ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
警告   この作品は<R-18>です。 18歳未満の方は移動してください。
大チャンバラの数日後です。
第二章 10.落日によせて
 他に思い当たる場所はここしかない。ロデリックはいつも通りノックもせず、書斎の扉を開けた。
 果たして彼の上官は、樫でできた重厚な机に納まり、この古城の城主が収集した本を読んでいた。
 やっと見つけた。
 ロデリックは大きく息を吐いた。特に急いでいたわけではないが、最近は午後も訓練場で体を鍛えていることが多いグレンの姿を探して、兵舎中を歩き回ってきたのだ。
 最近の彼は、城内や訓練場で士官に呼び止められることが多い。その都度、「今度こそ頑張れよ」「俺の為……いや、君の為だ、健闘を祈るよ」「慌てなくていい、あと五年待て」などと、意味不明のことを言われる。ロデリックが尋ね返しても、彼らは意味深に笑うばかりだった。無論彼は、彼の恋人について、士官同士が賭けをしていることなど、知る由もない。
 おかげでグレンを探すのにも時間がかかった。今日は久しぶりに、午後は読書を楽しんでいらっしゃったらしい。
「なんだ」
 城主の為の椅子に背中を預け、古書を読んでいたグレンは、大儀そうに顔を上げた。
「いえ……大した用事でも無いのですが……」
 ロデリックは口ごもった。
 副伯夫人が旅から戻ってきてから──正確に言えば、兵士に陵辱された侍女を寝室に呼びつけた翌日から、グレンは以前のように再び気に入った侍女を就寝前に呼び、夜伽をさせていた。
 侍女に声を掛けるのは、副伯夫人や侍女頭ではなく、ロデリックの役目であった。仕事だから仕方ないが、やはり愉快ではない。
 ここ数日、ロデリックはグレンや兵士たち共に、兵舎で昼食を取ることにしていた。その際、グレンがどの侍女を呼び出すか、ロデリックに告げる。彼は夕方、サラを伴って、指名された侍女の元を訪れた。
 グレンが選ぶのは、今のところ若い未婚の侍女ばかりだ。無論、共寝を命じられた彼女たちは、悲しみと屈辱に満ちた目でロデリックを睨む。彼は常に無表情を保ったが、可憐な娘たちが、グレンのような男の遊びに使われていると思うと、さすがに少々哀れだとは思った。
 しかしロデリックの危惧は別のところにあった。
 副伯夫人であるレジーナは、今も侍女が毎晩呼び出されていることを知らないように見える。彼女は、あのイブという侍女が殺され、グレンが重傷を負ってから、彼が侍女を寝室に呼び出すことを、まだ控えていると考えているようだ。グレンも彼女がそう考えていることは感じているだろうが、当然、敢えて否定はしていない。
 再び侍女が呼び出されていることなど、夫人は知らなければ知らない方がいいのだろうが、いつか耳に入った時のレジーナの反応を考えると、ロデリックは一抹の不安を覚えていた。  
 夫人は、イブを殺した負い目の為に、グレンが侍女を呼びつけることを止めていると思っているかもしれないが、生憎、ロデリックの上官はそんな殊勝な男ではない。哀れな侍女のことなど、彼の脳裏からはほぼ消え去っているに違いない。そんな繊細な神経をしていては、大公国の将軍など務まらない。
 今日は午前中の仕事が忙しく、ロデリックはグレンと共に昼食を取ることができなかった。仕方なく自らグレンを探して回っていたのだが、「今夜はどの侍女にしますか」などと尋ねるためかと思うと、我が身が情けなくなった。売春宿の元締めでみたいではないか。
 ロデリックが渋い顔で黙っていると、グレンが先に口を開いた。
「そういや、あの小賢しいガキは見つかったか?」
「エドワード様ですか? いいえ、今のところ報告は入っていません」
 副伯夫人が、従兄弟を名乗る少年と、大立ち回りを演じてから三日経つ。あれ以来、エドワードを見かけたという話は入ってきていない。役人から聞いた話では、彼に続いて城下に押しかけた放牧地の領民も、ほとんどはおとなしく自分の家に戻り、元通り慎ましく暮らしているらしい。ほとんどは、エドワードに巧みに扇動されただけの、退屈していた愚かな田舎の若者なのだ。
 しかし幾人かは、エドワードと共に姿を消しているという。鍛冶屋の出奔を除いて、城下の領民にも大きな変化はなく、山間の領地は平穏を取り戻しているように見えた。
 素朴な田舎の領民を扇動させ、絶大な人気を誇る副伯夫人に成り代わって、城主の代理に納まろうとしたエドワードは、やや危険な存在だとロデリックには思えた。彼を捕らえも罰しもせずに逃がしてしまった夫人については、彼も司令官と同感であった。甘すぎる。だからあんな年端もいかない少年につけこまれるのだ。個人的には、エドワードを早く始末してしまいたかったが、今のところ山に放った兵士たちからは、知らせはない。
「じゃあ、何の用だよ」
「いえ……今夜の話ですが……御用が無ければ結構です」
 ロデリックは、ぼやかしながら呟いた。
