警告
この作品は<R-18>です。
18歳未満の方は
移動してください。
やっと本格的に二章開始です。
1話未読の方は、「乱暴された気の毒な娘がいた」ということだけ覚えておいていただけると嬉しゅうございます。
第二章 2.初夏に咲く紫の花
ノックせずに書斎に入る。なにも慌てていたわけではない。ロデリックの癖だ。
彼の上官は、樫でできた重厚な机に納まり、この古城の城主が収集した本を読んでいた。以前は絶好の昼寝時間だったようだが、ここのところは居眠りもしていない様子だ。
「なんだ」
副官のロデリックが、『失礼します』という声と同時に書斎に入ってくるのは、いつものことだ。グレンは特に不満も見せず、本から顔を上げた。副官が書斎まで来るからには、彼の判断を仰ぐ必要があるような用事があるのだろう。
「問題があったようです」
そう前置きした後、ロデリックは口を噤んだ。珍しいことである。
「なんだ、問題って?」
言葉を探している様子の副官を急かすように、グレンが声をかけると、一瞬視線を宙に投げたロデリックは、息をついて口を開いた。
「昼食の際に私のところに、侍女頭様が血相を変えて、おいでになりまして……」
グレンはぼんやりと、侍女頭の姿を思い浮かべる。年齢不詳の艶っぽい美人である。彼はどちらかといえば若い女の方が好きだったが、あれほどの色気を醸し出しているなら、年増女も悪くないなどと思っていた。
「どうも、その……」
口が回るロデリックの歯切れが悪い。面倒なことになりそうな予感がした。
「なんだよ。要点をずばっと言え」
「……侍女の一人が、我々の軍の兵に暴行されたようなのです」
気まずそうに副官が言った台詞は、想像していたより煩わしいものではなかった。そんなことかと言いかけたが、飲み込んだ。大きな問題ではないが、初めて起こった類の事件である。対応を考えなければならない。
「暴行って、殴られたとかだけじゃなくて、やられちゃったってことだろ?」
「平たく言えばそうだと思います。侍女の一人が、朝から様子がおかしいので、侍女頭様が問い詰めたところ、涙混じりに打ち明けたそうです」
ロデリックは苦々しく語った。
「それで、あの色っぽいおばさんが、お前んとこに駆け込んできたわけか。部下思いだな」
「言葉は丁寧でしたが、大層な剣幕でした……」
楚々とした侍女頭に柳眉を吊り上げて詰め寄られ、たじろぐロデリックの様子が目に浮かぶ。グレンは思わず低く笑った。
この山間の城に無血入城し、約ひと月になる。副伯夫人との約束に従い、司令官である彼は、各部隊の隊長である士官に、彼らは勿論、部下である兵士たちにも、決して領民に乱暴をさせないように通達した。
グレンが知る限り、それが破られたのは初めてだ。知った以上、手を打たないわけにはいかない。
「状況は詳しく聞いたのか?」
尋ねると、有能な副官は首を振った。
「いいえ。侍女頭様も本人から詳細は聞いておられないようです。暴行が本当だとすれば無理もないことですが」
「狂言とは思えないけどな。そんなことをしても、何の得にもならないだろ」
二千人の軍隊が駐留するこの城下で、その兵隊に乱暴されたと狂言で騒ぎ立てて、何か本人に利益があるとは、グレンには思えなかった。彼が副伯夫人との取り決めを無視し、事件を揉み消したとしても、ここでは誰も文句をつけられない。
しかしロデリックは、やや顔を顰めた。
「以前にも申し上げましたが、女を甘く見ない方がいいですよ。あらゆる可能性を考えておくべきだと思います」
「あらゆる可能性を考えてたら、頭が破裂しちまうよ。……まあ、とにかく本人から話を聞かないと、犯人も分からないな。被害にあった侍女の名前は分かるか?」
「シェリルという若い侍女だそうです。数年前から仕えているようです」
グレンは記憶を探ったが、生憎心当たりはない。
「聞き覚えが無いな。例の侍女たちの一覧表を持ってこい」
「……そう仰るだろうと思って、お持ちしました」
