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この作品は<R-18>です。
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序章一(香蘭)
水しぶきが、玉のようにきらきらと輝いて散る。
激しい水音が岩にこだまし、辺りの音をすべてかき消した。
新宋国、元五年。
美しいこの大滝の前で、一つの物語がはじまろうとしていた。
まるで幕開けを予感させるように、滝の水は美しく煌き、激しく流れている――。
「光竜、待ってよ、光竜ってば」
「おっそーいっ。さっさと捕まえないと、今日のお菓子はぜーんぶ僕のだからね」
大滝の下、少年たちが追いかけっこをするにぎやかな声が聞こえた。
一番すばしこい少年が、皆の先頭をきって走っている。
手には小さな布包み――きっとあれが、狙っているお菓子なのだろう。
「よっと」
包みを持った少年は、滝の下、水溜りの突き出た岩に飛び移る。
「うわあーっ」
岩はつるっとしており、たちまち少年は、水の中に転げ落ちてしまった。
「光竜」
「お菓子がっ」
少年達は、あわてて滝の下を覗き込む。
ぷはあっ。
しばらくして、水の中から少年の顔が現れた。
「大丈夫か、光竜」
皆手を貸して、彼を水の中から引っ張りあげる。
びしょ濡れになりながら、彼は元気良く笑って言った。
「大丈夫、大丈夫。僕は全然平気だよ」
「それよりお菓子は?」
「……」
彼は肩をすくめ、ぐしゃぐしゃになった包みを見せる。
「駄目だ、こりゃあ」
「あーあ、楽しみにしてたのに」
皆の間から、がっかりした声が漏れた。
「ごめんごめん。そうだ、今から家に行って、とってきてやるよ」
服も着替えないといけないし、と彼は肩をすくめた。
そこへ突然木々の間から、人の呼び声が聞こえてくる。
「こうらんさまあーっ」
「こうらんさまーっ、どこですかーっ」
(いけない!)
びしょ濡れの少年は、あわてて立ち上がった。
「お、おい、光竜」
「どうしたんだ」
みな、怪訝そうな顔で彼を見る。
「ごめん、ちょっと用が出来ちゃった。またな」
そう言うと、彼は脱兎のごとく駆け出していった。
「なんだ、あれ」
「どうしたんだろう」
大滝の前には、不思議そうに首をかしげる少年達が残された。
びしょ濡れの少年は、薄茶色の髪を風になびかせ、必死に山の麓を目指す。
(まずいわ。見つかったら、また叱られちゃう)
走りに走って、思わず道で、誰かとぶつかった。
「あたっ」
「きゃっ」
互いにひどくしりもちをつく。
いち早く起き上がった少年は、あわてて手を差し出した。
「ごめんなさいっ。僕急いでて……大丈夫ですか」
起き上がれずにいる少女に手を伸べると、彼女はぎゅうっとその手を握った。
「どうしてお急ぎなんですか、香蘭様」
「あっ」
(あっちゃーっ。見つかっちゃった)
彼は顔をしかめる。
よりによって、一番見つかりたくない人に捕まってしまった。
手を引っ張るが、少女は笑みながら離してくれない。
「観念なさいませ。まったく世話の焼ける方だこと」
少女はそう言うと、彼の手を引いて、麓に向かっていく。
少年はため息をつき、あきらめて少女の後ろに従った。
麓には、籠が用意されていた。
少女は、彼に乗るようにうながす。
「まったく、香蘭様っ。そのようなお姿を奥様に知られたら、どんなにお怒りになるかお分かりなんですか」
「わかってるわよ」
ぷっと膨れて、少年は答えた。
「もう少しご身分をわきまえなさいませ。あなた様はそのような格好をして、下々の子ども達とお遊びになってはいけないのですよ。本当におわかりなんですか、姫様っ」
「はいはい、聞いてますってば」
少年――もとい、男装の少女は肩をすくめる。
「でもあたし、やっぱり男の子に生まれたかったな。女の子なんてつまらない」
「しかたないじゃありませんか。天より定められた事を、どうこう言っても始まりませんよ。さ、急がないと」
「急ぐって、何かあるの? 友美」
香蘭は、家人の少女に問うた。
「お忘れですか。今日はお屋敷に、真恵様がお戻りになる日ではございませんか」
あきれて友美は答える。
「ああっ、そうだったわ。急いで、友美」
「まったくもう。この日を一番楽しみにしておいでの方が、お忘れになるなんて」
彼女は口の中でつぶやき、籠を出すように合図する。
四人の担ぎ人に担がれ、籠は屋敷に向かっていった。
