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第三章 17.流星
階段を下るうちに剣戟の音が聞こえてきた。三階の床に下り立つと、廊下の奥に大きく揺れ動く松明の炎と二つの人影が見える。ガブリエルは抜き身を手にしたまま、そちらへ走り出した。
攻防は主寝室の前で行われていた。ガブリエルが天守に上がる前には、負傷して主寝室前で座っていたはずの執事に、再び傭兵が襲いかかっている。右足を痛めていたはずの小柄な執事は傭兵の攻撃をよく防いでいたが、呼吸が乱れて動きが鈍っているのが傍目にも分かる。
ガブリエルは彼らに肉迫すると、執事との立ち回りに集中している傭兵の背中に、躊躇せずに剣を突き立てた。短い呻きを上げて振り返る傭兵の肩に、今度は執事が小振りの剣を振り下ろす。二箇所に刃物を叩きつけられた傭兵は、血を流しながらずるずると床に崩れた。もう動けまい。ほどなくこと切れるだろう。
背後からの不意討ちなどガブリエルは好まないが、戦は勝ってこその戦だ。名誉を守ろうとするあまり敗北しては意味がない。彼らの敗北は即ち、彼らが守るべきものたちの死を意味する。今で言えば、一年の間公国軍を駐留させていた山間の城と、そこに住む素朴で無力な民たちの滅びだ。しかも相手は盗賊と紙一重の傭兵である。彼らの不意討ちを食らって、先ほど屋上でガブリエルの従者が殺されているのだ。敬意や慈悲をかける価値もない相手だ。
傭兵に続いて膝を崩す執事の側で、剣を納めたガブリエルは屈みこんだ。
「執事殿、お怪我は?」
「ありがとうございます。大した負傷ではありません」
執事は気丈に答えたが、布を巻いた右の腿は出血で赤黒く濡れている。
「天守の侍女は?」
短剣を使って服の袖を裂きながら執事は落ち着いた声で尋ねた。
「お怪我をされていましたが、ご無事でした。副伯夫人をお助けするようにと……」
ガブリエルの答えはそこで途切れた。執事の負傷もひどいが、屋上にいた侍女の矢傷も深そうだった。食堂で子供たちを守っていた侍女頭の頬も腫れ上がっていた。城館を守る者たちも、誰もが傷だらけだ。
女性や老人ばかり。ガブリエルの胸に、改めて傭兵たちへの怒りが沸き上がる。
自分たちより弱い存在を集団で襲い、金品を奪った上に、時には陵辱や虐殺に及ぶ盗賊や傭兵のような輩を彼は心底憎んで軽蔑していた。領主と男たちの不在の間に城を守るため、果敢に戦う山間の城の民が哀れでならなかった。
格別胸騒ぎがしたわけでもないが、ガブリエルは娼婦や怪我人だけを残して、この無力な人々が住む小さな村を離れることに、出陣の前から躊躇していた。
それは、これからの任務に対して気が進まないという理由もあった。伯爵の城とて、ペイルペルトゥースと似たような状況なのである。女と子供が残る城に武装して攻め込むというのは、決して名誉ある戦ではない。
しかし任務は任務である。それにこちらの人数が多いほど、伯爵夫人が戦いの前に降伏する可能性が高くなる。そう考えて、あえて司令官であるグレンにも、ペイルペルトゥースに残りたいとは申し出なかった。
しかしやはり自分が預かる隊のうち、一中隊だけでも城の守備の為に残しておくべきだった。
**
進軍の途中にグレンから、反転してペイルペルトゥースの援護に向かうよう命じられて城に戻る際にも、ガブリエルの頭にはその後悔ばかりが駆け巡っていた。
後から続く大隊の半数の歩兵の指揮を一人の中隊長に任せ、彼は騎乗した残りの中隊長たち全てを率いて馬で先行して間道を駆け上った。
しかしあろうことか、間道の入り口付近が二本の倒木で塞がれていたのだ。強風も雷もない好天だったというのに、老木でもない木が勝手に倒れるわけがない。倒木を調べれば案の定、根元に斧の傷があった。明らかに人為的に、間道を塞ぐ為に倒されたのだ。
倒木をどけなければ、馬が通れそうにない。彼らはしばらく折り重なった倒木を排除しようと試みたが、太く重い樹木は男数人がかりでも容易には動かなかった。部下たちの疲労が溜まる前に、ガブリエルは作業を止めさせた。
「後続の歩兵を待ちますか?」
息を整えながら尋ねる中隊長に、ガブリエルはかぶりを振った。
「いや。馬を置いて徒歩で進む」
山間の城に攻め込んでいる軍の規模は不明だった。少数ならともかく、相手が数十人、数百人の単位であれば、騎乗もしていない男が九人加わったところで、加勢になるのかどうかは疑問だ。
だからといって、歩兵が追いつくまで手をこまねいているわけにはいかない。城には戦うこともできない、女性や子供、老人が残るのみなのだ。
ガブリエルの部下である士官たちも、皆上官の決断に頷いた。彼らは馬から持てる装備を外すと、手綱を手近な木に結わえ付け、明かりを携えて間道の急斜面を徒歩で登り始めた。
歩き出して四半刻も経たないうち、晴れ渡った闇夜を背景に、黒々とした古城が見えてくる。間道を登り切ったのだ。
ここから古い廃墟が佇む不気味な林を抜ければ、村の門に着くはずだった。
先頭を歩くガブリエルが林への道をとろうとした時、士官の一人が声を上げた。
「隊長、ここに何か引きずったような跡があります」
彼が指差す大地には、確かに生い茂る下草を圧して、重いものを引きずった跡があった。大きな獲物を捕らえた熊か何かの足跡だろうかと、ガブリエルは考えた。
しかしそれは動物が棲むであろう林の奥ではなく、反対方向――城の裏手へと続く切り立った崖の方角に通じていた。突如彼の脳裏に、死体を引きずり、崖下に放り投げる不吉な亡霊の幻影が浮かんだ。周囲からは想像力が欠如していると思われているガブリエルだが、少年の頃の修行時代から瞑想と思索に耽ることが多かった為、実は非常に豊かな想像力を持ち合わせていた。
奇妙な予感にかられて、ガブリエルはその跡を早足で辿った。初夏の頃から間道の工事のため、兵士たちを率いて山中に寝泊りしていた彼は、山に棲む動物やその足跡の見分け方についても知識を得ていた。ふと立ち止まり、屈んで松明を地面に近づけてみる。
やはり四足の獣の足跡ではない。人間のものだ。それも複数。
足跡は林と反対方向の崖に向かいながら、崖沿いを辿っていた。
しばらくその跡を追った彼らは、崖上の道が途切れて垂直に聳える岩場へと辿り着いた。ここは城の麓と言える場所で、この上の岩場と同化するように堅固なペイルペルトゥース城が築かれている。城の裏手、背中にあたる部分の崖がよく見えた。
ガブリエルたちは一斉に目を瞠った。松明が照らす城の裏手の崖に、彼らが出立する時には無かった幾つもの突起が突き出ている。近づけばそれは、楔のようなものを打ち込んだ上に、木製の板を渡してあることが見てとれた。
足場にしか見えない。それは崖に取りつけられた階段状に、途切れた崖上の道から遥か上方の城まで続いていた。
「隊長」
再び、目端の利く部下が声を上げた。彼が指差した場所には、金属片や縄、木製の板や金梃が無造作に放り出してある。
状況は明白であった。何者かが切り立った崖に足場を築いて、城の裏手から侵入するつもり──いや、既に侵入しているのだ。
松明を携え、ガブリエルは崖の下を覗き込んだ。谷底は廃墟がある林よりもさらに深い森となっており、小さな炎の明かりでは黒々とした闇の海にしか見えなかった。
恐らく裏手から侵入者が忍び込むとは、あの領主夫人も考えてはいないだろう。大胆かつ危険な方法であったが、それだけに成功すれば、城内は大きな混乱に陥るはずだ。月は既に沈み、星明りが灯るだけの岩場の裏手は暗い。足場が築いてあるとはいえ小さいものであるし、この闇の中では足を踏み外す危険も大きかった。
