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第四章 1.帰還
松明が照らす男の姿を目にして、これはだめだと思った。彼の主とは恐ろしく気が合わないだろう。
かといって、彼自身が男に嫌悪や忌避感を覚えたわけではない。寧ろ好意に近い印象を持った。長身の鍛えられた体つきとは逆に、面差しは理知的で、特に黒い瞳は感情を抑制する術を学んだ賢人のように澄んでいる。陽に焼けた肌からは野性味よりも、古代の神々の頑健な肉体に近づこうとする禁欲的な匂いが漂っていた。気品のある男だ。
彼は明かりを携えたまま片手で礼を取り、口を開いた。
「このような場所でお待たせ致しまして、誠に申し訳ございません」
男は黙って彼を見下ろしていたが、視線を合わせようとはしなかった。彼は顔を伏せ気味にしたまま続けた。
「主に代わって参りました。エクリオン大公に仕えるグレン将軍の副官、ロデリックと申します。――ペイルペルトゥース副伯ハーバート様であらせられますね」
返答は無かった。やっと視線を感じて、ロデリックは僅かに額を上げる。燻されたような苦い表情の男と目が合った。その瞳には、怒りや憎しみは無い。ただ薄暗い虚無だけがやっと読み取れた。
「己の村の門前で足止めされるとはな」
男の呟きは彼に対する皮肉ではなく、乾いた自嘲だった。
「重ねてお詫び申し上げます」
ロデリックは立ったままもう一度、深く頭を垂れた。
「何しろこのような真夜中ですので、ご領主様のご不在中に村の安全を守る我らとしては、訪問者には慎重に対処致したかったのです。深夜に襲撃を受けた前例もございますゆえ」
白々しい言い訳に対し、副伯は苦笑いにも似た淡い微笑を見せただけであった。この時間に到着するように麓を出発させられたことにも、既に気づいているのだろう。代わって声を荒げたのは、彼に突き従っている男の一人だった。
「それは理由にはなりませんぞ。主の帰還に際して門を閉ざす土地がどこにありますか。我らの到着も文にて予め知らされていたはず。それを知りながらこのような仕打ちとは、無礼にも限度というものがあります」
忠義厚い若者は、彼らを取り囲む倍の数の大公の兵など目にも入らないかのように、ロデリックに食ってかかった。司令官の代理でであるロデリックの命令ひとつで、彼など容易に排除できるのだが、それを分かっていて尚、主人の名誉を守りたいのか、単に状況が把握できないほど逆上しているのか。いずれにしても、激戦と長旅をくぐり抜けて生き延び、主人を守ってきた勇敢な兵には違いないだろう。
「控えろ、ヴァルデマー」
対して副伯ハーバートの方は、冷めた声で配下を諌めただけだった。
「何卒、お許しをいただきたく存じます。何かの手違いか事故か、我らは閣下が今宵ご帰還あそばされる報を受け取っておりませんでした。かように慌ただしく不十分なお迎えになりましたことは、幾重にもお詫び申し上げます」
再び、深く丁寧に頭を下げて謝罪の礼を取るロデリックを前に、ヴァルデマーと呼ばれた若い兵は口を噤んだ。実直そうな見た目通りの性質らしい。主に咎められたということもあろうが、真摯に詫びている──ように見える──人間を前に、それ以上責めることができないのだろう。
彼はもう一度謝罪を告げると、背を伸ばして副伯に言った。
「取り急ぎではございますが、皆様がお休みいただけるお部屋を用意させました。あと一刻ほどで夜も明けます。まずは旅のお疲れを癒していただいた後、将軍の閣下へのご拝謁をお願い申し上げます」
淡々と告げるロデリックをハーバートはじっと見つめていた。
彼は副伯をもっと老獪な男だと想像していたが、思いのほか若々しい。夫人と一歳しか違わないという話だから、ロデリックともあまり年齢が離れていないことになる。
しかし彼を見据える瞳はその心中を忖度しがたく、珍しく落ち着かない気分にさせられた。かといってそこに敵意や、一物隠し持っているような不気味さは漂っていなかった。ただ何かを見通そうとしているような、重く静かな光を湛えているだけだ。
不思議な人間だと思った。
大公が数度顔を合わせただけのハーバートをいたく評価し、あの気性の荒いレジーナがこの男との結婚を承諾したのも分かる気がする。
ロデリックが彼らを先導しようと踵を返すと、副伯が口を開いた。