上州は、新宋国の北に位置する横長の州である。
その東は清海に達し、西は隣国、項貴国につながっている。
山河に恵まれ、緑豊かな穀倉地帯。また海と国境を備えているため、交易も活発に行われている国の要地だ。
その上州は代々、魁家本家の血筋によって統治されている。
そして今、この魁家の屋敷では、戻ってきた香蘭を前に、お説教がえんえんと続いていた。
「本当にあなた様には、いつもあきれて、ものが言えませんわ」
彼女はおとなしく椅子におさまって、三人の女性からお小言を頂戴していた。
一番年嵩の老女が、声だかに責める。
「姫様。あなた様は、この魁家の姫様なのですよ。いくら屋敷がお嫌いだといっても、よりによってご身分を隠し、男の衣を纏って少年に成りすまし、民草の子どもと遊ぶなんて。もしものことがあったらどうされるおつもりなのです」
「だあって姫の衣装は動きづらいし、剣もふるえなきゃ、馬にも乗れないじゃない」
香蘭は、ぶつぶつ反論した。
「何を言っておられます。そんなこと、姫様がなさることではありません」
「じゃ、あたしに何してろって言うの、鼓蝶」
「もちろんお屋敷で、姫としてのお勤めを果たされることです。詩歌にお琴、書にお花、お茶、それに香あわせに刺繍――一つでも美しい芸事を身に付け、いつかお家のために、良い家と縁組出来るようにすることが姫様の責務でございます。剣も馬も必要ございません。むしろそういったものが、姫としての生き方に障害となるのですよ。どこの殿方が、そんな乱暴な姫を妻に欲しがるでしょう。どこにも嫁がず、真恵様のお荷物になって暮らされる方がよろしいのか、得とお考えくださいませ」
「……」
「そうよ、香蘭」
美しく着飾った年上の姫が、彼女を見下したように笑ってみせる。
「あたくしときたら、縁談話がまた来たの。これで十件目よ。あんたはどう? いくらあたしより三つ年下だといっても、そろそろ良家の姫なら話の一つや二つ、来てもおかしくないのにね。ほほほ」
「あら、お姉様、それはようございましたね。お姉様は、そういうことにだけ喜びを感じるお方ですもの」
にっこり応じる香蘭に、姉姫は、持っていた扇をばしっと投げつけた。
「失礼な! まるであたくしが男あさりをしているみたいじゃないの。ひどいわ」
「別にそうは言ってないでしょ、お姉様」
ふくれて香蘭は、そっぽを向く。
「ただあたしは、結婚して子どもを生むだけじゃ、つまらないと思うのよ。あたし、女だって男の人に負けないんだから。剣だって、弓だって、乗馬だって習って、お兄様を横でお助けできる人間になりたいの。だから」
「だからといって、母上たちを困らせてはいけないな、香蘭」
突然かけられた穏やかな青年の声に、一同は振り向き、立ち上がった。
この家の家長にして、上州領主、魁 真恵が部屋に入ってきたのだ。
「真恵」
「お兄様」
みな、床にひざをつき、正式な礼をする。
「立ちなさい。母上もお立ちください。わたしに堅苦しい挨拶は不要ですよ」
にこにこしながら彼は母の側に行き、肩を抱いて、椅子に導いた。
「どうかお座りになってください。母上には、すっかりご無沙汰してしまいましたね。申し訳ありません」
そっと母の横にひざまずき、彼は若くない手を優しく取った。
「いいえ、あなたは領主としてのお勤めがありますもの。忙しくてもしかたないわ。それより体は大丈夫なの? 最近、良からぬ輩が徘徊しているらしいと耳にして、案じていたのですよ」
「母上のお耳にまで――ですが心配なさることはございません。すべて手は打ってあります。騒ぎも程なく収まるでしょう」
真恵は微笑むと、立ち上がる。
「春奈姫も、今日は一段と輝いておいでだね。縁談の話があちこちから寄せられるのも、わかる気がするよ。こんな美しい妹を持って、わたしは兄として大変嬉しいね」
「まあお兄様、そんなにお褒めにならないで。恥ずかしゅうございます」
俯き、袖で口元をかくして優雅に微笑む姉姫は、この世の若君を夢中にさせるだけの美貌と、しとやかさを身に付けていた。
(くやしいけど、女のあたしでもお姉様は魅力的だと思うわね。流石、日々磨きをかけておられるだけのことはあるわ)
香蘭は、ひそかにため息をついた。
「そして香蘭」
真恵は、彼女の頭に手を乗せ、憂いのまなざしで諭す。