彼らの耳に、上方から微かな甲高い声が聞こえた。獣の声にも似ていたが、誰もが城にいるはずの女性か子供の悲鳴だと確信した。
「角灯を持っている者は?」
ガブリエルの声に、二人が油を入れた鉄製の角灯を掲げて応えた。松明と違って、覆いを動かせば明暗が調節でき、熱に気をつければ腰から下げることもできる角灯は、屋内では便利だが戦いに備えて用意することは少ない。落とせば油が漏れて、火災になることがあるからだ。この時も、ガブリエルをはじめほとんどの士官は松明を用意していた。
ガブリエルは角灯を持つ部下と自分の松明を交換すると、注意深くベルトにそれを括り付けた。
「私と従者はこの崖を登って、城に入ってみる。お前たちは急いで村の門に回れ」
「危険です」
すかさず一人の中隊長が声を上げた。
「この暗さの中で、この脆弱な足場では滑落する可能性があります。崖は私が登ります。ガブリエル様こそ、他の士官たちを率いて村の門においでください」
「だから私が行くのだ。狭い足場は慣れた。心配するな」
夏の間と冬を越した春の時期、間道の工事を監督していたガブリエルは、毎日のように不安定な足場を渡って、工事の様子を仔細に検分していた。彼に付き従っていた従者も同様だ。おかげで随分と身軽になったものだ。
士官たちは尚も不安を拭いきれなかったが、この大隊長が言い出したらきかない頑固な性質であることも十分すぎるほど知っていた。それに教会に認められた修道騎士でもある彼らは、城に残された女性や子供といった力を持たぬ存在を心から案じていた。今いる場所からぐるりと外周を回って村の門から入るよりも、崖を登って城へ侵入できる方が速やかに救助に向かえるのは間違いない。崖を登るために両手を空けることができる角灯は二つしかなく──片手に松明を携えながら崖を登るのは自殺行為だ──、それなら城に真っ先に入り込むのは最も武芸に長けた大隊長しか考えられなかった。
「かしこまりました。我々も全力で城へと向かいます」
別の中隊長が言うと、全員が頷いた。ガブリエルも小さく頷き返す。
「村の中も争いになっているだろう。十分気をつけろ」
「隊長も。またお会いしましょう」
士官たちは各々短い挨拶を告げると、早足で村の門へと歩き去っていった。
彼らを見送らず、ガブリエルも従者を従えて崖へと向かう。垂直に立ちのぼる岩壁は、夜の星明りを受けて青黒く浮かび上がっていた。
彼は崖の際に屈んで、最初の足場を検分した。頑丈な楔を二本打ち込んで、その上に板を渡してある。楔に手を触れてみてもぐらつく心配はない。恐らく金槌で岩壁に深く打ち込んだのだろう。板もまだ丈夫そうで、遠目から見たよりも大きい。
「いくぞ。気をつけろ」
ガブリエルは小声で従者に告げると、岩肌に張りつくようにして、横歩きで慎重に足場を渡り始めた。とりたてて高い場所が苦手でもないし、不安定な足場にも慣れたはずだが、視界が利かない闇夜となるとまた話は別だ。谷底の森は遥か下方にある。落ちれば命がないことだけは間違いない。ここに足場を組んだ侵入者も、いい度胸をしていると思った。
薄手の革の手袋の内側には汗が滲み、右足から左足へと体重を移す際に、緊張のあまり腿の筋肉が小さく震えた。一歩ごとに城の裏手の壁に近づくたび、微風に乗って甲高い声が聞こえてくる。気丈で美しい副伯夫人と、彼女に従う侍女たち、素朴で親切な召使いや小姓、老門番たちが虐殺される光景が脳裏にちらついた。心は焦ったが、彼は努めて冷静に崖を登り続けた。
崖を無事に登りきったガブリエルは、中庭の騒ぎに気を取られつつも、古い礼拝堂から回廊をつたって真っ先に城館へと入った。
まずは城館に立てこもっているはずの副伯夫人を救出しなければならない。中庭から子供の悲鳴が聞こえてくるたびに彼の胸は痛んだが、感情のままに目につく人間全てに手を差し伸べていては、肝心要の人物が殺されてしまう。組織的に戦うには、数多いる人間に順列をつけるほかないのだ。それが為せぬ組織は滅びる。
城館には既に曲者が入り込んでいた。
副伯夫人の無事を確認するまで、倒した男たちの尋問をする暇もなかったが、彼らはガブリエルたちの姿を認めると一様に驚愕していた。その隙をついて何人仕留めたか、もう覚えていない。
つまり侵入者たちは、城に男たちがいないことを知っているのだ。その上で女子供を襲っている卑劣さが、ガブリエルには許し難かった。
賊と思しき男たちには容赦しなかったが、今頃、谷の伯爵の城でも同様のことが行われていると想像すると、暗い葛藤に包まれた。
途中、食堂からすすり泣きが聞こえてきたので覗き込んでみれば、幼い子供たちと足を引きずっている侍女頭が、彼らが普段食事をしていた長テーブルに綱を結びつけ、扉を内側から塞ごうとしているところだった。
侍女頭はガブリエルに気づくと、息を呑んで驚倒した。彼女たちは全く、彼らの救援をあてにしていなかったようだ。
見かけによらず気丈な侍女頭は、それでも泣き崩れるようなことはなく、彼に淡々と状況を説明した。
伯爵夫人が差し向けた傭兵の襲撃。村をあげての防衛。
既に傭兵が城館に入り込み、執事が単身彼らを追ったということもガブリエルの心を逸らせた。城館には執事の他は、十歳になるやならずやという小姓が数人と、天守に侍女が一人残るだけらしい。
見るからに華奢で線の細い侍女頭と幼い子供たちを残していくのも心配だったが、ガブリエルが何より驚き呆れたのは、城門で侍女を率いて自ら戦っているという副伯夫人だった。
彼はレジーナのことをよく覚えていた。あのような女性には会ったことがない。
侍女を連れて公国軍の訓練場を訪れ、あまつさえ男と剣の試合をするなど、公都の女性兵も行っていない。市井のじゃじゃ馬娘のような振る舞いである。何とも慎みのない夫人だと思った。
実際に彼女と対戦稽古をしたニコラスによれば、剣の腕に関しては男に劣らず、一度は彼を敗っているということだった。尤もニコラスは左手を使うことはなかったので、全力で戦ったとは言えないかもしれないが、他の小隊長や士官たちでも、右手のみのニコラスに勝つことは容易ではない。
腕は確かなようだが、だからといって侍女を率いて城門の守備に回るなどとは、愚かでそして哀れだった。本来であれば夫人は、夫である領主や守備隊の男たちに守られて、最も安全な場所にいるはずだ。君主の妻は領地と領民の母であり、跡継ぎを産む役目を担う高貴な女性である。
ガブリエルは一瞬、妻と女たちを置いて遠征に出た副伯と男たちに激しい憤りを感じた。主君である王の命に従う忠義は結構だが、残された弱き者たちに対しての配慮が欠けていまいか。
「お願いでございます。どうぞ、館内に入り込んだ賊の掃討を」
短い思考を断ち切ったのは、侍女頭の透き通るような声だった。
「この中に侵入者がいるということは、レジーナ様と侍女たちは既に敗れてしまったと考えられます。まずは館内の脅威を取り除いて、天守を守らなれけば――」
口早に語り続ける侍女頭を見下ろし、ガブリエルは微かに眉を寄せて彼女を遮った。
「賊は私たちが入ってきたのと同じ、崖から侵入したのだろう。城門前で戦う副伯夫人が敗れたとは限らない」
張りつめていた侍女頭の表情が安堵に緩んだ。彼女はガブリエルを見つめたまま小さく息を吐いたが、再び眦を吊り上げて言った。
「そうであっても、まず館の内部の安全を確保するのが先決でございます。老体の執事一人ではとてもかないません。どうか彼を助けてくださいまし」
「あなたは女主人よりも、執事とご自身の身が大切だとおっしゃるのか」
ガブリエルも副伯夫人の援護と、城館と天守の死守、どちらを優先すべきか迷っていた。そこへ、隠れていることしかできない女の身で、侍女頭からお願いと称した指示をされたことは、彼の自尊心を刺激した。思わず冷ややかに言い返すと、モニカも黒曜石のような瞳を見開いた。
