警告
この作品は<R-18>です。
18歳未満の方は
移動してください。
お話はレジーナの旅立ちへさかのぼります。
…旅ってほどでもないですが。
第二章 5.静寂は地の底へ
十日ほど前のことである。
二人連れの年老いた男たちが、領主夫人への面会を求めてやってきた。大公国の軍隊が無血入城してから、丁度ひと月後くらいのことだった。
西の放牧地の集落に住んでいるという彼らに、レジーナは快く謁見した。言われてみれば、見覚えのある老人たちだ。
彼らはそこでためらい、顔を見合わせながら、驚くようなことを語った。
西の集落の領民たちが、農具や古い武器を集めて、領主の居城である、この城に集団で行進する計画を練っているというのだ。話は若者たちを中心に広がったらしいが、いつしか近隣の集落や女たちまで巻き込んで、集落の長老にあたる老人たちが止めることもできないほどの勢いになっているという。
危機感を覚えた彼らは、村人たちに内密に村を抜け出し、領主夫人に警告しに来たのだ。
「一体、何故?」
話を聞いたレジーナは、戦慄するよりぽかんとしてしまった。何故なら、大公国の軍が入ってきてすぐ、彼女は不安に怯えているだろう領民を落ち着かせるため、自ら領地の集落を訪ねて回ったのだ。西の放牧地の集落も、二十日ばかり前に訪れて、領民たちに事態の説明をしたばかりだった。その時は特に変わった様子も無かったのだ。
武装して城へ行進してくるのだから、こちらに不満があるのだろうが、先日は誰も不平や疑問など告げず、むしろレジーナの身を案じてくれる村人が多かったほどだというのに。
老人二人は再び顔を見合わせた。
「私に気を遣っていただくことはありません。ここには大公国の人間はおりませんし、率直におっしゃってください」
レジーナが老人たちを丁寧な口調で促すと、一人がためらいがちに話し始めた。
「若者たちが申すには……今回の大公の進軍は……その……奥方様が手引きしたのではないかと」
レジーナは椅子から飛び上がりそうになった。
瞬時に形相を変えた副伯夫人を見て、老人たちは蒼白になって口を噤む。
「なんですって」老人を責めても仕方ないと思いつつ、声が高くなるのを止められなかった。「私が彼らを手引きした? 何故そういう話になるの」
領主が領民との謁見に使う簡素な小広間には、樫の木でできた重厚な椅子があるだけだ。レジーナがそこに腰掛け、老人たちは用意された丸椅子に腰掛けている。室内には執事と老役人が三人、侍女が一人いるきりで、大公国の軍人の姿はない。
「それが……」老人は平伏せんばかりに頭を垂れた。「奥方様と大公国の将軍が懇意だという噂が流れておりまして……いや、噂です! 私はこれっぽっちも信じておりませんです」
悪鬼のような顔つきになった領主夫人に向かって、善良な領民はひたすら平身低頭した。
なるほど。
大公国軍の司令官とレジーナが予め通じており、彼女がわざと無抵抗降伏して、彼らを呼び入れたという噂が流れているのだろう。
(どこのどいつよ。首ねっこへし折って、川に流してやる)
レジーナの苦労も知らず、無責任な噂に興じている連中に対する怒りが沸いたが、実際は領主夫人が領民の首の骨を折って、遺体を川に放流するわけにはいかない。
噂の出所は集落の若者らしい。
彼らは、副伯夫人が、夫の留守に昔の情夫である大公国の将軍を呼び入れ、この城を売り渡そうとしていると疑っているらしい。そしてことの真偽を確かめ、夫人の返答次第によっては戦いも辞さない覚悟で、武装しての行進を計画しているのだという。
「もう〜、許せない! 何が誰の情夫だって!? だったらこんなに苦労しないわよ!」
旅を続けてきた老人たちが、執事に連れられて別室へ去った直後、レジーナは椅子を蹴る勢いで立ち上がった。傭兵時代の副伯夫人の気質を知っている役人と侍女は、特に慌てもせず、レジーナが激高から冷めるのを待った。
「どうされますか?」
腕組みしたレジーナが再び椅子に腰を下ろしてから、シェリルは女主人に声をかけた。椅子の後ろに控えていた役人たちも、レジーナの目の前に移動する。
「どうしようかしらねえ……」
怒りが落ち着くと、頭が痛かった。どこから流れた噂かは分からないが、考えてみれば、そう誤解を受けても不自然ではないかもしれない。グレンとレジーナが、かつて面識があったのは事実なのだ。田舎では、結婚前の男女の関係というのは特に注視される。人の交流が少ないので、男女が二人でいれば、何かしら関係があったと勘繰られることもあるのだ。