「待ってくれ。──妻はどうしている?」
振り向いたロデリックは、目を伏せて答えた。
「ご健勝に過ごされています。今はお休みですので、明朝にでも侍女を通じて副伯閣下のお帰りをお知らせ申し上げましょう」
「副官殿」何か答えようとしたハーバートより先に、もう一人の若い兵が声を挟んだ。「そのような瑣事は、館の執事に任せていただいて結構。何故彼らは迎えに出てこぬのですか。奥方様にご領主様のお帰りをいつお知らせ申し上げるかも、執事が判断するでしょう」
先刻の兵に比べれば言葉遣いは丁寧だったが、顔には隠しきれない怒気が表れている。
「申し訳ございません。未明のこの時刻ですので、執事殿をはじめとするお館の方々も、お休みのようでしたので……」
彼はひたすら低姿勢を貫いた。ようやくその慇懃無礼に気づいたのか、若い兵士はさらに眉を逆立てた。
「主人が夜を徹して山道を登ってきたというのに、眠りこけている臣下がおりますか。叩き起こしてくれてよいのだ」
「やめろ」
徐々に語調が荒くなる兵を、再び副伯が強い調子で諌めた。
彼ら、そしてこの山間の城の状況を最も正確に把握しているのは、やはり副伯のようだ。ロデリックは微かな礼と称賛を込めて副伯を一瞥し、再び目を伏せた。
「誠に申し訳ございません。深夜の警備は現在では我々に一任されておりますが、急を要する件については、まず我らが司令官の判断を待つこととなっております。我々如きが、深夜に執事殿や奥方様のお休みを妨げる権利はございません。何卒、ご理解を」
春頃に傭兵の襲撃を受けて以来、山間の城の深夜の警備は、大公の軍が担っている。彼らに命令を下せるのは司令官一人だ。お前たちは、自分たちの帰還を知らせるために、大公の軍を率いる司令官を真夜中に叩き起こせというのか。
巧みに話の焦点をすりかえた脅しである。公都からの護衛と城の警備兵に囲まれた状態では、勇敢なペイルペルトゥースの兵といえど、声高に反論する者はいなかった。
「では、ご案内致しましょう」
ロデリックは儀礼的に微笑むと、今度こそ踵を返した。
深夜の村と城は寝静まっている。以前は若い侍女や年長の少年、老人たちが交替で城の塔で見張りについていたが、み月ほど前の遅春の頃、傭兵たちの急襲を受けた。
副伯夫人は城の召使いたちや村人を率いてよく防戦したが、死傷者は出た。多くの男たちが遠征に出ている間の、数少ない戦い手が負傷した為、以降深夜の警備は村の救援に駆けつけた大公の軍が行っている。
大公の軍の半数は、麓とは反対側の南西の谷にあるヴィランドロート伯領に駐留していた。山間のペイルペルトゥースが襲撃を受けた夜、大公の軍は伯爵の城を陥落させた。傭兵を雇い、襲撃の命を下した伯爵夫人は、現在大公軍の司令官の人質となっている。伯爵の生死は不明であり、現在のところ彼女の身柄を引き渡せと要求してくる者はいなかった。
できるだけ静かに通りを歩き、領主であるハーバートとその側近たる精鋭たちを率いて、ロデリックは跳ね橋を渡り、城内に入った。
城の門番だけは、日中はペイルペルトゥースの老人、夜間は少年たちが行っていたが、今は二人の少年に一服盛って眠らせている。気の毒だが仕方あるまい。明日、グレンとハーバートの間で会談が行われるまでは、領主の帰還は極力知られたくはない。
館の中に入り、二階に上ると、副伯を予め整えさせておいた客室に案内した。
扉を開けて入室を促すロデリックの前で、ハーバートは足を止めた。
「頼みがある」
「どういったことでしょう?」
ロデリックは扉を押さえたまま慇懃に尋ねた。
「妻に会えないだろうか」
「申し上げましたように、既にお休み中かと存じますが」
婉曲に拒絶すると、再び部屋の外から副伯の側近の兵が口を挟んだ。
「館の主人が奥方にお会いするのに、昼夜の関係がございますか。二年ぶりの帰郷ですぞ。貴公にそれを妨げる権利があるのですか」
あると答えたら、この若い兵たちはどういう反応をするだろう。好奇心をくすぐられながらも、ロデリックは賢明に沈黙を保っていた。その答えは既に告げたはずだ。
ハーバートは側近の言葉が無かったかのように、ロデリックを見据えたまま言った。
「頼む。顔を見るだけでいい」
「ご婦人には色々とお支度もございましょう。夜が明けてからお会いになった方がよろしいかと思いますが……」
「ひと目だけでいい。話は明日にする」