「あなたこそ何をおっしゃるのです。レジーナ様が領地にとって最も大切な方だということは、私とて骨の髄まで沁みて存じております。ですが、館が賊の手に落ちてしまったら、あなた様がレジーナ様を救出されたところで、どこに撤退するのですか。中庭に出て命がけで消火を試みている小姓たちは、どこへ逃げればいいのです? まずは安全な場所を一カ所でも確保することができなければ、民も散り散りになって城は陥落します。私がレジーナ様の為に命を捨てて、それで領地が防衛できるなら、いくらでも致しますわ。でもそんなことをしたところで、余計な死体が一つ増えるだけです」
不覚にも、ガブリエルは侍女頭の剣幕に圧されて、一言も言い返せずにいた。彼らの険悪な雰囲気を感じ取って、子供たちも侍女頭の元に駆け寄って泣き出したり、ガブリエルを睨み上げたりしている。
「レジーナ様より城館や私共を助けて欲しいなどと、誰が申しました。勿論、奥方様をお助けして欲しいに決まっています。まだあなたより若い侍女たちもレジーナ様と戦っています。私の娘も混じっています。けれど、彼女たちを助けていただいたところで、ここが占拠されてしまえば……」
「ご婦人」
尚もガブリエルに詰め寄るモニカを従者がそっと制した。彼女は眼光も鋭く若い従者を睨み返したが、状況と立場を思い出したのか、目を伏せて声を落した。
「申し訳ございません。口が過ぎました。救助においでいただいた身でありながら、出すぎたことを申しました」
「いや、こちらこそ失礼だった」
短く告げ、ガブリエルは戸口へと首を返した。
女に指示されたことは気に食わないが、彼女の言うことにも一理ある。安全な場所──最も堅牢な城館を死守してこそ、機会を窺って状況の巻き返しもできるだろう。ここに篭もり、グレンたちの帰りを待つ方法もある。そして確かに天守が取られれば、それは城の陥落を意味する。堅固な建物であるだけに、一度占拠されてしまえば、奪還も容易ではないだろう。
「厳重に戸締りをしておいてください」
振り向きざまにそれだけ侍女頭に告げて、ガブリエルは食堂を出た。従者が影のように彼を追った。
その後一階、二階と急ぎ足で館内を見て回ったガブリエルたちは、さらに幾人かの侵入者を倒した。敵の数は想像していたよりも多かったが、狭い廊下のおかげで一度に多人数を相手にする羽目にはならなかった。また、ほとんどの傭兵たちは客室や給仕部屋などで金目の物を探っていて、隙だらけだった。裏の崖から忍び込んだのは見事だが、目的を忘れて略奪に走るとは傭兵は所詮傭兵だ。
ガブリエルたち士官が寝泊りしている客室が並ぶ二階を見て回り、目につく傭兵を屠った後、細く急な螺旋階段を上って三階へと辿り着いた。階段の途中から、上階の剣戟の音が聞こえてきていた。
予想通り三階の主寝室の前では、三人の賊が一人の小柄な男に剣を向けていた。ここでもやはり狭い廊下が邪魔をして、傭兵たちは三人一度に相手を襲えずにいた。
両開きの主寝室の扉を背に、賊と相対しているのは初老の執事であった。彼の足元には既に傭兵の屍が二体転がっている。
執事の剣さばき、足さばきは、ガブリエルから見ても見事というほかなかった。
狭く、天井の低い廊下では、傭兵たちが手にしている大型の武器は使いづらい。今執事と剣を合わせている傭兵は短剣を手にしていたが、それよりふたまわりほど大きい細身の剣を手にした執事の方が動きが早かった。上からと思えば素早く剣を返して横手から、それが防がれればすぐに下からの突きというように、曲線を描く剣の軌跡は薄暗がりの中では目で追うことも難しい。
一瞬、執事の動きに目を奪われたガブリエルは我に返ると、飛ぶように三階の床に上りあがり、執事に気を取られている傭兵たちに向かって声を上げた。
「曲者ども、こっちだ」
執事と剣を合わせている傭兵以外の三人が、揃ってガブリエルを振り向いた。抜き身を振るわせることもなく、ガブリエルは手にした短槍の先端で一番手前にいた一人の喉を突いた。
同時に執事の剣が、対戦していた傭兵のなめし革の鎧を貫いて脇腹を深く突く。身軽に崖を登るために、城に忍び込んできた傭兵たちは、村の門に回った兵たちよりもさらに軽装だった。
傭兵は呻きを漏らしながら一歩後ずさったが、執事がとどめを刺す寸前、迫った彼の右の腿に剣を突き立てた。激痛に執事もまた呻いたが、彼の剣は冷静に傭兵の喉を横に裂いた。
その間にガブリエルは、片手で短槍を巧みに操って柄の部分で敵の攻撃を受けながら、一瞬の隙をついて槍を回転させ、もう一人の傭兵の喉にその穂先を埋め込んだ。
その場の傭兵たちが全て床に倒れてから、執事もまた膝をついた。彼は傷口を押えながら顔を上げて、ガブリエルと従者を見上げた。
「ガブリエル様」
彼もまた侍女頭と同様、公国軍の救助など予想もしていなかったらしい。その表情は安堵よりも驚きに満ちている。
彼の怪我の具合を見ようと屈みかけたガブリエルに、執事は緊迫した声で続けた。
「ありがとうございます。しかしどうぞ、早く天守へ。私がここで足止めされている間に、幾人かの傭兵が天守へと上がっていきました。天守には侍女が一人残るきりです」
それを聞いたガブリエルは余計な問答は挟まずにすぐに頷くと、従者を促して踵を返し、屋上へ続く階段へと走り出した。
**
執事に頼まれて、彼を抜いて屋上へと上がったという傭兵を追い、三人を始末したはいいが、さらに後から追いついてきた二人の賊によって、ガブリエルに付き従ってきた勇敢な若い従者は殺されてしまった。
館内の敵はほぼ倒したと思われるが、手負いの女性や老人を置いて城館を離れることには抵抗があった。しかしもはや残しておける従者もいない。
敵はほぼ一掃したと思える。次は中庭の様子を見ながら、無謀な行動に出た副伯夫人を助けなければならない。
途中で出会った小姓に各出入り口の封鎖を命じながら廊下を急ぐガブリエルの脳裏に、忠実な従者の死に様が蘇った。正確には死に様ではない。断末魔だ。彼が侍女に懇願されて屋上を去った時、従者にはまだ息があった。
しかし、ひゅうひゅうという不吉な呼吸音と小刻みに繰り返される喀血は、彼が肺を貫かれたことを意味していた。その場に医者がいたとしても、どう手を尽くしても助からない場所だ。今生きている者を救うため、ガブリエルは死にゆく者を看取る時間と思いを棄てた。
一刻も無駄にしてはならない。
破られた城館の正面口から中庭へと飛び出したガブリエルは、凄惨な光景を目にした。古代帝国時代の美しい浴場や、薪を積んだ備蓄庫から火の手が上がり、何人かの小姓がそれを消そうと懸命に水を汲んだ桶を持って走り回っている。その側には切り傷を受け、既に物言わぬ姿となった幼い骸もあった。
城の裏の崖から侵入した傭兵たちは、中庭にも散っているに違いない。あの不安定な足場を登ってやってきた賊の規模は、想像していたより多いようだ。
新たに不安が沸き上がり、彼は松明を手に城門を目指して駆け出した。城館内を一階から三階まで往復し、数知れない死闘を演じた後ではさすがに疲労も溜まっている。呼吸も切れかけていたが、副伯夫人が心配だった。中庭に散った賊が、城門を守る夫人と侍女たちに背後から迫れば、正面から攻めてきたという傭兵たちとの間で挟み撃ちになってしまう。
小姓たちを手伝いたいのはやまやまだったが、火消しは幼い彼らでもできる。だが夫人を救うために傭兵たちと戦うのは、成人した男であり、騎士でもある自分の役目だ。
途中、地面に転がる屍を見つけた。侍女か小姓たちかと思ったが、体格からして男の死体であった。全身に火傷を負い、黒こげに近い。火災に巻き込まれた老人だろうか。それにしては付近に火の手も消火の跡もないのが妙だった。
