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第八章『思春』三
 勢い込んで別館に向かった光竜だが、そこにはもう誰もいなかった。
「嘘……」
 力が抜けて、へなへなとその場に座り込んでしまう。
 館にいるはずの姫の姿はどこにもなく、整理された私物のみが置いてある。
(もう行ってしまったの?)
 つい昼すぎに、帰宅を決める会話をしたばかりだというのに。
 あれからかなり時が経ったかのように館の中は整えられ、彼女のいた形跡が薄れている。
(間に合わなかったなんて――)
 光竜はのろのろと体を動かし、館内を見てまわった。
 ほとんど物は持っていかなかったようだ。
 衣も装身具も装飾品も、大抵の物は残っている。
 居間に白い文を見つけ、彼は手に取った。
 そこには姫の流麗な文字で、今までの感謝とお詫び、そしてあとのことを頼むと書いてある。
『あたくしの使っていた物は、ここに置いていきます。すべて上州の未来のために使ってくださいませ』
 そう書かれた箇所を見て、光竜は顔を歪めた。
 最後まで彼女は、彼と上州のことを想ってくれた。
 そのことが全身を熱くさせる。
(姫……)
 光竜は文を胸に抱き、姫への強い想いにかられる。
(昼過ぎにはここにいたんだもの。まだ遠くまで行ってはいないはず)
 ここから州境までは馬を飛ばせば二日だが、さすがに夜通し馬を走らせて急ぐほどの無茶はしないはず。
(どこか途中で休むはずよ。今から追いかければ間に合うかもしれない)
 このまま何もせず、あきらめて彼女を実家に帰すわけにはいかない。
 帰れば謀反の渦中に巻き込まれ、それこそ命を落とすかもしれないのだ。
(姫を死なせるなんて、絶対に嫌)
 事は一刻を争う。
 光竜は立ち上がり、館を出て、厩へと駆けていった。



 門の所に詰めていた警人は、顔色を変えて馬を引いてきた領主の姿に驚いた。
「こ、光竜様、こんな時間にどちらへ」
「華玲姫はいつここを出られたのだ」
 激しく迫られ、警人は驚く。
「夕刻です。供の女官と二人で馬に乗って行かれましたが――そういえば、まだお戻りでないですね」
 狼狽し、目を瞬かせる警人をそのままに、光竜は馬に飛び乗った。
「お、お待ちを、光竜様、光竜様ーっ」
 どこへ行くのかも告げず、彼は城門の外に飛び出す。
「光竜様」
 気配に気づき、雄那が追いかけてきたが、間一髪で光竜の姿は夜の闇に消えてしまった。




 辺りを包むのは漆黒の情景。
 どういうわけか空には月も星も出ていない。
 さきほどちらりと見えていた頼りない月影も、厚い雲の中に包み隠されてしまった。
(華玲姫、無事でいて)
 光竜は心の中で何度も願いながら、ひたすら馬を駆けさせる。
 視察のために何度か行き来した道だから、明かりがなくても大体のことはわかった。
 ためらうことなく全力疾走し、ほどなく小さな町につく。
 町となれば、入り口に小門が構えられていた。
 時刻になると門は閉まり、当番で野営が立つ。
 いつ盗賊のたぐいが襲ってくるとも限らないからだ。
「開けてくれ。上州領主 魁光竜だ」
 狂ったように門を叩いて呼ばわると、見張り台から門番が顔を出し、仰天する。
「領主様? このような時刻にどうして……」
「早く開けて、中へ入れてくれ。人を探しているんだ」
「少々お待ちを」
 門番は顔を引っ込める。
 光竜は馬を下り、いらいらしながら開門を待った。
 ほどなく門は開かれ、彼は町の中に急いで入る。
 門の内側には、驚いた顔で町長と数人の町役たちが立っていた。
「本当に領主様ですな。驚きました。このような時刻にどうなさったのです」
「人を探している。夕刻、こちらに女性の二人連れが来なかったか」
「はて、女性の二人連れですか」
 町長は首をひねり、まわりに集まってきた町人たちに伺いを立てる。
「見ましたよ」
「本当か」
「ええ。あたしんとこの食堂で、食事をしていきましたよ」
 がさがさのしわがれた声で、一人の女が答えた。
「布で顔を隠してましたから、ちらとしか見なかったですけど、とても別嬪さんだったですよ。うちにはちょっとしかいませんでしたね。その人の連れの娘が食事をし、別嬪さんは水だけで、物を食べやしなかったんです」
「今どこにいるかわかるか」
 光竜の問いに、女は首をかしげた。
「さあ、とっくに出発していきましたから。けっこう急いでるみたいでしたよ。もう町にはいないでしょう」
「わかった。ありがとう」
 ここにいないことがわかった瞬間、光竜はすぐに騎乗し、町を出て行った。
(次の村まで、全力で小半時はかかるわね)
 少しでもその時間を短縮したい。
 一日の疲労で襲ってくる眠気とたたかいながら、彼は必死に馬を走らせた。