 しかし残念ながら、グレンはその一言を聞いて、夜伽の相手を決めていなかったことを思い出してしまった。
 グレンは記憶を探った。侍女の一覧表は何度も見たので、興味がありそうな娘はほぼ頭に入っている。若い侍女はほとんど手をつけてしまっていた。
 そろそろ人妻にいくか。亭主が留守の間に、昂って熟した体を味わうのも悪くはない。
 だが今日は午前中の訓練で、剣の稽古を連続して行った為、やや疲労していた。その為、午後は久しぶりに、こうして本など読むことにしてみた。もっとも、ロデリックが部屋に入ってくるまで、本を持ったまま居眠りをしていたのだが。  
 今夜は女は止めておこうか。
(いや、そんな弱気でどうする)
 彼は思い直した。強気にならなければならない理由は何も無いが、グレンはそこで意地になった。
 抱き慣れた感のあるレジーナは面倒が無くていいが、機嫌次第では、たまに蹴りなど放ってくるので、体力を使う。
 その時頭にぽんと浮かんだのは、シェリルだった。彼女こそ面倒が無い。優しく甘い言葉をかけてやれば、さしたる抵抗もせずに体を開くだろう。寝たきりではなく、自分で動くことも知っている女だし、あの娘の素晴らしい口淫を味わっている間は楽ができる。
「今夜はシェリルを呼んでおけ」
「シェリル?」ロデリックは首を傾げた。「確か、以前に……」
 グレンは今のところ、副伯夫人を除いて、一度抱いた女を再び寝室に呼んだことはない。
「いいんだ。もう一度あいつを呼べ」
「はあ……。食事はどうされますか?」
 夫人との信頼関係の為にも、せめて夕食は夫人と取って欲しい。ロデリックのそんな再三の忠告にも関わらず、グレンは大抵、床を共にすると選んだ侍女と共に、夕食を取っている。従って、給仕や執事は、グレンが侍女と食事を共にしている──ひいては、床を共にしていることを知っているのだろうが、副伯夫人やその他の召使いには、余計なことは話していないようだ。
「メシも一緒に食うか。サラに、食堂に連れてくるように言っておけ」
「かしこまりました」
 副官はわざとらしく大きな溜め息をついたが、無論グレンは毛先ほどの皮肉とも捉えなかった。

 
 夕闇迫る黒い森に向かって羽ばたく鳥を目で追う。
 鳥はやがて森に溶けるように姿を消した。
 横に長くたなびく雲が幾筋も重なり、夕陽の光を照り返している。空がまるで狂ったように、赤く赤く染まっていた。
 まれに日没に見える、恐ろしいほど美しい空を見つめていると、シェリルの胸にはいつも不吉な思いが去来する。夕陽にはあまりいい思い出がない。だから彼女は、燃え上がる太陽が完全に隠れた、夜の闇の方が好きだった。
 そろそろ夕食だ。部屋に戻らなければ。
 普段、シェリルは侍女たちと並んで、小さな召使い用の食堂で食事をする。しかし彼女の仕事柄、他の侍女と揃って食べられないことも多いので、一人で食事を取ることも少なくなかった。
 最近はレジーナと夕食を食べることも増えた。レジーナはシェリルと同じく、一人での食事も苦にならない方だが、時折やはり寂しくなるらしい。大公の軍が入城した当初は、夫人は司令官と夕食を共にすることが多かったが、しばらく前からその頻度は大幅に下がった。
 レジーナと司令官の関係は、シェリルの目から見ても不思議だった。エドワードが主張していたように、かつて彼らが恋人同士だったと思っている人間は、侍女の中にも少なくないが、シェリルには信じられない。あの潔癖なレジーナが、何をどう間違えても、グレンのような男と愛し合うはずがないだろう。レジーナが説明している通り、かつての顔見知りの同業者という以上の関係ではあるまい。シェリルにも同じような知り合いはたくさんいる。
 しかし、そんなよそよそしい関係でありながら、大公の軍に占領されて以来、レジーナは心なしかグレンを頼っているように見えるし、グレンはレジーナを助けているように見える。現在の副伯領が、大公の『保護下』にあることを考えれば、特に不自然ではないのだろうが、シェリルはどうにもはがゆかった。
 頭も良く、人望も厚いレジーナだが、よそ者の女一人で領地を切り盛りするのは楽ではないだろう。先日のエドワードが起こした騒乱で、彼女もそれを思い知ったはずだ。
 シェリルも、そしてレジーナを慕う侍女たちも、どうにか女主人を助けたかったが、結局力にはなれなかった。混乱しつつあるあの場を納めたのは、グレンである。彼の助けを借りて、レジーナは威厳を取り戻した。
 シェリルはと言えば、エドワードと名乗る少年の台詞に、若い侍女たちと一緒になって逆上してしまったのだから、情けない。あの場でエドワードを罵っては、彼を支持する領民の反感を買うだけだとは分かっていても、彼らの侮辱は看過できなかった。
 レジーナとシェリルたちを売女、娼婦だと蔑み、挙げ句レジーナが子を成していないことまで、あんな十六、七の小僧に罵られるいわれはない。今、思い出しても腹が立つ。
