警告
この作品は<R-18>です。
18歳未満の方は
移動してください。
第八章『思春』四
馬車が州城に着いたのは、昼を過ぎた頃だった。
華玲の機転で、眠ってしまった光竜を宿で休ませず、すぐに馬車を雇って夜明け前から走らせたため、予定より早く戻ることが出来た。
出迎えにきた扶安と善慈、そして雄那の姿を見て、光竜はすまないとあやまる。
「まったく驚きましたよ。門の警人から報告を受けて」
額に青筋を立てながら、怒りを含む声で扶安は抗議した。
「お一人で行かれるなど無謀です。いくら剣を携帯しておられるとはいえ、あんな時刻に供もつけず――せめて警人の一人ぐらい、お連れになっていただかないと。盗賊にでも襲われたら、どうなさるおつもりだったのですか」
「わかってる。すまない。勝手に飛び出して」
「大事にいたらず良かったですが、貴重な御身、くれぐれもご自愛ください。姫を引き止められるにもしても、光竜様ご自身が出て行かれずとも――いくらでも優秀な警人がおりますのに」
「説教はそれくらいにしといたらどうだ、扶安」
横から善慈が助け舟を出す。
「光竜様の身にもなってみろ。惚れた女の窮地だぞ。それこそ周りなんかかまってられるかよ」
「だからといって自ら無謀なことをなさるなど、許される身ではない。光竜様に万が一のことがあってみろ。上州は終わりだ」
「まあまあ、お前が心配すんのもわかるけど、無事に戻ってこられたんだし、それくらいで終わりにしろよ、な」
「まったく……」
まだ言い足りない顔の扶安に、光竜は頭を下げる。
「今回はわたしが悪かった。反省してるよ」
「ご本心でしょうね」
「ああ。もう二度と勝手なことはしない。だから今回は見逃してくれ」
真摯な謝罪に、扶安は肩を落とし、今回だけですよ、とつぶやいた。
ほっとして顔を上げた光竜に、雄那が笑顔を向ける。
「なんにせよご無事で何よりでした。あれから突然出て行かれて、わたしも気が気ではなかったのです。まさか華玲姫を追っていかれたとは――やはり光竜様には姫は必要なお方なのですね」
「え? いや、その、それは……」
突然そう言われ、光竜はまごつく。
男三人は同時ににやついた顔をして、彼をからかった。
「そのようで、わたしもほっといたしました。お世継ぎも、もう問題ないですな」
「それはまだ早いだろう。だが何にせよ上州の将来は安泰さ。こんな立派な奥方が輿入れされるんだからな」
「まったくです。いや、これはおめでたい」
「早く皆に知らせねば」
「そうです、盛大に前祝といきましょうよ」
口々に言いたいことを言いあう三人に、光竜は心底困った顔をする。
(ああっ、また余計なうわさが流れてしまう。そういうわけにはいかないのに)
だが否定しても、今は取り合ってもらえそうもない。
三人の声は勝手に盛り上がり、祝言の日取りまで数え上げる始末。
話題を打ち切ろうとしても出来ず、光竜は苦しそうに顔をゆがめた。
その時。
「まあ、ひどい方たちですこと。あたくしの光竜様をいじめるとは許しませんわよ」
美しい顔を曇らせ、冷たい瞳で華玲が割って入る。
「これは姫、無事のご帰還、おめでとうございます」
善慈の言葉に、華玲は眉をひそめ、彼を睨んだ。
「ご帰還ですって? ここがあたくしの城だとでも仰るのですか」
「まあ、そう固いことを仰らずに」
「浮ついたお言葉ですこと。まだ何も正式に決まっていないのに、憶測でものを言うなんて感心しませんわ。光竜様のお気持ちも察せず、自分たちだけの勝手な思い込みで、おかしなうわさを流されませんように。そういうおろかな官吏がいるから、光竜様がご苦労なさるのです」
「姫、お言葉が過ぎますよ」
雄那がやんわりと止めに入る。
「わたしはともかく横の二人は光竜様の忠実な側近中の側近。その勤めを命がけで果たす忠実かつ優秀な官吏です。おろかとは聞き捨てなりませんな」
「あら、あたくしにはそうとしかみえません。光竜様のお心を悩ますような発言は謹んでいただきたいものですわ。本当に光竜様がお心を決められるまで、横に控えてそっと見守るのが側近の心得ではないかしら。忠実かつ優秀な官吏だと仰るのなら、口だけでなく態度で示してくださいませ」