副伯は引かなかった。市井のしかも傭兵から敢えて娶った妻である。よほどに思い入れがあるのだろう。
「かしこまりました。閣下のみ、奥方様の元へご案内させていただきます。他の方は、どうぞお部屋でお休みになってくださいませ」
「主人をおいて、我々が先に休めるものか。お近くまでお供する」
忠実な副伯の兵たちは、めいめいロデリックの勧めを拒絶した。彼は兵士たちには何も答えず、ハーバートに視線を向ける。聡明な副伯はその意図を正確に読み取り、勇敢な兵たちを振り返った。
「副官殿の言うとおり、お前たちは部屋で休んでいろ。ここまでご苦労だったな」
「我が君」
ヴァルデマーと呼ばれた、兵たちの中でもひときわ目立つ長身の男がハーバートに詰め寄り、ひそめた声で言い募った。
「お一人になるのは危険です。彼らを敵軍とは申しませんが、何か企みがあるやもしれません。あなた様の身に万一のことがあれば……」
本人は小声のつもりだろうが、生憎耳のよいロデリックには全て聞こえていた。もっとも若い兵の様子を見れば、声が聞こえずとも会話の内容は容易に推察できたであろう。
「案ずるな。我らの城だぞ。何も起こるわけがない」
苦笑いを返す副伯に対し、ヴァルデマーは顔を顰めた。
「しかし……我々の城で、何故あなた様がこのような扱いを受けねばならないのですか。城主が奥方にお会いするために、他国の軍の許可を得ねばならぬなど……。まるで……」
徐々に屈辱を滲ませながら継がれた若者の言葉を、彼の肩を叩いてハーバートが遮った。
「今は体を休めておけ。私のことは心配しなくていい」
領主はそれ以上部下に答えさせず、ロデリックを振り向いた。
「失礼した、副官殿。妻はどこに?」
「ご案内致します」
副伯の兵たちの視線が突き刺さるようであった。ロデリックには痛くも痒くもないが、二年ぶりに戻った領地に、見知らぬ隣国の軍が居座り、城館の中までも我が物顔で取り仕切っていることは、彼らにしてみれば気に食わないのは当然だ。帰路で公都に立ち寄った際に、彼らが不在中の出来事について大公から説明があったとはいえ、詳細を告げられたのは副伯だけである。他の兵はまだ事情がよく飲みこめていないのだろう。
ハーバートにしても、表情や態度には出ていないものの、内心は兵たちと同じく苦々しい気持ちには違いない。いや、彼らとは比べものにならないほど陰鬱かもしれない。
考えると、少々気分が重くなった。
角灯を手にしたロデリックとハーバートは、狭い螺旋階段を上って三階に辿りついた。右手に主寝室がある。扉の前には士官が二人、歩哨についていた。ここに至るまでハーバートは全く口を開かなかったし、ロデリックも語りかけることはしなかった。
「奥方様は室内に?」
見張りの士官に尋ねると、二人は揃って頷いた。ロデリックの背後に領主の姿を認めた彼らの瞳に、微かな緊張が走るのが分かった。ロデリックの精神も徐々に張りつめていく。今のところ副伯から害意は全く感じられないが、帯剣している彼にあまり長い間背を向けていたくはない。
「奥方様はお休み中かと存じますが」
士官の一人が告げた。ロデリックは念を押すようにハーバートに目を向けたが、彼は構わないと一言答えると、自ら進み出て静かに扉を開けた。
室内は暗闇に閉ざされていた。
領主は明かりを持たなかったので、背後から近寄ったロデリックの角灯の火影が音もなく寝室に忍び込む。寝室に入ってすぐの場所には、小さな書き物机があり、寝台は右手の奥だ。
妻の名を囁くこともなく、ハーバートはそちらに静かに踏み出した。仕方なくロデリックも続く。微かに揺らめく灯火の端が寝台に届いた。
レジーナは熟睡しているようだった。二人とも極力物音や気配を絶っているせいもあってか、彼女が目を覚ます気配はない。
副伯が全身を強張らせるのが分かった。彼の表情は見えないが、恐らく蒼白だろう。眉を顰めたロデリックも、やっとのことで嘆息をこらえていた。
暑いためか、仰向けに眠る副伯夫人を覆う麻の掛け布から、美しい線を描く長い脚がはみ出している。その素足はあろうことか、隣に眠る男の腹に乗っていた。夫人と同衾している長身の男は、体の上にのしかかった彼女の脚が少々重いのか、僅かに眉を顰めていたが、こちらも熟睡しているようだった。