(偉そうに。じゃあ、あんたがあたしたちの代わりに、グレン様にヤられてこいってのよ。そんでご領主様の跡継ぎも、産めるもんなら産んでみろ)
 怒りが再燃したシェリルは、胸中であの少年に向かって毒づきながら、もたれかかった城壁の壁を蹴ったりしていた。周囲に誰もいないのは幸いであった。
 彼女がいるのは、城の敷地内の城壁である。険しい山地の高台に築かれた城からは、周囲の森が見渡せる。西向きのこの城壁からは、沈んでいく太陽と、大地に伸びた影のような森、そしてその向こうにある、かつて盗賊団が根城にしていた修道院の廃墟が見える。
 城の外にある城壁の方が見晴らしがいいが、兵士に襲われて以来、シェリルはあの場所に近づけずにいた。夜空の星を眺めることもやめていた。
 城壁の向こうの修道院近くで、レジーナはエドワードに会ったという。もうひと月以上前のことだったらしい。
 レジーナが少年と決闘を演じた日の夜、夕食を共にしたシェリルに、レジーナは彼と初めて会った時のことを打ち明けた。シェリルがしつこく尋ねたからだ。
 以前、シェリルはレジーナに、城の貯水槽を探っている人間がいたと聞いたことがあった。大公の軍が来てすぐのことだ。古代帝国時代に建造された、頑丈で巨大な地下の貯水槽は、この城の貴重な水源だ。万一のことがあれば、城下・城内全員の命に関わる。
 シェリルは術を施し、貯水槽に触れる人間があれば、その念をすぐに彼女が読み取れるようにした。
 結局その後、執事などを除いて、大公国の人間を含め、怪しい者は貯水槽には近づいていないのだが、レジーナが見かけた、貯水槽を探っていた男も、エドワードが忍び込ませた者だったと、彼女は食事をしながらシェリルに語った。
 シェリルは胸に淡いすきま風が吹いたような気分で、レジーナを見返した。彼女の無言の訴えを聞いたように、レジーナは呟いた。
『あなたにまで黙っていたのは、ごめんなさい』
 エドワードと出会ったことを、レジーナはマイラ以外の誰にも話していなかったらしい。
 レジーナの話によれば、マイラが長くエドワードの住んでいた屋敷に勤めており、彼を知っているらしい。従って、エドワードが副伯の従兄弟であるということは、間違いないようだ。そういえばマイラは、エドワードが押しかけてきた時に、腰を抜かすほど驚いていた。
 どうやらあの少年は、本気でレジーナに代わって、領主の代理に納まろうとしていたらしい。城主の留守に、親戚が入り込んで城を乗っ取ることなど、珍しいことではない。それ自体はさして驚くことでもないが、彼は城内の事情にやけに詳しかった。そしてその情報を使って、巧みに地方の領民を丸め込んでいった。
 エドワードが本当に領地のことを案じて、あんな行動を起こしたわけではあるまい。真実から大公の支配を厭うのであれば、彼が糾弾し、戦うべき相手は大公軍である。副伯の正式な妻であるレジーナは、本来なら助けるべき人間であって、糾弾する相手ではないはずだ。
 強大な相手に立ち向かうのではなく、噛みつけるところから噛みついている、卑屈な野良犬と同じだ。彼に従っていた領民たちも、シェリルにとっては同類以下である。彼らが責めるべきは、侍女を寝室に送り込んだレジーナではなく、それを求めたグレンであるべきだ。

 昔、シェリルが旅をしていた時、物を盗まれた人間に出会った。食堂で、荷物を横に置いて、ちょっと顔を背けて給仕を呼んだ隙に、荷物が消えていたという。
 周りの旅人たちは、大袈裟に嘆く彼に、苦笑いを見せるだけだった。
『ぼんやりしているのが悪いんだよ』
 彼女の連れも、喚く男を横目にそう呟いた。用心深いシェリルたちは、貴重品は服の下に身につけていたし、食事をする時は、荷物は足元に置いて、しっかりと足で押えていた。恐らく旅慣れた人間なら、誰もがそうしているだろう。不運な男に同情する者は少なかった。
 しかしシェリルは、盗まれた男が悪いとは思えなかった。確かに不注意ではあるが、どう考えても、悪いのは盗んだ人間だ。彼女の連れや周囲の人間は、男の不注意を嘲笑い、喜んでいるようにすら見えた。
『そんな風に思ったら、可哀相じゃない? 悪いのは盗んだ方だよ』
 つい連れに非難がましく囁くと、彼は皮肉っぽく笑った。
『道徳的にはね。でもあんな奴は世の中にたくさんいて、盗んだそいつが悪いって喚いたとこで、盗まれた人間には何の解決にもならないよ。盗まれた自分が悪いって思わなきゃ、同じことを繰り返すばかりでしょうが』
『そうかな。あの人が次から気をつけるようにすることと、あたしたちみたいな第三者が、盗まれた方が悪いって、嘲笑っているのは、違う問題だと思うけど』
 彼女の連れは一瞬言葉に詰まった後、肩を竦めた。
『その通りかもね。じゃあ、君だけでも、あいつんとこ行って、慰めてやればいいじゃん』
 シェリルは首を振り、動かなかった。男に若干同情はしたが、彼女も被害にあった男のために、盗んだ人間や荷物を探したり、哀れな男に路銀を分け与えるような余裕は無かったからだ。施しの無い同情だけをもらっても、男は嬉しくないだろう。シェリルの自己満足に過ぎない。