「本当にお前が男なら、どれだけよいことか。でもね、お前は女として生まれたのだから、女としての幸せをつかむのが一番良いことなのだよ。まだ小さくて、よくわからないだろうが、いずれお前にもわかるときがくるさ。その時まで母上や鼓蝶の言うことをよく聞いて、立派になっておくれ。これがこの兄の唯一つの願いだ。お前の気持ちは嬉しいが、お前が今日したことは、大変危ないことなんだよ。もしお前の身分に気がつき、襲ってくる連中がいたとしたら」
「そしたらあたし、やっつけてやるわ。絶対負けないんだから」
彼女は威勢良く答え、兄を苦笑させた。
「やれやれ、こっちの妹は頼もしいかぎりだな」
「香蘭様、真恵様に対し、なんということを」
青くなる鼓蝶に、真恵はかまわないよ、と笑ってみせる。
「だが、気をつけておくれ。最近、本当に物騒なのだ」
兄の真剣な言葉に、香蘭ははっとした。
(また、何か問題が――中家だわ、きっと)
幼い姫であったが、香蘭は大人が思っているより聡明だった。
町で、最近いろんな話を聞く。
噂をたくさん耳にして、兄のことや最近の不穏な動きを彼女なりに理解していた。
ここ上州は、国で一番貿易のさかんな都市である。
東の海を渡って、あるいは西の隣国から、様々な荷や人が出入りする。
それを管理し、国にとってよからぬ荷や人を国内に入れないようにすることは、領主たる兄の勤めの一つであることを香蘭は知っていた。
――そしてそれが、ことのほか難しいことである、という悲しい現実も。
考え込んだ彼女をよそに、皆は真恵を囲んで、たわいもない話に沸き立つ。
「そういえばお兄様、あとで慶愛姫がお見えになるそうですわ。良かったですわね」
「慶愛が? そういえば彼女とも、本当にご無沙汰だったな」
若者らしく弾んだ声で、真恵は答えた。
「いくら忙しいとは言っても、許婚のことは気にかけてあげなければいけませんよ、真恵。この間、屋敷に来てくれたとき、姫は、本当に寂しそうにしておいでだったのですから」
母の言葉に、彼は微笑んでうなずく。
「彼女には、今日、泊まっていただいてもいいでしょう? 母上」
「ええ、いいですとも」
母は、心得たように笑みを浮かべた。
「さ、こんなところでいつまでもお話されていないで――居間にお行きくださいな。鼓蝶が美味しいお菓子をご用意いたします。真恵様もお疲れでしょう。しばしごゆるりとなされませ」
「ああ、そうさせてもらうよ」
彼は微笑み、一同は奥の間から、連れ立って出て行く。
しかし香蘭は、なごやかにお茶を飲む気分にはなれず、一人自室に戻って、寝台に寝転がった。
(あーあ、せっかくお兄様のご帰還を楽しみにしていたのに)
先ほどの兄の顔が、思ったより芳しくないのが、彼女の心に波紋をもたらす。
(あたしが男だったら良かったのに。そうしたら、もっとお兄様をお側で支えてあげることが出来るんだけど。ああっ、うまくいかないものね)
心のもやもやを抱えながら、香蘭は枕に顔をうずめ、大きなため息をついた。
夕餉の前に、香蘭は真恵の部屋に行ってみた。
彼は一人うつむいて、苦しそうに考え込んでいる。
「お兄様」
声をかけると、真恵は顔をあげ、彼女に微笑んだ。
「こっちにおいで。香蘭」
彼女は、そっと兄によりそう。
「あたし、どうして男に生まれなかったのかしら。そしたらお兄様を横でお助けできるのに」
「お前の気持ちだけで嬉しいよ、香蘭」
真恵は、愛しい妹の髪をなでた。
「でもお兄様には、助ける人が必要よ。そうじゃない? あたしにはわかるわ」
顔をあげ、少女は真摯な瞳で、兄を見つめる。
「……」
自分を気遣う妹の言葉に、真恵は顔をゆがめ、香蘭を膝に抱きしめた。
(本当にお前が弟であってくれたら、どれだけ良かったことか)
彼の神経は、香蘭の言うとおり、今ずたずたに傷ついていた。
領主としての勤めは、大変に辛いものだ。
特にここ上州には、中家という宿敵が存在するのだから。
中家は、魁家の一番近い親戚だった。
もし真恵に何かあれば、領主の地位は中家のものとなる。
彼らがいつも虎視眈々と自分を狙っていることを、真恵は知っていた。
命を狙われたことなど数え切れない。
州城にいる側近たちの中にも、中家の手の者がいるのだ。
毎日、気が抜けない。
日々の言動、行動など、一つ一つ彼らは目を光らせ、何時真恵を引き摺り下ろせるか、隙をうかがっていた。
いっそ領主の地位など譲り渡して、楽になってしまいたいと思うことさえある。
しかし上州のことを思うと、それも出来なかった。
