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第二章『心動』三
 光竜は、必死に前だけ見て走っていた。
 山賊の連れていた猟犬を射抜き、とにかく進むことだけ考える。
 遠くへ、もっと遠くへ。
 この場からわかるように逃げなければ。
 姫が道に出るまでの時間を、何としても稼がなければいけない。
 そう思い、ひたすら走る。
 それだけでせいいっぱいだった。
 自分がこの先どうなるのか――そんなことは考えることも出来ない。
 とにかく走る。
 後ろに追っ手を感じながら、彼は足を山奥に向け、駆け続けた。
 そのとき。
「うわわっ」
 突然、足場がなくなってしまう。
 前方にのみ注意を払い、足元を見るのを忘れたのだ。
 道に掘られた熊用の大穴に、彼はまっさかさまに落ちてしまう。
(いたた……万事休すだわ)
 穴の底で痛む足腰に力を入れて、何とか起き上がった。
(こんなとこに穴があるなんて最悪よ。まったくもう!)
 山賊たちに見つかったらお終いである。
 思ったよりも穴は深く、自分ひとりでは地面まで上がれそうもない。
(袋のねずみってところね)
 光竜はあきらめて息をついた。
 もうこうなったらしかたがない。
 彼は息を殺し、穴の中に座り込んだ。
「おいっ、いたかっ」
「わからん。どこだ」
 頭上を山賊たちの声や足音が行ったり来たりする。
 光竜は身を硬くした。
 もう見つかるのは時間の問題だろう。
 そう思いながら、じっとしていると――。
「おいっ、いたぞ。ここだっ」
 頭の上に影が差す。
 山賊の一人が穴の中を覗いて、彼を見つけたのだ。
「まぬけな奴、こんなとこに落ちるとは」
「いまどき熊でもひっかかりゃしねえってのに」
 中傷と嫌な笑い声が辺りに響く。
 光竜はきっと顔をあげ、彼らを睨みつけた。
「おい、こいつ一人だぜ」
「女はいねえようだな」
 そう言って、彼らははっとする。
「女の方は街道に出ちまったんじゃねえか」
「こいつ……わざとだな。女一人を逃がすために命をはるとは、お堅い貴族様のやりそうなこった」
 ぺっとつばを吐きかけられ、光竜はあわてて避けた。
「くそっ。こんながきじゃ使い物にならねえな」
「どうします? いっそこのまま埋めちまいますか」
「それもいいが、とにかく一端引き上げて、金目の物を持ってないか確認しろ」
「へい」
 話がまとまり、彼らの一人が穴の中に縄を投げて寄越す。
「おいっ、あがってこい。無駄な抵抗はしない方がいいぜ」
 光竜はおとなしく従った。
 地面に出ると、むさくるしい男たちに一斉に取り囲まれる。
「離せっ、わたしに触るな」
 もがいても暴れても彼らの数には勝てず、とうとうあちこち探られるはめになった。
 これまでの逃走のせいで汚れ、あちこち裂けてはいるものの、彼の身に着けている物は一州の領主の衣や帯。
 当然のごとく身ぐるみ剥がされ、靴も奪われてしまう。
 剣は取り上げられ、両腕は拘束され、完全に身動きが取れなくなった。
「金目の物はないようだが、驚いたな。こいつ、女だ」
 山賊たちの目つきが変わる。
 光竜はぞっとした。
 舐めるような目で見られ、背筋に悪寒が走る。
(女だったらどうだっていうの)
 性別関係なく殺されるものと思っていたが、山賊たちの彼を掴む力がわずかだが緩んだ。
 そのことに彼は正直驚いてしまう。
「それなりに楽しめそうだな。おいっ、連れて行けっ」
 どうやらすぐ殺すことはやめたらしい。
 山賊たちは光竜を縄でしっかり縛ると、彼らの隠れ家に引き立てていった。




 山の奥深い谷間に、ひっそりと隠れるように彼らの住処は造られていた。
 といっても自然が造った岩穴を、適当に使用しているといったところだったが。
 そんな岩穴の一つに連れてこられ、光竜は溜め息をつく。
(女だってことで命拾いしたわね、とりあえず)
 彼を下ろすと、山賊たちは見張りを一人残し、またどこかに去っていった。
 多数の足音が遠ざかり、少し離れた大石に座って、じっと自分を見張っている男と二人きりになる。
(さて、どうしようか)
 このままおとなしくつかまっているわけにもいかない。