 だが少しの後、己の不幸を嘆いていた男は、立ち上がると、食堂の主人に食って掛かったのだ。
 昼間から盗人が出るなんて、なんて店だ。店の主人なら、盗人を追いかけて捕まえるべきだった。
 およそ目茶苦茶な男の主張を聞いていて、もちろんシェリルの彼への同情は吹き飛んだ。 
 男の不幸の原因となったのは、彼の荷物を盗んだ人間であるはずなのに、何故彼は食堂の主人を責めるのだろう。
 客は男が悪いと笑い、男は主人が悪いと怒る。誰も盗人が悪いと口に出さない。
 既に逃げ去った盗人は、追っても追いつけまい。だから盗まれた男は、手近な、手の届くところ──食堂の主人に怒りをぶつけた。

 旅を続けてきたシェリルにとっては、そんな光景は珍しくなかった。
 そうやって、大抵の人間は、怒りや不満を、本来訴えるべき相手よりも、より手近で、自分が安全でいられる相手にぶつけようとする。
 それ自体を責めはすまい。誰だって一番に考えるのは、身の安全だし、全てのことに関して公正でいられる人間など、そうはいない。感情が高ぶった時は尚更だ。シェリルだって、身に覚えはある。
 だが、その八つ当たりと呼べる行為を、恥ずかしげもなく、正当な戦いであるかのように主張している人間は、見ていて見苦しいし、腹立たしい。
 エドワードと領民たちは、まるで自分たちが、領地を心から案じる正義の使徒のような演説をぶっていたが、結局、エドワードは領主の代理に納まりたいだけであったし、彼についてきた領民たちは、エドワードに言葉巧みに利用されただけだ。
 そこまで考えて、苦笑いがこみ上げた。
 自分も同じではないか。夜の闇の中で兵士に陵辱された時には、恐ろしくてほとんど何も言えなかったのに、ああして朝、大勢の人間に囲まれた中で侮辱された時には、あんな下品な啖呵が飛び出したのだ。大公国の人間には逆らえなくても、領民には怒鳴り返せる。
 彼らを卑劣と言うなら、シェリルも卑劣だ。

 それにしても、副伯の出征や、大公軍の駐留については、少し領民と話せば分かることだろうが、副伯夫人や侍女が司令官の寝室に上げられていること、イブの失踪など、城内の人間でしか知りえないことまでも、エドワードは知っていた。誰かが彼に話したのだ。今のところ、それはマイラしか考えられない。
 しかしレジーナは、マイラを正面から問い詰めていないようだった。
『もう、エドワードは、ここには来ないわよ。あそこまで恥をかかせれば、城下の領民は誰も彼に従わないでしょうしね』
 そう言ったレジーナは、楽観的すぎるとシェリルには思えた。
 エドワードは野心家だ。まだ若く、向こうみずなところもあるが、言動からして頭も悪くはなさそうだ。山地や麓の町で、畑を耕して慎ましく生きていくことなど、彼には考えられないに違いない。
 世の中にはそういう種類の男たちがいる。型にはまらず、膨れ上がって上昇していきたい人間たち。自分がどこまで、何ができるか常に試さずにはいられない輩だ。権力を取るのは、大抵そういった男たちなので、世には貴族同士、国同士の争いが絶えない。多くの民は、毎日地道に畑を耕し、天地と共に生きる器量のない男たちの暇潰しに付き合わされている。それが戦争だ。
 与えられた物に満足し、足ることを知っている稀有な君主、この領地の副伯も、それに否応なく巻き込まれてしまった。
 
 レジーナをよろしく頼む。彼女は自分から助けて欲しいと言えない人だから、君が様子を見てあげて、力になって欲しい。
 出征前、副伯はこの場所で、シェリルにそう告げた。
 野心も功名心もない副伯にとって、今回の出征はさぞかし気が重かっただろう。できれば戦争、しかも異国への遠征など、参加したくなかったに違いない。だが王の勅命とあれば、軍を出さないわけにはいくまい。
 ただこの小さな山間の城と、そこに住む人々の幸せだけを望んできた副伯は、魂を引き裂かれる思いで出発していったに違いない。
 彼と彼が率いていった騎士、兵士たちはどうしているのだろう。副伯から手紙が届いたのは一度きり、約ひと月前のことだ。
 副伯にシェリルが渡したインクには、粉薬と彼女の血が混ぜてある。そのインクによる手紙が麓の町くらいまで近づけば、集中して気配を探ることができる。かつてシェリルが学んだ、簡単なまじないだ。
 万一に備えての細工が幸いした。現在、領地に届く書簡の類は、全て大公軍に一度改められてしまう。だが、副伯からの手紙だけは、シェリルが先に気配を察知し、麓の町の行商のギルドに鳥を飛ばして、大公軍に内密に手に入れることができる。
 既に魔術師のギルドを離れた身で魔術を使うのは気が引けるが、簡単な術であれば、ギルドの人間に気配を辿られることもないだろう。魔術の力は強大だ。精神の世界に介入し、肉と物質の世界の理を折り曲げる。いち個人が私利私欲の為に行使して良いものではない。