寛いで眠る夫婦──あるいは父娘の様相である。付き合いの浅い、新鮮な恋人や愛人たちが孕む緊張や慎みは、この寝姿からは既に感じられない。しかし掛け布の隙間から覗く彼らの素肌を見れば、眠る前に交わされた彼らの行為は、ハーバートも容易に推察できるだろう。
ロデリックは角灯を左手に持ち替え、領主から半歩距離を取った。
長い時間ではなかった。やがてハーバートは一言も発さずに振り返ると、ロデリックに一瞥もくれずに静かな足取りで部屋の出口へと向かう。慌てて彼もそれに続いた。
扉を閉めることもせず、副伯は廊下を歩いて螺旋階段を下り始めた。ロデリックは無言のまま長身の背中を追った。何か声をかけようにも、『いかがでした』とも『奥方様がお元気でよろしゅうございました』とも言えまい。
二階に下りたハーバートは、先ほどロデリックが案内した客室の前で足を止めた。二人の士官がまだそこに残っている。ようやく彼はロデリックを振り向いた。
「案内、ご苦労だった」
秀麗な面差しからは、全ての表情が拭い去られていた。ロデリックは丁重に礼を返した。
「また明朝、お迎えに上がります」
彼は小さく頷くと、室内に入って扉を閉めた。
思わず大きな溜め息がついで出た。
(勘弁してよ……)
レジーナや村人からも、副伯は武芸に秀でていると聞いていたし、実際に会って身のこなしや体つきを見れば、それが誇張や偽りでないことは直ちに分かった。
妻が別の男と共寝する姿を目にした彼が逆上して見境なく暴れるようなことがあれば、当のグレンやレジーナだけでなく、副伯の近くにいたロデリックまでとばっちりを食うかもしれないではないか。
副伯がどうしてもレジーナに会いたがったら、寝室に連れて来い。
夕食の前にグレンは、面白がるようにロデリックに伝えた。ハーバートの深夜の帰還を全く知らされていないレジーナは、何も知らずに普段のようにグレンと食事をして、そのまま共に寝室に引き取ったようだ。
昔なじみであり、占領軍の司令官と領主夫人の関係は、以前から奇妙であったが、ここ最近は親しさが増しているように見えた。谷の下の伯爵夫人が雇った傭兵が、城を襲撃してから後のことだ。
だからといって、ふたりの間に執着じみた、いわゆる男女の愛情がある様子はない。少なくともロデリックの目には窺えなかった。レジーナは領地の管理、グレンは陥落させた伯爵領の平定、軍の管理と別の仕事がある。グレンはたびたび谷の伯爵の城に下りてはペイルペルトゥースを空けたし、ふたりが共にいる時間は決して多くなかった。
一番最初に、司令官と副伯夫人の間で交わされた話では、軍の駐留は約一年、谷の伯爵領に向けて出発するまでということだった。しかしいまだに、軍の半数はペイルペルトゥースに駐留しており、司令官の本拠地もここである。
レジーナは再三、グレンにいつ軍が完全に領地を空けるのかと詰め寄っているようだが、彼は伯爵領が落ち着くまでと、のらりくらりと言い逃れていた。
勝気なレジーナが強硬な手段に出ないのは、いくつか理由があるだろう。まずは軍を力ずくで追い出すことが、ほぼ不可能であることだ。村人の総数より多い千の軍人を、武力をもって追放することはできまい。
もうひとつは、村人たちが軍の駐留の延長を歓迎している向きがあることだ。実際に傭兵の襲撃を受けて死傷者を出した村は、守備兵や男手の少ない村に、自分たちに協力的な軍が駐留していることを頼もしく考えているらしい。以前から彼らは大公の軍の好意的であったが、襲撃を受けた際に、大公軍の一部が救援に駆けつけたことで、一部の村人は彼らを英雄視しているようだ。
公都との交易も続いている。都の珍しい品々や金が村に入るようになってきた。逆に相変わらず兵舎に滞在し、規律を守って生活している軍が、村を圧迫していることはない。兵糧も公都や伯爵領からの補給で賄っている。
つまりは大公の軍を追放する利点が、ペイルペルトゥースには少ないのである。もはや君主を抱く独立領としての誇りだけがその理由ではないだろうか。レジーナの勢いが萎むのも当然だった。
彼女の最大の懸念であった、司令官による侍女たちの搾取についても、傭兵の襲撃以来、ぴたりと止んでいた。
代わって、離れに捕らえてあるうら若い伯爵夫人や、伯爵領で捕まえた女たちが犠牲になっているわけだが、無論レジーナの知るところではないだろう。
