を持つ鳥が一羽、二人の頭上を飛び去った。


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