結婚するまで傭兵として自由に生きてきたレジーナは、当然ほとんどの知り合いが男である。グレンもその一人に過ぎないのだが、それをこの閉鎖された山間の村の人間に理解してもらうのは、至難の技かもしれない。
「鎮圧させるなら、駐留軍の協力を仰ぐしかないと思います」
冷静に語る侍女に、レジーナは真っ先に首を振った。これ以上グレンに頼みごとをして、恩に着せられるのはごめんだ。見返りに何を要求してくるか分かったものではない。
怪我を負ってからしばらく寝込んでいた司令官は、最近ではもう寝台から起きて、軽い訓練に参加しているらしい。一生寝込んでいればよかったものを。
「そんな大仰にはしたくないわ。だいいちそれじゃ、噂を裏付けるようなものじゃない」
「そうですね。レジーナ様の潔白を証明するには、大公国軍の力を借りることはできません。そうなると、方法は限られてくると思います」
身分としては侍女だが、実質は副伯夫妻の相談役としての顔を持つ、聡明なシェリルは淡々と話し続ける。
集落の若者たちが、城下に押し寄せてきてからでは遅い。事態を収拾するのに、大公国軍の手を借りざるをえなくなるだろう。先にこちらから出向いて、彼らを説得するしかない。
危険はある。
彼らが疑いを持っているのは、他ならぬレジーナ自身だ。
この山間の領地の人間は、概ね大らかでのんびりとした気質である。由緒ある古い家柄の領主によって、長く善政が敷かれてきたこともあって、元々領民の忠誠心も厚い。
だがレジーナは領主が娶った外の女である。脈々と続いてきた夫の家の血は引いておらず、領地内の出身でもない。
そんな彼女が領民からの人気が高いのは、数年前、近隣の林に棲みついた大きな盗賊団を討伐した英雄だからだ。神出鬼没の戦術を使う、厄介な盗賊たちは、領主の手勢だけでは手に負えなかった。そこで副伯は、レジーナのような傭兵や冒険者たちを募り、討伐隊を結成した。
完全に盗賊団を壊滅させるには二年の時を要した。犠牲者も多かった。レジーナはたまたま最後の攻勢で生き残っただけで、自らを英雄だとは思っていない。本当の英雄は、その戦いで散っていった彼女の仲間たちだ。
しかし領民たちはレジーナたち生き残った討伐隊を称え、そして彼女が領主の求婚を受けて副伯夫人となった時、熱狂的にそれを歓迎した。
それから二年。城下から離れた集落では、『英雄』を称える目も曇ってきたということだろうか。
レジーナが供を連れて、彼女に疑いを持っている集落を訪れた時点で、冷静な話し合いができればいいが、彼らが興奮すれば、レジーナの身に危険が無いとも言えない。
だからと言って、護衛をぞろぞろ連れていては、却って領民たちの反感を買うかもしれない。やはりまずは最低限の人数で集落を訪れ、真摯に彼らに説明することが大切だろう。
「私もご一緒します」
侍女のシェリルはそう言ったが、レジーナは首を振った。知識が深く、機転が利き、薬学やまじないに長けた彼女が同行してくれるのは心強いが、レジーナとしては、留守にしなければならない領地のことも心配だった。
結局役人たちと、護衛として侍女を数人、最も年長の小姓を連れていくことになった。集落の領民との争いになったとしたら、甚だ心もとないが、人材がいないので仕方ない。
「大公国の方にはどのように伝えますか?」
役人の一人がレジーナに尋ねた。彼女は再び額を片手で押さえる。西の集落までは一日で行けるが、集落の老人たちの話が本当なら、その周囲の集落もいくつか回らなければならないだろう。日帰りはどう考えても無理だ。二、三日、あるいはもっと日数がかかるかもしれない。グレンに黙ってレジーナが留守をするわけにいかない。
「そうねえ……正直に伝えていいものかしら」
領地の問題をグレンにそのまま伝えるのは、気が進まない。表面上は平和だが、この不安定な状況で、あまり弱みを見せたくはない。
「そのまま伝えていいと思いますよ」
逡巡する副伯夫人に、侍女は静かに告げた。
「彼らから弱みを隠すことに、あまり意味は無いと思います。彼らは口実など無くても、その気になればいつでも、ここを完全に制圧できるのです。
隠さなければならないのは、ご領主様に万一のことがあった場合を除けば、むしろ有利な点の方です。大公国に対する切り札になりえるような要素は、内密に育てておくべきだと思います」
冷静に話し続けるシェリルの声を聞きながら、レジーナは後悔に襲われた。
侍女の発言は的確だ。しかしレジーナは、その切り札になり得るかもしれない、国王からの勅書をグレンに奪われてしまったのだ。ほんの一時の油断だった。そのことが尚更彼女を苛む。