わだかまりが磨り減ったレジーナとグレンがたまに城で会話を交わす時、そこに漂っているのはもはや友情に近かった。同盟を組み、戦友となった将同士。ふたりが同性であれば、そう見えただろう。
そこに奇妙な彩りを添えているのが、ふたりが異性であり、何日かに一度は同衾していることだった。
男と女の間には謎が多い。
レジーナは決してグレンを男性として好いているようには見えない。むしろいまだに、ロデリックすらひやひやするような強烈な皮肉や嫌味をグレンに叩きつけることもしばしばだ。
それに彼女が、男という生物が元来好きだという性質にも見えない。例えば娼婦のサラのような女であれば、関わりを持った男と気軽に寝ることもあるだろう。しかしレジーナは彼女たちとは正反対の気質のようだ。たとえロデリックが彼女にちょっかいをかけようとも、強烈な肘鉄を食らわされるのがおちだろう。実際、ニコラスをはじめとして、美しい孤高の夫人に思いを寄せる男たちは少なくないが、相手にもされていない。
もっとも、感情や欲望、人間関係など、本来は型にはまったものではない。周囲にいかに奇妙に映ろうとも、本人たちに不満が無ければそれでいいのだろう。
だがレジーナは人妻だ。教義や常識で考えれば、夫以外の男と肌を交わすことは許されない。
「よろしく頼みます。決して目を離さないように」
副伯が休む部屋の見張りについた二人の士官に言いつけると、彼らは緊張した面持ちで頷いた。深夜に万が一、副伯と彼に付き従ってきた兵たちが暴動でも起こせば大変な騒ぎになる。ハーバートの様子からして、その可能性は高くはなさそうだが、用心に越したことはない。
夏至が過ぎて二月が経とうとしている。そろそろ夜が長くなり始めた。日が昇るまで、もう少し眠れるだろう。人気のない廊下を足音を殺して歩きながら、ロデリックは大きな欠伸をした。
それにしても、ハーバートはあの場でよくこらえたものだ。並みの男ならば、激高して修羅場と化していただろう。誇りと理性が、怒りと悲しみに打ち勝ったのだろうか。
ふと、自分だったらどうしただろうかと考えた。
想像するのが難しかった。妻という存在がいたことはないし、これからも持つことはないだろうからだ。しかし、恐らくはハーバートと同様に、無言でその場を去っただろう。女ごときのために、見苦しい醜態を晒したくはない。
そして無論、女のことは忘れる。二度とその場所に戻ることはあるまい。
眠れないのではないかと思ったが、鎧戸の隙間から淡く光が差し込む頃、うつらうつらとし始めた。やはり疲労には勝てなかったようだ。
しかしその微かなまどろみを破るように扉が叩かれた。
ハーバートは半眼のまま顔を上げた。意識ははっきりとしたが、体が重く、だるい。寝台と椅子、燭台が乗った小机があるきりの殺風景な部屋だ。薄暗い空間に、扉の外から男の声が響いた。
「副伯閣下。お休みのところ、早朝から誠に申し訳ございません。我らの将軍が、閣下にご拝謁することをお許しいただけますでしょうか」
声からして、昨夜彼をこの部屋まで案内してきた司令官付きの副官のようだ。彼はゆるりと体を起こした。まだ夜明けだ。厨房の召使いたちが起き出すかどうかという時間である。苦笑いが浮かんだ。表向きは、副伯であるハーバートを、身分が上の者として敬意を払っているらしい。だが実際、ここでハーバートが彼らの申し出を断ることはできないのだ。
彼は軽く手ぐしで髪だけを整え、返答なしに扉を開いた。ロデリックと名乗った副官は、少々驚いたようだが、すぐに無表情に戻った。
「お疲れのところを誠に恐縮ですが、ご足労いただけますでしょうか」
「構わない」
短く応え、ハーバートは副官に続いた。部屋の前に二人の兵士が控えていたことに気づき、彼は再び苦笑した。
見張りか。必要ないというのに。今更逃亡や反抗などするわけがない。自分が失策を犯せば、領地に滞在している千の軍が、直ちに村に牙を剥くことなど分かりきっている。
昨夜と同じく、ロデリックは無駄口ひとつ叩かず、角灯を携えた隠者のように静かにハーバートを先導した。
てっきり応接間に通されると思いきや、彼が連れてこられたのは小広間だった。領民との謁見にも利用される部屋だ。ロデリックは取っ手を捻り、両開きの扉の片側だけを引き開けた。