「これは失礼しました」
苦笑しながら、扶安が頭を下げる。
「姫には一本とられましたな。確かに失言でした。お許しください」
同性の光竜ならいくらでもからかってしまえるのだが、気位の高い姫君に対してはそういうわけにもいかない。
華玲はまだ機嫌が悪そうだったが、そこで言葉を打ち切り、光竜に向き直った。
「それはそうと光竜様、あたくし、まだ伺っておりませんでしたが、どうしてあたくしを追ってこられたのですか」
「あ……」
光竜は目を大きく見開く。
(そうだった。まだ理由を話していない)
横にいた三人も、一瞬あきれた顔をした。
「まだお話になっていなかったのですか」
扶安が、やれやれと肩をすくめる。
「一体ここまでの間、お二人は馬車の中で何をなさっていたんでしょうね」
にやりと意味ありげに善慈が笑う。
話の矛先が違う方に向きそうになったが、華玲の一睨みであっさりと阻まれた。
「夜通し馬車を走らせてこられたのです。お二人とも朝餉もまだでございましょう」
雄那が話を進めようと、口を出す。
光竜はうなずき、扶安と善慈に言った。
「悪いがこれから姫の館で朝餉をいただくことにする。食事が終わるまで執務は扶安、お前が対応しておいてくれ」
「わかりました」
「善慈、州境に早馬を飛ばし、行州に縁ある者以外の通行を禁じよ。行商人はしばらく上州内で商いをして待つようにさせてくれ。あと不信な荷はすべて一時預かりとし、武器類を絶対に行州内に流通させてはならない。見張りの数も増やし、監視を怠るな」
「はい」
てきぱきと指示を出し、光竜は姫の手を取る。
「お待たせしました、姫。館に行きましょう」
華玲は白い顔でうなずいた。
自分の故郷に何か異変が起こっているらしいと、光竜の指示で察知する。
複雑な表情で彼女は光竜に手をひかれ、また別館へ戻っていった。
遅めの朝餉を食べ終わると、光竜はすぐ華玲に事の次第を説明する。
すべてを聞いた華玲の衝撃は大きかった。
「そんな……お父様が……」
身を震わせ、不安にあえぐ彼女を、光竜は優しい瞳で労わる。
「仁栄殿には弟君がおありとか。どのような方なのです」
「泰 天考様と仰って、あたくしの成人の儀の時に、父に代わって見守り、清司をお務めくださいました。野心なく誠実で領民にも慕われておいでだったのに、どうして斗信と」
「あいつは恐ろしい力で人を誘惑します。わたしの兄の最愛の姫も、とても優しく良い方でした。なのに斗信の毒舌に乗せられて豹変してしまった。どんな人間であろうと心に隙はできるもの。可能性がないとはいえません」
吐き捨てるように光竜はつぶやいた。
またあの悪魔のような男が、誰かの大切な人の心を玩び、踏みにじろうとしている。
それを思うと、嫌悪と憤怒の情しか沸いてこない。
あまりのことに椅子に倒れこみ、華玲は身動きできなくなった。
悲しみにくれる彼女の姿は、光竜の心を揺さぶる。
彼は姫の横に行き、その手を優しく握った。
「辛いでしょうが、どうか元気を出してください。あなたは一人ではありません」
「……」
「わたしが側にいます。微力ながら、あなたのお力になりたいと思っています。あなたがいつもわたしを助けてくださるように、わたしもあなたを助けたい」
「光竜様」
華玲は潤んだ瞳を彼に向けた。
「できる限りあなたの父上を援助します。身内同士争うなど悲しいことですが、陛下より正式に認められた者を廃し、自分勝手に領主の地位につこうなど天を侮辱する行為。絶対に許されることではありません」
「ありがとうございます、光竜様」
華玲は涙がこぼれそうになるのを必死で押さえ、笑顔をみせる。
気を取り直した彼女を見て、光竜はほっとした。
(姫が傷つくのはみたくないもの。あたしに出来ることがあったらしてあげたい)
そう心から強く彼は思った。
姫の館を辞し、執務室に戻った光竜を待っていたのは、なんと行州からの文だった。
「先ほど行州領主様のご使者が到着しまして、この文を光竜様へと」
ざっと目を通し、彼は辛そうに顔をゆがめる。