彼らに対して、たったひとつ隠しおおせており、有利になりうる要素は、夫の従兄弟だと名乗るエドワードという少年だ。長く城勤めをしている侍女が彼を知っているし、完全にとは言えないが、エドワードがレジーナにとって義理の親戚にあたるのは間違いないようだ。
彼とその供たちは、この山地を知り尽くしていて、大公国の目的地である、伯爵領に下りる道も知っているという。エドワードの協力を得て、伯爵と手を結べば、グレンたちを追い出せるかもしれない。伯爵は夫と同じく遠征に出ているが、留守を預かっている夫人がいるはずである。レジーナと全く同じ立場だ。
しかしそれは、大公国を敵に回すということでもある。
大公の目的は、伯爵領だ。この城は足がかりに過ぎない。だがレジーナたちが反抗するなら、彼らは何のためらいもなく、この小さな城を叩き潰しにかかるだろう。細々と暮らしている領民たちの生活が、戦にさらされることになる。
エドワードはいつでも協力すると言い、連絡方法も知らせてくれたが、情けないことにレジーナはまだ決心がつかなかった。
彼のことは、グレンにはもちろん、役人やシェリルにも告げていない。レジーナと共にエドワードに出会った、侍女や老役人には、固く口止めしてある。
「レジーナ様」
役人の声で、考え込んでいたレジーナは我に返った。
「ごめんなさい、何?」
「いかが致しますか? 司令官殿には、どのように伝えましょう?」
レジーナはその場にいる人間の顔をひととおり見渡すと、溜め息を落として言った。
「そうね、私からそのまま伝えるわ」
侍女のシェリルは、そう言ったきり、再び考え込んだレジーナを見下ろしながら、彼女は随分悩むことが多くなったと思っていた。このような状況下で、悩みもなくへらへら笑っている方がおかしいが、シェリルと違って、レジーナは物事を深く考え込むことは苦手だ。思索が好きな夫の副伯とは正反対である。
副伯が出征してからは、シェリルが専ら、そうしたレジーナの相談に乗ることが多かった。
レジーナはどちらかといえば、単純で隠し事の苦手な性格だが、警戒心も強く、誰にでもあけすけになれるわけではない。ただ、城に来るまで似ている境遇であり、同じような経験をしているシェリルに対しては、大きな信頼を寄せているらしい。レジーナが夫にも話せないようなことを、いくつかシェリルに打ち明けたことがある。
レジーナに信頼されているのは嬉しい。シェリルは心身ともに強靭なレジーナを尊敬している。その彼女に足りない部分を、自分が支えられるのは、シェリルにとっても光栄なことだ。
レジーナだって脆い部分もある。自尊心の高い彼女は、努力家で負けず嫌いの一方で、他人を頼るのが苦手だ。人間が一人でできることなど、たかが知れているので、傭兵時代は独立独歩で済んでいたかもしれないが、副伯夫人という立場にもなれば、上手に周囲の者に仕事や采配を任せる度量も必要である。
自分から助けを求めることができないレジーナに、シェリルがそっと口添えすると、彼女の表情は大きく綻ぶ。
レジーナから頭を下げて頼んだり、声高に命令しなくても、それとなく察して手を差し伸べてくれる。レジーナの周囲には、そういった人間が必要だ。執事も侍女頭も、時間はかかったが、今ではそんな女主人の性質を理解している。
だが、大公の軍隊が入城してからは、事態は大きく変わった。レジーナの心労は格段に増えたと思う。ことに司令官の寝室に侍女を送ることになった後は、目に見えて憔悴していた。
シェリルはことあるごとに、レジーナを心配して声をかけたが、彼女は大丈夫と繰り返すばかりだった。
幸いと言っていいのか、訓練の際に誤って負傷した為、司令官は寝室に侍女を呼び寄せることをしばらく前から止めていたが、レジーナの表情は晴れなかった。むしろ沈んでいくばかりに見える。
シェリルにはひとつの予感があった。
司令官の負傷と前後して、侍女の一人が城から姿を消した。逃げ出したらしい。
しかしシェリルには、彼女が逃げ出したとは、俄かに信じられなかった。イブという、まだ若い娘であったが、市井の出身で、レジーナをとても慕っていた。
そそっかしい彼女は、城内に昔から勤めている侍女たちから、しばしば小言をもらってはしょげていたので、同じ市井の出身であるシェリルは、よく話を聞いてやっていたものだ。
シェリルは薬や占い、書庫に関わる特殊な仕事をしているので、イブたちのように、城内にまつわる雑用めいた仕事は、あまりする機会がない。侍女頭に叱られることもなかったが、彼女も粗忽で不器用な方なので、失敗をしては叱られているイブを、他人事とは思えなかった。