屍に構っていられずに、すぐにその場を去ったが、城門に近づくまでに同じような死体を何体か目にした。それが山間の城の住人なのか、敵の傭兵なのかも判然としなかった。
何かの妖術だろうか。
その考えが浮かんだ時にガブリエルの脳裏をかすめたのは、天守にいた若い侍女だった。従者が殺され、彼が背後から襲われた際に彼女が握った松明から、炎がまるで生き物のように吹き上がったことを覚えている。
甲高い叫びに混じって荒々しい男の声を聞き、ガブリエルの思考は中断された。目指す城門の手前、跳ね橋よりも上方に設えた城壁の一角で、複数の影がもみ合っている。彼は剣を握り直した。
火の粉を散らして頬を僅かに焦がす松明の炎が、やがて前方を照らし出す。武装した男数人が、同じく剣や槍を構えた数人の女性や老人と争いになっている。
裏口から侵入し、城門を守備する副伯夫人たちの挟撃を狙った傭兵を、城門の内側に待機していた侍女や老人たちが阻止しようとしているのだろう。負傷して大地に転がり、呻いているのは城の住人たちばかりだ。再び彼の胸に強烈な怒りが湧いた。
「どけ!」
門番らしき老人に襲いかかろうとしていた傭兵の髪を背後からつかんで引き倒すと、ガブリエルは振り上げた剣を曲者の首筋に叩き込んだ。
すぐさま次の敵の背中へと剣の切っ先を埋め込む。彼が悲鳴を上げたところで、傭兵たちもようやく背後から迫るガブリエルに気づいたようだ。無力な女や老人を背にして、荒くれ男たちが振り返る。
「エクリオン大公を主にいただく騎士ガブリエルだ」
予想していたことだが、戦いに慣れた傭兵たちはガブリエルが名乗り終わる前に、剣を振りかざして迫ってきた。
(そうだ。全員こちらを向け)
僅かに呼吸を乱す体中が、死闘への予感に高揚していく。
彼が騎士でもない傭兵相手にわざわざ名乗りを上げたのは、連中の注意を引くためと、必死で防衛する城の人間たちに救援が来たことを伝えるためである。
「士官様だ」
「公国軍の方か」
城壁からの援護についていた侍女や老人たちは、ガブリエルに見覚えのある者も多かった。彼を指差す人間たちの間に喜色が広がっていく。
もはや傭兵たちは城の住人には見向きもせず、新たに現れた脅威であるガブリエルに一斉に襲い掛かった。ガブリエルは右手の剣と左手の松明で、幾つもの刃を弾きとばす。剛力で押しのけられた傭兵の中には、無様に後方にひっくり返る者もいたが、相手が五人もいては彼もさすがに防戦だけで手一杯だった。
「早く。騎士様をお助けするのよ」
城壁の援護を担っていた侍女が、我に返って声を張り上げた。助けを得た彼らは鬨の声をあげ、武器を握り直して傭兵の背中に迫った。
足首が熱をもって、ずきずきと痛い。捻った足を引きずって歩いている時は夢中だったが、一度座り込んでしまうと疼痛は耐え難く、とてももう一度歩けなかった。
足だけでなく、固い拳で殴られた頬や鼻、口の中も痛い。舌で触れると、左の犬歯がぐらぐらしていた。そこから金錆臭い液体が溢れ出している。ファニーは何度も唾液と共に血を吐き出していた。
顔面を殴打されたことも衝撃だが、何より痛むのは下着も穿いていない脚の間だ。あの時の恐怖を思い出すと涙が止まらなかった。
ファニーを助けてくれたのは彼女を追いかけてきたマイラのようだが、その後に宙から飛来して傭兵を火だるまにした炎は一体何だったのだろう。喉を焼かれてか細い声で悲鳴を上げながら、ファニーを襲った傭兵は絶命した。あの時は夢中だったが、今になって皮膚が焼け焦げる匂いが鼻の奥に蘇り、吐き気がした。
足首を押さえて、苦痛の呻きをこらえるファニーの少し先を足音が駆けていく。
敵だろうか。
身を固くして、建物の壁に体を寄せた。足音が離れていってからそっと様子を窺うと、城門の方角へと走り去っていく人影があった。
エドワードだ。薄暗がりの中で、顔はおろか服装もはっきりしなかったが、ファニーは確信した。
彼を呼びとめようとしたが、結局彼女の想いは宙に溶けて、声になることはなかった。
足を捻ったファニーが一緒にいても、エドワードのためにできることは何もない。彼の脱出を助けることもできないどころか、足手まといになってしまう。子供がいない副伯の跡継ぎは彼しかいないのだ。だからエドワードは、どうしても生き残られなければならない。
ところどころで上がっている炎が照らす影を見送りながら、ファニーはただ涙を流して声をこらえているしかなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
エドワードの話では、谷向こうの伯爵夫人が力になって、一緒に大公の軍を追い返してくれるはずだった。
確かに現在駐留している公国軍は、皆礼儀正しい。だがひとたびこの城を属領としてしまえば、本性を表すに違いない。副伯家が代々守ってきた由緒正しい城が、大公のような新興貴族の野望の道具にされるなんて、ファニーにも耐えられなかった。
ファニーの亡き祖母や伯母は続けて副伯家に侍女として仕えてきたが、彼女自身はあまり城や領主の家柄についての古い時代の知識はなかった。全てエドワードが教えてくれたのだ。辺境地域で最も大きな力を持つ大公よりも、ペイルペルトゥースは古代帝国まで遡る歴史を持つ。
そして大公が狙う野望についても、エドワードの洞察を聞かせてくれた。辺境地域の征服。そのためのペイルペルトゥースの占領と、間道の建設。聞けば聞くほど、それしか考えられなくなった。
レジーナは大公の目的に気づいていないのだろうか。あるいは旧友だというあの司令官に、篭絡されてしまっているのだろうか。かつてのエドワードは、副伯の妻であるレジーナが公国軍の将軍グレンと秘かに通じていて、彼のために便宜を図っていると主張していた。
いくらなんでもそれはありえない。レジーナが領主をどれだけ愛し、領民と領地を大切に思っているかは、彼女に仕えるファニーの方がよく知っている。
しかし聡明なレジーナも圧倒的な数の軍を抱える狡猾なグレンに、巧みに言いくるめられているのかもしれない。この領地にだけは手を出さない、副伯領の独立だけは保証する。そんなことを告げられて。領地を大切に思うが故に、彼女は辺境地域の平穏を崩す手伝いに手を染めているのかもしれないのだ。
それなら目を覚まさせなければならない。この領地だけの平和のために、大公の野望に加担することは、副伯も望んでいないはずだ。
だからファニーは最初に廃墟の前で出会った時から、ずっとエドワードに協力していた。城で起こった事件や、公国軍の動きを仔細に彼に伝えていた。彼だって本来なら副伯の従弟であり、城に住んでいてもおかしくない身分なのだ。何を隠すことがあるだろう。
エドワードにより、伯爵夫人の助力を確実に取り付けることができれば、同じ立場の味方ができたレジーナも目を覚ますかもしれない。そして大公の軍を追い出し、副伯の妻であるレジーナと従弟であるエドワードが和解して協力しあえば、副伯が戻るまで領地は守りきれるに違いない。それがファニーにとっての希望だった。
なのに今夜、村を襲撃してきたのは伯爵夫人の軍──傭兵だという。その知らせを聞いたファニーは愕然とした。純朴な彼女は、エドワードまでもが領地を裏切った可能性はつゆとも考えず、ただ伯爵夫人の裏切りに心を痛めているだろう彼を案じるだけだった。
ぽろぽろと涙を零しながら、既に青年が消え去った方角を眺めていたファニーの耳に、鈍い呻きと何かが倒れる音が聞こえた。
彼女はさらに壁に身を寄せて、音がした裏庭の方角を振り返る。