溜め息を押し殺し、ロデリックは、侍女と女中の名前や年齢、容姿が書き込まれた、世にもくだらない上等の羊皮紙を上官に差し出した。
「さすが。気が利くな」
「私個人としては、できれば火をつけて燃やしてしまいたい物ですけどね」
「勝手にそんなことしてみろ。お前も同じ目に合わせてやるからな」
肩を落とす副官をよそに、グレンは受け取った羊皮紙を開いた。副官の几帳面な字で、侍女と女中の名前、年齢、婚姻歴や容姿の特徴が書き込んである。一度抱いた女には、彼自らご丁寧に印をつけて、一言書き込んでいた。
毎夜侍女を呼びつけては抱き、いずれこの一覧表を制覇したいなどと、副官を嘆かせるようなことをグレンは考えていた。しかし先月に、呼びつけた侍女の一人に不意を襲われ、深手を負ってからは、傷を癒すために夜伽をさせるのも止めていた。
暴行されたらしい侍女の名前を探し当てる。やはり彼がまだ手をつけていない女であった。
司令官であるグレンが、怪我の為に女を抱けないというのに、一兵卒が暴走して、勝手に侍女を乱暴するとは何事だ。妬みと怒りが腹から持ち上がってきた。
「覚えていらっしゃいませんか?」
一覧表に書かれた侍女の特徴に目を通していると、ロデリックが声を上げた。顔も上げずに応じる。
「何を?」
「シェリルという侍女ですよ。以前にその一覧表を作りながら、あなたが侍女たちに、極めて私的で失礼な質問をして回った時、私のことを驚いたように見ていた侍女がいましたでしょう」
「あ〜……。あったっけか? そんなこと」
そう答えたものの、ロデリックの言葉で、グレンは当時のことをはっきり思い出した。
彼が大広間に侍女と女中を集め、居並ぶ女たち一人一人を問答しながら見て回った時のことだ。女たちは不安そうに、俯きがちに語っていた者が大半だった。グレンに多少好奇心を見せた者もいたが、いずれも慎ましいものだった。
その中でひとり、グレンが目の前に立った時、彼を凝視していた娘がいた。よほど好みなのだろうと、一瞬気を好くしたのだが、よく見れば娘の視線は、司令官である彼を素通りし、あろうことかその後ろで、グレンの言葉や侍女の答えを陰気に書き込んでいる、副官に向けられていたのだ。
ロデリックもその視線に気づいて顔を上げたが、凝視する侍女を怪訝そうに見返すだけだった。やがて、見つめられる副官の顔がうっすらと赤く染まるのを見て、不愉快になり、グレンはその娘との質問を打ち切った。直後、ロデリックに小声で「知り合いか?」と尋ねたが、彼は首を傾げるだけだった。
あれがシェリルか。
面白くない気分で、再び一覧表の覚書きに目をやる。彼好みの、小柄で幼い外見のなかなか可愛い娘だった気がするが、そんなことがあったので、すぐには娘を寝室に呼びつけなかったのだ。
「そんな女がいたような気がするな。まあ、お前に一目惚れとかじゃ絶対にないと思うぞ。親の仇に似てたとか、昔騙された男にそっくりとか、そういうことじゃねーの」
「どちらも覚えがありませんよ」
ロデリックは疲れた顔で首を振った。
「よし、とりあえず、俺が直接話を聞こう。夕食の後、女を俺の部屋に寄越せ」
グレンが羊皮紙を再び丸めながら言うと、副官は眉を寄せて彼を見返した。
「あなたの部屋って、寝室ですか?」
「他に俺の部屋はねえだろ」
「……あの、もう一度初めから話した方がいいでしょうか。私の話、聞いていただいてました?」
「耳があんだから、聞こえてる」
何かを抑えるように、目を閉じて大袈裟に嘆息した後、ロデリックは再び口を開いた。
「何を考えてるんですか。暴行されたのが本当なら、侍女は心身共に傷ついているはずですよ。そんな気の毒な娘を、さらにあなたが強姦してどうするんです。それでも人間ですか」
「人聞きの悪いこと言うな。強姦って何だよ。夫人がいないんだから、俺が話を聞いてやるしかないだろ。余計な人間を混ぜないで、侍女から率直に話を聞くだけだ。必ずや心を開いてくれるだろう」