 次の村に着いたのは、もう夜半だった。
 ほとんどの村人が寝静まる中、光竜は迷惑を承知で聞いてまわる。
 寝ているのにたたき起こされて悪態をつく者もいたが、領主の頼みとあれば文句も言えない。
 しかしここにも華玲はいなかった。
 通過していくのを見た者が一人だけ。
「すまないな。夜中に突然」
 村長に詫びて、光竜は村を出る。
 あと州境までの村や町はどれくらいあるのか、頭の中に叩き込んである州内の地理を考え、彼はため息をついた。
(早くみつけないと)
 ここまで一本道だが、途中から州境までの道が二手になる。
 一つは村や町を結ぶもので、比較的安全だが境まで行くのに時間がかかった。
 もう一方は山間を行く道で、全力で進めば馬で一日。
 だが道は悪く、途中に村はないため、休むこともままならない。
 山賊や追い剥ぎに待ち伏せされる危険性もある。
(護衛はいないし、姫なら安全な道を行くでしょう)
 そこまで無理をして、先を急ぐ必要が彼女にあるとは思えなかった。
 まして一人ではなく、供の娘を連れている。
 華玲が同伴者を危険にさらすようなことをする姫ではないことぐらい、予想がついた。
(だったらこっちね)
 馬の首を山間ではなく次の町に向けて、光竜はひたすら全力疾走した。