 シェリルも若い頃は、その原則をいい加減に解釈して、魔術を使って、結構都合のいいこともしたものだが、ギルドを抜けた今は、逆に魔術を使うことが恐ろしい。
 ギルドを抜けた魔術師が暴走すれば、かつて盗賊団を率いていたような、凶悪な犯罪者にもなり得る。魔術を使って、盗賊を助け、人々を苦しめていた盗賊団の頭目は、恐らくシェリルがこの地に来なければ、もっと倒すのに時間がかかっただろう。
 事態がさらに大きくなれば、魔術師ギルドが制裁を加えただろうが、それまでには、この小さな城など乗っ取られていたに違いない。
 シェリルが救った土地。彼女を受け入れてくれた山間の城。
 だが副伯が出征してからというもの、この地も姿を変えつつある。大公軍に城は占領され、城下から離れた地方の領民は、夫人に不満の種を植え付けられてしまった。年若いイブは行方不明になり、その父親である鍛冶屋は、副伯の従兄弟について、城下を出奔してしまった。副伯が無事に戻ったところで、もう昔の姿は帰るまい。
 不変のものなんてない。すべては静かに、時には劇的に移り変わってゆく。人の心は無論のことだ。
 レジーナは夫を愛していた。副伯もレジーナを愛していた。ふたりは互いを必要としていた。
 彼が言っていた通り、レジーナは夫以外に弱さを見せられない。それこそが彼女の脆さだ。その夫に万一のことがあれば、彼女はどうなるのだろう。シェリルや他の召使い、領民全員が束になっても、レジーナの中の副伯一人分の空隙も埋められないだろう。
『もし、私に万一のことがあったとして、レジーナが一人で苦しんでいるようだったら、ここを出て自由になるように、君からも勧めて欲しい。彼女は一人で、自由な世界で、新しい幸せを探せるひとだ』
 副伯はシェリルに向かってそうも言った。副伯は一つだけ、妻について思い違いをしていると彼女は思ったが、その場では口には出さなかった。
 愛する夫を失って、ひとりで広い世界に戻ったところで、レジーナが簡単に新しい幸せを探せるだろうか。苛烈で誇り高く、そして脆いレジーナを受け止められる男が、副伯の他に存在するとは思えない。
 だが。
 
 入城した直後は、グレンは毎夜のように寝室でレジーナを陵辱していた。
 潔癖なレジーナは、さぞかし屈辱をもってそれを受け、司令官を憎んでいることだろうとシェリルは考えていた。
 肌を触れ合わせ、体を繋げておいて、無心でいられるわけはない。サラのように器用に割り切れる女もいるだろうが、シェリルはそうではないし、レジーナも恐らく違うだろう。
 肌どころか粘膜まで触れ合えば、否が応でも相手の男に関心が向く。好意か、嫌悪か、あるいは両方とも。あのサラでさえも、弱っている時に気に入った男に抱かれれば、心が動くと言っていた。
 レジーナは、今まで嫌悪と屈辱をもって、グレンの仕打ちに耐えてきた。シェリルはずっとそう思ってきた。
 だがもしかしたら、違う感情も混ざっているのかもしれない。レジーナがグレンに対して、例えばシェリルが、陵辱された兵士に対して抱いているような、恐怖と嫌悪しか持っていないなら、今朝の事態はまた変わっていたはずだ。レジーナはグレンを決闘の立会人として認めなかったに違いない。
 二人の間に、うっすらと流れていたのは、信頼という言葉が最も近い気がする。
 今までシェリルが考えていた以上に、レジーナはグレンを心の底で頼っているのかもしれない。シェリルたちはレジーナに取って、守るべき召使いたちだ。
 だがグレンは違う。レジーナが助けたり庇ったりする必要が無い。彼女にとって、夫を除いて、この領地で唯一対等以上の立場の人間である。それがかつての同業者ともなれば、心ならずも親しみは沸くだろう。停戦の会談の前、レジーナはかつてのグレンを忌々しそうに語っていたが、かといって蛇蝎のように嫌っていたわけでもないようだ。
 そんな感情を持っている男と肌を重ねたりすれば、レジーナの心に、何か不可解な感情が生まれても不思議はない。それを愛だなどと呼ぶのは短絡過ぎるだろうが、レジーナが嫌悪や煩わしさと共に、ある種の好意や信頼を彼に抱いているのは、間違いない気がする。今まで信じられなかったが、シェリル自身があの男と肌を合わせ、うっすらレジーナの心情を想像できると感じた。
 元々、人の感情に形や定義などない。感情を言葉で表そうというのが、どだい無謀なのだ。
 恋人同士が、互いに愛していると囁いたところで、男が女に持っている感情と、女が男に持っている感情が同じだとは限らない。それを愛とひとくくりにすることで、彼らは相手も自分と同じ思いだと錯覚している。それが幸せなのか不幸の始まりなのかは、時と場合によるだろう。

 シェリルを陵辱した兵士──サラから名前を聞いたはずだが、忘れてしまった──は、欲望のまま彼女を抱いただけだ。女という性を持っていれば、そしてつけいる隙があれば、相手は誰でもよかったのだ。彼が組み伏せたのが、たとえマイラでも、他の侍女でも、彼は同じことを言い、同じことをしただろう。彼女の人格や感情など、どうでもよかったのだ。シェリルにはそう思える。