「何言っちゃってるんですか。あなたが話を聞くのであれば、誰か女性……侍女頭様にでも同席していただいて……」
「自分が強姦された時の話を、おおっぴらに広めたいと思う女がどこにいる。同性がいるから気軽に話せるとは限らないだろ。俺の鍛えた話術で聞き出してやる。とにかく決めたんだ。つべこべ言うな」
ロデリックは再び溜め息を吐いた。グレンはすっかり依怙地になってしまったようだ。説得して思い留まらせるのは無理だろう。元々良心や正義感など、大して持ち合わせていない男なのだ。
「……かしこまりました。ですが、先ほども申し上げましたように、お気をつけください。次に脇腹に風穴空いたら、もう助かりませんよ」
「それについては、この前話した通りにしろ」
副官は深々ともう一度頷く。
グレンが口で言っている通り、本当に侍女から話を聞くだけなのか、何か下心を持っているのかは分からなかったが、彼が考えるべきことは、侍女の心労より上官の身の安全である。
風呂を使わせてもらって、幾分頭も体もすっきりした。
シェリルは部屋の寝台に寝転んだ。時刻は夕方前。初夏の長い昼の光がやっと色づこうとしている頃である。
侍女頭の気遣いにより、午後の勤めは休みをもらうことができた。ありがたくもあったが、今は何も考えず、日々の雑事に没頭したい気もする。
しかし強い避妊薬を飲んだせいで、頭がぼうっとして体がだるい。やはり今日一日は部屋でゆっくりしていよう。
身分や位によるが、侍女たちは大抵、複数人で一つの寝室を使っている。シェリルはこの城に仕えるようになってから、まだ二年ほどだが、個室を与えられていた。ほぼ特別待遇と言ってよい。
というのも、彼女は薬や医療の知識に詳しいので、薬草や書物などの私物を保管する必要があり、時には城内の人間の簡単な診察をすることもあるからだ。従って彼女の部屋には、書物や薬のほか、不可思議な植物や他人から見たら正体不明の、奇抜な色の粉薬や蛇の抜け殻などもあり、若い娘の私室としては、かなり異様な雰囲気を見せている。
身分としては侍女であるが、シェリルは副伯夫妻の身の回りの世話よりも、天候の予測や医療、まじないなど、一風変わった仕事を受け持っていた。特に城仕えの医師が、軍について遠征に出てからは、城内の人間が体調を崩したときなど、彼女が診察するしかない。忙しい日々が続いていた。
散らかった自分の部屋は落ち着く。
だが静かな無人の部屋に、ひとりで横たわっていると、思考が音も無く流れ出す。どうしても昨夜のことを思い出してしまう。
屈辱であった。昨夜の出来事に絶望できない己自身が、最も屈辱だった。
暴行されたことそのものより、陵辱と呼ばれるべき行為に、快楽を覚えてしまった自分自身が、何より衝撃だった。
気のいい顔見知りだったはずの兵士が、増長してシェリルを陵辱したのも、自分の体が少しでも喜ぶような反応を見せたからではないか。
彼の行為は様々な意味で許せなかったが、表だってあの兵士を糾弾したところで、何が変わるのだろう。シェリルも快楽を感じていたのは、間違いのない事実だ。そう切り返されれば、ぐうの音も出ない。陵辱だなどと声高に叫ぶことはできない。
だいいち、大公国の軍に無視され、揉み消されればそれで終わりだ。
しかし、ただ泣き寝入りするのも、悔しかった。快楽を覚えた行為とはいえ、シェリルの中で何かが踏みにじられたのも、間違いがない。それを無かったことにするのは、あまりに惨めだ。
迷いながらぼんやり仕事をしているうち、情けなくなり涙が滲んできた。
シェリルは無表情を保っていたつもりだが、様子がおかしいのに同僚の侍女が気づいたらしい。昼食時に侍女頭に呼び出され、何かあったのかと問い詰められた。副伯夫人がいない為、侍女頭は以前よりも侍女たちの様子に気を配っていたようだ。