 彼らの玩具になって生きるなど、絶対に出来なかった。
(なんとしても脱出しないと……領地に帰らなければ)
 その思いで、心はあせるばかりである。
 自分が帰らねば、領地の民はどうなるのだろうか。
 母や春奈姫は、確実に斗信の手によって殺されてしまうことだろう。
 慶愛姫を殺されたときの情景が思い浮かび、彼は身震いした。
 冗談ではない。
 これ以上、もう誰も失いたくはない。
 なんとしても戻らなければ。
 彼は辺りを見回した。
 見張りの男を除いては、どうやら誰もいないようだ。
(この縄さえ解ければ――)
 彼は一生懸命頭をめぐらせる。
(しょうがないわね。あたし、こういうのやったことないからわからないんだけど……一か八かよ)
 心を決めると、光竜は見張りの男に声をかけた。
「あの……」
 出来るだけ心細い風を装う。
「なんだ?」
 男はすぐさま寄って来た。
 声も視線も興味しんしんといった感じで、光竜はぞっとしたが一生懸命演技を続ける。
「さっきから胸が苦しくて……お願い、どこへも行かないから、少しだけ縄を解いてくださらない?」
「何だって、どこが痛むんだ?」
「あの、胸が少し……」
 恥らうように声を小さくすると、案の定男は近寄ってきた。
「胸だって? ここか」
 手を伸ばしてきたので気持ち悪かったが、光竜はされるがままに身を任せる。
「あっ……」
 思わず声が出てしまう。
 男の手が薄い内衣の襟元から入りこみ、彼の胸のふくらみをとらえた。
「よしよし。ここか」
 いやらしい笑みを浮かべ、男は無骨な光竜の胸をゆっくりと揉む。
(うっ、気持ち悪い……)
 込み上げる吐き気をかろうじて抑え、光竜は顔を伏せてささやいた。
「ね、お願い。ちょっと縄を解いてくださいな。そしたら、もっと楽しめるでしょ」
「……」
「……駄目?」
 少女の震える声で哀願され、男はとうとう欲望に負けた。
 太い指が、彼を縛った縄をもどかしそうに解き放つ。
「おとなしくするんだぞ」
 そう言いながら、男は光竜にのしかかってきた。
 油断させようと、光竜は腕を男の首に巻きつける。
 しばらく女と遊んでいなかったのか――男は夢中で光竜の胸をまさぐり、首筋に舌を這わせ始めた。
「あっ、駄目、やめて……」
 何とか声を出しながら、光竜はそろそろと腕を男の腰に帯びた剣に伸ばす。
 手が剣の柄を捉えた。
 引き抜くと、すばやく男のわき腹に突きたてる。
「うっ」
 男はあまりの痛みに光竜を突き飛ばし、腹を押さえた。
 返り血が白い内衣にかかる。
 光竜は衣を直す間もなく、剣を構え、後ずさりした。
 そのとき。
 後ろから騒々しい声が聞こえてくる。
 山賊の仲間が戻ってきたのだ。
 彼らは目の前の光景――腹を刺されてうめく男と、返り血のついた衣を着ている光竜に目を留め、あぜんとする。
「こいつっ」
 あわてて光竜は走り出した。
「待て」
 追ってくる男達から、死にもの狂いで逃げる。
 小柄な体型と俊足を活かし、木の間を駆け抜け、すばやく小木の茂みに潜り込んだ。
「くそっ、どこだ」
「まだ遠くへは行ってない。探せ」
 男達の声を背後に感じながら、彼はひたすら枝を掻き分け、その場から遠ざかろうと必死に進んだ。





 その後も何度かみつかりそうになった。
 そのたびに必死に逃げる。
 もう足にも負傷した肩にも何の感覚もなかった。
 とにかく走って、彼らに捕まらないようにすることだけ考える。
 どうせ道などわからないのだ。
 少しでも彼らから遠ざかる確立の高い方に進んだ。
 何度か足がもつれ、転んでしまい、そのたびに傷が出来る。
 足場が不安定な坂道を転げ落ちてしまったりもした。
 体のあちこちが痛んだが、逃げなければという切迫感が傷を忘れさせ、体を動かす力となる。
(絶対に逃げ切ってみせる。あたしは死ぬわけにはいかないのよ)
 一刻も早く領地に帰らなければ。
 自分が行方不明になってしまっただけで、斗信は行動を起こすだろう。
 狩からもう三日経っている。
(まさか……まだ領地に帰ってはいないと思うけど)
 この機会にさっさと領地に帰り、母や姉を処刑してしまうかもしれない。
(早くこの山から出なければ)
 心はあせる思いでいっぱいだった。