 相手が誰でもよかったという点では、グレンも同じだ。陵辱されて、傷を負っていたシェリルを、グレンが慰めるように抱いたのは、彼女に対する特別な計らいであるとは考えられない。相手がどの侍女でも、彼はそうしただろう。
 ただ彼は、快楽を感じ取る自分の体を疎み、涙するシェリルの話を聞いた。彼女が語ることについて、彼なりの答えをくれた。そこには互いをひとつの人格として認めた意思の疎通があった。ただ乳房を握られるのと、名前を呼ばれながらそうされるのでは、天と地ほどの違いがあるとシェリルは感じた。
 兵士を憎みながら自らを苛むシェリルに、何も悪くないと告げたグレンの言葉は、彼女の心の奥底に届いた。いくら彼女が自分で自分に言い聞かせても、何の慰めにもならない言葉、他人に言われて初めて温度を持つ言葉だった。触れ合う肌と肌の隙間に、互いの意識が挟まっていた。相手が何を考えているか、どう感じているか、それが常に二人の念頭にあった気がする。噛み砕いてあえて分かりやすく呼べば、それは思いやりの一種だった。兵士に陵辱された時には、全く感じなかったものだ。
 愛されているなどと自惚れていないし、シェリルも一晩寝ただけの男を簡単に愛するほど、もう迂闊ではないつもりだ。無論あの夜グレンが告げた、愛しているなどという言葉は、中身の無い虚言に過ぎないと承知している。
 しかし一組の男女の間の特別な愛という定義ではなく、隣人に対する思いやり、気遣いという意味での愛だと思えば、彼の告げたことも偽りとまでは呼べないのかもしれない。シェリルとグレンの『愛』という言葉の使い方が違うだけだ。彼の定義に則れば、恐らく彼は世界中の女を愛することができるのだろう。
 心が広くて羨ましい話である。真似したいとは思わないが。
 レジーナを抱いた時も、グレンは愛していると囁いたのだろうか。もしそうなら、レジーナはその言葉をどう受け止めたのだろう。

 夏至を間近に控えた初夏の夕暮れは長い。赤く染まった空は、次第に青みを帯びた、複雑で繊細な菫色に染まりつつあったが、まだ日の光は茫洋と地上を照らし出している。
 城館を囲む、矢来を備えた堅固な城壁は、小柄なシェリルの首の辺りまでの高さがある。年月を経て黒光りする石壁の上に顎を乗せると、日中の太陽の熱で暖められた壁から、ほんのりと熱が返ってきた。
 もしも。
 もしも、レジーナがここを去るようなことがあれば、この地はどうなるのだろう。
 今朝の騒動の最中、レジーナとグレンを見守っていて、シェリルはエドワードを追い払った安堵と同時に、胸をかきむしられるような不安も覚えた。
 領主の出征後、レジーナは知識もあって思慮深いシェリルを、相談役として重用してきた。領地や領民に関することは、長くからこの地に仕えてきた執事や役人たちが詳しいが、彼女が最後に頼りにするのは、かつて同じような境遇であり、同じような価値観を持つシェリルだった。レジーナに信用されている。シェリルはそう思っていた。
 しかし、ひと月以上前に、レジーナが林で副伯の従兄弟であるエドワードに会っていたことは、今まで知らなかった。知っていれば、今日彼が領民を連れて押しかけてくるまでに、何か手を打てたかもしれない。グレンが出てくる前に、シェリルの方でエドワードを説得して追い返す方法があったかもしれない。
 イブのことにしても、シェリルは何も知らされていない。レジーナが言っている通り、本当に彼女は父親にも告げず、あれほど憧れていたレジーナに仕える侍女の職を捨て、この城を去ったのだろうか。女主人が一番苦しい時に、自分だけ逃げ出そうなどと考える少女には見えなかった。
 エドワードはイブの父を引き連れて、シェリルが胸の底に押し込めてきたのと同じ疑惑を突いた。
 グレンは若い侍女を寝室に呼びつけていた。
 そして侍女の中でも、子供を除いて最も若いイブが失踪した。
 二つを結びつけるなら、グレンによって純潔を汚されたイブが、自ら失踪した、あるいは命を絶ったことも考えられる。
 レジーナが行方をくらましたイブを捜索させる様子が無いのは、彼女が真実を知っているからかもしれない。
 イブの失踪とほぼ同時期に、寝床に伏すほどの重傷を負ったグレン。
 ほとんど人が立ち入らない、古びた礼拝堂の裏に落ちていた、枯れかけた花。
 シェリルの頭には、もっと不吉な出来事が組みあがろうとしている。
 けれどレジーナは、シェリルには何ひとつ語ってはいない。

 今朝も、シェリルや侍女たちが寄り集まっても、レジーナの力にはなれなかった。けれどグレンは違う。
 もしも副伯の悲報が届いたとしたら、レジーナは領民からよそ者と罵られる土地を捨て、グレンについて、再び剣を握る人生に戻るかもしれない。