「使者はどこに」
「今は州城の一室で休ませております。相当無理をして来たらしい様子で、負傷していましたので、薬師に手当てをさせました」
「そうか。今、会えるかな」
光竜は問うた。
「ゆっくり休ませてやりたいが、事は一刻を争う。話を聞いて、対応しないと」
「わかりました。では彼を呼びましょう」
そう言って出て行こうとする扶安を、光竜は引きとめた。
「いや、わたしが行こう。部屋はどこだ。案内してくれ」
立ち上がり、歩き出す彼に、扶安は笑みを向ける。
「わかりました」
二人は連れ立って廊下に出た。
すれ違う官たちは、二人の姿を見るとすぐに道を開け、一礼する。
光竜は彼らの自分に向ける視線を受けながら、重いため息をもらした。
(この人たちはあたしを領主と思い、誠心誠意仕えてくれている)
さきほど華玲の館で口から出た言葉が、彼の胸によみがえり、棘となって心を刺す。
――陛下より正式に認められた者を廃し、自分勝手に領主の地位につこうなど天を侮辱する行為。
(我ながらよく言うわ。あたしにそんなこと言う資格なんてないのに)
苦しくなって胸を押さえる。
本当は天より認められ、ここで皆の礼を受けるはずだったのは斗信。
悔しいが兄殺害の証拠が上がらなかったため、彼は天の前に潔白な者なのだ。
竜神の法に照らし合わせれば、この自分こそ性別を偽り、勝手に領主の地位についている罪人である。
その自分が誰かを悪と定めることが、果たして本当に正しいのか。
「光竜様、どうしました? 光竜様」
しばらく考えにふけってしまったようだ。
扶安の呼び声に、光竜は我に返る。
「すまない。ちょっと考え事をしていて」
自分を取り戻した彼に、扶安はほっと笑顔をみせた。
「着きましたよ」
二人は、州城でも入り口に程近い一室の前にいた。
深呼吸をし、迷いを胸の奥に隠すと、光竜は入室する。
中は簡素なもので、長椅子と小卓が置いてあるだけの小部屋だ。
長椅子には、ぐったりと動かない体が横たわっている。
相当疲労し、受けた傷も深いようだと光竜は痛ましげに使者を見た。
扶安は長椅子に歩み寄り、使者の耳に光竜の訪問を告げる。
すると横たわっていた男はうめき声を上げながら、起き上がろうとした。
「そのままでいい。横になっていなさい」
必死に礼をしようとするのを制し、光竜は使者をまた長椅子に横たわらせる。
「突然すまないな。本来ならもっと休ませてやるべきなのだが、いろいろ事情を聞きたくて」
光竜の言葉に、使者は弱弱しい声で応じた。
「そのような……領主様自らもったいのうございます」
「文は読んだ。だがあれだけでは状況がよくわからない。あなたが知っていることを、出来るだけくわしく教えてもらいたいのだが」
問われて、使者は悲痛な顔をする。
「領主様は現在州城にて篭城中にございます」
「篭城だって」
驚いて光竜は声を上げてしまう。
謀反はもう動き出しているのか。
「首謀者は領主様の弟 泰天考様。領主様に対し、州の法を改革せよと要求され、挙兵された次第です」
「州の法を改革って……」
「天考様は野心なく私心なく州のため官吏として尽くしていたお方ですが、最近になって国法に対し、お考えを変えられるようになりました。そしてご自分の理想とする法改正案を領主様に提出し、裁可していただきたいと訴えられたのです」
「でも取り合ってもらえなかったのか。それで挙兵を――」
「はい。私ども一同、ただただ驚いております。天考様は決して武力などに訴えるお方ではなく、文官として慎ましいお人柄だったのに、一体どこから大量の武器や武人どもを手配したのか、皆理解できずにおります」
使者は悔しそうに唇を噛みしめる。
品行方正な文官に武器とならず者たちを用意したのが誰か、よくわかっている光竜は、それ以上何も問えず、口を瞑った。
さぞ無念であり、悔しいだろう。
州内で信頼していた者に裏切られた胸の痛みは、想像して余りある。
聞きたいことは山ほどあったが、光竜は何と言ってよいかわからなくなった。
二人の会話が途切れたのをみて、今度は扶安が使者に話しかける。
