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18・別れ
 優しい瞳をした青年が床に座り込んだ状態で、カナーンを仰ぎ見ていた。
 二人がもみ合っているうちに壁際まで非難していたシャナンは、あまりのことに座り込んだままその場から動けなかった。
「嘘……山崎はるやだというの?」
 不安げに呟いたシャナンに、カナーンは何も心配することはないとでも言うように余裕の笑みを向け、「来るな」とシャナンに目で合図した。
「加奈、なのか……」
 青年は眩しそうに目を細めてカナーンを見上げ、まだ半信半疑なのか弱々しい声で呟いた。
黒いマントに身を包み、眼光鋭く青白い肌をしたカナーンは、加奈の面影をほとんど残していなかったのだが、はるやにはなんとなく加奈だとわかったようだった。
「確かに、私は加奈だったこともあった」
 カナーンは腕を組み、怒りを抑えているかのように苛々した口調で低く呟いた。
「加奈、これはいったい、どうなっている……」
 そう訊きながら立ち上がった青年は、今ここに生れ落ちたかのように、きょろきょろと辺りを見回した。
 青年は、どこからどう見ても山崎はるやだった。
「我慢ならん! こんな小細工をしても無駄だ! バートリめ、このようなことで私が躊躇するとでも思ったか。はるやを表に出しても容赦はしない。この男と供にお前を葬る!」
 そう叫んだカナーンは、無防備なはるやの首にいきなり片手をかけた。そして、「悪いが死んでくれ」と眉一つ動かさず冷酷に呟いたのだった。
しかし、突然のことにもはるやは抵抗しなかった。ただカナーンを真っ直ぐに見つめたのだ。
曇りのないその瞳は、動揺の色が一切なく、心を決めているようだった。
「俺は今、何がどうなっているのかわからない。でも、加奈がそう望むのなら構わない……」
「お前にはなんの罪もないが、おまえの中に悪魔が棲んでいるのだ」
 カナーンは低い声ではるやに告げた。
「それは……なんとなくわかっていた。ずっと、俺の中にいる何かに全てを支配されていた。またすぐにその状態になるのだろう? 俺はもう死んでいるのも同然だ。ためらうことはない」
 はるやは薄っすらとカナーンに微笑みかけた。
「加奈に出会うことができたのは、俺の中の何かに誘導されたからだと思う。こんなことになっても後悔していない。加奈に会えてよかった。加奈と過ごせてよかった。俺は今もそう思っている」
 その言葉に偽りはないようだった。首に手をかけられながらも、はるやは慈愛に満ちた瞳をカナーンに向けていた。
「加奈、愛している……それは今も同じだ」
 はるやはカナーンの髪に手をかけてそっと撫ぜたのだが、カナーンはあいている手でそれを払いのけた。
「笑わせるな! 加奈など最初っからいなかったのだ! そんな幻を愛してどうなるというのだ。お前はもっと違う道を歩むはずだったのだ。それをバートリという悪魔に利用され、踏みにじられたのだぞ!」
 カナーンは怒りをぶちまけた。何に対して怒っているのかカナーンにもわからなかったが、この状況をすんなりと受け入れてしまったはるやが腹立たしかった。
「加奈に出会えたのだからこれでよかったんだ」
 カナーンの拒絶の態度にも、はるやは同じ答えを繰り返すだけだった。どんな状況でも受け入れてしまい、怒りを知らないはるや。
恨み言を何一つ口にせず許す心は、まるで聖職者のようだった。
 パウル・バートリの聖職者としての良心が、山崎はるやにそんな行動を取らせているのだろうかとさえ思わせた。
 はるやと言葉を交わしていくうちに、カナーンは脱力感に襲われた。神聖なものにあてられたかのように闘争心が奪われ、邪気を浄化されていくような感覚と供に、めまいがカナーンを襲い、思わず額に片手を当てて俯いた。
 力が抜けてしまったカナーンは、はるやの首にかけていた手をだらりと下ろした。
「馬鹿……」
カナーンの口から優しい声がポツリと漏れ出た。顔を上げたときにはカナーンの瞳は温かみのあるものに変わり、涙が滲んでいた。
「はるやくん……」
「加奈?」
 それは加奈に違いなかった。可憐な桜のような穏やかな表情。はるやは加奈をそっと抱き締めた。
 カナーンの中にある消えかかっていた加奈の記憶が呼び起こされたのだ。
「まさか、そんなことがあるなんて……山崎はるやの存在が、カナーンを再び封じ込めてしまったの?」
 まさに、バートリの思う壺となってしまった。シャナンはこのままカナーンが二度と現れないのではと、カナーンの変容に動揺して、おろおろするばかりだった。
「加奈!」
 はるやはもう離さないとでもいうように、加奈を抱き締めている腕に一層力を込めた。
「巻き添えにしてしまってごめんね」
 はるやの胸に顔をうずめたまま、加奈は呟いた。
「顔をもう一度よく見せてくれないか」
そう言ってはるやは加奈を抱き締めていた腕を解き、その手で加奈の顔を包み込んで上向かせた。
はるやは爽やかな笑顔を湛えて加奈を見つめながら、
「……これで十分だ。俺は満足した」
 と、はるやは最後の別れのような言葉を加奈に言った。
「なに? どういうことなの?」
「……加奈も、わかっているだろう? 本当の、お別れだ」
 弱々しく微笑んだはるやは、その笑顔とは裏腹に、揺るぎない決心をしているようだった。
 はるやはそっと手を離して後ずさろうとしたが、加奈ははるやの腕にしがみついた。
「待って! はるやくんはバートリに操られていただけなんでしょ? はるやくんを助ける方法がきっとあるはず」
「加奈、俺は無理だ。自分の中のどこまでが自分なのかもうわからなくなっている。自分の中に、別の何か……バートリというやつが染み込んでいる」
「そんな!」
「そいつが加奈を殺せといっている。俺は、加奈を手にかけてしまう前に自分を葬る」
「だめ! そんなことさせない!」
 加奈が抱きついた拍子にはるやはよろけ、その背中に祭壇が当たって揺れた。
「加奈は、シャナンと生きろ」
 はるやは祭壇の上にあった銀の短剣を手に取り、両手でしっかり持ち直してその先端を自分の胸に向けた。
「はるやくん、やめて!」
 はるやの手から短剣をもぎ取ろうとした加奈は、揉み合いになった。
加奈は必死だった。はるやを死なせたくない。何の罪もないのに、何故自ら命を絶たなければならないのだろう。そんなことをさせたくない。
「加奈、俺から離れろ!」
「いや! はるやくんは大事な人だから!」
「加奈……」
 加奈の言葉に反応したはるやは、短剣を握り締めていた手を胸元から下ろした。
「お願いだから、死ぬなんて馬鹿なこと考えないで!」
加奈は再びはるやを抱き締めた。
「ありがとう……本当にこれで思い残すことは……ない」
 諦めが滲んでいたはるやの声が、途中からくぐもった声音に変わった。
 はるやが、にやりと不敵な笑みを浮かべたのだ。
「はるや、くん?」
「カナーン! 危ない!」
 加奈がはるやの異変を感じたときにはもう遅かった。はるやの手にある銀の短剣が、加奈の背後で振りかざされたのだった。
 シャナンの叫び声で、たちまちカナーンが呼び起こされたのだが、それも間に合わなかった。
 銀の短剣がカナーンの背中を勢いよく貫いて引き抜かれた。カナーンの黒いマントが瞬く間に血で滲んでいき、足元には血溜りが広がっていった。カナーンは血の海の中に崩れるように足を折ってうずくまってしまった。


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