他の人間と違う仕事を持ち、どことなく近寄りがたい雰囲気を見せているシェリルに対しては、侍女頭も他の侍女たちへのように、頭ごなしに叱るようなことはしない。そしてその分、二人の間にはよそよそしい距離感があった。シェリルにとって、侍女頭のモニカは、尊敬できる人間ではあっても、心を許せる女性ではなかった。
しかし自分で思っていたより、昨夜の出来事によって追い詰められていたのだろう。いつになく優しい声で、モニカに諭されるように尋ねられ、喉の淵まで溜まっていた感情が溢れ出した。有能な侍女頭の前で、シェリルは初めて涙を零しながら、昨夜の出来事を打ち明けた。
話を聞いたモニカは、同じく瞳に涙を溜め、小柄なシェリルの体を優しく抱き締めた。それ以上は何も言わず、ただ午後は勤めを休んで、部屋で寝ているように告げただけだった。
扉がこつこつと叩かれる。
シェリルは目を開けた。いつの間にか寝台でうとうとしていたらしい。窓から差し込む日差しは、さらに赤みを帯びている。もう夕暮れだ。
誰かが夕食のために呼びに来てくれたのだろうか。
シェリルは身を起こし、口の端の涎の跡を拭うと、扉を開けた。
その向こうにいたのは、侍女頭のモニカである。様子を見に来てくれたのかと、シェリルは安堵に体を緩めたが、彼女の重苦しい表情に気づき、口を噤んだ。
「シェリル……。あなたが受けたことについて、大公国の方がお話を聞きたいそうよ」
眉を顰めながら、モニカは抑揚の少ない声で言った。
「どういうことですか?」
「司令官様は、城内や城下の者に、軍の方が乱暴をすることを禁じていらっしゃいます。ですから、あなたが昨夜受けたような被害があれば、調査して、犯人を裁かなければならないそうです」
重い声音で語りながら、目の前の若い娘が徐々に表情を失っていくのを見て、モニカの胸に後悔が満ちた。
侍女が陵辱されたことは、彼女としても許せない。だが何もこんな大仰に騒ぎ立てたくはなかった。被害にあったばかりのシェリルを、さらに傷つけるだけだ。
すぐにシェリルに事情を聞くのは待って欲しいと、何度も司令官付の副官に訴えたが、彼は司令官からの命令を繰り返すばかりだった。
副伯が不在のこの城内では、表向きはどうあれ、実質大公国軍の司令官は、最高権力者である。彼の命令を拒絶できる者はいない。その気になれば、彼はいつでも軍を動員することができるのだ。
侍女が暴行されたことで頭に血が上り、すぐに副官に訴え出たことを、モニカは深く後悔していた。彼女は大公国の人間を、もう少し理性的で公平な人間だと考えていたのだ。買いかぶっていた。
「結構です」予想通り、シェリルは首を振った。「もう忘れてください。無かったことにしていただいて……」
「お話し中、失礼します」
シェリルの震える声を遮って、別の男の声が割り込んだ。
シェリルはそこで、侍女頭の背後に別の二人の人間が控えていたことに気づいた。
心臓が大きく弾む。
モニカが僅かに体をどけて振り返る。その向こうから、司令官付の副官が進み出た。
「お気持ちはお察しします。まだ混乱されていると思いますが、こういった件は、我々としてもできるだけ早く対応したいのです。誠に恐れ入りますが、夕餉の後に、我々の司令官殿に、直接事情をお話しいただけますでしょうか」
副官は慇懃ながら無表情に、用件を淡々と語る。シェリルとは視線も合わせなかった。
「それはご命令ですの?」
敵意にも似た、同じく慇懃ながら硬い声でモニカが尋ねる。副官は伏し目がちに頷いた。
「そう取っていただいて結構です。司令官殿からのご命令です」
モニカは怒りと嘆きを込めた長い溜め息を吐く。僅かに弁解するような声音で、副官は続けた。
「申し訳ございませんが、ご協力をお願いします。我らとしても、規則を破った兵がいるなら、裁かないわけにまいりません。侍女殿が沈黙されて、それで終わる話ではないのです。我々の問題でもあります」
馬鹿丁寧な副官の口上を聞いている内、シェリルは皮肉っぽい気持ちになった。それでは昨夜の出来事は、あの兵士と彼女の合意の上で行われた、愛の営みだったと告げればいいのだろうか。それなら乱暴されたことにはならず、これ以上大公国の人間に、ことをほじくり返されずに済む。