高い位置にある窓から朝の光が差し込んでいた。手入れが行き届いた石畳の床には、ハーバートの母の実家から贈られた、東の地方の美しい臙脂色の織物が敷いてある。部屋の奥に鎮座する、領主が腰掛ける高い背もたれの樫の椅子も同様だ。彼が城を発つ前と変わらなかった。懐かしさに胸の奥が微かに熱くなった。
その椅子より一歩下がった場所に人影があった。本来なら侍女や役人など、領主の配下が侍るべき位置だ。
予想していた顔だった。昨夜、レジーナと共に寝台で眠っていた男である。
全身が冷えた。鳩尾が重くなる。両腕の肌がびりびりした。
男はハーバートの姿を認めると、微かに笑みを浮かべた。長身の鍛えられた体躯とは裏腹に、微笑むと妙に人好きのする表情になる。しかし褐色の瞳の奥には、どこか獰猛な光が潜んだままだった。
「閣下、お席にどうぞ」
背後から副官に促され、ハーバートは自分が足を止めていたことに気づいた。再び、自らが座る為の椅子に踏み出す。年月を経て艶を見せ始めた織物が彼の足音を吸った。
微かに指先が震えている。服の下では両腕に鳥肌が立ったままだ。帯剣して、領主の座の傍に控える男に怯えているのだろうかと思った。
いや、違う。混乱しているのだ。素肌の妻の隣で、本来は彼がいるべき場所で眠っていた男を目の当たりにして、激怒しているのだ。しかしそれを表す術に戸惑い、震えているしかないとは。
ハーバートも帯剣している。この場で剣を抜き、男を始末することは容易い。
だがそれで、何になる。レジーナがこの手に戻ってくるのかどうかも分からない。よしんばそうできたとしても、その後、この領地はどうなるのだ。
彼は強張った表情のまま、懐かしい樫の椅子に腰を下ろした。ほぼ同時に、剣の長さほどの距離を置いた場所で、例の男が膝をついて屈む。さらにそこから下がった場所で、同様に副官も膝を折った。
「初めてお目にかかります。大公の命により、ご領地をお守りさせていただいております軍を預かるグレンと申します。昨夜はご到着の際にお迎えに上がりもせず、誠に失礼を致しました」
「構わない」無表情のままハーバートは答えた。「それより、前置きは省いて必要な話だけしてくれ」
顔を上げた司令官は僅かに口の端を吊り上げると、振り向いて副官に告げた。
「ロデリック、お前は退室していろ」
「──はい」
一瞬の間の後、副官の青年は頷いて素早く小広間を出ていった。
彼が扉を閉める重い音が響き終わらぬうちに、ハーバートは言った。
「立ち上がってくれ。建前上の礼儀や敬意を払ってもらっても、お互いに苦痛だろう」
「お心遣い、痛み入ります」
一度深く頭を垂れると、グレンと名乗った男は立ち上がった。
「大公殿下から伺っております通り、閣下は大変聡明であらせられますな」
「世辞も無用だ。その言葉遣いも今は必要ない。早々に用件を言ってくれ」
見下ろす男の眼光に怯みもせず、座ったままのハーバートが冷ややかに返すと、グレンは小さな声を上げて笑った。
「ゆうべのことで、カリカリしてんのか?」
ハーバートは応えなかった。僅かに揺れた瞳の光に気づいたかどうか、グレンは目を伏せて続けた。
「ま、話が早くて結構だ。もう大公から大筋は聞いていると思うが、今後の話は俺からもう少し説明させてもらう」
目を覚ました時に、既にグレンの姿は無かった。珍しく早く起き出したようだ。気配に気づかなかったとは、よほど熟睡していたのだろうか。
レジーナは気だるく寝台に横たわったまま、寝返りを打った。広々としていた寝室は、レジーナの衣装とグレンの私物が溢れ、雑然としていた。大公の軍がやってきた当初は、この寝室をグレンの部屋として明け渡したわけだが、彼らが谷の伯爵領に出発していった日に、レジーナは自分の私物をこの部屋に持ち帰ってきた。彼らの駐留は、伯爵領に出発するまでという約束だったからだ。
置きっぱなしだったグレンの私物は、一瞬嫌がらせに捨ててやろうかと思ったが、戦に出かけた人間の持ち物を処分するのも縁起が悪く、部屋の隅にまとめておいたのだ。
しかし以降も、グレンと大公軍は居座り続けている。
再度レジーナをこの寝室から追い出すようなことは、グレンもしなかった。それまでレジーナが寝室として使っていた部屋に持ち物を入れ、部屋を交換した形としたのは、ある程度のけじめであろう。
だが結局のところ、グレンはペイルペルトゥースにいる時は、この寝室で休むことが多かった。レジーナと共にだ。レジーナもそれを最終的にはいつも拒めずにいた。