火の手がないこの辺りは、星明りしか届かない薄暗がりになっていた。そこで動き回る影がある。大地に横たわる何かを抱えようとしているのは、二人の男のようだった。小姓ではない。
傭兵だ。
すぐ裏手に賊がいることに気づき、ファニーは硬直した。それでもレジーナから叩き込まれた通り、左の腰を探る。幸い短剣はまだそこにあった。
「本気かよ」
ひそめた彼らの声まで聞こえる。ファニーの心臓はさらに激しく打ち始めた。物音を立てて、気づかれたら終わりだ。この足では逃げることもできない。今度こそ陵辱し尽くされて、殺されるかもしれない。
運良く傭兵たちはファニーに気づく様子はなく、囁き声で話し続けている。
「本気だ。おめえも手伝えよ。こんな綺麗な女、滅多にお目にかかれねえよ。貴族にだって売れるぜ」
「でも、抱えてあの道を下れるか?」
「軽いから大丈夫だって。はした金もらうより、こいつ一人の方がいい儲けになる」
もう一人が釈然としないながらも、同意した気配が伝わってきた。
(まさか……)
マイラだ。彼らが攫おうとしている女とは、牢から戻ってこないマイラに違いない。エドワードを逃がした後、傭兵に捕まってしまったのだろうか。
どうしよう。
焦りで頭が熱くなった。
マイラを助けなければ。さっきは彼女がファニーを助けてくれたのだ。
しかし相手は二人。捻挫をしている上に、短剣一本しか持っていない無力なファニーが、屈強な傭兵二人相手に何ができるだろう。
「見つからないうちにさっさと出るぞ」
「ああ……」
どうやら傭兵たちは仕事を放り出して、戦利品であるマイラ──他にも何か盗み出しているかもしれない──を抱え、この場を逃げる気らしい。
ファニーにできることは一つしかない。助けを呼びに行くのだ。
彼女は足音を立てないようにじりじりと後ずさると、周囲に注意しながらそっと立ち上がった。もう男たちの声すら聞こえてこない距離だ。
捻った足を引きずって城館へ歩き出す。足を動かすたびに襲ってくる激痛に、歯を食いしばって耐えた。
エドワードか、レジーナか、城館に残っているはずの執事のジョージでもいい。とにかくマイラの危機を誰かに知らせなければならない。それまでファニーも生き延びるのだ。
剣の一撃が左腿を浅く裂いた。服が裂けて、痛みが走る。だがレジーナが振った剣の切っ先も傭兵隊長の肩をかすった。突き刺さったままの太矢を刃が削り、彼は小さく声を上げた。
間合いをとって、互いに剣を構え直す。さすがにレジーナも肩で息をしていた。
もうどれくらい傭兵隊長と斬り合っているだろう。徐々に体力を消費するに従って、互いの刃がかすり傷を与えるようになったが、致命傷には至っていない。
しかしやがて勝負はつくだろう。体力、そして集中力が尽きた方が負けだ。
白兵戦に突入した時には、明らかに傭兵たちの方が疲弊していた。入り組んだ路地を走り回り、住民から射撃を浴びせられた後では、消耗も激しかっただろう。レジーナや侍女たちによって、既に彼らの半数以上が大地に突っ伏している。
だが生き残っている男たちは、いずれも歴戦の傭兵のようだ。戦いが長引き、ほぼ初めてといい実戦に臨んでいる侍女たちの集中力が切れ始めている。幸いにもまだ、大きな怪我をした者はいないが、一人でも重傷者──あるいは死者が出れば、彼女たちの士気は大きく挫けてしまう。
その前に、相手の頭目を叩いておかなければならない。
焦る自分自身を諌め、レジーナは相手の動きに目を凝らしながら呼吸を整えた。
考えることは敵も同じだ。レジーナの存在が侍女たちを奮い立たせていることは、傭兵たちも承知している。当然、彼らはレジーナを狙ってきた。そこはアリシアたちが援護に入り、女主人を傭兵たちの集中攻撃から守っていた。
傭兵隊長が下がった隙に、別の傭兵が戦棍を振りかざして踏み込んできた。
レジーナが構え直すより早く、左手からアリシアが踏み出す。
振り下ろされる重い鈍器を避け、それを握る男の右手に彼女は素早く刃を叩きつけた。傭兵は声を上げたものの、大きく体勢を崩すことはしなかったが、アリシアは踏み込むと見せかけて足払いをかけた。彼女の陽動にかかった男は前のめりになる。アリシアの剣が、その肩口を斬り払った。
傭兵を蹴りつけて石畳に沈め、剣を構え直したアリシアも大きく肩を上下させている。荒い呼吸の音がレジーナの耳にも聞こえた。疲労で動きが鈍りつつある他の侍女たちの分まで動こうとしているようだが、とりわけ体力がある彼女でもそろそろ消耗してきているようだった。
城門の内側からは、相変わらず黒い煙がたなびいていた。先ほど目撃した火柱が何だったのかは分からないが、城門からはまだ女や子供たちの甲高い声が聞こえてくる。侍女たちも、城内の様子が気になって仕方ないのだろう。浮き足立てばそれだけ注意力は散漫になる。
長靴の内側、左の脛が生温かく濡れていく。先ほど負った腿の傷から出血しているのだ。
倒れたら終わりだ。レジーナは唇を噛んで剣を構え直した。
自分が倒れれば、侍女たちももたない。ここを突破されれば、城は丸腰も同然だ。
侍女たちと襲撃者たちは、互いに態勢を立て直しながら睨み合った。それはひどく奇妙な時間だった。
あっという声が空に響き渡った。驚愕の叫びは、侍女たちが発したものでも、傭兵が発したものでもなかった。彼らは声の主を探して、目の前の集団から警戒を解かずに視線を巡らせた。
「奥方様ぁ」
上方から男の声が聞こえた。
レジーナを呼ぶ領民の声だ。
目線を上げたレジーナは、傭兵たちの向こうに見える建物の一角に、開いている窓を見つけた。二、三人の人影が窓に身を寄せているのが分かる。助けを求めているのかと思ったが、そうではなかった。彼らは城の方角を指差している。 レジーナは首を動かさず、一瞬だけ視線を彼らが差す方向に視線を投げた。城門とその奥に聳える城館の影が目に入っただけであった。
「レジーナ様……!」
レジーナの後ろに控えていた侍女の一人が、甲高く鋭い声を上げた。二、三人の娘の驚愕の声が後を追う。
「どうしたの」
油断なく傭兵たちに目を据えながら、レジーナは低く尋ねた。
「お城が……お城に敵の軍旗が……」
何を告げられても動揺するまいと思っていた。だがレジーナはついに首を動かして、城の方角を振り向いた。
黒々と映る頑強な城。最上階には旗を掲げる台座のような慎ましい天守が微かに見える。その傍らに灯る明かりが照らすのは、緩い風になびく青い旗だった。ペイルペルトゥースの赤地に輝く白い星ではない。
城館を囲む中庭からは、虚しい狼煙のように幾筋かの細い煙がまだ夜空へと上がっていた。
城が陥ちた。
まさか。
しばらく前から援護が止んでいる、城壁からの射撃隊はどうなったのだろうか。
城館の守りと管理を頼んだジョージは。天守に待機させたシェリルは。そしてモニカと、彼女が守る小さな子供たちは。
侍女の一人が、がくりと膝を崩した。傭兵の戦棍で足を打たれて後退していた娘だった。
「しっかりして。まだ負けと決まったわけじゃないわ」
彼女を叱咤するように、腹から声を張り上げるレジーナの隙を熟練の傭兵たちは逃さなかった。
駆け込んできた傭兵に気づいたのは、城よりも女主人の様子に気を配っていたアリシアの方が早かった。前に踏み出したアリシアが、振り下ろされた傭兵の剣を受け止める。我に返ったレジーナも、続いて襲ってきた男に向き直った。大柄な傭兵隊長であった。
一撃目を剣で受け流す。彼の二度目の打撃を受け止めた刹那、レジーナが握る剣ががぎっと嫌な音を立てた。刃先が不吉に軽くなる。傭兵隊長の斬撃をはじめ、何度も重い金属を受け止めたレジーナの細身の剣は、半ばから折れてしまった。弾け飛んだ刃が石畳に虚しく落下した。