楽ではなかっただろうに、女主人の役に立ちたいと、若い侍女は必死だった。
そのイブが、レジーナにもシェリルにも、誰にも何も告げずに姿をくらますことがあるだろうか。
恐らく外に秘密の恋人がいて、大公国軍の占領を嫌い、勇気を振り絞って駆け落ちしたのだろうと、女官たちは囁き合った。
しかし司令官が怪我を理由に寝込むようになったのは、その前後だ。
レジーナは何も語らないし、シェリルからも何も尋ねなかったが、胸の奥で不吉な想像が膨らんだ。敢えて形にはしなかったが、それは溶けない根雪のように、彼女の胸にわだかまりとなって残っていた。
西の集落へと出掛ける前、レジーナは久し振りにグレンと夕食を共にした。
その席で、西の放牧地で不穏な動きがあること、レジーナ自ら様子を確かめに出向くことを語った。
「ウチの兵を何人か連れて行くか?」
話を聞き終えたグレンは、深い興味も無さそうに、そう言っただけだった。
「別にいいわ。領地を回るだけだし」
素っ気なく首を振るレジーナに、彼は意味深な笑いを見せた。
「本当に大丈夫か? 行った先で、興奮した愚民どもに、撲殺されるかもしれないぞ」
「ひとの領民を差して愚民って何よ。誤解があるみたいだから、説明しにいくだけ」
すぐにそう切り返したが、レジーナもグレンの言った可能性を完全に捨てきれてはいない。平静を保ったものの、胸の奥には不安が残る。
相手が敵であれば、戦うだけだ。
しかし向こうがいくら敵意を持っていようとも、この地を支えている領民だ。彼らが疑惑を持っているなら、それを上手に晴らしてやらなければならない。レジーナは頭の回転は早いが、気が短いので、交渉や説得などはあまり得意ではない。
「女のお前が理屈こねたところで、ど田舎のさらに僻地に住むような愚民が、話を聞くかねえ。俺んとこの兵を一隊引っ張っていきゃ、すぐに黙ると思うけど」
「それじゃ意味が無いのよ。あんたと内通してたって疑われてるのに、あんたのとこの兵隊を連れて行ったら、それを裏付けるようなものでしょ」
ちぎったパンを頬張っていたグレンは、皮肉を込めて目を細めた。
「自分の正しさを証明しにいくわけか? 思い込みの激しいバカどもに、後から屁理屈説明しても無駄だと思うけどな。本能に訴えかけてやる方が早いよ」
「さっきから聞いてれば、愚民だ、バカだって、随分じゃないの。うちの領民を、本能だけで生きているあんたと一緒にしないでよ」
レジーナの言葉を、グレンは薄笑いを浮かべながら聞いていたが、「ま、それで気が済むならいいんじゃないか」などと、尊大に言っただけだった。
レジーナとて、伊達に何年も傭兵をしてきていない。グレンの言っていることも解る。軍隊を連れて行き、権力を見せつけて領民を鎮めさせた方が早い。そして安全だ。
彼らだって自分の身は可愛い。彼らのように、日々労働に従事している民たちは、理論より直感で物事を判断する。レジーナが拙い弁明を尽くすより、言葉は悪いが、脅しをかけた方が遥かに効果的だろう。
だが、夫ならそんな方法は決して取るまい。そしてここは夫の領地である。レジーナはあくまで彼の妻として、ここを守っているのであって、彼女の領地ではない。夫の名を汚すような真似はできない。
二人はその後、少しの間、無言で食事を続けた。
あいだには、ひとりの少女の死が、沈黙のまま横たわっている。二人ともその小さな暗がりを常に意識しながら、触れることを避けていた。それは無かったことになっているからだ。
イブが死んだのは、もう二十日近く前になる。
あの夜、深手を負ったグレンを前にしながら、結局レジーナは手を下せなかった。張り詰めていたものがすべて崩れ去り、何もかもに疲れ果てて、グレンに頭をもたれかけさせながら、いつしか眠ってしまった。
目が覚めると夜明け近くで、いつの間にかグレンは一人で毛布を被って眠っており、レジーナはその横で崩れるように倒れていた。グレンも眠る前に、レジーナを起こすなり、または眠ってしまった彼女にも、毛布か掛け布を被せてくれればいいものを、まるっきりのほったらかしである。
しかしそれがレジーナにはありがたかった。無関心も心遣いのひとつの形かもしれないと、その時思った。
以来、グレンは負傷で床に臥せり、レジーナはそれまで通り、領地の視察や城内の整備、軍隊の為の改築作業などを進めた。