 もう夜も大分ふけたというのに、華玲は休む気にならなかった。
 体は疲れを訴えているが、何故か横になりたいという気持ちはおこらない。
 しばらく主を待っていたが、耐え切れずに愛利は床についた。
 横の座敷から彼女の規則正しい寝息が聞こえてくる。
 華玲は愛利が完全に寝入ったのを確認し、宿の廊下に出た。
 ぎしぎし音を立てる床を踏みしめ、窓辺による。
(なんて暗いのかしら。月も星もない夜なんて)
 それは華玲の心に寂しさを感じさせた。
(まるですべてを無くしたあたくしのようだわ。希望の星も、輝く未来を映す月もない。夜空を覆い包む黒雲のように、あたくしの心はこれからずっと闇に浸かって生きていく)
 再び自分の行く先に、輝く星は見えるのだろうか。
 ほんのわずかな瞬きでも、希望を与えてくれる光を得ることはかなうのだろうか。
(光竜様)
 胸の奥で、何度も愛しい人を呼ぶ。
 後悔はしていない。
 彼と出会い、彼を愛したことを悔いる気持ちは一つもなかった。
 胸の痛みを抱え、これから後は一人静かに生きていく。
(もうきっと誰も好きになったり出来ないわ。あたくしをこんな気持ちにさせてくれる人に、まためぐり合える奇跡なんておこるはずないもの)
 偽りの姿でありながら、己の分を忘れるほど恋焦がれた。
 立場を考えれば、決してそんな感情など沸くはずもなかったのに。
(ずっと女として育ってきた。今でもそう。男だと胸を張って言える性質は、これっぽっちも持ち合わせていない。なのに)
 本来なら自分は男性に惹かれるはずの存在。
 生まれ持った体はどうしようもないが、心は女性のままなのだ。
 でも光竜は、そんなものを超えてしまえるほど強い感情を彼女にもたらした。
 それは世間体とか家の名とか身分とか育ってきた環境とか性別とか、様々にからみつく要素を引き裂いてしまうほど強烈なもの。
 すべてを取り去り、まさにこの世に生を受ける時に与えられた純粋な魂の惹き合う力。
(あなたが男だろうと女だろうと関係ないわ。あたくしが恋したのは、あなた自身の魂。器がなんであれ、中にある本質が変わることはないもの)
 今、彼はどうしているだろうか。
 自館の寝室で、安らかに眠っているはずだ。
(あたくしとの問題に片がついたのだもの。安堵して良い夢を見ていることでしょう)
 そう思い、目を伏せる。
 悲しみが一気に押し寄せた。
 自分のことなど彼はなんとも思っていない。
 それはよくわかっている。
 でもやはり辛くて、どうしようもなくせつなくて、華玲は這い上がってくる悲しみを涙の粒に代え、袖を濡らした。
(あなたに心から愛されたかった)
 今、彼が側にいないのが辛い。
 もう二度とその姿を見ることもない。
 声を聞くことも、名を呼ぶことも、微笑みを交し合うことも時の彼方に失われた甘い夢。
 低い嗚咽が、歪んだ唇から漏れる。
 手を伸ばしても、もう届かない。
 過ぎ行く時の流れと共に遠ざかっていく絆。
 彼との距離は、永遠と言えるほど離れてしまった。
 それを頭上に広がる夜の闇が感じさせる。
 彼との別れを。
 これからの未来に、一片の希望もないことを。
 せつなさで胸を押さえ、袖を濡らす彼女の耳に何かが聞こえてきた。
『……姫』
 狂おしいほど愛しい声。
 あの人の優しい抑揚を持った旋律。
『華玲姫』
 光竜が、心の中で彼女を呼ぶ。
「光竜様」
 口に出して呼び返すと、また彼は彼女を呼んだ。
『華玲姫』
 春を運ぶ夜風の悪戯か。
 何度も何度も彼女を呼ぶ、光竜の必死な声が聞こえる。
「光竜様」
 華玲は小さなつぶやきで答えた。
「そんなにあたくしをお呼びになってはいけません。お忘れになっていただかなくては」
 そう、これ以上彼の重荷になるわけにはいかないと思ったゆえに、別れを決意したのだ。
 いつまでも光竜に彼女の名を呼ばせるわけにはいかない。
「忘れてしまってください、あたくしなど。迷惑以外のなにものでもなかったでしょうに」
 悲しいつぶやき。
 本心とはまったく反対の言葉。
 本当は忘れてなんか欲しくない。
 迷惑だろうがなんだろうが、いつまでも離れたくなかった。
「光竜様」
「華玲姫、どこですか、姫」
「呼ばないでと申し上げているのに、まだ聞こえるなんて……」
 涙を拭き、重いため息をついた華玲は、はっと顔を上げる。
「姫、華玲姫ーっ」
「……」
「返事をしてください。いるんでしょう、お願いです」
 意識が現実に返った。
 夢でも幻でもない、耳に届く必死な呼び声。
 ばたばたと宿の横の往来を駆けていく足音。
 遠くで馬の嘶きもする。
「姫ーっ」
 宿の垣根の向こうから、はっきりとした声が響く。
(まさかそんな……)
 いてもたってもいられず、華玲は廊下を走り出し、宿の外に飛び出した。
「光竜様っ」
 呼び返す声は、宿の者たちを起こしてしまうほど大きくなる。
 でもかまわず華玲はありったけの声を出して、彼を呼んだ。
「光竜様、あたくしはここです。ここにいますわ」



 
 