武器を失ったレジーナに傭兵隊長は容赦なく打ちかかった。後ろに下がってよけるしかない。
「レジーナ様!」
勇敢な侍女たちは女主人を何とか助けようとしたが、彼女たちと傭兵隊長の間には同じく主を守ろうとする男たちが立ちふさがった。
障害となる傭兵をいち早く倒したのは、やはりアリシアであった。既に彼女の体にも疲労が溜まりつつあったが、気力と極度の集中が体の動きを支えていた。
アリシアと切り結んでいた傭兵も腕に矢傷を負っていた。傷を負った左腕を狙うと見せかけて、傭兵の利き手である右腕に鋭い突きを放つ。動きが遅れた男はそれをまともに受けて剣を取り落とした。間髪いれず、アリシアは傭兵の首筋に剣を叩き込んだ。悲鳴と共に血が跳ねる。
返り血を浴びた彼女はすぐさま、武器を失ったレジーナに切りかかる傭兵隊長に体を向けた。
敏捷なアリシアは瞬く間に間合いを詰め、傭兵隊長の脇腹に突きを放った。横手からの攻撃に彼が気づいた時には遅かった。
しかし細身の刃は革の鎧を貫いたものの、鍛えられた頑丈な筋肉に阻まれて内臓まで到達しなかった。
「くっ」
アリシアは小さな声を漏らして剣を引き抜き、一歩下がる。傭兵隊長は剣を失ったレジーナから、自分に怪我を負わせた若い侍女へと向き直った。
「この……」
傭兵隊長は唸りながらアリシアを睨み下ろした。彼の気を引き、レジーナから狙いを逸らすことには成功したが、長剣を下げた巨体の男に憎しみをこめて見下ろされ、さすがにアリシアも一瞬だけ体がすくんだ。
傭兵隊長が剣を振り上げた。後ろに下がりながらアリシアはそれを剣で受け流す。勢いは殺したはずだが、右腕に強烈な衝撃と痺れがはしった。こんな打撃を受け続けていれば、確かにレジーナのように細身の剣は折れてしまうだろう。
「アリシア」
レジーナは慌てて彼女の援護に入ろうとした。アリシアの剣の腕は侍女の中でも群を抜いているが、相手が悪すぎる。それに彼女も相当消耗しているはずだ。
しかし折れた剣しか持たないレジーナの前に、別の傭兵が立ちふさがった。彼らも満身創痍に近い状態だが、城に翻る伯爵家の旗を目にしたためか、士気が上がっているようだ。四肢に切り傷を負わせても立ち上がってくる。逆に侍女たちの士気は大きく落ちていた。
折れた剣では話にならない。
レジーナは思い切って数歩下がると、大型の鉾槍を預けていた侍女からもぎ取るようにそれを受け取った。重い武器を振り回す体力は少ないが、腰に下げた短剣程度でどうにかなる男たちではない。
腰を落としたレジーナは鉾槍の鋭い穂先を素早く突き出し、向かってくる傭兵の胸を貫いた。
息が切れる。大股に動くと左腿からどっと血が溢れて服を濡らすのが感じられた。やはり長時間振るい続けるには重すぎる武器だ。
(さっさとケリをつけないと)
狙いは一人。傭兵隊長だ。あとの手負いの傭兵たちは、侍女たちでも相手にできる。それぞれ熟練の兵のようだが、消耗しているのは彼らも同じだ。そして半数以上を倒した今、数の上ではこちらの方が多い。
頭目を叩けば一気に状況を巻き返せるはずだ。
レジーナは近づいてきた傭兵の足元を大きく払って転倒させると、彼には構わずアリシアと切り結ぶ傭兵隊長の背中に迫った。
だが相手もレジーナに気づいたのか、大きく剣を振ってアリシアを牽制すると、巨体に似合わない動きでレジーナに向き直る。
その頭を狙って彼女は再度鉾槍を振り下ろしたが、並みの武器と力では到底受けきれない強烈な一撃を傭兵隊長は肉厚の剣でしっかりと受け止めた。巧みに勢いを逸らされて、レジーナの体もぐらつく。すかさず傭兵隊長は剣を振り下ろしてくるが、彼女は柄の部分でその一撃を受けた。
再びレジーナと戦い始めた傭兵隊長は、アリシアに背中を向けていた。
好機だ。
彼女は体勢を立て直し、剣を構えて傭兵隊長の背中を狙った。
多対一、しかも背後から襲うなど、亡き父が喜ぶような戦い方ではないが、勝てなければ意味がないのだ。
そしてその瞬間、アリシアもまた傭兵隊長しか目に入っていなかった。
横手から切りかかってきた傭兵に気づいた時には遅かった。
咄嗟に右に引いたが、体を庇った左腕を切りつけられる。厚手の服が裂け、肌が裂けてあっという間に鮮血が溢れた。
アリシアは傭兵に向き直り、剣を突き出そうとしたが、左腕を襲う激痛のため反応が遅れた。突如傭兵にかけられた足払いをかわせず、前のめりになる。
転んだら終わりだ。
彼女は右手を石畳について転倒を防いだ。だが立ち上がるより早く手を蹴りつけられる。剣がアリシアの手を離れて宙を舞った。
傭兵は腕を伸ばしてアリシアの右腕をつかむと、凄まじい力で彼女を引き寄せた。
「うっ」
顔面で強烈な痛みと衝撃が弾けた。剣の柄を握る拳で殴られたのだ。
殺される。
アリシアの全身を恐怖と恐慌が駆け巡った。
しかしとどめの一撃が加えられることはなく、彼女の体は強引に反転させられた。背後から首に傭兵の腕が巻きつく。
「おい、奥方! 降参しろ。侍女が死んでもいいのか」
アリシアの耳元で低い罵声が響いた。
傭兵隊長もレジーナも動きを止めた。やがて切り結んでいた侍女と傭兵たちの動きも緩む。
彼らは傭兵の一人に、剣を取り落とした無力な侍女が羽交い締めにされているのを見た。何人かの娘は息を呑み、男たちは侍女を斬り殺すことなく生け捕りにした仲間に感嘆の声を上げた。
レジーナは武器から手を離さないまま、強張った顔で捕らえられたアリシアを見つめた。その様子を目にした傭兵隊長は顎をしゃくって配下たちに告げた。
「おい、下がれ」
すぐにでも領主夫人が降伏し、彼女に従う侍女たちを手に入れられると思っていた傭兵たちは不服そうだったが、それでも隊長の命に従って剣を引き、侍女たちから距離を取った。それを追う者はいなかった。レジーナも、じりじりと離れていく傭兵隊長と捕えられた侍女に交互に目をやりながら、手出しはできずにいた。
若い傭兵は首を締めるようにしてアリシアを捕え、その喉元に短剣を突きつけている。近くにいる傭兵が持つ松明が彼女の姿を照らした。一つに編んだ長い髪は乱れ、切り傷を負ったのか左腕が赤黒く濡れている。鼻と唇からも出血があり、顔面も血まみれだ。
「アリシア……」
レジーナの背後で、侍女の一人がか細い声を上げた。レジーナと並んで、後方に下がらずに常に前で戦ってきたアリシアは傷だらけだった。
「降伏しろ。さもなきゃ女を殺すぞ」
彼女を捕えた傭兵の隣に並んだ隊長は、抑えた声で言った。
「城を見ただろ。俺たちの別働隊がもう取った。ここでお前らが抵抗したところで無駄だ」
レジーナはもう一度首を向けて、堀の向こうにある城壁に囲まれた城を見た。天守に翻るのは、青地に何かの縫い取りをしてある旗だ。城壁の内側からは、相変わらず甲高い声が聞こえてくるが、誰かが出てくる気配はない。各々の役目があるため配置を離れないようにと告げていたためだ。そう信じたかった。
「無駄じゃないわ。あんたたちを殺せば状況は変わる」
「じゃあ、続けるか? だがこの女は確実に死ぬぜ」
向き直って言い放ったレジーナに、傭兵隊長は冷たく返した。
レジーナはアリシアを見つめた。夜の闇のせいで彼女の表情は見えづらいが、意識はあるようだ。時々、傭兵の腕の中で身じろぎするのが分かる。先の守備隊長を父に持つアリシアは、侍女の中でも特に真面目に鍛錬を積んできた娘だった。実戦の経験は無いとはいえ、一番多くレジーナの対戦稽古の相手を務め、何度かは領主夫人を負かしたことがある腕利きだ。
今夜だって、何度アリシアに助けられただろう。彼女が傍らにいなければ、とうにレジーナは大地に倒れ伏していたに違いない。
レジーナはそっと唇を噛んだ。迷う彼女を揺さぶるように、再び傭兵隊長が声を張り上げる。