一旦、古い礼拝堂に休ませたイブの遺体は、レジーナがその裏手にひっそりと埋葬した。誰の手も借りなかった。
毎晩、夜に部屋を抜け出し、シャベルで埋葬の為の穴を掘った。小柄な少女一人を埋める穴を掘るのに、何日もかかった。延々と地面を掘り続ける虚しい作業をしながら、彼女は何度も涙を流しては手を止めた。
穴を掘り終え、礼拝堂にイブの遺体を引き取りに行った時、彼女は戦慄した。若く可憐だった侍女の日焼けした肌は、紫が混じったどす黒い色に変わり始めていたからだ。
死体など見慣れていたはずなのに、紛れもなく肉の塊となり果てた侍女を目にして、レジーナは吐き気を覚えながら、再び泣いた。イブを哀れんでいたのか、グレンを憎んでいたのか、自分を責めていたのか、理由も考えられずに、ただ声を殺して泣いた。
侍女の遺体を敷布にくるみ、穴の底へと落とす。イブが最期まで握り締め、レジーナが結局グレンを葬ることができなかった短剣を、彼女と共に埋葬した。せめてもの手向けのつもりだったが、まるで罪を隠匿し、イブの口を封じる為にそうしているような気がした。
その後、夜明けまでかかって土をかけ、地面をならした。
礼拝堂には幽霊が出るという噂があり、近寄る者はほとんど無いが、墓標は立てなかった。
グレンとはあの夜以来、城内ですれ違ったりしたことはあるが、面と向かって話をするのは、その夕食の席が初めてだった。
イブの死はレジーナの胸に、変わらず深く小さな影を落としていたが、グレンの顔を見ても、彼に対して憎しみや怒りが再燃することはなかった。
イブの復讐をする機会はあったはずなのに、手を下さなかったのは、レジーナ自身なのだ。彼への怒りは、その時点で溶けてなくなってしまったのかもしれない。
夕食を済ませた後、言葉少なに、他愛もない話をした後、ふたりは各々の寝室へと引き取った。以前のようにグレンがレジーナを寝室へと誘うことはなかった。
また彼は、侍女を呼びつけたりもしていないようだった。自衛の為に殺した少女のことを、いつまでも気に病むような殊勝な男ではないことは知っているが、グレンなりの僅かな悔悟の表れではないかとレジーナは考えた。
翌日、レジーナは供を連れて、集落からやってきた老人たちを伴い、西へと出発した。
初夏、山は最も生命に満ち溢れていた。
真昼には太陽が肌を焼き、汗が吹き出してくるほどだった。野生の慎ましい花が咲き乱れ、短い命を謳歌している。
初めてこの山地にやってきた時、レジーナはなんて厳しく、美しい土地だろうと思った。冬が長く、春も夏も短い。けれどその夏の短く激しい日差しを頼りに、人も動物も植物も、懸命にしたたかに生きている。
幼い少女時代を除いて、貴族の家に嫁ぐなど、レジーナは夢見たことがなかった。彼女にとって貴族とは、大抵ただの雇い主であり、軽蔑の対象ではあっても、恋愛はおろか、尊敬の対象になることすら稀だったからだ。
夫のような人間には、出会ったことがなかった。公正で、善良で、領民を愛し、領民に愛されている。祖先から受け継いだこの土地と、そこに属するものすべてを、何より大切にしていた。
彼がいない間、せめて彼の帰る場所を守りたい。
領地を歩きながら、改めてレジーナは思った。そのためなら、どんなことでもする。悲しみも乗り越える。屈辱くらい、耐えてみせる。
したたるような緑の林を抜け、潅木地帯を通り過ぎて、集落に着いたのは夕方だった。
長老である老人たちが、村人を呼び集めてきた。彼らを前に、レジーナは道中考えてきた演説を始めた。
今回、城に攻め上ってきた軍の将軍とは、傭兵時代の単なる知り合いであり、友人ですらなかった。降伏を決めたのは、二千人の軍勢を相手に、武装した侍女と老兵、子供だけでは、勝てたとしても大きな被害が出ることが分かりきっていたからだ。
大公国の目的は、あくまで軍の駐留と間道の建設であり、領地の占領には彼らは興味が無い。司令官とは冷静に話し合い、彼らの駐留を認める代わりに、領地や領民への手出しはさせないという約束を取り付けた。
以前レジーナがここを訪れた時に話したことと、ほぼ同じだ。
出発前に侍女のシェリルは、グレンとの関係をもっと詳細に説明した方がいいと言った。例えば、兄の友人である、従姉妹の義兄弟であるなど、血の繋がりと関係のある知り合いであると述べた方が、田舎の人間は受け入れやすいと彼女は語った。
彼女の言うことは本当だろうが、それでもレジーナは、領民に事態を説明するのに、偽りを混ぜたくなかった。うしろめたさは、態度や口調などに表れてしまうに違いない。それなら、真摯に誠意を見せて、正々堂々と語った方がいい。実際、再会するまでのグレンとの関係に、なんら後ろ暗いところは無いのだ。