 夜半、木にもたれて身を休めていると、疲れから眠気が襲ってくる。
 そしていつも嫌な夢を見た。
 斗信が血塗られた刀をかざし、母と姉に迫る。
「いやあっー、やめてっ」
 春奈姫の顔が恐怖に引きつった。
「お願い、この子は見逃して」
 母が泣きながら、斗信に哀願する。
 しかしどんな言葉も、彼の前では無意味だった。
 多くの人を葬ってきた刀を、彼は光竜の大切な人たちに振り下ろす。
「やめてーっ」
 光竜は必死に叫んだ。
「やめてっ。いやーっ!」





 身を起こし、思いっきり手を伸ばして彼は宙をつかんだ。
 そしてはっと目を開ける。
 辺りは一変していた。
 やわらかな錦の布団と白い天井。
「ここは……」
 そうつぶやいて、彼は頭をめぐらせる。
(そうだ、あたしは――)
 山を必死に駆け回り、何とか道に出ることが出来た。
 そのときにはもう時間の感覚も、あれからどれだけの時が経ったのかすらわからなくなっていた。
 とりあえず通りかかった荷馬車に乗せてもらい、町まで来ることが出来て、それから――。
 はっと彼は自分の姿を見る。
 体中に巻かれた包帯と、取り替えられた衣。
 自分が置かれた状況を悟り、彼は身を震わせた。
 斗信うんぬんの問題ではなく、もっと重大かつ深刻な事態に陥ってしまっている。
 そのことを思うと、全身が激しい痛みに包まれた。
(どうしよう!)
 そう、自分は華玲姫が無事に逃げたかどうか、どうしても気になって泰家の屋敷に向かったのだ。
 このまま領地に戻ることも出来ないし、友美がまだいるかもしれない。
(それに斗信のことも確かめないと)
 その思いで、体を引きずるように必死に前に進んだ。
 屋敷の中に入り、庭で華玲の姿をみつけ、心から安心する。
(良かった、姫……無事だったのね)
 その安堵の思いから張り詰めていた気が緩み、全身を包む疲労感と傷の痛みに意識が遠ざかっていったのだ。
 見回すと整えられた美しい室内の様子が目に入る。
 窓からは見覚えのある庭の風景。
(ここは泰家の屋敷だわ。どこかの一室なのね)
 それはわかったが、光竜の震えは止められなかった。
 もちろん知られてしまっただろう。
 自分が女であることが――。
(一体どうしたら……)
 これからのことを思うと、絶望に心は萎み、胸は苦しいほど締め付けられる。
 どうなるのかわからないが、もう母や姉を救うことは出来なくなった。
 きっと上州の州城、斗信の元に連行され、処刑されてしまうのだろう。
(何もかも終わりだわ。お兄様……)
 身を震わせ、涙を流していると――。
「まあ、光竜様」
 柔らかな声が彼の名を呼んだ。
 恐る恐る顔を上げると、華玲の艶やかな顔がある。
 彼女は飛んできて、彼の前に膝をつき、そっと顔を覗き込んだ。
「よかった。三日もお目覚めにならなかったので心配していたのですよ。本当に良かった……」
 綺麗な瞳を潤ませて、華玲は嬉しそうな笑みを浮かべる。
 でもそんな彼女に、光竜は微笑み返すことが出来なかった。
 何と言えば良いのか。
 当然、わかっているはずだ、華玲には。
 自分が性別を偽っていたことが。
 なのに自分に向けてくる、この笑みは一体――。
 当惑し、震えている彼に気付き、華玲は心配そうに問うた。
「お顔の色が悪いですわ。どこか痛みますか」
「……華玲姫」
 やっとのことで声を絞り出す。
 でも次は何と言えばいいのだろう。
 言葉を失い、青ざめた表情の彼に、華玲は痛ましげな瞳を向けた。
「もう少し休んでいらしてくださいな。今、何か軽く口に入る物をお持ちしましょう」
 そして立ち上がり、彼から目をそらしてつぶやく。
「早くお元気になっていただかないと――あたくし、これ以上お世話しきれませんわよ」
「……」
「ここはあたくしの部屋ですの。いつまでも女性の寝室に若い殿方を休ませて差し上げるわけにはいきませんわ。皆の目がありますからね」
 いたずらっぽく言うと、彼女は優しく微笑んだ。
「ですからちゃんと休んで、食べて、早く良くなってくださいませ。わかりましたね」
「……」
 驚きで言葉も出ない光竜の顔を見ながらそう言うと、華玲は足早に部屋を出る。
(どういうこと?)