 ここ数日、レジーナは侍女を連れて、兵舎で大公軍の訓練に参加しているらしい。彼女は決して残忍な性質でも、殺人狂でもないが、長い間、戦いはレジーナの一部だった。鍛冶屋が鉄を打つように、魔術師が書物を読むように、レジーナは淡々と剣を振って生きてきた。愛する男の傍にいるという道を除けば、他の生き方を知らないはずだ。
 彼女が大公に従うことを好むかどうかは分からないが、旧知の人間であるグレンの下で、軍に入ることを選ぶかもしれない。彼の軍には、そうした傭兵や冒険者も少なからず混ざっているらしい。
 レジーナはこの土地で育ったわけではない。夫を亡くしたとすれば、領民が望まないのであれば、彼女がここに留まる理由もない。
 その時、この小さな城は、いや、私はどうするのだろう。
 柔らかい暖かさを抱く、硬い石に頬を押しつける。ざらざらとした表面が、シェリルのふっくらした顔を受け止めた。
 レジーナと領主以外にも、シェリルをこの地に繋ぐ人間はいる。さりげなく面倒を見てくれるマイラ。とっつきづらいが、根は優しい侍女頭のモニカ。シェリルを慕う、年下の侍女たち。彼女に静かに草花の話を語る庭師。医者のいない土地で、シェリルの作る薬を必要とする人々。
 彼らの顔を次々に思い出してみる。しかしレジーナがここにいないと想像してみると、優しい人たち、シェリルを必要としている人たちの姿は、色を失い、薄れていった。副伯夫婦がふたりともいないのであれば、シェリルとこの地を結ぶ糸は、とても細く頼りない。
 マイラやモニカ、他の侍女たちは、シェリルを受け入れてくれてはいるが、必要としているわけではない。
 シェリルの薬とささやかな医術を必要としている人々は、医者を必要としているだけだ。従軍した医師が無事に帰ってくれば、彼らはシェリルがいなくても、特に困ることはない。
 シェリルを、彼女本人を必要としていたのは、レジーナだけだ。そんなことはとうに知っていた。だから副伯に万一のことがあれば、その隙間を埋めて、彼女を最も助けることができるのは、自分しかいない。そう思っていた。
 レジーナは脆い。その彼女を支えるには、シェリルはあまりに弱すぎる。長い間、レジーナを助け、仕えながらも、命綱にはなりえない。
 それを簡単に成し遂げてしまうグレンの無神経な強さを、シェリルは一瞬、激しく妬み、憎んだ。
 レジーナがシェリルを必要としていたのではない。シェリルがレジーナを必要としていたのだ。
 脳の奥底で、いつも無意識に理解しながら、はっきりと自覚したのは初めてだった。この山間の城がシェリルを受け入れてくれたわけではない。レジーナがいないなら、シェリルもここにいる意味が無い。

 自分がそこにいる理由を、他人に預けるのはもうやめようと思っていた。彼女はひとりで、自分のいるべき場所に立っていたかった。ずっとそうしているつもりだったのに、いつの間にか、レジーナを支えているつもりが、レジーナがシェリルの支えになっていた。 
 そのレジーナが、もしもグレンについてここを出るようなことがあれば、シェリルもここにいる必要はなくなる。彼女の居場所は、この土地ではなく、レジーナの中にこそあったのだ。
 副伯が戦死した場合、レジーナがどうするか──あるいは、副伯の訃報が届く前に、レジーナがここを見限るようなことがあれば。
 様々な想像が頭を駆け巡り、沈んでいく夕陽を眺めながら、シェリルの胸は不安に苛まれた。
 不意にサラのことを思い出した。
 数日前、シェリルはサラと話しこんだ時に、娼婦である彼女の生き方に小さな感銘と共感を覚えた。体を何十、何百という男の手に委ねながら、魂は孤高を保って、亡き夫を愛し続けているサラ。昔からずっと、心と体の繋がりと反発に引きずられてきたシェリルは、そのふたつを見事に分かち、自分で制御しているサラが眩しく見えた。
 傭兵であったレジーナは、軍に入ってそのまま戦えるが、シェリルでは役に立てない。レジーナから剣の手ほどきを受けているものの、とても戦場に出られるほどの腕はない。そんな彼女が、レジーナについて大公軍に入ったなら、そこで役立つには、サラと同じ役目しかない。
 頬を城壁の縁に乗せたまま、シェリルは目を閉じた。苦笑いが浮かぶ。彼女は小柄で豊満な、男好きのする自分の体型が嫌いだった。レジーナのような、長身で筋肉質の体つきであれば、あの夜、兵士に狙われることもなかったかもしれない。
 だが娼婦になるなら、この肉体は天賦の宝だ。多くの男がシェリルの身体を使って、欲望を満たせるだろう。
 今まで、考えたこともなかった。
 すすんで荒くれ男たちの欲望の捌け口になる。彼らはシェリルを支配し、蹂躙し、渇きを潤すように彼女を抱く。
 想像するだけで、苦味が湧くような嫌悪を感じた。だが同時に、微かに高揚が滲んでくる。
 どんな形であれ、求められるのは嬉しい。
 そう言ったサラの気持ちに、また一歩近づいた気がする。
 シェリルが愛する人は、彼女を求め、肌に触れることはない。あってはならない。心の奥底で、彼女は彼を求めてはいるが、実際に彼がシェリルに欲望をもって触れたなら、その瞬間に彼女の彼への愛は崩れ去るだろう。ねじれた二律背反だった。