集落の村民たちは、レジーナの話を黙って聞いていた。納得したようにも見えなかったが、野次を飛ばされたり、敵意を向けられることも無かった。
彼らを説き伏せるには、時間がかかりそうだと思った。
レジーナはその日は長老の一人の家に滞在し、翌日は別の集落を訪れた。
彼らは従順にレジーナの話を聞いていたが、やはり納得させたという手ごたえも無かった。
領民たちが漠然と不満を持つからには、何か動物たちの様子や、牧草の出来などに、不安があるのかもしれないと、レジーナは彼らと一緒に、羊や牛たちの様子を見て回ったが、取り立てて家畜や作物にも、異変は見られなかった。
その間の領民たちの態度は、以前に比べれば、どこかよそよそしかった。子供たちは相変わらず、はにかみながらも笑顔で、レジーナについて回ったが、若者や女たちはと言えば、冷淡とまでは言えないものの、確かにぎこちない壁を感じた。
しかし彼らは、面と向かって、レジーナの言に反論したり、異議を唱えることはしなかった。こうなると、レジーナも対処のしようがない。村民が彼女に対して、全く疑いを解いたわけでもないようだが、彼らが何も語らなければ、レジーナがそれ以上疑惑を解く術がない。
数日、集落を行き来し、彼らと交流を図ったが、確かな手ごたえは無かった。
あまり長く城を空けるわけにもいかず、レジーナは薄い霧のような不安を胸に抱えたまま、とりあえず供を連れて帰路についた。
噂の出所を探ることはあえてしなかったので、原因は分からないが、彼らの信頼を取り戻すには、やはり時間と根気が必要だと感じた。
**
レジーナが戻ってきただけで、寄る辺なくさまよっていた船が錨を下ろしたかのように、シェリルの心は落ち着いた。
レジーナは剣技に長けているだけではなく、身を守る術も知っている。頭もいいし、滅多なことはないと信じていたが、それでも無事な姿を見るまでは不安だった。情に厚い彼女が、万一領民に襲われた時に、躊躇なく彼らを斬れるとも思えなかったからだ。
レジーナの身にまでもしものことがあれば、この領地は本当に大公国に占領されてしまう。
そして副伯が戻ってきた時、愛する妻を失って、どれほど悲しむだろう。
あのふたりは、お互いがお互いを必要としているのだ。どちらが欠けてもだめだ。戦地にいる副伯はどうすることもできない。無事を祈るしかないが、レジーナの身だけは、何としても守りたい。
そう思うと、身が引き締まる思いがする。
司令官と副伯夫人の朝食の支度を、小食堂で整えた後、シェリルは女主人の旅の服を洗濯場に持っていく為に、早足で廊下を移動していた。
着替えたレジーナとグレンは、食事をしながら、旅先での出来事を話しているのだろう。気にはなったが、いずれシェリルにもレジーナから話してくれるはずだ。
女主人の顔色を見る限り、首尾は良くも悪くもなかったようだ。物事は大概がそんな風に、最悪でもないが最良でもないことが多い。
「うっ」
考え事をしながら、凹凸の激しい廊下をせかせか歩いていると、床のでっぱりにつまずいてしまった。そのまま踏みとどまれず、両手に洗濯物と薬草を抱えていたシェリルは、足をもつれさせて頭から転倒してしまった。
幸い、洗濯場に通じる廊下に人はいないようだった。誰も駆け寄ってこない。
(……痛い)
いい年をして、子供のように顔から転ぶなんて、情けない。
ここのところ、飲みつけなかった避妊薬を、二日続けて立て続けに飲んだし、寝不足気味でもあったので、朝から頭はぼうっとしていたが、それにしてもこの転び方は無いだろう。体がだるい上に、転んだ自分が無様で、少しの間立ち上がることもできずにいた。
(誰もいなくてよかった)
「よっこらしょ……」
侍女の中では一番年配のモニカでも使わないような掛け声をかけて、シェリルがどうにか手をつき、重たい体を起こすと、目の前に長靴が見えた。
「大丈夫ですか?」
長靴の主は、脚を折りたたむようにして屈むと、失礼します、と言いながら、シェリルの手を取る。
転んだまま起き上がれずに、しばらく床に寝ていたが、人がいたのだ。
彼女の手を取ったのは、この城の人間ではない。砂色の金髪の士官だった。彼は優雅にシェリルを立ち上がらせてくれる。
「ここの廊下は、段差が多いですから、私もよく躓きます」
青年士官は微笑みながらそう言うと、シェリルの手を放して、周囲に散らばった洗濯物を拾おうと、再び屈んだ。
「あっ、大丈夫です。私がやります」