『お前がヤダってんなら、別の侍女の部屋に泊めてもらうだけだから』
へらへらと下らない脅しを吐くグレンに切り返すこともできないまま、彼の同衾を許し、肌を重ねてしまう。
しかし行為すらないまま、疲れ切ってふたりでひとつの寝台に眠ってしまうこともあった。交わるよりも、何事もないまま並んで朝を迎えてしまうことのほうが、罪深いような気がした。
そんな夜もあれば、昨夜のように何度も激しく抱き合うこともあった。体が重いのは、そのせいかもしれない。
(──起きなきゃ)
それでもいつまでも寝ているわけにいかない。レジーナがようやく体を起こすと、扉が激しく叩かれた。
「レジーナ様。お目覚めですか?」
侍女頭のモニカの声だ。彼女自ら、レジーナの寝室にやってくることはあまり無い。何か緊急の用事だろうか。
「起きているわ。どうしたの?」
慌てて身支度を整えながらレジーナは応えた。
「どうぞ、お急ぎで応接間にお越しくださいませ」
侍女頭の声は逸って乱れている。珍しいことだった。レジーナは急ぎ、胴着も着ないまま薄手の肌着の上に普段着を被り、手早く胸元の紐を締めながら扉を開けた。色白の頬を紅潮させたモニカの顔が表れる。
まさか、また他国の襲来だろうか。
「どうしたの?」
顔を強張らせるレジーナに、モニカは震える声で応えた。
「ご領主様が……旦那様が……」
昨夜遅くに、少数の兵を伴って領主が帰還した。
起床してすぐに執事から知らされた報を受けて、マイラは身支度もそこそこに大食堂に急いだ。滞在中の大公軍の士官たちに混じって、帰還したペイルペルトゥースの兵たちが朝食を取っているらしい。
普段であれば、すぐに女主人であるレジーナの元へ向かわなければならないが、どうしても先に確かめたい。自分の恋人がそこにいるかどうか。
滅多にないことだが、彼女は服の裾を持ち上げて廊下を駆けた。慣れないことをしたために、何度も躓いたが、とても歩いてなどいられない。
食堂の入り口には、既に人だかりができていた。マイラと同様に、出征していった兵士たちを恋人に持つ侍女や女中たちは多い。廊下で人目も憚らずに抱きしめあう男女、手を取り合う男女、そして隅で泣き崩れる若い女中の姿もあった。
帰還した兵は少数だという。一体何人くらいなのだろう。不安にマイラの心臓は激しく脈打ち始めた。彼は腕利きだ。盗賊との戦いも生き延びた。きっと無事に決まっている。
不思議なことに、自分に言い聞かせれば聞かせるほど、マイラの歩みは遅くなった。
確かめるのが怖い。大食堂の中に、恋人の姿が無かったら。
数瞬ためらったのち、マイラは意を決して侍女たちをかきわけ、大食堂を覗き込んだ。
幾つも並んだ長テーブルには、普段どおり、滞在している大公軍の士官が慎ましい朝食を取っている。好奇心が働くのか、時折こちらに視線を走らせる者もあった。
その手前の別のテーブルに、十数人分の食事の用意がされていた。見覚えのある懐かしい数人のペイルペルトゥースの守備兵が、やはり侍女たちを気にしながら食事を取っていた。
マイラは彼らの姿を見渡した。二度。三度。
いない。
別れ際に笑顔で手を振っていた、彼女の婚約者の姿は、何度見渡してもそこになかった。
そんな。まさか。
足が崩れそうになる。
いや、まだ分からない。彼の行方を他の兵か領主に聞いてみなければ。今、席を外しているか他の場所にいるだけかもしれない。
彼女はすぐ傍で、若い侍女と手を取り合っている兵に尋ねようとした。
「マイラ」
懐かしい声が耳を打った。潤んでいた瞳から涙が零れ落ちる。
声が聞こえた廊下の方角を振り向いたマイラは、早足で歩み寄ってくる長身の影を目にした。
ヴァルデマー。
名前を呼び返す前に、長い腕にしっかりと抱きしめられる。嗚咽と温かい抱擁に包まれ、彼女の声はくぐもって消えた。
「そろそろ起きているかと思って、君を探しに行っていたんだよ」
ヴァルデマーの声も小さく震えていた。彼の体からは日と土の匂いがした。体臭を感じるほど固く抱きしめあったことは、出征の前には数えるほどしかなかった。華奢な彼女の体を捕まえた若い兵も、熱い息を吐いた。
「よかった……帰ってきてくれてよかった……」
震える声で、途切れ途切れにマイラは呟いた。一言ごとに涙が溢れ、ヴァルデマーの服を濡らしていった。
「マイラ……」