中家は、この上州を密輸と犯罪の町にして、いずれ国主元帝をさえ意のままにあやつり、自分たちのものにしようという野望を抱いている。
そんな彼らが領主となり、上州を治めることになれば、国はたちまちのうちに滅んでしまうだろう。
そう思えば、ここでなんとしても殺されるわけにはいかない。
自分が死ねば、男子のみ家を継ぐことが出来るこの国の法にのっとり、領主の地位は中家のものになるのだから。
兄の苦しそうな表情は、香蘭の心にも痛いほど伝わった。
香蘭は兄によりそい、その体を抱きしめる。
真恵は、自分を慰めようとする妹の心に、体中から愛しさがこみあげた。
(本当に惜しいよ、お前は。女でありながら、聡明で何でもよくわかっている。弟であってくれたら、どれだけ助けになることか。いや、弟でなくたって……)
彼は真剣な瞳で、香蘭を見つめた。
「香蘭、お前はしっかりしている。まだ幼いのに、わたしをよく理解して――例えお前が男でなくても、この兄はお前を頼りにしているのだ」
「お兄様?」
突然口調の変わった兄に、香蘭は怪訝そうに目を瞬かせる。
「よく聞いておくれ。今、お前も知っているように、中家は領主の地位を、わたしの命を狙っている。わたしだけじゃない、この魁家すべてを滅ぼしたいと思っているのだ」
「そんな」
香蘭は身震いした。
兄の口から、直接中家のことを聞かされるのは初めてだ。
そのことが彼女を言いようもなくおびえさせる。
「それだけじゃない。彼らは上州を手中に収め、やがてはこの国を、すべて自分たちのものにするつもりだ。そのために、どんな手段も選ばないだろう」
「そんな事、出来っこないわ。この上州にはお兄様がいらっしゃるもの。お兄様に中家なんかが勝てるはずない」
強気で微笑む妹の髪を、優しく真恵は撫でる。
「わたしは命の限り、この美しい上州を、民を守るため、戦うつもりだ。だがお前に頼みたい。万が一わたしが倒れるようなことがあれば、なんとしても母上や春奈姫を守ってくれ。そしておまえ自身も――」
「……」
「魁家の血筋が途絶えてしまえば、すべては終わりだ。中家は必ずこの家を滅ぼそうとする。たとえわたしを殺し、領主となったとしても、帝より代々この地を治めるよう、言いつかってきたのは魁家なのだ。魁家の血を持つ者に男子が生まれることがあれば、領主の地位は危うい。だからお前達を、皆殺しにしようとするだろう。そのときはどんなことがあっても、逃げ延びるのだ。決して家とともに滅びてはならない。わかったね。約束しておくれ」
辛そうな瞳を向けられ、香蘭は息を飲んだ。
兄を信じている。でもこんな願いを口にするほど、今の彼は不安と苦しみでいっぱいなのだ。
(お兄様……)
「わかりましたわ。お兄様」
香蘭は、大切な兄の心を少しでも奮い立たせようと、強い意志を秘めた瞳で答える。
「そのときは、必ずあたしが、お母様とお姉様をお守りいたします」
彼女の言葉に、真恵は表情を緩ませた。
争いごとや政治に無関心の母。
姫としての幸せのみを追い求めている春奈姫。
悲しいが、この幼い妹の方が、何倍も心強い味方なのだ。
「この兄に、もう少し力があったなら――許しておくれ、香蘭。ふがいないわたしを」
「何をおっしゃるのです」
少女は頬を高揚させ、怒って叫ぶ。
「お兄様は、いつも上州のため、民のため、そしてこの国のために、日夜必死で戦っておられるではないですか。あたし、お兄様を尊敬しているのです。あたしだって、お兄様のように正義感あふれ、みんなのために生きる立派な人間になりたいと、いつも思っています。ふがいないなどと言わないでください」
「ありがとう、香蘭」
ただ一人、家族の中で、自分を気遣い、心配してくれる存在。
その温かさを感じ、心の底から愛しさがこみあげる。
微笑んで、真恵は彼女をしっかりと抱いた。
「そういえばお前はいつも男の格好をしているときは、光竜と名乗っているそうだね。あの神話が、よっぽど好きとみえるな」
「ええ。あたし、あの建国神話が大好きなの」
香蘭は、目を輝かせて答えた。
この新宋国の建国神話。
まだこの国が一つに統一されることなく、各地域が有力な権力者によって束ねられ、領土をめぐり戦争が絶えなかった頃。
国の未来、流される民の血と涙を憂える一人の青年が、ここ上州の大滝の前で、嘆き悲しんでいた。
そのとき滝の中から光り輝く竜神が現れ、彼に理想の国を作る力と知恵を授けたと言われている。