 彼女が立ち去ったあと、光竜の頭はまだ呆然としていた。
(何でばれてないわけ?)
 しかし彼女の口ぶりは、あきらかに彼を男として見ているもの。
 不信の心も罪人を蔑む言葉も何もなく、ただ光竜が目覚めたことを喜んでいる様子だった。
(良かった……まだ大丈夫なのね)
 光竜の心が、ほっと安堵に包まれる。
 安心したら、涙が溢れんばかりに瞳から零れ落ちた。
(もう、あたしったら――こんなに泣いちゃ怪しまれるわよ。しっかりしなきゃ)
 涙を拭いて、また寝台に横になる。
 まだ体は休息を要求していた。
 自然に瞼が下がり、若葉色の瞳を閉じる。
 心からの安心感に包まれ、光竜はまた眠りについた。
 ――今度は悪夢を見ることもなく、深い安らかな休息として。





 廊下を歩きながら、華玲はため息をついていた。
(やっぱり言えないわよね)
 本当は言ってしまってもよかったのだ。
 いや、最初から彼が気がついたとき、性別のことを言って少しからかってみようかなんて思っていた。
 でも。
 気がついて、顔が真っ青になっているあの様子に、華玲はどうしても口に出来なくなってしまう。
(あなたは、本当は姫なんでしょう?)
 そう言って、彼の困った顔が見たかったはずなのに。
(でもそうよね。あたくしと光竜様とでは立場が違うわ)
 華玲と違い、彼は性別がばれてしまえば一大事だ。
 ただ笑い者になるだけでは済まない。
 皇帝より裁かれて、罪人として処刑されてしまうのだ。
 目覚めて真っ先に考えたことは、おそらくそれだろう。
 先ほどの震えは、傷の痛みなどではない。
 真実を知られてしまったことに対する不安と絶望――。
(見てみぬ振りをするべきだわ、あたくしは)
 あんなに不安で、心細げな彼の顔は見たくない。
 身を震わせて絶望している少女の瞳は、華玲の心を痛くさせた。
 山の中で自分をかばい、一生懸命守ろうとした彼女の――いや、彼の瞳の方が、とても綺麗だった。
 華玲はその時のことを思い出し、胸が熱くなる。
(どうしてしまったのかしら、あたくしは。なんであの子のことなんて……)
 気がつくと、頬が燃えるように熱い。
 突然沸き起こった気持ちに戸惑い、華玲は更に思い乱れた。
(冗談じゃないわ。あんな頼りなさそうな子、あたくしの好みじゃなくってよ。それにどうせ女じゃないの)
 苛立たしげに首を振り、感情を打ち消す。
 それよりも今は彼に何か食べさせて、さっさと回復して部屋から出てもらわなくては。
 余計な気をまわしてる時ではないのだと自分に言い聞かせ、彼女は厨房に歩いていった。






 翌日。
 華玲が寝室に訪ねていくと、光竜は寝台から出て、居間の椅子に座っていた。
「あら、まだ寝ていらして。いけませんわ」
 寝台に連れて行こうとする華玲に、光竜は笑う。
「もうすっかり大丈夫です、姫。どうかお気遣いなく」
「でも」
「まだ痛みはありますが、動けなくはありません。わたしはそろそろ別室に移ろうと思っています」
 強い意思を秘めた瞳に見つめられ、華玲は止める言葉もなくなってしまった。
「……どうかご無理はなさらないで」
 そうは言ってみたものの、その方が良さそうだと彼女自身も感じるほどだ。