 夜も深まり、地上に動くものは夜行性の動物と時変わらずに吹いている風ぐらいのものだった。
 そんなすべてのものが深い眠りにつくはずの時間を破り、光竜は馬を走らせ、次の町に入る。
 見張りの者たちまで寝入ってしまっていたが、領主の血相を変えた姿に仰天して門を開けてくれた。
 すぐに女性の二人組みの消息を、光竜は尋ねる。
 今度はありがたいことに、いい返答があった。
「門が閉まる直前に馬で走りこんできた女性がいましたよ。貴族のお姫さんらしい人で――まるで家から夜逃げでもしてきたみたいに急いでましたっけ」
「そうか。二人は町から出ていったか」
「いいえ、まさか。この時刻ですよ。たぶん町の宿か誰かの家に泊まってるでしょう」
「ありがとう」
 光竜は疲労の残る顔に、笑みを浮かべた。
「もし明日の朝、二人が門を出ようとしていたら止めてもらいたい。そしてわたしに連絡してくれ。どうしてもその二人を先へ行かせてはならないのだ」
「わかりました」
 見張りの者は請け負った。
「領主様もお休みください。町長に連絡して、部屋を用意いたします」
「いいや、連絡は不要だ。わたしはここを回らせてもらう。一刻も早く彼女をみつけなければ」
「こんな時間にですか」
 驚く見張りの者たちに手を振り、光竜は馬を引いて往来を進んでいった。
 小さな町だが州境が近いため、思ったより宿の軒数が多い。
 手近に見つけた宿に入り、聞いてみたが、華玲はいなかった。
 次々と往来に宿の看板が現れるたび、中に入って尋ねるが、どこにも気配がない。
 看板が掲げられている所をすべて回ってみたが、ついに彼女を発見出来ず、光竜の体から疲れがどっと沸いてきた。
 会えないのではないかとという絶望的な想いにかられ、彼は往来に座り込んでしまう。
(やっぱりもう彼女は、あたしの届かないところに行ってしまった)
 もともと雲の上のような人だったのだ。
 国一の美女とうたわれ、すべてにおいて文句のつけようのない女性。
 皇帝陛下の后に請われても、誰も異を唱えることなどなかったであろう。
 そんな人がある日突然目の前に現れて、すべてをかけて愛してくれた。
 こんな小さな嘘偽りだらけの自分を――。
(姫……あなたに会いたい。今すぐに会って、顔を見たい)
 願うことは、ただそれだけ。
 この気持ちが何なのかはわからない。
 恋愛感情ではない――はずだが。
(だって姫は同性だもの。そんな気持ちになるわけがないわ)
 だとしたら何だ。
 彼女を求める熱い心の正体は、一体何。
 疑問が頭の中をぐるぐる回る。
 答えがわからないことが彼を余計に惑わし、辛くさせた。
 でもその辛い気持ちが、逆に強い意志を生み出す。
(何かわからなくてもかまわない。とにかく会いたい。このままあきらめるなんて嫌だ)
 彼は立ち上がり、なりふりかまわず天に向かって叫んだ。
 自分が今、求めている人の名を。
 口で叫ぶだけでなく、体までも動き出す。
 彼女の姿を求め、往来を走りだした。
 どこにいるかはわからない。
 でも必ずこの町のいずこかに彼女は存在しているはず。
「華玲姫、どこですか、姫」
 何度も何度も声を上げた。
 その言葉は想いと共に夜風に乗って、寝静まった町の彼方まで届けられる。
 往来に、路地裏に、家と家の隙間にさえも。
「姫、華玲姫ーっ」
 道という道を必死に走りながら、光竜は声をからして叫び続ける。
「返事をしてください。いるんでしょう、お願いです」
 呼び声が途切れることはなかった。
 探すのをやめてしまうということは、あきらめるということ。
 そしてもう二度と彼女に会うことは出来なくなるということ――だから。
 声が嗄れても、足がもつれても、光竜は止まることはなかった。
(姫……お願い、返事をして)
 彼の想いが頂点に達し、これ以上どうしようもなくて絶望に追い落とされる寸前。
「光竜様っ」
 風が、美しい声を運んできた。
 足を止め、光竜はかすかな声に耳をすます。
(聞き違い? いいえ、今、確かに姫の声が……)
 風が、がたがたと目の前の建物の門にかかった札を揺らす。
 目を凝らして見ると、本当に粗末な物だったが板切れに『宿』と一文字墨で書いてあった。
(ええっ、ここも宿なの?)
 もうすべての宿は回ったとばかり思っていた彼は、驚いて目を丸くする。
 それと同時に、今度ははっきりと聞こえてた。
「光竜様、あたくしはここです。ここにいますわ」
 強く、でも優しい響きが光竜の耳をくすぐる。
 それと同時に、視界に飛び込んできた黒い影があった。
 小柄な彼より少し背は高め、目立たない色だが上品な香を焚き染めた姫装束。
 この国に二人といない稀有な美貌。
 求めていた人が、ついに彼の目の前に現れたのだ。



「ひ、姫」
「光竜様」
 お互い信じられないといったまなざしで、二人は互いを確認する。
「姫、本当に姫なのですね」
「光竜様、幻ではなくあなたなのですか。あたくしは夢を見ているの?」
 華玲の綺麗な唇が、どうして、と小さくつぶやく。
 やっと会えたことにほっとして、光竜はその場に座り込んでしまった。
 間に合ったという安心感が緊張をときほぐす。
 溜まっていた疲労が一気に噴きだして、彼は一歩も動けなくなってしまった。
 華玲はすばやく駆け寄ると、倒れそうになる小さな体を支える。
「一体どうしてお出でになったのですか。こんな時刻に」
「……」
「あたくしを探していらしたの? 何故こんな無理をなさったのです」
 心配の心情が、つい責める口調へと変化する。
 華玲はあきれたという顔で、彼を見つめた。
「お一人で馬を駆るなど――護衛も供もお連れにならず、ご自分が無謀な事を出来るお方だと思っているのですか」
 彼女の強い口調を聞き、光竜は心底嬉しかった。
 気遣ってくれるまなざし、支えてくれる白い腕。
 すべてが今、自分の側にある。
 そのことがとても嬉しくて――。
「あっ、光竜様? 光竜様」
 安堵と歓喜に満たされた体に、疲労と睡魔が襲ってくる。
 華玲の胸にもたれたまま、光竜は意識をすっと手放した。
 小さな口元に微笑みを浮かべて――。