だが、さすがに皮肉だけでそう告げることはためらわれた。
「情けない……」
シェリルの傍らで、モニカが片手で額を覆い、小声で嘆くのが聞こえた。侍女たちを司令官に差し出すと決めた時の副伯夫人も、同じ気持ちだったのだろう。部下を庇うこともできない自分に、モニカも無力感を感じているに違いない。
シェリルは、かつて彼女が恋していた男によく似た副官を、正面から見据えた。視線が合うと、彼の瞳の光が僅かにたじろいだ気がする。
「ご命令なら、致し方ありません。司令官様の元へお伺いします」
抑えた声で告げると、副官は目を伏せて、軽く頭を下げた。
「ご理解いただき、ありがとうございます。司令官殿は寝室でお待ちしていますので、夜半までにおいでください」
寝室。
思わずシェリルは目を見張る。モニカが再び深い溜め息を漏らすのが聞こえた。
陵辱されたと訴える娘の話を聞くために、夜半に寝室に呼びつけるとは、一体どういう神経をしているのだ。
再び屈辱に僅かに体を震わせる彼女の前で、副官は話を続けた。
「おいでになる前に、こちらの者にお声がけください。身支度を手伝わせていただきます」
彼が軽く振り向くと、ずっと黙って控えていた、小柄な人影が進み出る。
女であった。この城の人間ではない。
年頃はシェリルとあまり変わらないだろう。二十歳前後に見える。夕陽の光のような見事な赤毛を、肩の上でばっさり切り落としている。手放しに美しいとも言えないが、細身ながら艶かしい体つきといい、細めた目に漂う色香といい、どこか蠱惑的な娘だ。
直感で、軍付の娼婦ではないかと思った。町中にいる街娼のように、爛れた雰囲気は無く、むしろある種の知性と清潔感すら感じさせる女だが、間違いないだろう。
「身支度でしたら、本人ができます。必要があれば、私が手伝います」
モニカが毅然と言い張ったが、副官は無表情のままかぶりを振る。
「城内の方を疑っているわけではございませんが、司令官殿は、我々の軍の最高責任者です。万が一のことがあってはいけませんので、我々の方の人間を付けまして、寝室までお送りします」
シェリルにも合点がいった。
寝室で二人になることで、司令官の暗殺を警戒しているのだろう。武器などを隠し持つことができないように、軍付の娼婦が、シェリルの身支度を整え、司令官の元へ送り込むというわけだ。
馬鹿にしている。
「はっきりおっしゃってください」シェリルは再び挑戦的に、娼婦と副官の顔を見渡した。「司令官のご命令は、夜伽なのですか?」
「そうは伺っておりません。司令官殿のご命令は、昨夜の件について事情を聞きたいので、あなたを寝室へ呼ぶようにということだけです」
挑発するような、彼女の硬い声を、副官は静かに受け流した。
「結構です。夕食は取りませんので、すぐに伺います」
「シェリル……」
引き続き震える声で言ったシェリルに、宥めるようにモニカが声を掛ける。彼女は侍女頭の方を振り向き、小声で「大丈夫です」と告げた。
所詮は大国の軍隊に占領された民なのだ。それは昨夜思い知った。だったら無駄な誇りや自尊心など投げ捨てて、連中の言うことに、人形のように従ってやるまでだ。こんなことで傷つきたくない。あんな下劣な連中に傷つけられてはたまらない。ただ水が低いところに流れるように、彼らの思惑に追随する。それこそが、彼女にできる、彼らに対する僅かな抵抗だった。
「そうですか」
頷いた副官は、相変わらず無表情であったが、その瞳に初めて、哀れみのようなものが見えた気がした。彼はすぐに一歩後ろに控える娼婦を振り向いた。
「ではサラ、早速シェリル様のお支度を手伝って差し上げなさい」
「かしこまりました」
副官の前に進み出た娘は、両手に籠を抱えていた。小さな壷がいくつか納められ、手触りの良さそうな、綿の大きな手ぬぐいがその上に乗せられている。