 彼が一刻も早く華玲の部屋から出たいのはわかっている。
 ここでは気が張って休めないのだろう。
 いつばれやしないか、光竜が常に気をつけていることに華玲も気付いていた。
 溜め息と共に彼女は家人を呼び、別室を整えるよう命じる。
「姫には本当にお世話になりました。心からお礼申し上げます」
 そう言いながら、光竜は華玲の顔がどこか寂しそうなのを感じた。
 でも今はそれどころではない。
 早く動けるようにならなければいけない。
 一刻も早く領地に戻らねば――彼の心はあせるばかりだった。
 母と春奈姫のことが気になる。
 斗信が領地に戻ってから、かなり経った。
 もう二人は処刑されているのではないだろうか。
 その不安が、常に彼の心からはなれない。
 華玲は華玲で、どうしてか目の前にいる光竜を引き止めたくなってしまう自分の感情をもてあまし、戸惑っていた。
(あたくしらしくもないわ。この子には早く出ていってもらいたいはずなのに)
 もちろん光竜を嫌悪しているわけではないが、別に特別な存在というわけではないはず。
 なのにこの彼を惜しむ気持ちは、一体何なのか。
 お互いに何も言えず、自分の心の奥に沈みこんでいると――。
「失礼します。お部屋のお仕度が整いました」
 家人の声に、二人は我にかえった。
「では、姫。わたしはこれで」
 光竜は一礼する。
「無理はなさらないでくださいませ。あたくし、時々監視に参りますからね」
 微笑んで、華玲は光竜を送り出した。





 自分に与えられた室に入り、寝台に身を横たえる。
 光竜は天上を眺めながら、ほっと一息ついた。
(それにしても危なかったわねえ)
 やっと落ち着く。
 華玲の部屋は悪くはなかったが、それこそいつばれやしないかとはらはらした。
 気を張り詰めさせ、寝ているどころではなかったのだ。
(こうなったら明日にでも領地に戻らないと。馬には乗れると思うし)
 心は、ただもうあせるばかりである。
(お母様、 お姉様)
 どうか無事でいてくれますように。
 彼は心の中で必死に祈った。

 



 光竜がいなくなった寝台に、華玲は所在投げに座る。
 先ほどまでの彼のぬくもりは、もうここには残っていなかった。
 敷布や布団を家人が全部新しい物と取り替えていったからである。
(……変だわ。どうしたのかしら、あたくしは)
 華玲は、ぼんやりとおぼつかない自分の心情をいぶかしんだ。
 彼がいなくなったこの状況こそが、自分の日常。
 なのに、どこか物足りない気がするのは何故だろう。
 自分の気持ちがよくわからなくて、少しいらいらしはじめたとき、部屋に瑛良が入ってきた。
「姫様」
「どうしたの?」
 瑛良の様子がおかしいのに気付き、華玲は眉をひそめる。
 顔をゆがめ、床に跪き、瑛良は泣きそうな声で告げた。
「たった今、上州からご使者が参りまして――季江が……季江が……」
 華玲は、季江という名を聞いた瞬間、心臓が冷たくなってしまう。
 立ち上がり、彼女は身を震わせて瑛良を凝視した。
「上州に入る前に賊に襲われ、命を落としたと……今、中 斗信様の使者が知らせに」
「……」