「もう一度だけ言うぞ。武器を捨てて降参しろ。そうしたら手出しはしねえよ」
侍女たちにさらなる動揺が広がる前に、レジーナも冷静な声で答えた。
「嘘つくんじゃないわよ」
「嘘なもんか。俺たちだってこのザマだ。おめえらがおとなしくしてるってんなら、城だけいただいて後は放っておくさ」
屈強な傭兵隊長は両腕を軽く広げてみせた。レジーナと対峙した時に発散していた殺気は、もはや殆ど感じられない。厳つい顔には薄く笑みすら浮かべていた。
本当だろうか。
疑わしいのは無論だが、彼が言う通りこれ以上戦いを続けるなら、お互いに消耗戦になる上に捕らわれたアリシアは確実に殺される。
屈辱を飲み込んで今降伏すれば、アリシアを含めた侍女たちの命は助かるのだ。大公が差し向けてきた軍に対処した時のように、被害が大きくならないうちに引き際を見極めた方が賢いのかもしれない。
降伏すれば手出しはしないという彼の言を信じるしかない。
こんな時だというのに、昨年の春に小食堂でグレンと対面した時のことを思い出した。
(──いや)
あの時とは違う。
相手は君主の後ろ盾を持つ軍ではない。その仕事ごとに雇われる傭兵だ。彼らの主な稼ぎは雇い主から払われる賃金よりも、略奪によって得る戦利品である。目の前にそれに値する女たちがいて、城の中にもささやかとはいえ宝物や食べ物が眠っている。それを横目にしながらおとなしくしているような輩だろうか。
それに二千の武装した無傷の軍を相手にするわけではない。士気は侍女たちの方が落ちているが、半数以上が屍となっている相手の方が疲弊しているのは間違いない。城内の様子は分からないが、この場は勝てない戦いではないはずだ。
あの禿頭の若い傭兵隊長が信頼に値するかどうか。見れば分かるではないか。理性や誠意、知性──狡猾さと呼ぶものさえ見受けられない。彼らにここまでの被害を与えたレジーナたちをそのままにしておくわけはないだろう。
彼を信じて降伏した後に、傭兵たちが態度を翻して戦意を失った無抵抗の侍女たちを陵辱し、城内や村を略奪した時に彼らを卑劣と謗ったところで、彼らには痛くも痒くもない。負け犬の遠吠えだ。レジーナも侍女たちも領民たちも、ただ奪われ、殺されていくだけである。
残酷な決断を下すことを恐れて、敵の甘言を受け入れることは許されない。それを信頼などと呼んで、自分自身に清らかで賢明な言い訳とすることもあってはならない。
──また侍女を見捨てるのか。
特に自分を慕っていた若い娘を犠牲にして、領地と我が身だけを生き長らえさせるのか。
地の底から冷たく虚ろな声が響いてくる気がする。いや、レジーナの心の奥から響いているのだ。
良心が緩く伸ばしてくる綱を、目を閉じて断ち切った。手段を選ばない飢えた獣たちに勝つにはこちらも獣になるしかない。
聖職者であれば、一人の人間の為に他の何百という人間の命を危険に晒すことも、良心に背かないために自ら死を選ぶことすら許されるだろう。彼らは信仰と信念のために生きている。
だが為政者が同じことはできない。人の命という量りようのないものを冷徹に天秤にかけなくてはならないこともある。かつてのレジーナたちも、そうやって生き延びてきた。
(ごめん、アリシア――)
答えは最初から出ていた。巨大な葛藤を抱えた思考は、時間にすれば数瞬であった。瞼を開けたレジーナは、何かから逃れるように視線を夜空に向けた。その一瞬、漆黒の天幕に散らばる星のひとつが、すっと夜空を滑り落ちた。
かつて冒険者だった頃、同じ宿に泊まり合わせた流浪の占い師から、星が流れる時に人が死ぬと聞いたことがあった。それを聞いていた傭兵仲間の一人が、否、流れ星は願いが叶う予兆だと異論を述べた。
彼は盗賊団との戦いで死んだ。
「その子を殺すなら殺せばいいわ」
レジーナの低い声は冷たく響いた。傭兵たちの間に小さな動揺が広がるより早く、口調を変えずに彼女は続けた。
「私の侍女に、村や城を犠牲にしてまで生き延びたいと思うような腰抜けはいない。金の為に戦ってるあんたたちとは違う」
一瞬だけ虚を突かれた表情になった傭兵隊長は、すぐに冷笑を浮かべた。
「いい度胸だ」
「その代わり」応じるレジーナの声も一層冷ややかになる。「彼女を殺したら、あんたたち誰一人として生きてこの村から出さないわ。楽に死ねないと思いなさい」
「脅してるつもりか?」
「脅してるのよ。今、彼女を離して逃げるなら、見逃してやるわ」
焦りや怒り、不安を全て封じ込めて、レジーナは見事に落ち着き払った声で告げた。傭兵隊長は下品に唾を吐いて答えた。
「バカか。俺たちが何十人いると思ってるんだよ。城の天辺に伯爵の旗を揚げたのも俺たちの仲間だ。城の入り口で弩を撃ってきた奴らを始末に向かわせた隊もある。全員集めれば、てめえらなんざ一網打尽だぜ」
「あんたが城の中や市壁に散らばせたネズミなんか、他の召使いや領民が始末するわ。この場にいない仲間を脅しに使おうったって無駄よ」
嘲笑を張りつけていた隊長が渋面になった。
このまま問答を続けて相手の動揺を誘い、時間を稼げないか。レジーナは密かにその好機に賭けた。時間が経てば、もしかしたらグレンたちが反転してくるかもしれない。
しかしもし城内が、裏口から侵入した敵によって危機に陥っているのなら、いつまでもこうしているわけにもいかないのだ。
副伯夫人と傭兵隊長が睨み合っている時、隊長の斜め後ろに立ち、アリシアを捕えていた若い傭兵が、いきなり短剣を侍女の右腕に突き刺した。
突然の激痛にアリシアは甲高い声を上げる。レジーナも目を見張った。
「何するの!」
声を荒げる副伯夫人に対して、傭兵は冷然と言った。
「奥方の減らず口がいつまで続くか試してんだ。この女の手足がバラバラになっても、威勢よく吠えてられるか?」
彼の側にいた傭兵たちは、武器を握った拳を突き上げて声を上げた。
「いいぞ」
「腕ぐらい無くたって、やることはやれるぜ。叩き落しちまえ」
「もう、やめて!」
「アリシア……」
下品な男たちの声に、涙混じりの侍女たちの声が重なった。
これ以上、引き延ばせない。動揺が深まれば侍女たちも動けなくなる。
(アリシア──)
彼女に祈りながら瞬きした拍子に、瞼の裏に亡くなったイブの面影が蘇った。レジーナの決断を咎めようとしているのか。それも一瞬のことだった。
レジーナは両手で握った鉾槍に力を込めた。
その瞬間、夜の空気を横切った物に気づいた人間はいなかった。
短い男の声が上がり、アリシアと彼女を捕えていた傭兵が二人とも背中から倒れた。若い傭兵の左目からは、頑丈な太矢の矢尻が生えている。びくびくと体を痙攣させる傭兵の眼球に突き刺さった太矢は、脳にまで到達していた。
誰も、傭兵たちすら、何が起こったのか分からなかった。
その場で真っ先に我に返ったのは、倒れたアリシアだった。刺し傷を負った右手をついて転がるように立ち上がり、レジーナたちの元に逃れようとする。気づいた傭兵隊長は、彼女の背中に向かって剣を振り上げながら踏み出した。
一瞬遅れて彼を迎え撃とうとしたレジーナを押しのけ、素早く前に飛び出した人影がアリシアの腕を引き、自分と体勢を入れ替えた。彼女を庇うように傭兵隊長の剣を受け止めたのは、鎧もつけていない小柄な男だ。
見覚えのある姿に気づいたレジーナは吃驚する。義理の従弟であるエドワードだった。
何もかもが信じられない。
牢にいるはず、あるいはマイラに連れられて脱出しているはずのエドワードが、何故ここに。白兵戦用に武装したこの場の侍女たちは、装填に手間のかかる弩を持っていないはずだ。先ほど、アリシアを捕えていた傭兵を一撃で葬ったのは、彼の狙撃だったのだろうか。
「なんだ、小僧」