「私もご一緒して構いませんわね?」
抑えた声でモニカが副官に尋ねたが、彼は再び目を伏せて首を振る。
「恐れながら……。安全の為の措置ですので、ここはこのサラに任せていただけませんか」
「なんて、図々しい」
気丈なモニカは、司令官付の副官に向かって、吐き捨てるように呟いた。鷹揚なのか、それとも皮肉も通じないほど冷徹なのか、副官はそれには答えなかった。
「大丈夫です、モニカ様。ご心配なく」
顔を上げたシェリルが、僅かに微笑みを見せると、モニカは痛々しそうに彼女を見つめ返した。
「ではお部屋へどうぞ」
こんなこと、なんでもない。副伯夫人や、シェリルより前に司令官の寝室に呼びつけられた侍女たちが受けてきた屈辱に比べれば、なんでもないはずだ。
そう言い聞かせ、サラと呼ばれた娼婦を部屋の中に招くと、悲痛な表情のモニカの前で扉を静かに閉めた。
「お召し物を脱いで、寝台にうつ伏せに横になってください」
抱えていた籠を床に置くと、立ち上がった娘は穏やかな笑顔でシェリルに言った。
「どうしてですか?」
いきなり服を脱げと言われ、面食らいつつも警戒していると、彼女はさらに目を細めた。笑顔が深くなるほど、色香が薄れて無邪気な印象になる娘だ。
「香油を塗らせていただきます。お肌によろしいんですのよ」
贅沢な話だと思った。体に塗る香油は、とても高価だ。それこそ大公国のような大きな国の貴族でも無ければ、手に入らないだろう。
「やはり夜伽の為に呼ばれたのですね」
皮肉を込めて呟き、シェリルはさっさと服の紐を解いた。恥じらいを見せるのも悔しかった。
「私は存じません。ただ、こうしてあなた様のお支度を整えるよう、ロデリック様から申し付けられただけです」
すげない答えであったが、サラの声に冷たい響きはない。不思議な女だった。
裾の長い服を脱ぎ去り、下に着ていた胴着も脱ぎ捨てる。下半身を覆う下着一枚になると、裸の上半身を晒したまま、シェリルは堂々とサラの目の前を横切り、寝台の上に、言われた通りうつ伏せに横たわった。
サラも特に何も言わず、籠の中から壷を取り出し、寝台のすぐ横に膝をついた。彼女が壷の蓋を開けると、柔らかい清楚な香りが漂う。今山野や中庭の庭園で咲き誇るライラックの香りによく似ている。
失礼しますとサラが告げると、背中に温かい掌が触れた。紫の花の香りがさらに強く満ちる。
彼女の手は静かにシェリルの背中を滑った。背骨に沿って指先で体を強く撫でられる。座って薬の調合をしたり、本を読んだりすることが多いシェリルは、普段から肩や背中が凝り固まって疲れ気味であったが、サラの手つきでそれがほぐされていくようだ。とても心地良かった。
「力加減はいかがですか?」
心ならずも、サラの手の動きに酔っていると、娘の低いがよく響く声が聞こえた。
「ええ、丁度いいです」
「嬉しゅうございます。随分、お疲れのようですね」
ひどく不思議な心持ちであった。大公国の兵士に陵辱され、それを訴え出るために、司令官の寝室に向かわなくてはならない。その為に敵軍付の娼婦から、香油をすり込まれながらマッサージを受けているのに、妙に気持ちがいい。サラの穏やかで丁寧な手つきは、シェリルの腹の中に溜まっていた怒りと屈辱を、少しずつ溶かしていくようだ。
サラは確かに娼婦に見えるが、言葉遣いも礼儀作法も美しい。シェリルに対しても、副官などよりよほど慇懃に接している。大都市にいる、貴族や大商人相手の、教養と社交術が売り物の高級娼婦なのかもしれない。
娼婦という人種を、シェリルは昔から軽蔑していたが、サラに抱いていた偏見とも言える嫌悪もやや薄らいでいく。我ながら単純だと、思わず自嘲した。
「あなたは、大公国の軍についていらっしゃるのですか?」
サラに対して好奇心が湧き、シェリルはうつ伏せになりながら口を開いた。初対面の人間に対して興味を持つことは、彼女には珍しいことであった。
「そうです。お察しいただいていると思いますが、殿方が昂った時に、お慰めするのが私の役目です」