 目の前が眩み、すべてがかすんだ。
「ひ……姫様? 華玲様? 気をお確かに……姫様っ」
 瑛良の叫びが、どんどん遠のく。
 華玲はその場に崩れ落ち、意識を失ってしまった。






 次に気がついたとき、華玲は寝台に寝かされていた。
 横には心配そうな顔で、母 采夫人がついている。
「お、かあさま……」
 薄目を開け、母を呼ぶと、采夫人はぱっと顔をほころばす。
「ああっ、気がついたのですね、華玲」
「……季江は……」
 華玲は寝台から起き上がろうとした。
「駄目ですよ、まだ休んでいなくては」
 ふらつく体を采夫人が支え、また寝台に横たわらせる。
 首だけ横にして、華玲は震える声で問うた。
「季江……が死んだというのは、本当なのですか、お母様」
「そのことはあとにしましょう。今は体を休めないと」
「いいえ」
 華玲は力をふりしぼって、また起き上がった。
「あとには出来ないわ。あたくし、今、知らねばなりません。季江は本当に死んだのですね」
「ええ。斗信様がきちんと州境に墓を設け、弔ってくださったそうです」
「どうして……」
 信じられない思いでつぶやくと、憂い顔の母は続ける。
「使いの者の話では、州境で賊に襲われ、戦闘になったとか。賊は追い払うことが出来たものの、季江はそのとき賊によって殺されてしまったと」
(……嘘だわ)
 体中の血が沸騰する。
 ふつふつと湧き上がる怒りと共に、華玲は疑心に身を焦がした。
(あの人でなし! 自分に何の得にもならない女だから始末してしまったんだわ。ああっ、可哀相な季江。あたくしのせいで……)
 怒りと同時に悲しみがこみ上げる。
 母に心配をかけたくなかったが、今は抑えきれない感情の方が、他のどんな気持ちにも勝り、華玲を支配した。
 紫の瞳から涙が溢れ出す。
 堪えきれず、華玲は寝台に突っ伏して大きな声で泣きだしてしまった。






 瑛良は厨房で、香茶の準備をしていた。
 先ほど華玲が気がついたので、お茶を持っていこうと思ったのだ。
 瑛良自身もとても辛かった。
 季江とは気安い家人同士。
 同じ屋敷に仕える同僚として、常に挨拶をかかさず、親しくしていた間柄だった。
 俗に言う玉の輿に季江があがったことを、家人仲間はみな喜んでいた。
 なのに。
 これから幸せを掴もうという寸前での、この悲劇。
 先ほど使者が上州に帰ったが、瑛良は庭に咲いていた見事な金蓮花を摘み取って、彼に託した。
 州境にあるという季江の墓前に供えて欲しいと。
 金蓮花は季江が好きだと言っていた花で、いつも庭にこの花が咲くと、一緒に見に行ったものである。
(季江……ほんの数日前に、幸せそうな顔で出発していったのに)
 あれが彼女の最後だったことを思うと、とても辛くて、瑛良は茶器をそろえながら袖で涙をぬぐった。
 溢れる感情を押さえ込み、なんとか湯を沸かして支度を整える。
 盆に載せて運ぼうとしたとき、彼女は何か物音を聞いた。
 コリッコリッ、ドサッ。
(な……何?)
 厨房の脇にある勝手口。
 そこから音は聞こえてくる。
 ドサッと何かが戸にぶつかる音がして、瑛良は思わず茶器を取り落としてしまった。
(誰かいるの?)