「その法改革案とはどのようなものなのでしょうか」
「まず州内での改革を、との申し入れでございますが、後々は国の柱たる竜神の法をも覆そうとする内容でございます。それゆえわが領主様は大層驚かれ、諸官に諮るなどもっての他だと拒絶なさいました」
使者が落胆のため息と共に答えると、扶安は顔をゆがめ、光竜は皮肉交じりの口調でつぶやいた。
「どうせこういう内容だろう。身分制度の撤廃、婚姻の自由化、禄高の軽減及び徴収量の引き下げ、無制限の商い奨励、そしてこれらの改革に伴った裁律の改変。違うか」
「どうしてそこまで……」
ぴたりと言い当てられ、使者は驚く。
光竜は肩をすくめた。
「似たようなことを考えている曲者が上州にもいるからな。こっちも手をやいている」
「そうでございましたか」
使者は納得した。
「身分制度の撤廃は、貴族と民の隔てを無くすもの。聞こえは良いのですが、これを実際行うとすれば、相当の混乱を招きましょう」
扶安が難しい顔をする。
「婚姻の自由化は、今定められている規定を取り払い、何人でも妻や夫を娶ることが出来るというもの。更に年齢制限を取り払えば、それこそ生まれたての赤子でも結婚出来ることになってしまいます」
「離婚も再婚も無制限、何のお咎めもなしとくれば、恐ろしいことになるぞ。気に入らなければ捨てられてしまい、何の保障もなくなるのみならず、強姦や姦淫を禁じる法まで意味がなくなって、国中に欲望と乱れが生じるだろうな」
光竜は腕組みをしながら、扶安の言葉に応じた。
「無制限の商いもです。何でも売り買い出来るということになれば、いかがわしい物品の流通は避けられません。極端な話になりますが、人身売買や売春すら可能になるでしょう」
「とんでもない改正案だな」
ばっさり言い切ると、光竜は組んでいた腕をほどく。
「で、泰天考率いる反乱軍の動きは?」
「各地で一斉に決起した彼らは、泰州の民半数の賛同を得て共に徒党を組み、半日で州城を包囲いたしました。領主様に対し、領主の地位を退いて天考様に譲るようにと要求し、もう四日目になるかと」
「四日か」
「決起の知らせを受けるや否や、領主様はわたしに文を渡して、こちらへと向かわせました。なんとか反乱軍の目をかいくぐって州境まで参りましたが、途中の小競り合いに巻き込まれたり、州境に向かう道に独自の包囲網を敷いて、州外に逃れようとする民を捕縛する一団に追われ、山に入って道なき道を手探りで進んできた次第。このような無様な姿でお目通り願うは誠に無礼と承知しておりますが、衣を改める余裕などどこにもありませんでした」
使者は心底申し訳ないという顔をする。
光竜は、暖かなまなざしでねぎらった。
「そんなことは気にしないでくれ。非常時にどうして衣や対面を重んじることが出来るというんだ。あなたはここに来ることで、己の責務を全うしたのだ。心安んじて、今は休むとよい。必要な物があれば遠慮せず申し出て欲しい。出来るだけ手配しよう」
優しく気遣う言葉を耳にし、使者の体から力が抜ける。
どうやらかなり緊張していたようだ。
ほっと安堵して、涙まで眼に滲ませている。
光竜は扶安に目で合図して、身を動かした。
「ではこれで失礼する。ゆっくりと養生してくれ。あとでまた薬師が来るだろう」
二人は軽く目を見交わすと、踵を返す。
出て行こうとした光竜の袖を、突然使者は負傷した手で力いっぱい握りしめた。
「どうかお願いです。上州の領主様にこのようなことを申し入れるのは分に過ぎるとわかってはおりますが、わが領主、泰仁栄様をお助けくださいませんか。もう州内には味方となって反乱軍を抑える力を持つ者などおりません。どうか上州の力を持って謀反人を討ち、仁栄様をお救いください」
「……」
必死の懇願に、光竜はどう返事をしたものか戸惑ってしまう。
使者はそれこそ断ったらその場で何をするかわからないくらい、決死の覚悟に満ちた目をしていたのだ。
彼の心にそのまなざしは痛いほど突き刺さり、揺さぶりをかける。
どんなに冷酷な人間であったとしても、手を差し伸べずにはいられないだろう。
光竜も助けてあげたいと強く思った。