竜神の教えに従い、その青年は志あるものを集めて旗揚げし、やがて地方の豪族や権力者たちをまとめあげ、この新宋国を造り上げた。
そして初代光帝となったのである。
先ほど彼女が遊びに行っていたのは、まさにその言い伝えの滝。
香蘭は、兄に連れて行ってもらい、この神話を教えてもらったあの滝が大好きだった。
(もしかしたら、あたしにも光竜が現れるかも)
ひそかにそう願い、何度もあの滝に遊びに行き、ついには憧れの光竜と名乗るようにまでなっていたのだ。
「もしかしたら、お前は本当に光竜の化身かもしれないな」
からかい気味に言う兄に、香蘭は頬を染める。
「もう、お兄様ったら。そんなことないですってば」
くすくす、楽しそうに笑う兄の顔に、香蘭は少し心が明るくなった。
「ねえ、お兄様、あれ、見せてくださいな」
「あれ? ああ、これか」
真恵は、首にさげた楕円形の首飾りを見せた。
紫水晶の中に、一振りの銀の剣が浮かんでいる。
「綺麗……」
彼女は、首飾りを手にとって眺めた。
「お前は、本当にこれが好きだな」
「だってとても美しいんですもの。それにこれ、魁家の家宝でしょ。代々魁家の当主が受け継ぐ首飾り」
「そうだよ。これはわたしにとって大切な物だ。これと共に、わたしは上州を守る力を授かったのだから」
真恵は長い指を、金の鎖にからめる。
「これは上州を初代光帝に捧げた魁家の先祖が、帝から賜ったのだ。紫の石は、高貴な竜神の知恵を、そして剣は力を現している。光竜の大滝で、帝が竜神より授けられた物――それを模して作らせたのだと聞いている。そして魁の血筋が永久にこの地を守るようにと、帝から授かったのだ」
「だから、代々領主が受け継ぐんでしょ。これを手にするということは、天よりこの地を守る使命を与えられたということなんだわ」
誇らしげに首飾りを見つめる香蘭に、真恵の胸にも力が沸きあがってきた。
これを父から受け継いだ日のことを思い出す。
「わたしはこれを誇りに、今日までやってきた。そしてこれからも戦い抜くだろう。美しい上州のため、この国のために」
真摯な彼の口調に、香蘭は思わず厳粛な気持ちになった。
(あたしもそんなお兄様の手助けがしたい。あたしだって魁家の血を持つ者なんですもの)
彼の膝に寄り添いながら、彼女は心に強く思った。
夕餉は、いつもよりずっとにぎやかになった。
真恵の他に慶愛姫が加わり、話が一段と盛り上がる。
慶愛姫は亡き父の決めた真恵の許婚だが、幼い頃から魁家と親しみ、真恵も彼女をこよなく愛していた。
美しく気が利いて、頭も良い彼女は話も巧みで、いろんな面白い話題を提供し、みなを喜ばせてくれる。
「そういえば、また項貴国から香油がはいったそうですわね、真恵様」
微笑みながら、慶愛姫は話しかけた。
「情報が早いな。今度の物は、なんでも最高級の香油だとか商人たちが話していたよ。後宮の姫たちが好んで使う、色といい、香りといい、素晴らしいの一言に尽きるそうだ」
「まあ、お兄様。あたくし、ぜひ欲しいですわ、それ」
春奈姫が声をあげる。
「おいおい、お前はこないだ新しい首飾りを新調したばかりだろう」
「あら、でも次は何時手に入るかわからないんでしょ。だったら見逃せないわよ、ね、お兄様」
「やれやれ、美しい妹殿にはかなわないな」
真恵が肩をすくめ、食卓に笑いをさそった。
にぎやかな食事が済むと、慶愛姫は真恵にねだる。
「今宵は一段と月が美しいですわ。真恵様、ぜひ月を眺めに夕杉の野に参りませんこと?」
「それはいい」
彼は笑って同意し、二人は仲良く馬に乗って屋敷を出て行った。
見送る香蘭の瞳に、何故か二人の影が黒々と映る。
(何だろう、何か嫌な感じがする……)
胸騒ぎを覚えながら、彼女は自室に戻っていった。
夕杉の野。
二人は馬の背で、寄り添いあっていた。
「いつも寂しい思いをさせてすまないな、慶愛姫」
真恵は、ため息をつく。
「本当はずっとこうしてあなたのお側にいたい。だがわたしには、上州を守るという役目があるのだ」
「お気遣いなく、真恵様。わたくし、よくわかっておりますから」
姫は、いつになく妖艶な笑みを浮かべた。
「この上州にとって、何が一番必要なのか……それは新しい力ですわ」
「慶愛姫?」
いつもと違う彼女の口調に、真恵は馬を止め、彼女を見つめる。
「新しい力? それは一体なんだね」
「それは」
慶愛姫は、挑むように答えを返した。
「あそこにありましてよ」
彼女の指差す方を、真恵は見る。