大柄な傭兵隊長が高い位置から振り下ろしてくる強烈な打撃を、エドワードは長剣を使って冷静な剣さばきで受け流していた。業を煮やした傭兵隊長は、小柄な彼を蹴り飛ばすように低い足払いを放ったが、直前に動きを読んだエドワードは素早く後ろに跳びすさってかわした。
「夫人を城内へお連れしろ」
敵と間合いを取ったエドワードは、半分だけ侍女たちを振り向いて言った。
「左足に怪我をされている。この場は私が代わってお預かりする」
その言葉を聞いて、侍女たちもこの青年が誰であるか思い出した。レジーナの側にいた侍女たちは、ようやく女主人の左の膝下が赤黒く染まっていることに気づき、小さな声を上げた。
「城内は?」
訊きたいことは多かったが、レジーナは最も気になることをエドワードの背中に短く尋ねた。
「まだ侍女たちと侵入者が戦っております」
答えの途中で、傭兵隊長と数人の傭兵たちがエドワードに襲いかかった。傷の浅い侍女たちが前に踏み出し、彼の援護に入った。エドワードが領主の従弟であることよりも、彼がアリシアを救ったことが、戸惑いを吹き飛ばして彼女たちを突き動かした。
重傷のアリシアを左右から二人の侍女が支えて、跳ね橋へと撤退する。
「レジーナ様も、お早く」
若い侍女二人が、同じようにレジーナの腕を両側からとった。
「私は平気よ。まだ下がれない」
「ですが、お怪我が……」
忠実な侍女はさらに食い下がろうとした。その時、前方で呻きが聞こえ、エドワードの体が石畳に転がるのが見えた。彼は素早く立ち上がり、後ろに下がって間合いを取ったが、肩が大きく上下していた。
剣の技術だけならエドワードの方が傭兵隊長よりも優れているが、威力が衰えぬ怪力での打撃は、それを受ける小柄なエドワードの体力を確実に削っていた。隙をついて繰り出される蹴りや肘打ちなどの体術では、逆に歴戦の傭兵隊長は若者を圧倒している。かわしそこなったエドワードは、強烈な蹴りを食らってしまった。
「エドワード様」
鉾槍を手に、侍女を振り切ってレジーナは前に出ようとした。
「お下がりください、奥方様。私よりも、城内の守備を」
振り向きもせず、エドワードの声だけが響いた。
一方、エドワードを蹴りつけた際に、咄嗟に彼に右足を刃先で抉られた傭兵隊長は、怒りに燃える目で青年をねめつけた。
「クソガキ……てめえ、領主のガキか」
「私が誰かなど、どうでもいい」
抑えた声で素っ気なく答え、エドワードは剣を構え直した。蹴りを受けた左腕と肩が重く痛んだ。関節がおかしくなっているのかもしれないが、直している時間などない。
「何が城内の守備だ、あほたれども。もう一回目ぇ開けてよく見ろ。城にかかってんのは俺たちの旗だ。てめえらはもう負けたんだよ!」
それを聞くまで、エドワードは天守の旗が替えられたことに気づかなかった。先ほどのレジーナと同様に、思わず振り返って城館を仰いだ彼は息を呑んだ。何度も何度も、複雑な思いを込めて村の外から眺めた、父の故郷である古城。そこにペイルペルトゥースの白い星以外の旗が翻る光景を目にしたのは初めてのことだった。
「うるさい!」
黙り込むエドワードと侍女たちの鼓膜をレジーナの怒声が打った。
彼女は傍らの侍女の手を払って、被っていた面貌のない兜を取り払った。がらんと音を立てて、兜が石畳に転がる。ひとつに編んだ蜂蜜色の髪は激戦に乱れ、緩い風が彼女の前髪とおくれ毛を靡かせていた。
レジーナは数歩先にいるエドワードの、さらに向こうに立ち塞がる傭兵隊長をまっすぐに睨む。自らの首筋に掌を押し当てて彼女は言い放った。
「今の城主は私よ。天守にあんな汚い旗何本立てたって、私の首を取らなければ城が陥ちたことにはならない」
レジーナの低い声が響き渡った瞬間、城の方角がぱっと明るくなった。その場の全員が城館に目を向ける。夜風に靡いていた、百合を縫い取った青地の伯爵家の旗が火の粉を上げて燃え上がっていた。
何の奇跡だ。
誰もが唖然とした。
最も早く我に返ったのはレジーナだった。
鉾槍を逆手に握って一歩下がると、勢いをつけて走り出す。それに気づいた傭兵隊長は、エドワードを速やかに始末してレジーナの相手をしようと踏み出した。
次の副伯夫人の行動を予測できた者はいなかった。
彼女は走りながら、逆手のまま振り上げた鉾槍を数歩先の石畳に叩きつけた。同時に地面を蹴る。小型の斧が取りつけられた重い先端を軸にして、長い柄に体重を乗せたレジーナの体は弧を描いて宙を舞った。
反射神経に優れたエドワードも、唖然と彼女を見上げるばかりであった。その頭上を越え、間合いの遥か先から中空を飛ぶように降ってきた彼女に対し、傭兵隊長の反応も遅れた。振りかざした重い剣は間に合わず、顔面をレジーナの靴底で強かに蹴りつけられて、彼の巨体もどうと倒れた。後頭部を打って視界が明滅したが、どうにか傭兵隊長は立ち上がろうとした。だが背後から信じられぬ力で顎を掴まれる。強引に仰け反らされた彼の喉に鋼鉄の刃が無慈悲に潜り込んだ。
短剣で傭兵隊長の喉を引き裂いたレジーナは、左腿の痛みをこらえて素早く立ち上がった。瞬間、右の足首にも激痛が走る。傭兵隊長を蹴りつけながら着地した時に捻ったのかもしれない。
よろめく彼女に、近くにいた傭兵が襲いかかろうとした。
レジーナが短剣を構え直すより早く、追い縋ったエドワードが進み出て傭兵の剣を払い、返す刀で腹を薙いだ。
「なんて無謀なことを」
溜め息と共に、エドワードは傭兵たちを睨んだまま言った。彼の背後で体勢を立て直しながら、レジーナも礼も忘れて無愛想に返した。
「無謀なことでもしなきゃ、あんな化け物に勝てないわよ」
まだ首から血を吹き上げる倒れた傭兵隊長を指差し、動揺する傭兵たちに向かってレジーナは腹の底から声を張り上げた。
「あんたたちの親玉は死んだわよ。まだ戦う気?」
「レジーナ様!」
彼女に応えるように、聞き慣れた頼もしい声が傭兵たちの向こうから聞こえた。
城下の様子を見回らせていたアルフレッドである。彼の背後にはジョセフが率いる弩隊の少年たちが顔を揃え、装填した弩で傭兵たちに狙いを定めている。
その傍らに剣と革の鎧で武装した男たち数人の姿が見えた。一瞬、傭兵たちの仲間かと思ったが、それならアルフレッドたちと共にいるわけがない。
「ご安心ください。城下の賊は一掃しました」
自らも返り血を浴び、抜き身を手にした老役人は落ち着いた口調で傭兵たちに向かって続けた。
「卑劣な盗賊どもめ、武器を捨てて降伏するがいい」
先ほどよりももっと大きな動揺が彼らの顔に表れていた。傭兵たちの殺気が萎むのが目に見えるようだ。
その時、今度は城の跳ね橋の方から歓声とも怒号ともつかない声が上がった。落されたままの跳ね橋を渡って、剣や槍、弩を手にした者たちが近づいてくる。その先頭にいる武装した若い男の姿を認めて、レジーナは再び瞠目した。公国軍の士官、ガブリエルである。
「ガブリエル様!」
「よくご無事で」
反対側のジョセフたちと共にいた武装兵たちが、あたりに響き渡る大声を上げた。レジーナも彼らが大公の兵たちであることに気づいた。いつの間に、どこからか知らないが、公国軍の兵がペイルペルトゥースを救いに戻ってきていたのだ。
「奥方様」
「レジーナ様」
「城は無事です!」
跳ね橋を渡ってくる侍女たちの声が、歩み寄ってくるガブリエルの後ろから聞こえた。
黒々と聳える城が背景にする空は気がつかないうちに白んでおり、山並みの向こうに朝焼けが薄く滲んでいた。曙光の先触れに散らされゆく星々のひとつが、音もなく流れるのをレジーナは見た。
作者ブログ『椰子の実ライブラリ』
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