 なんだか揺れている。
 体が、頭がぐらぐらと安定しない。
 意識が戻って最初に感じたのは、それだった。
(なんだか馬車の中にいるみたい……って、えええっ)
 光竜は、がばっと飛び起きる。
 彼にかけられていた毛布が、座席の床にはらりと落ちた。
「しかたのない方ですわね」
 そんな風に起き上がるなんて、お行儀が悪いですわよ、と軽やかに笑う声がする。
「姫……」
 光竜は目を瞬かせた。
(あたし、どうしたんだっけ)
 どうやら夢ではないらしい。
 自分は今、馬車の中。
 すぐ側には、華玲が美しい微笑みを見せて座っている。
 姫と同じ席に座り直し、光竜はぼうっとした頭で考えた。
 確か自分は姫を追いかけて、夜道を馬で疾走したのだ。
 州境に程近い町で彼女をようやく見つけ、そして――。
(疲れて、そのまま意識を飛ばした――ううん、寝ちゃったんだわ)
 思い出し、光竜は顔を赤らめる。
(ううっ、窮地を救おうと迎えに来たはずなのに、格好悪すぎ。姫、どう思ったかしら)
 情けない奴だと内心あきれたであろう。
 また男らしくないところを見せてしまった。
 光竜はそう感じ、しばらく顔があげられなかった。
(恥ずかしい。ずっと膝枕なんかされちゃって)
 身を細めて座席に縮こまっている彼を、華玲は熱い恋慕の瞳で見つめる。
 さっきまでの哀別の悲しみは消え去り、今の彼女の心には喜びしかなかった。
 愛しい人が側にいる。
 手を伸ばしただけで触れられる。
 すぐ横に暖かい体温を感じられる。
 優しい声と微笑みを、また耳で聞き、見ることが出来る。
 そのすべてが彼女の全身を甘く包み、まるで幸福という名の美酒に酔ってしまったようだ。
 華玲は床に落ちた毛布を拾い上げ、そっと光竜の肩にかける。
 小さな肩は、少し震えていた。
「さ、まだ州都まで少しありますわ。お休みください」
「姫」
 何か言いかけた光竜の唇に、華玲は人差し指を当てて黙らせる。
「何か事情がおありであたくしを追いかけて来られたのでしょう。でも今、そんな疲れたお顔をしておられるあなたから、話を聞くわけにはまいりません。それがたとえ一刻を争う内容だったとしても」
 そうささやくと、彼女は彼の体を横倒しにして、また自分の膝に小さな頭を横たわらせた。
 ずれた毛布で光竜の全身を包み、優しく耳に言葉を落とす。
「お急ぎになる必要はございません。どんなことでも全部伺いますわ。あたくし、あなたのお側にいるんですもの。州城へ戻り、落ち着いてからゆっくりお話いたしましょう」
 彼女の言葉は、子守唄のように心地よく光竜の鼓膜を刺激した。
 まるで子どもに返ったようだと光竜は頬を赤くする。
 暖かな温もりと、自分の髪をゆっくりと梳く優しい手。
 それが彼を安堵させ、心を安らぎで満たしてくれた。
(あ……本当にこうしてると眠くなってきちゃった)
 こんな風に落ち着いた気持ちになったのは、何年ぶりだろう。
 領主となって三年。
 その間、一度とて心休まる時はなかった。
 人のぬくもりに触れ、大切にされ、守られて過ごすことなんてあっただろうか。
 安心して、光竜は目蓋を閉じた。
 うとうとと心地よい眠気が襲ってくる。
 心配事はたくさんあるけれど、今はそれがどこか遠いところにあるかのようで――陽だまりの中、満足げに丸くなる猫のような幸せな気持ちで、光竜はつかの間の休息を取った。




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