シェリルは慌てて手早く、レジーナの服を拾い上げた。青年は善意でしてくれているのだろうが、洗濯物の中には、レジーナの肌着や下着も混ざっているのだ。
彼もそれを察したのか、散らばった薬草の方を拾いにいってくれた。よほどの勢いで転んだのだろう、信じられないほど遠くまで転がっていった籠を拾い上げ、そこに拾った草を詰めて、シェリルに渡してくれる。
「ありがとうございます」
「いいえ。お怪我はございませんか?」
シェリルの礼に対して、如才なく返した青年は、時折廊下などですれ違うことがある。特に若い独身の侍女たちの間では有名な士官だ。相手が占領軍であろうとも、魅力的な異性を前にして、若い彼女たちが舞い上がってしまうのも、無理ないことだ。およそこの山間の地域ではお目にかかれないような、洗練された青年である。
既に二十三にもなるシェリルは、十代半ばの侍女たちに混じって、きゃあきゃあ騒ぐわけにいかないが、彼女とて、彼を見かけるたび、心の中では娘たち以上に騒いでいた。若い頃からのシェリルの悪い癖である。
「よかったら、お荷物をお持ちしましょうか? 両手に抱えているのは大変でしょう」
青年士官はそう言ってくれたが、シェリルは慌てて首を振った。
「いいえ、とんでもない。大丈夫です」
「私なら大丈夫ですよ。時間もありますし……」
彼は再び微笑みを見せながら、さりげなくシェリルの手から薬草の入った籠を取ろうとした。
「ニコラス」
背後から別の声が聞こえたと思うと、何冊もの本と、丸めた大型の羊皮紙を抱えた男が、早足で廊下を歩いてくる。今朝がた、庭園で会ったロデリックであった。
「こんなところで油を売っていていいんですか? すぐに軍議が始まりますよ……あっ」
やや顔を顰めながら歩いていた彼は、シェリルがつまずいたのと同じでっぱりに足を引っ掛けた。シェリルとニコラスが声を上げる間もなく、両手に荷物を抱えていたロデリックも、派手に頭から転倒する。彼が持っていた本や紙束が、廊下に散らばった。
「何をしているんだ」
呆れた声を上げながらも、ニコラスは屈んで本を集めて回っている。シェリルも一度洗濯物を床に置き、足元に転がってきた本を一冊拾い上げた。
題名に素早く目を走らせる。古代の軍事土木技術について書かれた本であるらしい。領主の持ち物ではない。ということは、ロデリックの本なのだろうか。
「……すみません」
顔から転んで、よほど痛かったのだろう。鼻と額を押さえながら、ロデリックはようやく上体を起こし、ニコラスが拾い集めて差し出した本を受け取っている。
シェリルが彼の側に寄り、屈んで拾った本を差し出すと、彼は立ち上がりながら、ひどく恐縮して受け取った。
「あっ……ありがとうございます」
シェリルから目を逸らして、大袈裟に頭を下げるロデリックを見て、ニコラスは苦笑いを見せながら呟く。
「君がどもるなんて珍しいな」
「何言ってるんですか」再び本を抱え直し、彼はニコラスを軽く睨んだ。「……先に行っていますよ。あなたも早く来てください」
ロデリックはそのまま、すたすたと廊下を元来た方へ歩いていったが、やがて「あっ、こっちじゃなかった」などという独り言が聞こえ、こちらに引き返してきた。シェリルたちの前を通り過ぎた彼は、無言だったが、僅かに顔が赤らんでいた気がする。
「変わった男でしょう? 頭はいいのですけれどね」
不自然なほどの早足で去っていくロデリックの後姿を、目だけで追った後、ニコラスはシェリルに笑いかけた。
「そうですね」
彼女がつい正直に答えると、彼は小さく笑い声を漏らした。
「浮いた話のひとつも無いし、女性に対しても無愛想なので、私たちとしても心配しているのですよ。公都の貴族連中の中では、彼と司令官がおかしな関係ではないかという噂も立っていましてね」
シェリルも思わず苦笑いを浮かべた。あのグレンが両刀使いとは、想像もつかないが、軍隊ではよくある話らしい。
「どうか今の話は内緒にしてください。軍の内部ではご法度です。司令官に知られたら、私が殺されます」
「分かりました」
笑いながら答えるシェリルに対し、ニコラスも目を細めた。
彼はさりげなくシェリルの手から、薬草を詰めた籠を取り上げる。シェリルは用事の途中だったことを思い出し、洗濯物を拾い上げて抱えた。ニコラスに荷物を持ってもらうのは気が引けたが、彼が先に廊下を歩き出してしまったので、その後に続く。
シェリルが追いついてきたのを横目で確かめ、ニコラスは歩きながら口を開いた。