そこには一人の男が、弓をかまえて立っていた。
慶愛姫はするりと馬から下りると、その男の側に駆け寄る。
「お前は、中 斗信! どうしてここに……」
宿敵、中家の若き当主。そして、この国を狙う者。
「慶愛姫。これはどういうことです? どうしてあなたが彼の元に」
「愚か者め。わからんのか。慶愛姫は、お前より俺を選んだということだ」
斗信のあざ笑うような声が、真恵の耳に響いた。
「そんな馬鹿な」
「馬鹿なのはあなたよ、真恵様。わたくし、領主の妻より未来の国主の妻になりたいの。ただそれだけのことよ」
冷たい姫の言葉が、彼の心に突き刺さる。
「この国はおろかな国よ。竜神だかなんだかの掟と法に縛られて、人の喜びも楽しみもすべて奪いつくしている。俺が変えてやるのさ。この国を王道楽土にしてやるのだ」
「王道楽土だと? ふざけるな、お前のなしていることの、どこがそうだというのだ。快楽にふけり、よからぬ薬を人に与え、操り、淫乱の限りを尽くしている。それのどこに正義があるのだ。ただ人々を混乱させているだけではないか」
「そうかな。皆、それを本当は求めているのさ」
斗信は自信ありげにそう言うと、弓を構えた。
「負け犬の遠吠えなど聞く耳も持たぬわ。あの世で見ているがいい。この俺が作る、美しい快楽に満ちた国を」
そして矢を、真恵に向かって放つ。
「くっ」
彼はよけようとたずなをひき、馬を動かしたが、体に力が入らず、うまく動けなかった。
(これは一体……どうしたのだ、頭がくらくらする……)
視界がふらついて、よろけてしまう。
「無駄よ。夕餉のとき、あなたが飲んだお酒に痺れ薬を入れておいたわ。どう、動けないでしょう」
慶愛姫の声が、残酷なほどはっきりと響いた。
「あああっ」
よけきれず、矢は彼の胸を刺し貫く。
かろうじて馬の首に倒れ、真恵は転落を免れた。
「無駄なことさ、矢には毒がぬってある。ほら、もう目を開けていられまい」
「くっ……」
真恵は、たずなを腕でひき、何とか馬首を返す。
足と手を必死に動かし、愛馬を屋敷に向かわせた。
彼らの前で無様に倒れるなど、断じて出来ない。
馬は彼の意思を感じたのが、屋敷に向かって疾走していった。
「うーん、やっぱりこっちのほうが、かっこいいかなあ」
自室で、香蘭は男装の練習をしていた。
町で仕入れた少年の衣を引っ張り出し、身に付けると、気持ちがしゃんとする。
あれこれ着てみて、鏡に写る自分がどれだけ男らしく見えるか、確かめていた。
長い髪も、一つにまとめるか、編むか悩むところである。
彼女の薄茶色の髪は、とても綺麗だった。
(やっぱり一つに結んでおく方がいいわね。編むとどうしても堅苦しくなっちゃうわ)
髪を髪紐で結び、鏡に向かって彼女はにっこり笑む。
(上出来っ。どこから見ても、かっこいい若君だわ)
自分で満足しているところに――。
窓の外から吹く風が、聞きなれた音を運んできた。
(馬の鳴き声? お兄様のだわ)
しかし何故こんな風に、馬が騒ぐのか。
香蘭は激しい胸騒ぎを覚え、外に出てみた。
「お兄様っ」
月明かりに照らされ、馬の背で息も絶えんばかりの愛しい兄の姿が、彼女の目に入る。
香蘭は甲高い悲鳴を上げた。
真恵は、ずるっと馬の背から落ちる。
「きゃあっ、お兄様っ」
香蘭はあわてて走りより、兄の体を抱きとめた。
「ひどい血……それにこれは」
彼女は、兄の胸に刺さった矢に絶句し、身を震わせる。
「一体誰が……お兄様っ、しっかりしてっ」
真恵は、その声に瞳を開けた。
やさしい妹の顔が、目に入る。
彼は力を腕に込め、最後に残された気力を振り絞り、妹の腕を掴んだ。
「逃げろ……慶愛姫に、計られた……と……しんが……わ、たし、を……」
「お兄様っ。しっかり!」
「い、いか……にげろ、母上と……はるなを、たのむ。……じょうしゅうを……こう、ら……ん」
それだけ告げると、がっくり兄の腕は力を失い地面に落ちる。
「嘘、お……お兄様っ、目を開けて」
呼んでも、ゆすぶっても、もう兄は返事を返さない。
「いやあーっ、お兄様ーっ」
香蘭は、兄の体に身を投げ出し、その場で気が触れたかのように泣き崩れた。
家人の手で丁寧に、領主 魁 真恵の遺体は、屋敷の広間に運ばれた。
香蘭は後について歩きながら、先ほどの兄の言葉を心の中で反芻する。
――逃げろ。慶愛姫に、謀られた。斗信がわたしを……。
――いいか、逃げろ。母上と、春奈を頼む。上州を……香蘭!