あっさりと彼女は告げた。
では昨夜シェリルの体に体液を放ったあの兵士も、この女を抱いたことがあるのだろうか。男たちがこの魅力的な若い女に群がる様子を想像し、シェリルは顔を赤らめた。サラに対して失礼だ。
自分だって同じようなものかもしれない。そうでなければ、昨夜兵士に組み敷かれ、肉体が僅かにでも喜びを表すはずがない。
「……私の話は、お聞きになりました?」
サラに腕を取られ、二の腕に香油をすり込まれながら、シェリルは呟いた。小さな声であったが、彼女はそれをはっきりと聞き取ったらしかった。
「昨夜のお話ですか? 大まかな事情は」
特に同情や哀れみも表さず、静かにサラは続けた。
「あなた様は大きな心労を負っていらっしゃるはずですから、お体に触れる際や、会話には気をつけろと、ロデリック様から申し付けられています」
ロデリックとは、あの副官のことだろう。彼の姿を思い浮かべると、胸が騒ぐ。
司令官が侍女を大広間に集め、一人一人に質問して回った時。司令官の後ろに控えて、黙々と羊皮紙に書き物をしている男を目にしたシェリルは、幻を見ているのかと思った。かつての彼女の恋人にそっくりだったからだ。
視線を感じたのか、副官は顔を上げ、シェリルを見つめ返した。その瞳には、小さな困惑以外、何も浮かんでいなかった。
人違いだろうか。それにしてはよく似ている。
目を逸らすこともできず、彼女が見つめている内、やがて彼も顔を赤らめた。だがシェリルが口を開いて何かを問いかける前に、司令官が間に立ち塞がり、彼女との問答を打ち切って、隣の侍女の元へ移った。副官も影のようにそれに従った。
以来、彼とまともに顔を合わせるのは、今日が初めてだった。
司令官に代わって、事務的な雑用を行っているらしい彼の姿は、城内の随所で見かけたが、声を掛ける勇気が出なかった。
「あの、副官のロデリック様とは、どういった方なのでしょう? 古くから司令官様にお仕えしていらっしゃるのですか?」
できるだけさりげなくサラに尋ねると、体の位置を移して、シェリルの脚をマッサージしていた娘は、静かな声で答えた。
「そのようです。司令官様の古くからの腹心だそうですよ。私も軍の内部については詳しくありませんので、よくは存じ上げません。司令官様にお尋ねになれば、もっとはっきりしたお話が聞けるかもしれませんね」
これから待ち受けることを思い出し、再び気が重くなったシェリルに、サラが乾いた声をかける。
「どうぞ、仰向けになってください」
「でも……もう結構です」
思わずためらう。女同士とはいえ、仰向けになって裸の上半身を晒すのは、さすがに恥ずかしい。シェリルを安心させるように、サラはおとなびた笑みを浮かべた。
「どうか、お楽になさってください。貴族のお姫様になったおつもりで、黙って横になっていただいていれば結構です。肌の隅々まで香油で磨くなど、なかなか無い機会でございますよ」
そうまで言われて躊躇しては、初心な乙女を気取っているようで、却って恥ずかしい。シェリルは思い切って体を翻し、仰向けになった。
再び失礼しますという声が響き、臍のあたりに、香油を注ぎ足したサラの手が触れる。こそばゆい感覚が走りぬけ、体が震えた。
「お綺麗な肌ですね」
円を描くように腹を優しく撫でながら、サラが呟く。シェリルは彼女を見返した。サラの方がよほど色白で、手入れの行き届いた肌をしている。
「そうでもありません。日に焼けていますし……」
「日焼けはよくありません。できるだけ日差しは遮る方がいいですわ。ですが、小麦色に焼けた肌も、それはそれで美しいと私は思います」
話しながら、サラの手はシェリルの豊かな乳房に触れた。
何故か昨夜のことを思い出す。
触れているのは女だというのに、体が温まり始めているような気がし、シェリルは思わず眉を寄せた。