(こんなに必死に州のことを思い、領主の身を案じるとは――忠臣とはこういう者のことを言うのでしょうね)
彼は自分の袖を掴む手を、優しく握り返す。
「安心しなさい。出来るだけのことはしよう」
「本当ですか」
使者の顔がほころぶ。
頬に赤みがさし、瞳に希望が点るのをみて、光竜はほっとした。
だが彼のそんな心に槍を突き立てるような冷静な声がかかる。
「出来るだけのこと、と言っても限りがございます。その旨はご承知いただかないといけません」
「扶安?」
突然の言葉に、光竜は怪訝そうな顔をした。
「失礼ながら、いただいた書状には『万が一のことあらば、華玲姫の御身を頼みたい』ということしかございませんでした。上州に謀反人討伐の嘆願をされてはおりません。いかにこちらが助けたくとも、他州の領主様の請願がなければ兵を動かして進入することは法に触れてしまいます」
「そんな」
使者は、驚いて身を起こす。
「馬鹿な……仁栄様は書状に何も書いていらっしゃらないのですか」
身を震わせ、そんなはずは、と何度もつぶやく彼を見て、光竜は胸が痛かった。
だが扶安の言ったことは事実である。
書状には、華玲姫のことしか書かれていなかった。
だから状況を聞きたくて、こちらに足を運んだのだが。
「他州領主の要請なく勝手に兵を侵入させれば、法によって侵略とみなされます。いかなる大義名分もこれを曲げることは出来ません」
「……」
「おそらく泰の領主様におかれましては、他州の介入なくご自身の手で謀反を治めようとお考えなのしょう。だとすれば余計な手出しは、ただのお節介に過ぎませぬ。こちらもそのような事に関わるほど余裕があるわけでもないのです。領主様の請願があるのなら別ですが」
「扶安、もういいだろう」
そのくらいにしろ、と光竜は強い目線で彼の口を封じた。
衝撃と絶望で身動きできずにいる使者に、労わりのまなざしを向ける。
「辛いだろうが、今は体を休めてくれ。こちらでも出来る限りのことはする。状況は難しいとしか言いようがないが、それでも何とか領主殿だけでもお救いできる様、手は尽くすから」
「お、お願いいたします」
もうこれしか希望はない。
そう言った形相で、使者は何度も頭を下げる。
うなずき、優しい笑みでねぎらいながら、光竜は扶安と共に部屋を出て行った。
執務室に戻るまで、二人は一言も口を利かなかった。
椅子に座り、光竜は両手の指を組み合わせ、あごを支えてため息を落とす。
ちらりと横目で扶安を見ると、ぎろりと意志の強いまなざしが返ってきた。
「そんなお顔をしても駄目なものは駄目ですから」
「そうだよな」
ふうっと所在投げに、光竜はため息をつく。
扶安の発言は正しい。
泰仁栄の寄越した文には、ただ娘を頼みたいとしか書いていなかった。
どうして自分に救援を求めなかったのだろう。
考え込む光竜に、扶安の冷静な声がかかる。
「仁栄様は見上げたお覚悟の方でありましょうな。そうでなければ上州に助けを求めておられるはず」
「どういうことだ」
「光竜様がもし同じような立場になられたとしたら、どうなさいますか。それを考えれば、仁栄様のお考えも自ずとわかるというもの」
目を閉じ、光竜は扶安の言った言葉を吟味する。
そして顔を更に曇らせた。
「……仁栄殿」
「おわかりになりましたか」
扶安は、深いため息と共に言った。
同じ領主として思うなら、痛いほど理由がわかる。
光竜は胸に深い痛みをおぼえた。
(あたしもきっと同じことをする。斗信があたしの命を狙って挙兵したとしたら、どこにも助けは求めない。いいえ、求めてはいけないわ)
複雑な心境だが、やはりそうせざるを得ない。
自分の州のみならず、隣の州まで巻き込むわけにはいかないのだ。
皇帝の下とはいえ、領主というのはその州では絶対の存在である。
領地内にあるものは服従し、命にそむくことは許されない。
領主の地位は代々皇帝より定められた血筋の家の男児が継承するのがきまりで、皇帝もこれを容認し、今まで領主の交代についてはその家の問題、絶対不可侵となっていた。
領主の座を争うことは、いわばそこのお家騒動、他州や他家はほとんど介入したことがない。