「……」
あとからあとから溢れくる涙を、彼女は袖で拭った。
悔しさとやるせなさが、心を燃え上がらせる。
「真恵」
「お兄様」
知らせを受け、自室から母と春奈姫が駆け込んできた。
母は真恵の遺体を見たとたん気絶し、春奈姫はその体に取りすがって泣き叫ぶ。
家人も横で、悲嘆と涙に暮れた。
(慶愛姫、あなたが、お兄様を中家に売ったのね。あの矢は、斗信が)
香蘭は、怒りに身を震わせる。
(どうして……あんなにお兄様は、あなたを愛していたのに)
斗信に図られたことより、慶愛姫の裏切りが、彼女の心を苦しめた。
香蘭も将来の姉と思い、美しく艶やかな彼女を慕っていたのだ。
それを裏切るとは――。
溢れくる涙を拭い、彼女は兄の横たわる寝台に寄る。
そっとその手に触れると、もうかなり冷たくなっていた。
――先ほどまでは、わずかな温もりがあったのに。
兄の顔は悲しそうに歪んでおり、あまりの痛々しさに、彼女は胸を強く打たれた。
(お兄様……)
ふと首を見ると、あの首飾りが下がっている。
金色の鎖を、そっと香蘭は首からはずした。
(お兄様、これは、あたしが大事に守ります。決して中家には渡さない)
強い決意を瞳に宿し、彼女は袖の中に首飾りを隠す。
気絶した母も、気がついて側に来る。
「真恵、どうしてこんなことに……」
母は震えながら膝をつき、息子の遺骸にすがって、冷たい体を抱いた。
「残された私たちは、どうすればいいの? どうしてあなたは、わたくしたちを置いて逝ってしまったの……」
唇が無念の死を嘆く。
か細い嗚咽が広間に響いた。
母は、彼の体に覆いかぶさるようにして、夜が明けるまで泣き続けた。
どのくらい時が経ったのか。
気がつけば、空がうっすらと明るみを帯びている。
香蘭は、ずっと兄の手を握っていた。
家人も、あちこちで悲痛な叫びや泣き声をあげている。
誰もこれからどうすればよいのかわからず、そんなことはまだ考えることも出来なかった。
ただただ突然の痛ましい出来事に狼狽し、困惑し、悲しむだけ――。
そのとき。
突然あわただしい足音がして、兄の自室の扉が乱暴に押し開けられた。
皆、驚いてそちらを見る。
「お前は……中 斗信」
母は、先頭に立つ男を見て、叫んだ。
「これはこれは奥方様」
彼はにやりと笑いながら、わざとらしく一礼する。
「このたびは、突然の領主殿のお防禦。知らせを受け、こちらも驚いて飛んでまいった次第です。本当にお悔やみ申し上げます」
「……」
怒りに身を震わせながら、香蘭は彼を睨みつけた。
(白々しい奴、お前がお兄様を殺したくせに)
斗信は薄ら笑いを浮かべながら、言葉を続ける。
「本当に惜しい方を亡くされた。彼ほどこの土地を愛し、そのために尽くしてきた領主はおりません。領民も、さぞや彼の死を悼むことでしょうな」
兄の顔にうやうやしく礼をして、彼は母を見た。
「ご安心ください、奥方様。これからは、この中 斗信が真恵殿の意思を受け継ぎ、立派にこの上州を治めて見せましょう。奥方様におかれましては、お心を安んじられ、わたくしめにすべてお任せくださいませ。これ」
彼は、引き連れてきた家人に命じる。
「奥方様と姫様方を、あちらにお連れ申せ。葬儀の準備の間に、お休みいただくのだ」
「はっ」
家人たちは、母と春奈姫を、兄の遺体から引き剥がした。
「何をするのです!」
「離して!」
二人はわめき、もがいたが、たちまち押さえつけられてしまう。
兄の言葉が、香蘭の心によみがえった。
――魁家の血を持つものに男子が生まれることがあれば、領主の地位は危うい。だから、お前達を皆殺しにしようとするだろう。
「……」
このまま連れて行かれたら、自分たちも兄の後を追うことになる。
斗信のことだ。兄の死に悲嘆に暮れて、皆後を追って自殺したとかなんとか言いつくろい、きっと三人とも殺してしまうだろう。
(何とかしなければ。でもどうすれば……お兄様!)
少女は、必死に兄を呼んだ。
「香蘭姫はどこだ? 探せ」
「はっ」
家人が部屋を出て行く。
香蘭は、え、と思った。
(あたしは、ここにいるのにどうして?)
はっと顔を上げ、彼女はすぐ横の壁にかかった鏡を見る。
そこには普段の自分とは違う、若君の姿があった。
(そうか、それで……)
彼女は、ふるりと身を震わせる。
ある事を思いついたのだ。
腰の剣を確かめ、大きく息をつく。
(これしか方法はないわ。でも怖い……お兄様、お願い、あたしに力を貸して)
袖から兄の首飾りを出し、ぎゅっと握り締めた。
冷たい宝玉の感触が、手のひらに伝わってきて――それだけで、何故か力が沸いてくる気持ちになる。
(竜神よ、お願い――この上州を守る力をあたしに!)