彼も感極まり、マイラの名前しか出てこないようだった。二人は周囲の恋人たちと同様、全てを忘れて再会の歓喜に浸っていた。
長い間、女性と接することが許されず、同様に公都に妻や恋人を置いてきた大公軍の士官たちは、些か羨望を込めてペイルペルトゥースの男女の再会劇を見守っていた。その中にひとつ、冷ややかな視線が混じっていたことに、無論マイラは気づかなかった。
先導していたモニカを追い越し、レジーナは扉を叩くこともせずに応接間の扉を開いた。テーブルに席を取っていた二人の男が、弾かれたように顔を上げる。
上座に腰掛けていた男の顔を認め、レジーナの思考は一瞬止まった。
「レジーナ」
ハーバートは音を立てて席を立ち、扉を開いたまま立ち尽くすレジーナの手を取った。彼の体温を肌に感じて、レジーナの感覚はたちどころにほぐれていく。長身の鍛えた体躯、深い光を湛えた漆黒の瞳。肌は戦で陽に焼けたためか幾分浅黒くなり、豊かな黒髪は出発した時よりも少し伸びている気がした。だが目立った傷もなく、二年ぶりに目にする姿は出征前とさほど変わらない。
ハーバートだ。私の夫。この城の主であり、私をここに結びつけているひと。
声も出なかった。息が詰まって苦しくて、短い喘ぎが唇から漏れただけだった。
もう会えないのかもしれないと思った。彼が生きていないのかもしれないと、不安に苛まれた夜が幾夜あっただろう。涙が溢れそうになったが、それを必死でこらえていたのは、椅子に座っていたもう一人の男──グレンの姿があったためだ。
パンを齧っていた彼は、手を取り合ったまま立ち尽くす夫婦を前に、やおら立ち上がった。
「あー、すみません。それじゃ、私はこのへんで失礼します」
のんびりした彼の声を耳にした瞬間、レジーナの心臓はさっと冷えた。何故グレンが、自分より先に夫と会い、共に朝食を食べているのだろう。たまたま早起きしたのだろうか。それとも。
しかしこの場で彼を問い詰めるのはためらわれた。肌を重ねたのはつい昨夜のことだ。何かが夫に露見してはたまらない。
そんなことを考えると、俄かに自分が薄汚れた存在に思えた。ゆうべ──いや、数刻前まで体を交わし、情熱を貪っていた男を前に、どの顔で夫の手を取っているのだろう。
再び言葉も失ったレジーナを尻目に、グレンは食べかけのパンを握ったまま「ごゆっくりどうぞ」と一言の残して、悠々と退室していった。
「レジーナ」
もう一度名前を呼ばれて、固く夫に抱きしめられてから、ようやくレジーナは我に返った。
「バート」
声がやっと唇によみがえる。彼の名を声に出して呼ぶのは何年ぶりだろう。その瞬間、堰を切ったように涙が瞳からあふれ落ちた。
「心配かけたね。長い間戻れなくてすまない。手紙も出せなくて、すまなかった」
耳元で夫の穏やかな声が響いた。産毛と髪をくすぐる感触が、たとえようもなく懐かしい。
「本当よ……。どうして返事もくれなかったの」
力いっぱいハーバートの体を抱きしめ返しならが、嗚咽と共にレジーナはひび割れた声を吐き出した。
「毎日毎日、不安だった。あなたに何かあったんじゃないかって、気がつくと悪い想像ばかりしてるのよ。ほんとに怖かったのよ……」
どうしてだろう。夫の無事を喜んでいるはずなのに、彼の帰還を心から嬉しいと思っているはずなのに、口を開けば詰るようなことばかり告げてしまう。
やがてそれも唇に上らなくなり、彼女の唇からはか細い悲鳴のような泣き声が漏れるばかりとなった。それはやがて甲高くなり、号泣と化した。気が付けばレジーナは、夫の胸で子供のように声を上げて泣いていた。
「レジーナ、すまない。本当にすまなかった。今まで、よく頑張ってくれた」
声にならなかったレジーナの想いを汲み取ったように、ハーバートは穏やかに呟きながら、慄く彼女の頭や背中を何度も撫で続けた。赤子をあやすような、限りなく優しい手つきだった。
夫の体温が体に馴染んでいく。声を上げて咽び泣くことができる、たったひとつの場所。自分が感情をさらけ出せる唯一のひと。
やっと彼が帰ってきた。今までの自分の孤独が剥がれ落ち、そして途方もない安堵が端から少しずつ、心の奥底に沈殿していった。
すみません、少し更新のペースが落ちると思います。
頻度は落ちても、少しずつ書きつづけるつもりです。
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