まして騒動の勝者が領主となり、州を治めるのなら尚のこと。
近隣の州は次の勝者と上手く付き合い、お互いの安寧を保たねばならない。
下手に領主の地位争いの一方に加担することは、後に加担した方が敗者となった場合を考えれば何の利もないこと。
横で傍観し、勝者となった者と手を取って、己の州を守るのが最善策なのだ。
そんな光竜の立場を、仁栄はよくわかっている。
だからあえて助けは求めず、ただ娘を頼むとだけ書いて寄越した。
上州まで巻き込むわけにはいかないと、思ってくれたのだ。
「娘を頼むと書くということは、おそらく仁栄様も後がないと覚悟されているのでしょうな」
「ああ」
自分が絶対に勝利すると考えてはいないのだ。
だから姫を頼みたいと――。
「扶安」
顔を俯け、見せないようにしながら、光竜はぽつりとつぶやいた。
「側にいるのに、何も出来ないというのは辛いな」
「光竜様」
「わたしには何の力もない。領主などと名乗りながら出来ることがないなんて――一体何のためにわたしはいるのだろう」
「何を仰います」
扶安は、激して声を荒げる。
「あなた様はいつも立派に領主として勤めておいでではないですか。民の安寧を願い、州の利を増やさんと日夜身を費やしておいでのは、この扶安がよく存じています。他州の揉め事に何もしてやれないなどと嘆くなど、情けないことですよ。あなたはこの上州の領主であって、行州の領主ではない。それこそおこがましい考えというものです」
「……」
「上州を守り、立派に治めることこそあなたの成すべき事。それだって並大抵のことではございません。あなたが自分の持てるすべてを出し切って、やっとかなうかもしれないのです。それでせいいっぱいのはずなのに、それ以上をやろうなどと考えるのは驕りでしかありません。しっかりしてください、光竜様」
肩を揺らし、眉を吊り上げて怒る忠臣に、光竜はやっと笑みをみせた。
「そうだな。すまない、扶安」
「おわかりいただけたのでしょうね」
疑り深い目で探るように見つめられ、光竜は肩をすくめる。
「ああ。よくわかった。だからもう説教はやめてくれ」
「それはようございました」
さっきの怒り顔が瞬時に消え、いつもの笑顔に戻って、扶安は一礼する。
「ところで光竜様。華玲姫のことですが」
「姫のこと?」
「『頼む』とだけ書状には書いてありましたが、具体的に仁栄様が何をお望みなのか、それだけではよくわかりません。なのでよろしかったら尋ねてみてはいかがでしょう」
「は?」
光竜は怪訝そうな顔をする。
扶安は澄まして続けた。
「ですから文の返事を光竜様が仁栄様に当ててお出しになってはどうですか、と申し上げております」
「……」
光竜は、二、三度瞬きし、にやっと笑った。
「さっきと言ってることが矛盾してないか」
「少しも矛盾していませんが」
ものは言いよう、物事はいかほどもやりようがございます、と抜け目のない顔で応じる忠臣を、光竜は潤んだ瞳で見た。
「ありがとう、扶安」
「いいえ、わたしも正直今回の件、見過ごすのは少し胸が痛く思います。完全にあちらのお家騒動だというのなら、別に見て見ぬふりでよいのですが」
「うちの州から流れてきた問題でもあるのだしな」
光竜は重い顔でつぶやいた。
「わたしが、あの男を早く何とか出来ておればよかったのだが」
「聡明な兄上様にも出来なかった獲物を、そう簡単に仕留められるとお思いですか」
扶安は、また複雑な顔に戻る光竜をやんわりと制す。
「こういうことには時間がかかります。どうかあせらず、お待ちください。あきらめなければ、必ず機会は参りましょう」
「そうだな」
微笑むと、光竜はありがとう、と言った。
心から嬉しい。
さっき泰家の使者を見たとき、少しうらやまくなった。
主を案じる忠義な家臣を持って、仁栄は幸せだと感じたのだ。
しかし今ここに、自分の側にもそんな人がいてくれる。
助け、励まし、この身を案じてくれる人が――。
「すぐに行州に向けて文を書こう。紙と筆を用意してくれ」
光竜の命に扶安は笑んで一礼し、執務室を出て行った。