少女はきっと顔を上げ、斗信をにらみつけた。
そして強い声をあげ、彼に迫る。
「この無礼者、何の権利があってお前は魁家の奥方と姫に手をかける。さあ、さっさと二人を放すがいい」
「何?」
突然見知らぬ少年に睨まれ、斗信は戸惑った。
「何だお前は? この斗信様に向かって」
彼は軽蔑のまなざしで、彼女を睨み返す。
しかし香蘭も負けじと対峙した。
一歩も退かない覚悟を秘めた眼力。
斗信は、彼女の瞳の強さに驚く。
(なんだ、こいつ……)
恐れもせず、小柄な体で向かってくる少年に、正直彼は薄ら寒い予感すら覚えた。
少女いや、少年は、斗信に向かって叫ぶ。
「兄上の案じたとおりになってしまった。だがお前の思惑通りにはさせない」
「貴様、一体……」
少年は薄茶色の髪を揺らし、口元にあざやかな笑みを浮かべて告げる。
「我が名は魁 光竜。魁 真恵の弟だ」
辺りを沈黙が包んだ。
誰も動けない。
斗信はあまりのことに、身を震わせて口も聞けないでいた。
「馬鹿な、真恵殿には弟など……」
「いないと思ったか。残念だったな」
香蘭は、斗信の顔を凝視しながら言い返す。
「当然知るまい。わたしの存在は、家人にすら知らされていなかったのだ。亡き父上が、魁家の血筋をねらう不届きなやからを憂えて、密かにわたしを隠して育てさせていたのだから。しかし最近、兄上の身辺を狙う者がいるらしく、兄上はわたしを屋敷に呼び寄せて、いろいろと話してくださった。当然、あなたのことも含めてな」
「……」
「自分に万が一のことあらば、この上州を頼むと兄上はわたしに仰った。新領主はお前ではない。魁家の血を持つ、このわたしだ」
「そんな、慶愛姫は何も」
「姫は、わたしの存在はご存知ない。何も兄上に起こらねば、わたしは独立し、魁家とは別の人生を歩む身。姫に話す必要などなかろう」
「嘘だ、すべて偽りだ」
斗信は身を震わせた。
思いがけない事実を知らされ、顔色が青くなっている。
「信じられぬのならこれを見るがいい、斗信」
光竜は、手に握り締めた首飾りをかざした。
「それは――」
斗信はうめく。
少年の手に握られている物のことを、この上州で知らぬ者などいない。
「これはいまわのきわに、兄上がわたしに授けた物。これを持つ者が上州の領主であることは、お前も知っていよう。下がるがいい。おとなしく自分の領地に帰れ。さもなくばお前を拘束し、兄上殺害の罪を問うことになるぞ」
「な……何だと!」
「先ほど兄上は、わたしの腕の中で息絶えられた。最後にわたしに言い残した言葉をお前に教えてやろうか。慶愛姫に諮られた、斗信がわたしを殺したと」
「……」
「兄上の言葉だ。お前、先ほどまでどこにいた? その背にある弓矢は何だ。凶事があった家に来るのに、剣のみならず何故弓まで背負っているのだ」
「そ、それは……」
問い詰められ、彼はたちまち蒼白になる。
「さっさと帰れ。そして身辺を改めて、出直してくるのだな。兄上の葬儀は、この光竜が新領主として執り行う。依存はあるまい、行け」
「……失礼する」
敗北を悟り、斗信は家人を引き連れ、すごすごと屋敷から退散していった。
「香蘭っ。あなたは何という事を」
「……お母様」
斗信たちが去っていき、屋敷にはとりあえず危険はなくなった。
しかし。
「一体あなたは、これからどうするつもりです。あんな……あんな嘘を!」
取りすがってきた母を、彼女は受け止める。
「ああするしか、あたしたちの生きるすべはありませんでしたわ。あのまま斗信の元に行っていたら、お母様もお姉様もあたしも、今頃お兄様の後を追わされていたことでしょう」
「それはそうだけど」
香蘭は、にっこり笑って、母を見た。
「それにあたし、決めました。今日からは香蘭ではなく、光竜として生きると」
「何ですって」
春奈姫が、驚いて口を開ける。
「あなた、そんなことが通ると思っているの?」
「通るも何も、それ以外あの中家から身を守るすべはありません」
香蘭は、きっぱりと言い切った。
「お母様、お姉様、どうか力を貸してください。このわたしが光竜として、お二人を、そしてこの上州をお守りいたします」
少女の強い瞳に、皆その場に打たれたように座り込む。
「……わかりました」
しばしの沈黙の後、母が心を決め、顔をあげた。
「あなたがそこまで言うのなら――わたくしも覚悟を決めました。今日からあなたは女を捨て、男となるのです。良いですね、香蘭」
「はい」
彼女は瞳に強い意志をみなぎらせ、真摯にうなずく。
「お前達もいいですね」
母は、ひざまずく家人たちを見下ろした。
「お前達もこのことを、一言も言ってはなりません。すべては魁家を――上州を守るためです。中家の事は、お前達も知っているでしょう。あんな連中に上州を渡すわけにはいきません。今日より香蘭の名を永遠に封じ、この子を光竜と呼ぶように。この魁家の次男、当主としてお仕えするのです。わかりましたね」
家人たちも、一同うなずいた。
魁家に仕える家人は七人。皆忠義に厚く、信頼できる者ばかりだ。
「心得ましてございます、奥方様、光竜様」
鼓蝶が皆を代表して、深く頭を下げる。
香蘭――いや光竜は、手の中にある紫水晶の首飾りを見つめた。
(お兄様、天より見守っていてください。今日からあたしは妹ではなく、あなたの立派な弟になってみせます)
首飾りにそう願いをかけ、彼女は首にかける。
「さあ、兄上の葬儀の準備にかかれ。州城に使いを」
「はっ」
皆、彼女の命令を受け、一斉に動き出した。
夜が明け、一筋の朝日が部屋に差し込む。
香蘭は決意を体中に滾らせ、兄の遺骸の前に跪いた。
そんな彼女の全身を、朝の光が優しく包む。
それは彼女の――いや、彼の新たなる道の幕開けであった。
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