「それにしても、彼が女性と話しながら、あんなに赤くなるのは初めて見ましたよ。……大変不躾ですが、もちろん、あなたにはご主人か婚約者がいらっしゃるのでしょうね?」
「いいえ」
シェリルが小さく首を振ると、彼は大袈裟に目を見開いた。
「なんと。あなたほどの美しい方を前にしながら、誰もその心を捕えていないとは、この地の男性方は、よほど内気なのでしょうね」
ニコラスの歯が浮くような台詞を聞きながら、シェリルは内心、肩を竦めた。妙齢で独身の彼女に愛を捧げる男は多かったが、誰ひとりシェリルの心に到達していない。それは彼らが魅力に欠けているということではなく、彼らが彼女を選んだ理由が、シェリルにはしっくりこなかったからだ。
ニコラスは微笑みながら続けた。
「……実は、私たち士官仲間の間での退屈しのぎが、今のロデリックに、いつ素敵な恋人ができるかという賭けでしてね。彼は公都にいるような貴婦人より、気立てのいい女性が好みのようですので、こちらへ移ってきてからは、俄然賭けが盛り上がっているのですよ」
上官からは変態扱いされ、同僚からは賭けの対象にされているロデリックが、少々哀れになってきたが、シェリルも思わず笑ってしまった。
二人は廊下の行き止まりに辿り着いた。正面の木戸を開くと、そこは中庭にある洗濯と物干し場だ。ニコラスは扉を開けた後、行儀よくシェリルを先に通した。女性に優しいのは、この地の男性も一緒だが、彼の動作は遥かに洗練されている。
「私は五年後にロデリックに恋人ができることに、棒給ひと月分賭けていましたが、もう少し早くしてみてもいいかもしれませんね」
中庭に出ると、ニコラスは籠をシェリルに返しながら、意味ありげな笑みを残し、略式の礼を取ると、城の門の方へと去っていった。軍議は兵舎で行われるらしい。
長身の青年の後姿をいっとき見つめた後、シェリルは小さく溜め息をついた。
独身のシェリルに、暗にロデリックを恋人にどうかと仄めかしているようだが、占領軍の司令官付副官と、侍女のシェリルがそう簡単に結びついてしまうわけにいかない。それに、いかにも貴公子然とした容姿と物腰のニコラスの方が、むしろ彼女には好ましく映った。
それにもかかわらず、常にロデリックを意識してしまうのは、やはり彼が昔の恋人に似ているからだろう。性格は全く違うのに、見た目だけで、こんなに意識の片隅を引っ張られるのが不思議だった。
洗濯場には、井戸がある。物干し場を兼ねているここは、日当たりがいい。洗濯場付の女中たちは、午前中の仕事とお喋りに精を出していた。
逞しい腕を規則正しく動かして、城内の人間たちの服や敷布などを手早く洗う洗濯女たちは、城下から通ってくる者がほとんどだ。彼女たちの弾けるような笑い声を聞きながら、やはりそれでも、この城はまだ平和なのだと実感する。
シェリルが副伯夫人の服だと言って、女中たちの一人に頼むと、彼女たちは笑顔でそれを受け取り、「奥方様のお召し物なら、丁寧にやらなくっちゃね」などと言いながら、すぐに手際よく洗い始める。
見上げた空は相変わらず澄んで晴れ渡っていて、今日は暑くなりそうだった。
昨夜と一昨日、シェリルを襲った出来事とは関係なく、いつもと同じ時間がそこには流れている。
一昨日の夜、兵士に襲われたことは確かに屈辱であったはずなのに、それよりもシェリルの胸の奥底で澱んでいるのは、昨夜の乱れた情事だった。
放浪を続ける間、男に陵辱された女たちを、いやというほどシェリルは見てきた。彼女自身は用心深く旅をしてきたので、幸運も手伝って、そんな目に合ったことはないが、強姦された女たちを介抱したことは何度かある。彼女たちは例外なく恐怖に震え、ごく若い娘の中には、以来男性に近寄れなくなってしまった者もいた。
人の性質も体質も様々だ。同じことが振りかかっても、受け止め方は違う。
けれどシェリルは、自分も相手もおぞましく思うような一昨日の出来事を、昨夜の堕落した情熱にまみれた時間が、あっさりと飲み込んでしまったことに、静かながら重い衝撃を受けていた。
陵辱されたばかりの身で、別の男に口先ばかり慰められて、簡単に体を開き、受け入れてしまった。昨夜の情交は、間違っても陵辱などとは呼べないだろう。一昨日の出来事だって、分からない。
物干し場の一角に、摘んできた草を並べて干し終わると、シェリルはからっぽの籠を手に取り、城の中へと取って返した。仕事はまだ山ほどある。
作者ブログ『椰子の実ライブラリ』
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