鎮めようと思えば思うほど、体の奥底が妖しく疼き始めるようなこの感覚。昨夜とよく似ている。一体自分の肉体は何なのだろう。相手が誰であれ、刺激が加えられれば、快楽だと認識せずにはいられないのだろうか。
それでは娼婦と同じだ。今、彼女の肌を撫でている女と同じである。
微かに呼吸が乱れた。サラに悟られるのが恥ずかしい。身じろぎしそうになる体を押さえ、唇を静かに噛んだ。再び灰色の自己嫌悪がシェリルを包み込んだ。
サラは丹念にシェリルの全身に香油をすり込み、強張っていた彼女の肉体をほぐしてくれた。
それ自体は心地良かった。サラは何故かシェリルを安心させる雰囲気を持っていて、彼女との会話は不思議に安らいだ。
しかし胸や腿、下着を取り払った尻にまで彼女の手が触れた際、全身をのたうつように走った感覚は、昨夜の出来事と同じく、シェリルを重く苦しめた。
作業を終えると、サラは壷に蓋をして、持っていた柔らかい手ぬぐいで、シェリルの肌を軽く撫で、付きすぎた香油を拭った。その手つきも非常に細やかで丁寧だった。
シェリルはそそくさと服を着ようとしたが、サラに穏やかに押し留められた。
「恐れ入ります。お召し物は私が……」
優雅ではあったが、シェリルの遠慮や躊躇を許さない手つきで、サラが下着を取り上げた。それまでの丁寧な仕草とはやや異なる、断固とした動作だ。
そうだ。この女の本来の役目は、司令官の暗殺への警戒の為、シェリルが武器などを隠し持たないよう、全身を調べることなのだ。香油で肌を磨くのは、ついでの用事に過ぎないのだろう。
司令官に万一のことがあれば、サラが罰されるに違いない。
無論もとより、シェリルは司令官に手を下そうなどとは考えていない。彼を殺したところで、組織だった二千人の軍、そして背後にある大公国という豊かな国を瓦解させることなど、できるはずもない。
そんなことが可能なら、一番最初に司令官と床を共にした副伯夫人が、とうに行っているだろう。
真っ先に犠牲になった気丈な彼女のことを思い出すと、今の自分の境遇がほんの少し慰められる気がする。
元通り、下着と胴着、服を纏わされると、サラは籠から取り出した櫛で、シェリルの癖のある豊かな髪を丁寧に梳いた。
「よろしゅうございますか? では、参りましょうか」
愛らしい笑みを浮かべたサラに促され、シェリルは口元を引き結んで、彼女と共に部屋を出た。
司令官はここのところ、侍女たちを寝室に呼びつけていないらしかった。もう女遊びにも飽きたのだとシェリルは考えていたが、今夜、彼女に香油まで塗りこませて寝室に呼びつけるからには、ある程度の覚悟はしておいた方がいいだろう。昨夜の話を聞きたいなどというのは、口実かもしれない。
なんでもないことだ。レジーナが受けた屈辱に比べれば。
彼女には夫も恋人もいない。後ろめたく感じる相手はいない。それに昨夜既に別の男に犯されているのだ。こうなっては、何人に抱かれようと同じだ。現に自分の体は、昨夜だって喜んでいたではないか。
自暴自棄のように考えながら、サラと並んで、廊下を歩き、階段を上り下りする。
やがて、かつては副伯夫妻が使用していた、主寝室の前に着いた。現在では司令官の寝室となっている。
扉には鍵が無いので、司令官は昼夜共、二人の見張りをつけている。下級の兵士ではなく、常に士官の誰かが控えていた。
サラに続くように、寝室へと歩く。見張り役の士官は礼儀正しく、顔を伏せたまま微動だにしなかったが、すれ違いざま、右側に立っているのが、副官のロデリックであるのが見てとれた。
体が震えた。
「失礼致します。シェリル様をお連れしました」
サラがよく響く声を張り上げると、寝室の内側から低い答えがあった。サラが取っ手を捻り、扉を押す。彼女はそこに手を掛けたまま、シェリルを内側に招いた。
一瞬ためらい、シェリルは腹に力を込めて部屋の中へと踏み入る。
彼女が部屋に入ったのを確認すると、サラは部屋の外に出た。シェリルの背後で軋む音も立てず、扉が静かに閉まる。
作者ブログ『椰子の実ライブラリ』
【小説の匣】