 愛している男に抱かれることはない。けれどシェリルの肉体は、男性を恋しがっている。
 求められたい。必要とされたい。大切にされなくてもいいから愛されたい。
 いや、愛などはいらない。錯覚でいい。触れ合っている間の幻でいいから、体をこじ開けられる快楽と共に、愛されていると幻を夢見たい。
 サラもきっと同じなのだ。
 まだ彼女のように、全てを割り切ることは、シェリルにはできそうもない。シェリルにとっては、他人の体を受け入れるということは、いまだ一大事であった。
 兵士に組み伏せられた時のように、淡い快楽と共に激しい嫌悪を覚えるか。あるいはグレンに抱かれた時のように、心がぐらつくほど、骨まで悦楽に貪られるか。いずれにしても、とても日常茶飯事にはできない気がする。
 だがやがて、体も心も刺激に慣れていくかもしれない。そこに今まで嫌悪と道徳に隠されていた道、自分ひとりで、他人に依らずに歩ける道が開けるかもしれない。

 あるいは。
 シェリルは顔を上げ、地平へと姿を隠し始めた太陽を見つめた後、首を返した。反対側の東の空には、既に最初の夜の気配が忍び寄っている。空は青く、暗かった。
 東に向かって山を降りれば、麓の町だ。さらに大公領を進むと、辺境と東を分け隔てる険しい山脈にぶつかる。かつて彼女は、東の豊かな地域から、その山脈を越えて、この辺境地域にやってきた。
 山を越えたところで、恋人と別れた。彼は東へと戻り、彼女は西に進んだ。
 シェリルは元々、東にある王国の王都にいた。副伯も大公も忠誠を誓う大きな王国だ。事情があって、王国のほぼ全域に手を伸ばす犯罪組織に目をつけられてしまった為、彼らの目の届かない、この辺境へと逃れてきた。
 あれからもう何年も経っている。暗殺者たちも、いつまでもシェリルを追いかけているほど暇ではないだろう。 
 そろそろ東に戻ってもいいのかもしれない。
 都会育ちのシェリルには、素朴だが保守的で閉鎖的な村の生活は、窮屈と言えなくもなかった。それもこれも、彼女を受け入れてくれた土地だと思えば、村の習慣も愛することができたが、そうでないなら、人々が行き交う、大きな町での暮らしの方が性に合っている気がする。
 問題は生活手段であった。薬学の知識はあったが、医者としてやっていけるほどの技術や経験はない。それに大きな町では、医者は大抵教会関係者である。人脈もないシェリルが働くのは簡単ではない。
 出奔した魔術師ギルドには、容易には戻れまい。戻ったシェリルを待ち受けているのは、裁きと師による罰である。恐らく二度と外へは出られないか、魔術を永遠に封じられるだろう。
 道は限られてくる。かつてのように、占い師として放浪を続ける方法もあるが、楽ではない。軍娼として生きていく方が、まだ簡単かもしれない。
 けれど東には、別れた恋人がいるはずだ。
 彼がどこにいるかなんて知らない。生きているかどうかも分からない。あれから四年も経っている。
 だが東に行けば、いつかどこかで会えるかもしれない。
 今、シェリルが愛する人は、恐らく彼女の心から永久に消えることはないだろう。しかし、もう一度、かつての恋人と会えたなら、彼ならば、シェリルが抱える報われない愛を、もっと穏やかなあるべき形へと昇華させてくれるかもしれない。

 星が瞬き始めた空を見上げたまま、シェリルは一人で苦く笑った。既に別の道を歩んでいるというのに、むしのいい話だ。けれど、夢見ることぐらいは許されるはずだ。
 そろそろ、ここを離れることを考える時期なのかもしれない。
 レジーナがここに留まるなら、シェリルも全力で彼女を支えたい。
 しかし彼女がなんらかの形でここを去るなら、シェリルもまた、ここにはいられない。時間は絶えず大河のように流れていく。それに従って、あるものは全て形を変えていくのだ。時が止まったような、永遠の安息に包まれた楽園など、生きている限りは見つからない。取り残されて、動くこともできなくならないうちに、シェリルもまた、泳ぎださなければならない。
 でもできることなら、やっと見つけた、息をつくことができる場所で、もう少しだけ安らいでいたい。
 だから、早く帰ってきて欲しい。
 副伯と軍が去った東の空を見つめ、祈るように目を閉じる。そのまま意識を澄ませて気配を探ったが、副伯からの手紙が麓に届いた様子は無かった。
 やがて心を落ち着かせ、目を開けたシェリルは、もたれていた城壁から体を離した。もう一度西を振り向けば、残照がまだ森を淡く照らし出している。
 出陣の前、副伯と彼女が話をしたのも、この場所、この時間だった。彼の背後には、沈もうとしている太陽が、重々しく輝いていた。
11話は、早目に更新する予定です。
ががーっと長すぎたので、2話に分けました。とほほ。
web拍手

作者ブログ『椰子の実ライブラリ』


カテゴリ別オンライン小説ランキング
オンライン小説/ネット小説検索・ランキング-HONなび
【小説の匣】