 震える指先を伸ばし、そっと勝手口を開けてみると――。
 そこには傷ついた少女が一人、倒れているではないか。
「どうしたの? しっかりして」
 あわてて助け起こした少女の顔を見て、瑛良ははっとする。
 見覚えのある顔だ。
(この人、確か――あの上州領主様の家人だったんじゃ……)
 たくさんの若君たちが家人を連れて滞在したが、自分と同じ年頃の少女を連れてきた者は少数である。
 それもそのはず、求婚しに行く姫の家に、家人とはいえ若い娘の同伴者などは極力控えるのが普通だ。
 だからこそ若い少女の家人はめずらしく、顔を覚えていた。
(大変! この人、もしかして賊に襲われたときに逃げてきたとか)
 先ほどの使者の話では、上州から来た一行は国境付近で賊に襲われた。
 光竜を失い、彼女もその一向に加わって、故郷を目指していたはずだ。
「ううっ……」
 少女がうめき声を漏らす。
 おそらく傷が痛むのだろう。
「大丈夫? ほら、しっかりつかまって」
 声をかけながら、瑛良は少女を支え、屋敷の中に入れてやった。






 家人、季江の悲報により、屋敷の中は悲しみに彩られる。
 それは客人たちの口にも伝わり、姫が衝撃で倒れてしまったと求婚者たちは皆心配顔でささやきあった。
 部屋に篭りきりの光竜でさえ、廊下がどこかあわただしいのに気がつく。
(何かあったのかしら)
 いぶかしんでいるところに、すっと扉が開いて、泰家の家人が入ってきた。
「失礼いたします」
 あわてて彼は居住まいを正す。
(彼女は確か華玲姫の側仕えの、えーと、瑛良だっけ)
 膝をつき、礼をしながら彼女は言った。
「あの、実は上州よりさきほどご使者が参りまして」
「何ですって」
 光竜は息も止まるほどびっくりする。
「わたしのことを、姫様が連絡してくださったのですか」
 そう言うと、瑛良は顔をあげ、首を横に振った。
「そうではございません。それがその……」
 言いにくそうな彼女の表情に、光竜はあせる思いで尋ねる。
「その使者は何故こちらに? わたしの消息でも調べに来たのでしょうか」
「いいえ、そうではなく、実は光竜様が消息を絶っておられた間に、こちらの家人 季江と上州の中 斗信様が婚約されまして」
「ええっ、斗信が」
 光竜は驚いて叫んでしまう。
 寝耳に水とは、まさにこのことだ。
「こちらをお発ちになるとき、季江も同行したのですが、何でも国境付近で賊に襲われ、彼女は命を落としたとのこと。姫様付きの家人で大層お気に入りの娘だったものですから、斗信様は姫様にお気遣いくださり、そのことをお知らせくださったのです」
「……」
 光竜は眉をひそめる。
 この話が怪しいことぐらい、状況をつぶさに知らずとも検討がついた。
「ご使者の方はお忙しいのか、言伝だけ申し述べると、すぐに立ち去られてしまいまして、光竜様のことをお伝えする事も出来ませんでした」
「そうですか」
 複雑な顔をする彼を見て、瑛良は申し訳なさそうに平伏する。
「誠に申し訳ございません。早く上州にお知らせせねばならないものを……」
「あ、いいえ、そんなに気にしないで」
 光竜は、あわてて笑みを向けた。
「こちらこそお世話になってしまって申し訳ない。早くこの傷を治し、ここをお暇せねばならぬというのに」
 彼の口調に怒気がないのを感じ、瑛良はほっと表情を緩める。
「あの、それから先ほどのことなのですが、光竜様がお連れになっていらした家人の方が、ひどい傷を負って、こちらにいらっしゃいました」
「ええっ、友美が……」
 驚いて身を動かした瞬間、鋭い痛みが全身に走った。
 光竜はうめきながら肩を押さえ、鋭い瞳を瑛良に向ける。
 視線を受け、瑛良は先ほどの話をくわしく語った。
「――おそらく賊に襲われて傷を負われ、こちらに逃げてこられたのではないかと思います。薬師に手当てを受け、さっき意識を回復いたしました。光竜様のことを伝えますと涙を浮かべて喜ばれ、今すぐお側に参りたいと申しておりますが、いかがいたしましょう」
「もちろん会います」
 光竜は即答する。
 一番頼りになる者と、こうも早くに再会出来るとは――彼は心強さを感じ、嬉しくなった。
 瑛良はうなずくと、少々お待ちを、と下がっていく。
 入れ替わりに部屋に見慣れた少女が入ってきた。
「友美!」
「光竜様」
 二人は互いに手を握り合う。
「光竜様、よく……よくご無事で……」
 友美は泣きながら、彼にすがり付いた。
「あんたもね、友美。良かった、ここに来てくれて」
 光竜は、ほっと安堵の息をする。
 彼女は自分が小さい頃から、ずっと側に仕えてくれていた。
 当然、彼の事を熟知しており、心から信頼できる数少ない使用人の一人である。
「あたしももう駄目かと思ったんだけど、竜神様のお導きか、なんとか生きてここまでたどり着けたわ。それより領地はどうなったの? お母様や春奈姫は?」
 友美は顔をあげ、悲痛な瞳で彼をみつめる。
「そのことですが」
 口ごもった彼女の肩をゆすぶって、光竜は激しく叫んだ。
「どうしたの! まさか二人とも、もう……」
 体中がどんどん冷たくなっていく。
 光竜の思いを察し、友美はあわてて答えた。
「いいえ、あの、お二人ともご無事でございます」
「本当に?」
「はい」
 友美の言葉に、光竜は心の底から安堵した。
 無事ならばいい。
 たとえ牢獄や、どこかの寺にでも監禁されていたとしてもかまわない。
(あたしが必ず見つけて助けてみせる)
「ただ……」
「何かまずいことになってるみたいね。話してちょうだい」
「はい」
 友美はうなずくと、話し出した。
 話が進むたび、光竜はただもうあきれて絶句する。
 斗信が華玲の側仕えの娘と事を起こし、その娘を連れてここを立ち去ったこと。
 そして――。
「あんたも一緒に帰ったのね、斗信と」
「はい。そして恐ろしいことに、わたくしは見てしまったのです。行州と上州の国境で、あの男が何をしたのかを。あの男は、自分が娶った娘に毒杯を与え、殺害してしまったのです」
「そんな」
「斗信は、あの少女を部屋に呼び、優しい声で夫婦になる誓いをと彼女の手に杯を持たせました。娘は嬉しそうにそれを飲み干し、すぐに苦しみながら倒れました」
「なんてひどいことを……」
「あの男は娘の遺体を丁寧に寝台に載せ、翌朝、皆に悲しみながら言ったのです。昨夜、彼女は心臓の発作でなくなったと。さも彼女の死を悼んでいるふりをしながら、彼は彼女を手厚く葬りました。葬儀を執り行い、上州に戻ってからも殊勝そうに喪に服しています。なので今は喪中だから、とまだ領主の地位にはついておりません」
「そっか」
 光竜は、ほっとした。
 どうやらその娘のおかげで、少しだけ時間がかせげたようだ。
 それにしても。
「なんてむごいことを――本当に人間かしら」
 はき捨てるような光竜の言葉に、友美もうなずく。
「まったくです。あの男は、わたしが一部始終を見ていたことは知りません。ですがわたしが密かに州境を超えて行州に入ろうとしたのをみて、不信を抱いたようです。逃げるわたしに追っ手をかけ、振り切るのが大変でした」
「そうだったの。それからここへ?」
「はい。季江さんが逝かれたことをお知らせしておこうと思いまして」
 光竜は考え込む。
 先ほど斗信より使わされた使者が、季江の訃報を報告していった。
 だがそれは、友美が語る事実とはまるで内容が違う。
(友美が行州に向かったのを知り、念のために使者を差し向けたんだわ。そういうところは悪知恵が働く男よね)
 州城から差し向けられた正式な使者と、薄汚れた家人の少女。
 どちらの言葉を信じるかは一目瞭然だ。
 でも今は自分――正当な上州領主がここにいる。
 友美を信頼出来る家人だと説明すれば、彼女の言を信じてくれるかもしれない。
 でもそうやって非道を訴え、斗信への糾弾を泰家と共に行うことは可能なのだろうか。
(おそらく無理よね)
 この家の姫でもない身分卑しい娘一人、どうなったとしても誰も気にも止めないだろう。
 むしろ光竜に領主として領民たる斗信への対応がなっていないと非難の波が来るだけだ。
「先にこっちに来てくれて良かったわ、友美」
 光竜は彼女に、先ほど斗信が上州から使者を送ってきたことを話した。
「まあ、そんな虚偽の報告をするなんて」
「あいつらしいと言えばらしいわよね。あんたがここでどうこう言っても、何もならないと思うわ」
 光竜はまたも無力な自分を思い、深い溜め息を落とす。
「……季江さんが、お可哀相です」
 ぽつりと一言、友美がもらした。
 光竜も口にはしなかったが、同じ思いである。
(人を何だと思ってるのかしら、あいつは)
 まるで遊戯の駒か何かのように言葉巧みに動かして、用済みになったらあっさり捨ててしまう。
(許せない。早く上州に戻らなければ――)
 これ以上、あの男に誰も傷つけさせはしない。
 全身の痛みも忘れるほど、光竜は強く決意した。





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